兄たちにスパイの嫌疑をかけるヨセフの計らい
創世記42章1節~38節
パロが夢で示されたように、エジプトおよびその周辺にも飢饉が訪れました。初めて経験する飢饉にヤコブの息子たちは茫然自失であったようです。このままじっとしていては餓え死にすると懸念したヤコブは息子たちをエジプトまで行かせようとします。エジプトまでは400キロもあり、躊躇するのも無理はありませんでした。食糧を手に入れて帰ってくることは大変な旅であったろうと推測できます。
族長のヤコブはエジプトに行けば穀物を手に入れることを知り、息子たちにエジプトに行って穀物を買ってくるように言いつけたもの、父ヤコブは一番下のベニヤミンを一緒に行かせませんでした。わざわいが彼にふりかかることを恐れたためです。おそらくヤコブはヨセフの一件でトラウマをかかえてしまっていたと思われます。
42章での動詞の強意形を拾ってみると以下の通りですが、そのまま42章の流れのポイントとなります。
1. ヨセフの夢が実現した瞬間
躊躇していた兄たちは父ヤコブにけしかけられてエジプトへ行きました。42章6節には、「ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ」とあります。かつてヨセフが17歳の時に見た夢がまさに実現した瞬間でした。
ヨセフは彼らが自分の兄たちであることをすぐに見抜きましたが、兄たちは気づきませんでした。なぜ兄たちはヨセフに気づかなかったのか。その理由として考えられることは、顔を地につけるようにして伏し拝んでいたという姿勢の問題もありますが、ヨセフがこのときエジプトの言葉で語りかけていたからだと思います。23節にあるようにヨセフは通訳者を通して話をしていたことが分かります。
ここでヨセフは兄たちにスパイの嫌疑をかけます。ここで「あなたがたは間者だ」とする「間者をする(者)」とは、この章だけで7回も使われ、その嫌疑の裏にヨセフの計らいを見て取ることができます。その嫌疑の目的は、自分の弟であるベニヤミンと父ヤコブの安否を探るためのものでした。兄たちはその嫌疑を晴らそうと父ヤコブのことやベニヤミンのことを話しましたが、ヨセフはそう簡単には信じません。ヨセフは兄たちのうちのひとりをやって、弟を連れて来るまで皆を監禁するといって、三日間、彼らを監禁しました。しかし三日経ってからヨセフはそれを変更します。なぜなら、ヨセフは、兄たちがこれは自分たちがかつてヨセフのことで罰を受けているのだと考え、反省していることを知ったからでした。そこで、兄弟たちのひとりであるシメオンを人質として監禁し、他の兄たちには穀物を持たせて帰すことにします。そして、末の弟を連れてきてスパイの嫌疑を晴らすようにさせました。
2. ヨセフの愛の計らい
ヨセフはが兄たちを帰すときに、部下に命じて、兄たちの袋に穀物を満たし、また代価の銀をそれぞれの袋に返し、さらには道中の食糧を与えるようにしました。この「命じて」という動詞が強意形で使われているのです。この命令はヨセフが神の恵みによって与えられた権威によってはじめて行使できるものでした。そのヨセフの命令によってヨセフの兄たちは恵みを受けたのです。なんとも麗しい愛をここに見ることができます。道中で兄弟の一人の袋の中から銀貨を返されていることを知りましたが、そのとき兄弟たちは身をふるわせながら「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」と驚きましたが、やがて、父のもとに帰ってから袋の包を開けたときに、それぞれの袋から銀貨が出てきた時には、彼らも父ヤコブも「恐れた」と記されています(35節)。
3. 父ヤコブのためらい
エジプトから帰ってきたヤコブの息子たちは父にありのままを報告します。ヤコブはかつてヨセフを失ったトラウマから、シメオンが人質として取られ、今、ベニヤミンをも失うことを心配してエジプトに行くことを許可できませんでした。ヤコブは息子たちに「あなたがたはもう、私に子を失わせている」と言いました。
ヤコブの懸念がこのような形になるとは、想像もしていませんでした。ちなみに、この「子を失わせる」という動詞に強意形(ピエル態)が使われています。
ヤコブはベニヤミンがエジプトに行かせることはどうしてもできなかったようです。それはベニヤミンに対する偏愛であり、また固執のゆえでした。しかし、飢饉の迫りは食糧を求めてどうしてもエジプトに行かざるを得なくなります。ヨセフの仕掛けた策略の中に、ヤコブとその息子たちは、無意識のうちに、必然的にはまって行く運命にあったのです。
運命の最後の決め手は父ヤコブが握っていました。つまり、ヤコブのためらいが崩されるかどうかがそのあとの運命を決める鍵となったのです。イエスの教訓が思い起こされます。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:25)
ここでの「いのち」とは「プシュケー」ψυχή,で、自分自身、あるいは自分が大切にしているものと言えます。それに固執しているならば、それを失い、神のご計画と目的のためにそれを手放すならば、すべてのことがつながりをもってくるだけでなく、より大切なものを見出すことができるようになるのです。
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