神からの救い

救いは神から来る

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(エゼキエル33:11)

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」

                                  (2テモテ1:9〜10)

日本人の罪意識について

日本人の場合、どんな人でも、お百姓さんでも、国会議員でも、会社員でも、子供たちも罪意識をもっているようです。ところが、聖書が語る人間の罪ということを理解しわきまえている人はほとんどありません。人間の罪意識の特長は以下のような点にあります。

1) 自分や他の人を比較しての罪意識

日本人は、「罪」という感覚があいまいです。なぜならそれは他の人がどうしているかということがその判断の基準になっているためで、周りの人や大勢の人がやっていることならばそれは正しいことになってしまいます。
こうした考え方は、心においては劣等感と優越感の間を行ったり来たりすることになります。

2) セルフイメージが低い

確かな人生観を持たないところでは、どうしてもセルフイメージは低くなります。また、他の人と比較しながら生きる生活は、「自分はこれでいいんだ」という満足感を持つことができません。絶えず上には上がいるわけですから、もっとがんばれ、もっとがんばれと自分をうちたたく生活の中で、自分はダメだ、という低いセルフイメージに甘んじて生活することになります。

3) 的はずれな罪意識

自分には何の罪もないという人はいないでしょう。むしろ、日本人の中には、罪意識にさいなまれているという人も少なくありません。しかしこれは多くの場合、聖書が語っているような意味での罪意識ではなく、本当の罪が何であるのか分かっていないことが多いのです。病気を治す場合でも、自分の病気がよくわかっていなければ、治療方法もわかりません。

私たちの罪は、原罪といわれるように根深いものです。人間のどんな知恵をもってしてもこの罪と死から逃れることができないものです。しかし、私たちが「行い」によってではなく(キリストに)「所属」することによって救われる道を神様は与えてくださいました。

第4章では、私たちすべてのものが神の前に罪人であることを学びました。その罪の結果、人間は、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められています。」(ヘブル9:27)

人間は、死ねば仏になり、神になるという考えは、人間のひとりよがりの考えです。私たちは、自分の努力で、下から上に上がっていくようにして救われるのではありません。神様のほうから私たちの下に下りてきてくださることによって救いの道が開かれたのです。

神からの救い

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネの手紙4:10)

1) 救い主の到来

あなたが聖書をお持ちであれば、是非、新約聖書の4つの福音書を読んでください。そこには、救い主イエス・キリストが、どのようなお方(真の神・真の人)であり、またどのようなことをしてくださった方であるかが記されています。聖書をお持ちでない方は書店にて手に入れることができますし、静岡キリスト教会においでになれば、新共同訳聖書を販売することができます。

・「新共同訳聖書」(日本聖書協会)または「新改訳聖書」(聖書図書刊行会)
旧約聖書と新約聖書が含まれているものがいいでしょう。是非お読みください。

まず、名前ですが、「イエス」という名前は、「神は救い」という意味を持っています。「キリスト」とは、姓ではなく職名ということができます。

ヘブル語では「メシヤ」という語で呼ばれました。その意味は、「油注がれた者」ということで、旧約聖書の時代には、イスラエルの王、祭司、預言者が油を注がれてその任務についたのです。イエス様は、神様によって、王、祭司、預言者のいずれの働きもなさる救い主(キリスト)として任職されたお方です。

今日、世界中の教会が守っているクリスマスは、神のひとり子であられた方が、マリヤの肉体に人として宿り、イエス・キリストとして誕生したことを喜び、記念する日です。

イエス・キリストの誕生は、普通の赤ちゃんの出生ではありません。キリスト(救い主)という使命を持った神のみ子が、私たちのもとに下ってきてくださったということです。

救い主は、普通の出生ではなく、「処女降誕」という超自然的、奇跡的な方法によってお生まれになりました。

「処女降誕」が意味していることは、イエス様はアダムの罪を受け継がず、神の聖霊によってまったく聖く生まれたということです。従ってこのような方法で生まれたイエス様には罪がなく、罪人を救う唯一の資格のあるお方であるということです。

生ける神の子

あるときイエス様は、弟子たちにお尋ねになりました。「人々は私のことをどう言っているか。」

弟子たちは答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

イエス・キリストとはどういうお方なのか、預言者のひとりだと言う人、孔子、釈迦、ソクラテスとならべて、世界の4大聖人のひとりと考える人、立派な教師だと考える人など、いろいろあるのですが、聖書は、あなたはイエス・キリストをどのように受け入れるのかと絶えず問いかけているのです。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
イエス様に聞かれて弟子のペテロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。(マタイ16:17)

「生ける神の子」とは、人は誰でも神の子であるから、イエスも神の子であるというのではありません。人間は神の被造物ですが、イエス様は、永遠に髪から生まれられた神様ご自身の本質を持っておられる神のひとり子です。

このひとり子である神が、私たちの救いのために至福の世界である天から、この地上に人間の体をもって下ってこられたのです。

イエス様は、神としての性質と人としての性質を持っておられます。このお方だけが、罪なき人として、私たちを罪と死の奴隷状態から解放することができる唯一のお方なのです。

	

キリストの生涯と十字架

今から約二千年前、神のひとり子イエス・キリストは、この地上にお生まれになりました。そして一つの罪もない生涯を送ったあと、私たちすべての罪を負い十字架の上で私たちの代わりに、恐ろしい刑罰を受けてくださいました。私たちは、この十字架があるからこそ、罪のゆるしを受けることができるのです。十字架こそ、私たち罪人のただ一つの希望なのです。

私たちの救いの中心となる大切な十字架について、学びましよう。

十字架の上で罪の値がぜんぷ払われた

「罪から来る報酬は死」であることは、すでに知りました。聖書にはまた「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)とあります。血を注ぐ、すなわち命を捨てること以外に、罪のゆるしを得る道はないのです。

神の律法は、私たちの罪に対して、死を要求します。ところが神のひとり子イエスは、十字架にかかり、私たちの罪の値を、ことごとく支払ってくださったのです。今、私たちのために、神の子イエスが、十字架につけられる光景を描いてみましょう。

人々はイエスを十字架につけるため、イエスにいばらの冠をかぶせ、当時の処刑場であるカルバリの山、別名「されこうべの丘」に連れて行きます。そこは極悪人が処刑されるところで、悪人の血がしみ込んでいる、このうえなく呪われた所です。

人々は大きな木の十字架を横にして、その上に、神の子イエスを寝かせました。そして、両手と両足にくぎを打ち始めました。金づちが振りおろされるたびに、太いくぎは、肉の中に食い込んでいきます。むごいと思いますか。

しかし、イエス様は、あなたの罪のために自ら十字架の刑をお受けになったのです。

目をそむけずに、よくごらんなさい。イエスのとうとい御手と御足にくぎを打ち込んでいるのは、なるほど金づちです。しかし実際は、あなたの罪が、くぎを打ち込んでいるのです。

「罪から来る報酬は死です」。そうです。死という罪の報酬を、イエスは今、あなたのために払っておられるのです。

全身の重みのため、両手、両足の傷は次第に裂けていきます。しかし実際には、あなたの罪が、耐えがたい重荷となって主イエスの上にのしかかり、イエスの傷口を広げていくのです。

それから六時間の長い間、とうとい神の御子は、あなたの罪の値がことごとく払われるため、想像もつかない苦しみをお受けになりました。肉体の苦しみだけではなく、イエス様はあなたの罪のため、父なる神に見離されるという、文字どおり地獄の苦しみを忍ばれたのです。

十字架の苦しみがことごとく終わると、神の子イエスは「すべてが終わった」と叫んで頭をたれ、息を引き取られました。イエス様はあなたの罪の値をことごとく払って、死なれたのです。

「すべてが終わった」ということばは、何を意味するのでしょうか。それは「ごらんなさい。あなた.の恐ろしい罪の値は、一文も残らず、完全に支払われました。だから、安心しなさい。罪のゆるしは、無条件であなたのものとなったのです」ということにほかなりません。

十字架は身代わりの死を意味する

十字架は神の子イエスが、罪人である私たちの「身代わり」として死なれた所です。このことについて、聖書は「キリストも、一度罪のために死なれました。正しい方が罪人々の身代わりとなったのです。それは……私たちを神のみもとに導くためでした」(第一ペテロ3:18)と言われています。

今あなたが、死刑囚として刑務所に入っているとしましよう。あなたは、毎日自分の犯した罪を悔いしかも一方、日一日と追ってくる死を思って、恐れに取りつかれています。そうしたある日、あなたの親友であるAさんがあなたの独房に入ってきました。

そして「さあ、急いで君の囚人服を脱いで、私の服と取っ替えなさい」と言うのです。

あなたがあっけにとられていると、Aさんは、「さあ、早くしなさい」とせかし、自らあなたの囚人服を着て、「私があなたの身代わりになります。あなたはすぐ、ここを出て、しあわせに暮らしなさい」と言いました。

映画ミッションインポシブルを見ると、主演のトムクルーズは変装の名人ですが、Aさんもあなたにそっくりの変装をして刑を受けるのです。

そしてある日、あなたは、あなたが処刑されたという話を聞きます。しかしあなたは、じつはAさんがあなたの身代わりとして死なれたことを知っています。そのため、あなたは生きている間じゅう、Aさんのご恩を忘れまいと決心するのです。

そんなうまい話があるかとおっしゃいますか。しかし、それ以上のことがあるのです。全世界を支配しておられるまことの神の子イエス・キリストは、罪を犯したあなたの身代わりとなられたのです。

神の子イエスは、ご自分は罪のない義なるかたであるのに、あなたの代わりに、恐ろしい十字架の刑を受けてくださったのです。

御子イエス・キリストは、あなたが受けるべき罪の刑罰を受けて、あなたの身代わりに死んでくださいました。

キリストの十字架の血潮によって、あなたはもはや、罪の刑罰を受ける必要はありません。あなたは二度と死刑の宣告を言い渡される心配がないのです。

十字架は神の愛が現された所

十字架には、罪のゆるし以上のものがあります。それは、わたしたち人間に対する、想像のつかないほど大きな神の愛です。

ただ神は愛であると言っても、その証拠がなければ、その愛を知ることはできません。そこでまことの神は、ご自分がどんなに私たちを愛しているかを知らせようと、十字架の上で死なれた神の子イエス・キリストを、私たちの前に示しておられるのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、……神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

すでに私たちは、ひとり子を与えるほど神が私たちを愛しておられることを知りました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

愛は、与える度合いによって、その大きさが測られるものです。あなたがだれかを愛しているなら、あなたはその人のため、喜んでものを与えるでしょう。ま
た進んで、時間や労力を提供するでしょう。しかし、ほかの人のために自分の命を喜んで与えるほどの、大きな愛を持っている人がいるでしようか。

聖書には「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)と命を与えることが最大の愛であると言っています。

ところで神の子イエスは、友のためではなく、罪を犯して神に敵対している私たち、(神様のおかげで生かされているにもかかわらず)神様なんか相手にしないで自分勝手に生きている私たちのため命を捨てて、私たちへの愛を示してくださったのです。

ああ、ここにこそほんとうの愛があります。ここにこそ、罪人である私たちを歓喜させる、神の愛があります。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(第一ヨハネ3:16)。

神の子イエスの私たちに対する愛は、きわめて大きなものでした。
十字架の苦しみを前にして、イエスは、「わたしには受けるバプテスマ(十字架のこと)があります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」(ルカ2:50)と言われました。

いよいよ十字架にかけられる時が来ました。イエスはいやいやながらではなく、あなたを愛するため、進んで十字架にかけられたのです。
キリストの十字架によって赦されない罪はなく、キリストの十字架によっていやされない病はありません。

キリストの復活

ところで、イエス・キリストは十字架で死んで終わりになってしまったのでしょうか。死んで終わりでしたら神の子ではなく、罪人です。
しかし、イエス様は事実、三日目に墓からよみがえられました。この復活により、イエス・キリストは真の神の子であることが示されるとともに、十字架上でささげられたキリストのいけにえが受け入れられ、私たちの罪のあがないが確実であると確証されたのです。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)

そして、復活によって人間の最後の敵である死が克服されました。イエス様がよみがえられたことによって、イエス・キリストを私の主、私の救い主として受け入れるものはすべて、いのちの書にその名が書き記され、永遠の命が与えられ、天に国籍をもつものとされているのです。

イエス・キリストは、主を信じるものがやがて復活する初穂としてよみがえられました。そして、復活の主は、今、天に上られ、、神の右に座して、私たちのためにとりなしをし、私たちを守り導いてくださっているのです。

 

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