種蒔きのたとえ
- マタイ福音書13:3-9 -
シャローム宣教会
「3.イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4.蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5.た、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6.しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7,また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8.別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。9.耳のある者は聞きなさい。」
序言
[マタイ福音書13:1-3]「1.その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。2.すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。3.イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」
1. 「種蒔きのたとえ」
[本文、マタイ福音書13:3-9]
2. 「種蒔きのたとえ」の解釈
[マタイ福音書13:18-23]「18.ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。19.御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。20.また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。21.しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。22.また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。23.ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
+ 「種」とは神のみことばであり、私たちの心に蒔かれているというものです。
私たちの心には四種類あって、どの心にも、みことばの種は例外なく蒔かれるのです。ただその違いはみことばを聞く態度です。私たちの聞く態度によって、道端にもなり、岩地にもなり、茨の中ともなり、良い地にさえなれるというものです。
(1) 道端に蒔かれるとは、聞いても理解しようとしない頑固な心の人です。頑固とは自分の得た経験や知識でものごとを考え、砕かれていない人のことです。
(2) 岩地に蒔かれるとは、みことばが心にすぐに入りますが、根がないために、しばらく続くだけで枯れてしまう人のことです。みことばにいち早く感動しますが、困難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまうのです。
(3) 茨の中に蒔かれるとは、問題は地(内)にではなく、外にある人です。この世には信仰をふさいでしまうような世の思い煩いと富の誘惑がたくさんあります。それに支配されるなら、信仰は窒息してしまいます。
(4) 良い地に蒔かれると、種は豊かに成長して、実を結びます。
したがって、あなたは道端でも、岩地でも、茨の中でもなく、神の前に何もない無地の心とならなければならない。そうすることによって、あなたは何十倍、何百倍の実を結ぶでしょう。これが分かりやすいたとえの解釈です。
+ このたとえの解釈のどこが奥義なのでしょうか。
子どもでさえも理解できる話です。このようなメッセージをするために、イエスはたとえを話されたのでしょうか。実は、18-23節は3-8節の話を言い直して解説しているにすぎません。このたとえの要点は中間にある10-17節の部分です。なぜなら、そこにはなぜイエスがたとえを用いて話すのか、そこに御国の奥義が記されているからなのです。そこを理解するなら、なぜイエスが同じ話を繰り返されたのかが分かるのです。
マタイの福音書13:10-17の中で「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」ということが、最も重要な部分です。なぜなら、「多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けなかった」からです。それなのに、あなたがたはそれを見ているので、聞いているので、幸いなのです。「多くの預言者や義人たちが切に願った」ことは、まさに「天の御国の到来」のことであり、それがメシアであるイエスにおいて実現されることだったのです。
そして再度、たとえが語られます。これは群衆に対してではなく、弟子たちに対するものです。弟子たちとは「御国のことばを聞いて悟る者」として選ばれた者たちなのです。そして同時に、その者たちは実を結ぶ者たちでもあるのです。ですから「幸いなのです」。
+ 「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」とあります。
主の弟子たちは良い地に蒔かれたものたちであり、みことばを聞いて悟る人と同義だということです。サタンの働きの中にあっても、このような者たちが存在することが実に不思議なことなのです。「みことばを聞いて悟る」とはどういうことなのでしょうか。「みことば」の内実とは「御国のことば」であり、それを聞いて悟るものこそが良い地に蒔かれたものなのです。「聞く」も「悟る」も共に現在分詞形であることから、じっくり聞き続け、深く悟り続けるという意味です。二つの語彙は密接につながっています。
+ 聞いて悟った人はどうなるのでしょうか。
使徒パウロのように、その人の目からうろこのようなものが落ちる経験だろうと思います。そして使徒パウロがそうであったように、生き方が大きく変えられて、神に専心する者となるに違いありません。それはまさに「地の塩」であり、「世の光」として輝く存在であることでもあるのです。
+ 良い地では、「あるものは百倍、あるものは六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶ」とあります。
「御国のことばを聞いて悟る人」として選ばれた主の弟子たちは、それぞれ差はあっても実を結ぶことに違いはありません。それはメシアの主権によって、それぞれの弟子たちに対して定められたものであり、それは個性というべきもので、優劣はありません。そして、ここには13章9節にあった「耳のある者は聞きなさい」というフレーズはありません。なぜなら、主の弟子(御国の民)たちの耳は聞いている者たちだからです。
結言
「種蒔きのたとえ」は、主によって選ばれた弟子たちに対するイエスの最大の励ましであり、これこそが「この世の取るに足りない、弱い」私たちを祝福しようとする「天の御国の奥義」と言えるのではないでしょうか。イエスがたとえで話すのは、敵であるサタンの働きがあるこの世において(鳥、岩地、茨)、選ばれた御国の民(良い地)がより豊かに実を結ぶための励ましなのだということを、心に留めたいと思います。