聖書について  

A、 聖書は神の言葉

1) わたしの道の光、唯一の規準である聖書

聖書には、旧約聖書と新約聖書とがあります。旧約聖書には、創世記からマラキ書までの39巻、新約聖書には、マタイから黙示録までの27巻が収められています。(3x9=27と覚えることができます)この旧約聖書と新約聖書(66巻)の全体が聖書です。キリスト教会であれば、どの教会でもこの66巻を正典としています。

この聖書によって、私たちは神とはどのようなお方であり、私たち人間がどういう存在であり、意味のある人生を送るためには、何が必要であり、どのように生きるべきかを教える、私たちの信仰と生活の規準なのです。

旧約の詩人は、次のように歌っています。「あなたのみことばはわたしの道の光。わたしの歩みを照らすともしび」(詩篇119篇105節)。

私たちの人生は、ある意味では暗い夜の道を歩くようなものです。どこをどう歩いたらよいのか。どこに向かって生きてゆけばよいのか見失ってしまう、そんな私たちに、神はあなたの人生の光として、ともしびとして聖書を与えてくださいました。

2) 聖書を書いた人々

聖書を最初に書いたのは、起源前1400年ごろで、モーセという人によって書かれました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つはモーセ5書と呼ばれています。
  出エジプト記などを見ると、モーセの時代の出来事が書かれています。それでは、その前の出来事は、どうして書かれているかというと、それは「口伝」といって口伝えで先祖代々語り伝えられてきたものを含めて、モーセが最初に書き記したのです。

モーセ以来、およそ40人もの人々が、その後聖書を書き記しました。これらの著者の中には、王様や漁師、預言者といわれる人や税金を取り立てていた人、都会の人や田舎の人など、じつにさまざまな境遇の人々が、これを書きました。そして、およそ1500年もの歳月をかけて、さいごに起源後96年ごろにヨハネの黙示録が書かれて、聖書が完結したのです。この66巻の聖書は、聖書としての実力をもっておりましたので、そのまま書き改められることもなしに「正典」として認められてきたのです。

聖書の最後の書であるヨハネの黙示録には、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者にわたしは証する。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」(ヨハネの黙示録22章18〜19節)。つまり、この66巻の神の言葉は、これで完結しており、これに付け加えても、これを削除してもいけないということです。

3) 神の言葉である聖書

それぞれに境遇の違う40人もの人々の手によって、1500年もの長い時代にわたって書かれた場合、普通ならば(このような本は他にはありませんが)、その主義主張はバラバラになるところです。現代の同じ時代においても、人々の主張は10人10色なのですから、ましてや1500年もの隔たりがあれば、当然、違った主張がでてきそうなものです。

例えば、インドで起こった仏教の思想は、今では各地に伝えられるに従って、まるで違う思想になってしまっております。しばらく前に世界宗教者会議というのがありまして、東南アジアの仏教徒が、日本の仏教にふれてびっくりしたそうです。「これでも仏教か」と驚いたそうですが、キリスト教の場合には、経典(正典)である聖書が同じですから、教派の違いなどはありますが、それは個性のようなものであって、基本的な、根本的なところでの教えは、時代を越えて、どのキリスト教会でも一貫しているのです。世界中どこでも、基本的には、同じ主張、聖書の福音のメッセ…ジが説かれているのです。

聖書は、神の自己紹介の書です。神を知ることができない私たち人間に、神はご自身を啓示してくださいました。具体的な長い歴史を通して、私たち人間との関わりの中で、神が生きておられることを示してくださいました。

この後、順を追って聖書の内容を見ていくことになりますが、この内容を理解するにつれて、まことの神がどのようなお方であるかを見ていきます。そして、神を知るようになるにつれて、人間とは何か、私たちのあり方や生き方、私たちの幸福や希望がどこにあるのかということに目が開かれていくのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテヘの手紙3章16節)。
B、 聖書の特長

1) 聖書は神の言葉です。

実際に筆をとって書いたのは、モーセや、ダビデや、ペテロ、パウロなどのような人たちですが、これを彼らに書かしめられたのは神様です。

2) あらゆる人々、全人類に向けた救いの言葉です。

これは万人の、あらゆる時代、民族を越えたすべての人の本質的な問題と、その救いのために書かれました。ヨハネの福音書20章31節には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるためである」といわれています。これが聖書の書かれた目的です。

3) 実際に起こった歴史的な事実の中で語られた言葉です。

これは単なる思想ではなくて、この歴史の中に実際に起こったことがそのまま書かれています。従って、ここに書かれていることは、いずれも具体的であり、直接私たちの生活、私たちのあり方に関わるものばかりです。ここには人間のありのままのすがたが、かざらないで記されています。

4) 聖書は66巻で完結しています。

これに付け加えたり、削除したり、することは許されません。「聖書のみ」と「聖書全体」ということを心がけてこれに取り組むことが大切です。(ヨハネの黙示録22章18節)

5) このみ言葉とこの約束は変わることがありません

これは事実をそのまま書いただけではなく、これを書いた人は忠実にそれを後代の人に伝えてきました。印刷技術のないころはこれを手で書き記し、多数の写本よって聖書は残され、伝えられてきました。今日、聖書として残されている写本は非常にたくさん残されています。しかも、どれを見ても、その内容はほとんど同じです。旧約の時代にも新約の時代にも、これを神のことばとして、少しも間違わないように、これを書き写し、自らも生きる力を与えられていったのです。

神の言葉は、いつまでも変わることがなく、神の約束は必ず実現されるということが、聖書の歴史によっても分かります。

C・神の啓示である聖書

1)イエス・キリストによって

聖書ほど多くの人々に読まれ、伝えられている書物は他にありません。なぜこんなに苦心をしてまでも、人々が自分の言葉で聖書を読むような努力が重ねられているのでしょうか。

それは、聖書が時代を越え、文化や民族や環境の違いを越えて、人々に生きる力を与えていく「生命の書」であるからに他なりません。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ」(ヨハネの福音書5章39節)。

聖書は生命の書であり、その生命は、「わたし.は道であり・真理であり・命である」.(ヨハネの福音書14章6節)といわれたイエス・キリストに結晶しているのです。

生ける神が、ご自身の心のうちを開いて、わたしたちに示されることを「神の啓示」といいますが、この神の啓示によって、神の意思が私たち人間に伝達されます。このような神の意思は、〔ことば〕によって私たちに伝えられてきましたが、そのことについて聖書は次のように述べています。

「神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが・この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブル人への手紙1章1命)。

神の意思を私たちに伝える神の言葉は、旧約聖書の時代には、預言者たちによっていろいろな方法で語られてきました。預言者というのは、何か不思議なことをしたり、未来のことを預言する人というよりは、神の言葉を預かって、それを人々に伝える人のことです。

旧約聖書と新約聖書は先にも述べたように一貫したメッセージを私たちに伝えています。

それは一言で言えば、旧約聖書には神の救いの約束が語られ、新約聖書にはその成就が語られているといってもよいでしょう。

神の救いの最終段階になって、預言者たちを通して約束されていたことが成就して、神の言葉はみ子イエス・キリストによって私たちに伝えられ、ここに新約の時代が始まったのです。「言葉」というのは、お分かりのようにこれは人間だけによって用いられるものです。人間と動物を区別するものは言葉であるといってもよいのです。言葉はそれ自体人格的なものです。

人格的な神の意思は、預言者たちによって預けられたさまざまな人格的な言葉によって、私たち人間に伝えられてきたのですが、それが最終的にはみ子イエス・キリストによって語られたということは、人格的なものを通して神の意思を伝える〔決定的な神の言葉〕であるということを意味しています。

キリスト教においては、神の意思は何かあいまいなものではなく、このイエス・キリストという人格そのものにおいて、私たちに語りかける神の言葉によって、最終的にはっきりと啓示されているのです。私たちが信じ、求めようとしている神は決して漠然としたお方ではありません。また、単なる言葉だけではありません。

この歴史に具体的に働き、何よりもイエス・キリストという人格的な言葉によって、私たちにご自身を示しておられるのです。この主イエス・キリストを通して、私たちは主なる神とそのみこころを知ることができるのです。

2) 聖書のみ

聖書はこのような神の最終的な決定的な啓示であるイエス・キリストに関する〔十分な啓示〕であるということが、聖書のみということです。私たちが神様を知るために、そしてイエス・キリストによる恵みによって救われるために、聖書の中に十分に記されているということです。不十分ではないということです、これ以外に別の啓示を必要としないということです。

エホバの証人(ものみの塔)・統…協会などキリスト教の異端は、いずれも聖書以外に神の啓示があると言います。そして、その新興宗教の創始者などの人間が、「わたしは新しい啓示を受けた」などといって、聖書の教えとはまるでちがった教えを語っています。

このような「ニセキリスト」(マタイの福音書24章5節)に惑わされないようにしましょう。

キリスト教の異端とはワンポイント

1、信仰と生活の規準である聖書の権威を軽んじて、独自の経典を作ってそ

れを聖書と同等ないし聖書以上の権威を与えます。(聖書のみを否定)

2、神が三位一体(父・子・聖霊の三つの人格を持ち、しかも唯…の神)の

神であることを否定して、多神教的な思想を説いたり、主イエス.キリ

ストの神性を否定するものは異端です、

3、聖書は・すべてイエス・キリスト(による救い)を指し示し、キリストだけが救い主であると述べていますが、キリスト以外に独自の教祖などを作っているものは異端です。

C・変.わらない言葉(真実の言葉)

1) 迫害を越えて

聖書は、旧約の時代には、これを読む人はほとんどユダヤ民族に限られていました。しかし、イエス・キリストがおいでになって以来・キリストの福音が世界中に伝えられるようになると・聖書はたちまち多くの人々の間で読まれるようになり、今も世界のベストセラーとして読みつがれています。

聖書を歴史を考えると、これは決して保存され読まれやすい環境にあったわけではありません。新約聖書がまだ書かれているころから、ローマ帝国によるキリスト者への迫害がありました。その後起源後303年には、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによって、一番最初の「聖書焼き払い令」という命令が出されました。キリスト者を迫害するだけでなく、聖書は見つけ次第焼き払ってしまう。そして、聖書を持っている者は死刑にされたのです。

ローマ帝国の迫害の様子を見ると、実に激しいものでした。棚をした競技場の中に聖書を持っていたクリスチャン(乳飲み子を抱いた母親なども含めて)とお腹を空かせたライオンを入れて、キリスト者になった者はこのようになるぞと言って、見せしめにされたことは何十回、何百回とあるそうです。

ところが、帝国をあげてのこのような迫害にもかかわらず、キリスト者の数は増え続けて、その後312年には、ローマ帝国は、キリスト教を国教とせざるを得なくなりました。

キリスト者を迫害していたのでは、もはや国そのものがなりたたなくなってしまったのです。旧約の時代のイスラエル民族も、弱小の国で、何度も外国の軍隊に攻め込まれた経験があります。新約の時代のキリスト者も、その初めから迫害があり、当然、聖書も没収されたり、焼き払われたりしました。

ところが、そうしたたび重なる迫害にもかかわらず、聖書をなくすことはできませんでした。

1) 世界中に伝えられる

ヨハネの福音書20章!9節には、イエス様が十字架にかかって死んだ後、その弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めて隠れていたことが書いてあります。主イエスを殺したユダヤ人が、今度はその弟子である自分たちのいのちをねらうかも知れないと思ったのです。

失望と落胆、不安や恐れの中にいた弟子たちのただ中にイエス・キリストは来られ、かねてから言われていた神による救いの確かなことを示してくださいました。この方こそまことの救い主であることを知った弟子たちは、この後迫害を恐れることなく、世界中に福音を伝えるようになりました。

これは、ルカの福音書24章44節以下でイエス様がいわれたことの成就であります。福音の伝道、人々に救いといのちを伝える働きは、人の働きではなくて、神様の働きであると思わずにはいられません。

「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた。「次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」」(44〜48節)。

エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられるといわれています。

旧約聖書はヘブル語で書かれ、新約聖書はギリシャ語で書かれましたが・これが世界中に宣べ伝えられるに従って、しだいに各国の言葉に翻訳されるようになりました、翻訳されてもそこに書かれている内容は変わりません。

現在は、非常に有名な本になるといくつかの国語に翻訳されて出版されます。この場合でも、せいぜい10カ国〜20カ国位のところです。しかし、聖書は世界中のどのような書物よりもたくさんの言葉に翻訳されています。1804年、イギリスの聖書協会が発足した当時には、聖書は72の言葉に翻訳されていたそうですが、1986年には、実に1849の言葉に翻訳されるまでになっています。(これは世界中の国の数のほぼ10倍にもなる数です。)これは世界中で使われている言語の約97%以上にあたります。

これらの言葉の中の多くのものは、それを翻訳しようにも、辞書も文法書もありません。どのようにして翻訳するかというと、何ヵ月も何年も現地の人々と一緒に生活しながら、言葉や文化などを覚え、聖書をその言葉に翻訳して渡すという作業が今も続けられています。

2) 変わらないみことば

「変わらない」ということは真実であるということです。「あの時はああ言ったけれども、言いっぱなしで実現されない。」とか、何年後にはまた訂正された。」というのでは真実ではないのです。真実なこと、真理とは、どんなに時代が変わっても変わらないものです。どの国の人にも、どのような民族、どのような境遇の人々も、私への言葉として聞くことができる、そういう神の恵み、神の救いの恵みと救いのへの招きがここには語られています。

これも、福音が全世界に伝えられるという聖書の預言の一つですが、聖書とその実際の歴史を見ると、「その預言や神の約東がことごとく成就している」ということに驚かされます。

1500年もかけて書かれたにもかかわらず、全体の中から聖書を読んでいくと、そのメッセ一ジ、神・人・世界について、人生のあり方について、私たちの抱えているあらゆる問題の根本的で確かな救いについて、初めから終わりまで筋が通っているのです。これはにある「恵みの契約」の歴史を参照してください。

神は、罪に落ちてしまっている人間を救い出すという約束を与えてくださいましたが、それは歴史の流れの中で次第に明らかにされ、啓示が進展していきます。その時代の成就という面も持っていますが、旧約聖書(の律法と預言者)はみなイエス・キリストを指さしていたのです。そして、イエス・キリストにおいて、私たち人間が想像もしないような神の知恵によってその救いのみ業は実現されていくのです。

「神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子(イエス・キリスト)によって私たちに語られました」(ヘブル人への手紙1章1〜2節)。

新約聖書の福音書などを見ると、「○○ に言われていたことが成就した」という言葉がたくさん出てきます。主イエスは、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ」と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイの福音書5章17,18節)と言われました。

なぜ成就しているかといえば、神は生きておられるからです。そしてこの世界を支配しておられるからです。記されてから1600年以上の歴史をつづったこの書物は、この歴史に働く神の救いの計画が実現されていく歴史を物語っています。人間の罪にも関わらず、神はそのみわざを実現されるということです。

これはバラバラのものを寄せ集めて一冊の本にしたのではなく、明らかにここには一つの目的、一つの…貢した主張で貫かれています。聖書を書いた人の個性や性格などの違いを用いながら、それだけに豊かに、互いに補い合って、神の救いのみこころの深さ、広さが表されています。

時代が変わるにつれて、目に見えるものや人のことばは、色あせていきます。しかし、真理としての神のみことばは、時代を越えて変わらないのです。聖書のみことばは、ある民族や、ある特定の人にだけ通用するというようなものではありません。この日本に住む私たちの真実を告げ、私たちが真実に生きる遠を告げているのです。
C、 聖書の読み方

聖書を読んでも、言葉はそんなに難しい言葉は使ってありませんが、これが何を教えているのか。よく分かりません。聖書を読む時にはどんなことに注意して、どのように読んだらいいのでしょうか。」という質問を受けることがよくあります。

ここでまず大切なことは、教会において、礼拝の「説教」を通して、また牧師などによる聖書の学び会などによって聖書を学ぶことが大切です。

しかし、この場合も受け身で学ぶということではなくて、自分から求めるということが大切です。神はみことばを通してあなたに語ろうとしておられますから、これ以外にもいろいろな機会を用いて(例えば、壮年会、婦人会、青年会・家庭集会・聖書研究会など)グル_プで学ぶこともあるでしょう。そして、毎日少しずつでも個人で読むことをおすすめいたします。こんなことに注意して読みたいということをいくつかあげておきます。

?、聖書のことばに親しむこと。

分からないところがあっても、繰り返して読んでみてください。そして、これはと思うみことばは是非暗唱して下さい。このみことぱがこれまで多くの人々を励まし、支えて来たのです。

?、聖書の全体の流れの中で読むこと。

「聖書は、聖書によって解釈する」というのが、これを理解する原則です。分からないところも、聖書全体の教えの文脈に従って、聖書の他の箇所に照らして理解するように心がけてください。聖書全体の教えを理解するために、この学びも役立つと思います。

?、わたしへの語りかけとして読むこと。

これは「他人ごと」として読んでいる限りは、決してこの言葉の意味は分かりません。聖書は私たちすべての人間の真実を伝え、救いを与えるために書かれたものですから、自分の心を傾けて、自分の実存をかけて読むべきものです。

?、聖書はイエス・キリストを中心に読むものです。

聖書は、イエス・キリストによって結ばれ、一つにされている書物ですから、語られた主人公であり、またそのすべての言葉によって証され、指し示されているイエス・キリストと出会い、その存在に触れることが大切です。

?@D、聖書が証している神は生きておられます。この神との人格的な交わりを持ち、生活の中で聖書を読み、理解していくことが大切です。他にも、聖書辞典や聖書の注解書、コンコルダンス(聖書語句辞典)を用いたり、聖書の書かれた時代を理解し、「当時の人々がこのみことばをどのように受けとめたのか」ということを考えてみるのもよいでしょう。口語訳、新改訳、新共同訳、フランシスコ会釈、リビングバイブルなどの訳を比

較して読んだり、信条を学んだり、キリスト者の書いた書物を読むことも、聖書の理解の助けになると思います。

「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神のことばはとこしえに立つ』(イザヤ書40章8節)
「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」

 

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