天地の造り主

 「天地の造り主」、これは使徒信条第一項のラテン語原文最後に記されている言葉である。だが、使徒信条の原型ローマ信条の初期のものには見あたらない。四世紀末頃に至って、「全能の父なる神」を補足するかのように加えられだした。このことは、神を天地の造り主として告白する信仰が教会の中にそれまで無かったからではない。すでに四世紀の初め三二五年のニケア信条に、「見えるものと見えざるもののすべての創造者」という表現があり、神を天地の造り主として告白する信仰は、使徒的信仰の最初からあった。使徒たちを選ばれたキリストは、神を天地の造り主と呼んでおられる(マルコ一三19、一〇6)。この告白は、旧約聖書の冒頭(創一1)から新約聖書の終りに至るまで(黙一〇6)、信仰の基本として疑間の余地なきものとして聖書に記述され、その後の教会の信仰にも貫かれてきた。ただ、この言葉が途中から信条に組み込まれることによって、全能の父なる神の働きを、具体的に表現する文字が加えられたと解してよい。

 「初めに、神は天地を創造された」(創一1)、聖書はこの言葉をもって書き始めている。万物の存在の前から神がおられ、その神が天地すべてを造られた。
 続いて「地は混沌であって」(2)と語る。「天地を創造された」と記したあと、直ちに地の事柄に読者の関心を集中させる。それはやがて、神の像を持つものとして地上に生きる人間へと的が絞られ人間の創造をもって終り、七日目の祝福と聖別において創造の御業は完成している。あらゆるものが備えられ、被造世界に最後に登場させられたのが人間である。この場合、他の生きものは種類に従って(口語訳)造られたが、人間のみは神の似姿に造られている。さらにこの人間は、他の被造物を治めるよう使命付けられてもいる(26~28)。まさに人間は、創造の冠である。「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていだかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」(詩八5~9)。旧約の詩人はこのように賛美告白している。

 今日の宇宙物理学の知識によると今から百五十億年ぐらい前、わずか直径十センチほどの物体がビックバン(巨大爆発)を起こし急激な膨張を開始した、これを今の宇宙の初まりとする。その前の状態については、水のひと滴より小さかったと発言する学者もいれば、無だったと語る学者もいる。但し、このような科学上の仮説は、宗教的神信仰の有無に関係なく論じられている。しかし聖書と教会が神による天地の創造を語るとき、それはあくまでも信仰告白的理解として語る(ヘブライ一一3)。とはいえ、聖書の創造記事を、単なる神話として読むわけではない。確かに聖書は、科学以前の古い時代に記された。従って、聖書記者たちはあくまでも、科学以前の素朴な宇宙像や世界像で事柄を表現している。その時代の常識を用いて神の御業を語っている。だから天動説で神の創造の働きを記述しているとしても、それは当然であろう。けれども、当時の人々の素朴な天体像まで信じさせようとしているのではない。万物は神からいで、神によって成り、神に帰する、従って栄光は神のみにあること(口ーマ一一36)、この神は被造物を通してご自身を啓示しておられること(一20)これらを伝えるために創造記事は書かれたのである。また、神と人間との関係、人間と人間の関係、神と世界、人間と自然、これらの本来的在り方を教えようとして記された文章である。もし、今日の科学の知識を用いて神による創造の御業が古代社会で記されたとしたら、当時の人々は誰も理解できなかったし、架空の話しとしてしか読めなかったであろう。従ってその内容は誰も信じなかったに違いない。聖書記者は、当時の周辺世界にあった異教神話と対決しながら書いている。しかし神話として書いたのではない。古代人の素朴な観察眼で捉えた表現が用いられていても、神話ではないので非神話化した解釈を求める必要はない。だが、古代人の天体像や世界像を信仰的な認識としないとはいえ、聖書に示された世界観や人生観を学び取ることまで水に流してはならない。文化についての見方、結婚観や労働観など、創造記事は基本観念を今もわれわれに提示している。聖書は、神の契約を語り、その項点としてキリストの真実を語る。キリストの真実は、神と人との祝福された関係をもたらすことを目的としたものである(Iテモテ二5、Ⅱテモテ二11~13)。これを人間に啓示するため、すべてにおいて霊感された神の言葉として聖書はわれわれの手にある(三16)。聖書の創造記事も、読者をキリストにある神との和解へと導くために前提となる場をまず提示しているのである。

 天地を造られた神は、最後に創造の冠として罪なき人間を造られた。それも男と女として造られ、男も女も神の像を持つものとして造られた。このように聖書が語る人間は、動物学者が猿人とか原人とか新人など、その外的形態で類別するような自然的外形で捉える方法とは無関係な理解を示している。あくまでも神の似姿を持つ、これが人間である。自然科学の方法と、神学的扱いとを混同してはならない。

 さて、人間を人間たらしめる神の像とはいかなるものなのか?人間に在る人格性と言ってよい。カルヴァンは、人間の魂こそ神の像の座があると言い、キリストこそ最も完全な神の像だと述べ「キリストと同じ形に回復されるならば、われわれは真の敬虔と、義と純粋さと、知性とにおいて神の像を持つ」という(綱要一・一五4)。ウエストミンスター信条も「知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造」(小教理一〇)されたと記すが、これもカルヴァンと同様、キリストに在る回復の中に神の像を読みとっている。

 キリストによる回復の中に見るとは、アダムによる人類の堕落の後に与えられた救いの恵みの中に見るということになる。使徒信条は、アダムによる人類の堕落と人間の罪について、第一項では直接言及していない。だが、第二項で救い主キリストを告白しているということから、堕落と罪と、それに対する神の審きの啓示をも読みとってよい。第一項の父なる神を、第二項のキリストとの関係で読む必要を自覚するなら、第一項の父なる神を「天地の造り主」と信じ告白する時、神の前に罪人となっている自らの現実をも認めることなしには告白できないのではなかろうか。

 人間における神の像の座は魂にあると言われるが、人間は肉体と魂によって構成されたものとして創られている(創二7、コヘレト一二7)。この両者は不可分離的に結合されている。肉体の死において一時的分離が起こるとしても、終末において魂は復活の体と再び一つになる。


 さて、人間の肉体は、他の生き物と共通のものを有している。人間は魂だけで生きるのではなく、自然界と共存せねば生きられない肉体を持つ。このように共通のものを持つ人間に、他の生き物すべてを治め管理するよう神は命じておられる(創一26,28、詩八7)。人間は、神の像を持つので神の御旨を理解でき、同時に被造物の一つであるので自然界の事どもも理解できるはず。ところが罪を犯した結果、神の像はこわされゆがみ腐敗し、神の御旨は何かを聴くよりも王者になったかのように勝手に自然支配を始めたのが、アダムの子孫としての人間である。天地の創り主は「天から雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して」くださるお方(使徒一四17)であり、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(ーコリント一〇26)だからわれわれは神への感謝をもってそれらを受けてよい(Ⅰテモテ四3~5)はずなのに、創造主を忘れ無視して生きようとする。その結果人間は自らの腹を神とし、自然破壌を起こしてまで富む道に進もうとする。この自然破壊の間題は今日、地球規模の大間題となりつつある。われわれはこのことについて、非キリスト者と共に取り組んでいかねばならない倫理的課題を負わされている。彼らも、われわれと共有の痛みと将来の不安を感じているはずであるから。だがキリスト者は彼らと異なり、魂において神を崇め神の御旨を行う者とされている。したがって彼ら以上に、この課題に目覚めるべきではなかろうか。神によって造られた自然界が人間の手によって破壊されつつある現実を痛む心を持たずしては、「天地の造り主」を告白できないと思う。

 被造物世界は虚無に服している。だが、いつかは滅びのなわめから解放され、神の子らの栄光の自由に入る望みが残されており(ローマ八18~22)、この望みの実現のため、神はキリストの十字架によって「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子のよって、御自分と和解させられ」(コロサイ一20)た。故に終末の日に、「新しい天と新しい地」(黙二一1、使徒三21)が主によってかならず完成する。もしこのことを信じ告白する者なら、自然に対する倫理的関心を持つ者になりたい。

 キリストの福音は、ヘレニズム文化の世界へと急速に広がった。そこではギリシア思想との出合いや、神秘な知恵を求めるグノーシス主義との衝突が生じた。これらに見られるのは、物的・肉体的なものを軽んじる思考である(使徒一七32、Ⅰヨハネ四2)。仏教的教えの中にも、肉体的欲求や物的世界からの心の解放が説かれる。だがわれわれは、天も地も、魂も肉体も、精神も物質も、すべてを造られた神を礼拝し、すべてにおいて神を喜び感謝する。

(せんげん台教会牧師)

http://www.calvin.org/apostle4.htm