山上でのイエスの変貌
- マタイの福音書17章1~9節 -
1. それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
2. そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
3. しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
4. すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、
すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5. 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と
いう声がした。
6. 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
7. すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
8. それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
9. 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。
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●ペテロの信仰告白から六日たってから、イエスとその弟子たちの中から三人の者(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)だけを連れて、ピリポ・カイザリヤからさらに北にある高い山に向かいます。その「高い山」とは、「ヘルモン山」(2,774m)だと言われています。約一週間の弟子たちの心中を察するならば、次のようなことが言えます(甲斐慎一郎著「キリストの生涯の学び」より)。
①弟子たちはイエスにつまずいた。おそらくイエスの厳しい叱責に腹を立て、憤慨したはず。
②弟子たちはイエスがわからなくなった。理解できなくなった。
③弟子たちはイエスが本当に神なのかどうか、メシアなのかどうか疑い始めた。
「すべてのことが神からはじまり、そして神により、神へと至る」(私訳 ローマ11:36 )
●そうした状況からイエスは三人の者だけをひそかに(内密に)連れて、彼らをヘルモン山へと導かれました。だれのためでしょうか。それはイエス自身のためではありません。そこへ連れて行った弟子たちのためです。そのことを念頭において下さい。
●「山上の変貌」の記事は共観福音書がそろって扱っていますので、それらを見比べて読むのが重要です。
三者の視点から見るので、細部は多少異なるのは当然ですが、より全体像が明確になってきます。ここではマタイの福音書だけを掲載しますが、マルコ(9:2~9)とルカ(9:28~36)は別紙でご覧ください。
(1) なぜ、高い山なのか
●高い山でのイエスの変貌は、イエスが「神の御子であること」、「栄光のメシアであること」を弟子たちに正しく理解させ、これから起こる「受難と死とよみがえり」を正しく受け止めさせるためでした。
そのために三人の弟子(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)が選ばれました。ちなみに、この「山上の変貌」の記事の前にイエスが弟子たちに語った不思議なことばがあります。それは「神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」(マタイ16:28)です。マルコは「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは決して死を味わわない者がいます」(マルコ9:1)と述べています。この者とはだれのことを言っているのでしょうか。それは、これからイエスと共にひそかに高い山に登る弟子たちです。つまり、その人物の名は「ペテロ、ヨハネ、ヤコブ」の三人です。
●ところで、なぜ「高い山」なのでしょうか。これまで神がご自身の重要な啓示を現わされるときには、聖書では山が多いのです。しかも高い山です。モーセはホレブの山の麓で「燃え尽きない火で燃えた柴」を見、 そしてイスラエルの民をホレブの山のところに連れて来て、その山で神から律法を受け取りました。預言者 エリヤも主の働きに疲れて、ホレブの山に導かれ、彼の後継者エリシャに油を注ぐように語られました。そ れゆえ、異邦人たちはイスラエルの神のことを「山の神」と呼んでいたほどです。天からの光を受けたサウ ロ(使徒パウロ)も、神の光を求めてアラビヤに出かけたとあります。おそらくそれは「ホレブの山」と思わ れます。まさに、聖書において「高い山」は啓示の場なのです。
(2) 変貌した姿こそ、御子の本当の姿
●本来イエスは神の御子でしたが、この世に来られるに当たって神的側面を捨てて来られたのです(ピリピ 2:6~8)。しかし、「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」のは、御子の本来の神の本性の輝きが、肉体を突き抜けて、ありのままに啓示されたからです。といってもほとんどその姿は見えなかったと思われます。これが受肉以前の御子イエスの本当の姿なのです。マルコは「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(9:3)と記しています。面白い表現をしていますが、その輝きの白さはこの世のものではないということを言おうとしたのだと思います。おそらく再臨のイエスもそのような姿で来られると考えられます。
(3) なぜ、モーセとエリヤが現われたのか
●不思議なのは、なぜ弟子たちは変貌したイエスと共にいるのがモーセとエリヤだと分かったのか。彼らは、実際に見たこともないのにどうして彼らがモーセとエリヤだと分かったのでしょう。三人の弟子たちはおそらくここで頭を働かせたのかもしれません。というのは、山の上で神と話し合った人物といえば、モーセとエリヤしかいないからです。他にそのような人物がいるでしょうか。
ホレブ(これまで聞かされてきたホレブの山ではない、アラビヤ(=ミディヤン)にあるホレブの山)で神と語り合っています。そのことが出エジプト記に、そして列王記にも記されています。エリヤの場合は1回限りですが、モーセの場合はなんと8回もシナイ山を上り下りしています(出エジプト記)。そのように考えれば、顔を知らずとも、山で栄光のイエスと語っている二人の人物は、モーセとエリヤ以外にいないと、これまで聞かされてきた知識で、直感的に分かったのかも知れません。
●三人が話し合っているのを見たペテロがした行為、つまり、ペテロが口出しして、イエスに「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と言ったことは不可解です。
ちなみに、ここでの「幕屋」は「仮小屋」のことで、ヘブル語だと「スッコート」(תֹ כּוֻס(となっています。少しでも彼らがここにとどまってくれることをペテロはとっさに思いついたのでしょうか。いずれにしても、ペテロは何を言うべきかわからなかったようですが、「すばらしいこと」だと感じたことは事実です。むしろ深いなぞは、なにゆえにモーセとエリヤがここで登場しているのかということです。このなぞについて考えてみたいと思います。一般的には、モーセは律法を代表する者、エリヤは預言者を代表する者と言われま 「すべてのことが神からはじまり、そして神により、神へと至る」(私訳 ローマ11:36 )です。そのような分類で考えるならば、イエスは諸書(聖文書)における「知恵」を代表する者と考えられ、三者のすべてが旧約の全体を啓示していることになります。しかも、モーセとエリヤが現われてなにやらイエスと話し合っている(「語り合っている」)と記されています。どんな話し合いがなされていたのでしょうか。それについては、ルカが次のように記しています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた。」(ルカ9:31)。
●イエスが「エルサレムで遂げようとしておられるご最期」といえば、すぐに頭に思い浮かべるのは「受難と十字架の死と復活」のことです。果たしてそうでしょうか。ここに使われている「最期」と訳された言葉は、出エジプトを意味する「エクソドス」(ἔξοδος)です。さらに「遂げようとしておられる」という言葉は「プレーロー」(πληρόω)の未完了形です。この「プレーロー」の本来の意味は「満たす」ということで、神があらかじめ定めておられたご計画を満たしていくという意味です。この神のご計画が満たされることについて彼らが話し合っていたと考えられますが、その内容については一切記されていません。
●イエスがやがてエルサレムで遂げようとしておられる最期(出エジプト)とは、受難と十字架の死と復活(十字架の恵みの福音)のみならず、キリストの再臨における出来事、すなわち「御国の福音」が含まれていると考えられます。このことは旧約の預言者たちが「二重預言」として、メシアの初臨と再臨を同時に見て語っていたことと符合します。
●特に、モーセとエリヤは、「栄光のうちに現われて」とあるように、第四の出エジプトである御国の完成(千年王国)のことが話し合われていたと解釈できるのです。とするならば、モーセは「死んだ者」の代表であり、エリヤは「死なずに生きた者」の代表と言えないでしょうか。しかも彼ら二人が「栄光のうちに現われて」とあるのはそのことを裏付けています。三人の弟子たちが見たモーセとエリヤの姿はやがてキリストの再臨時における栄光の姿なのです。「やがて、こうなる」ということを見せることが「山上での変貌」が教えている事柄なのです。イエスが三人の弟子たちを連れて行ったのは、最期に実現する幻を見ることで、 「すべてのことが神からはじまり、そして神により、神へと至る」(私訳 ローマ11:36 )
彼らが大いなる希望を持つことを主が願っておられたからではないかと思われます。イエスが教え、そしてなさってきたすべての奇蹟は、まさに神の歴史の最期にエルサレムで実現されることだからです。しかしこの出来事も「メシアの秘密」の中に据え置かれます。少なくとも、イエスが死から復活するまでは、この出来事も正しく理解されることがないため、不用意に語る事を禁じられたのです。
●「御国の福音」は主の復活の出来事を信じている者であっても、なかなかありのままに信じられないのが、今日のキリスト教会の現実です。特に、置換神学で育てられた方にとっては、その枠を越えて理解するのはかなりの勇気が要ることかもしれません。しかしそれを越えるのに必要なのは、神学ではなく、生きた主のみことばです。そこで最後に、光り輝く雲の中から(シャハイナ・グローリーの中で)語られた声に注意を向けたいと思います。
●マタイの福音書17章5節の天の父の声がそうです。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい』。まさに、「わたしの愛する子」であるイエスの語られることばのみが、真理なのです。そして、真理はあなたを自由にするのです。新しい年が、イエスの語られたことばをより注意深く聞くことに徹していく年でありたいと思います。
http://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_IxVmAh.6.pdf