イエス・キリスト


 「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」、これが使徒信条第二項最初の行に見られる告自文である。


 実は、第一項はCredo「我は信ず」から始まっていた。だが第二項にはクレドという語そのものはない。Etから始まっている。この単語は「同様に」「そして」の意味を持つ。そこで、第二項も「我々は…を信ず」と読んでよい。

 まず、呼び名に注目したい(使徒四8~12、モーセの十戒第三戒参照)。そして第二項は、「イエス・キリスト」と呼ばれる名を持つお方についての告白である。それは、三一神の第二位格が人となられたお方に関するものである。
 この項は、第一項や第三項に比べて、文字数が比較にならないほど多い。それはここにこそ、キリスト教信仰の中心があるからである。そして次のことも言える。第一項は第二項を必然的に求め、第二項は第三項へと続けられることによって信仰者の内に完結する。もし第一項から、「神は唯一だ」と語るだけなら、悪霊どもの信仰(ヤコブ二19)と区別がない。もし第二項を第三項から分離して述べるだけなら、東方の博士たちに幼な子の居場所ベツレヘムを聖書から解明しただけの律法学者(マタイ二1~7)を一歩も出ない。

 「イエス・キリストを信ず」と告白する時、それは、マリアの子ナザレ人イエスをメシアと信じることを言う。
 イエスという名は、ヤハウェ(主)はわが救い、の意であり、旧約聖書に幾人も出てくるヨシュアのギリシア的呼び方である。従って、イエスの時代にも、ユダヤ人の中ではめずらしくない名前であった。パウロ書簡にもキリスト者の一人として出てくる(コロサイ四11)。
 しかしわれわれの関心は、マリアの子ナザレ人イエスにある。彼は、イエスという名を持つ他の者たちと同じく、歴史の中に確かに生き、パレスチナの地を歩いた一人の人間であった。ところが彼にイエスという名が付けられたのは、他の者には決して見られない特別の意味があった。それはわれわれの信仰告白に結びつくものである。というのは、直接の名付け親はヨセフだが、その名をヨセフに示されたのは神であったからだ。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ一21)。神が処女マリアから生まれる子を、罪からの救い主にしようと考え、イエスという名を付けることを求められ、ヨセフはそれに従って名付けた。究極の名付け親は、ヨセフでなく神である。神が御白身の責任において、真のイエス、神が立てた救い主にしようと考え、そのようにされたのである。しかも罪からの救い主に。
 ユダヤ人による迫害の中で、使徒ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒四12)と大胆に告白した。その後も「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」としながら、なおイエスの名を語り続けた(五41、42)。また、神を敬う異邦人コルネリウスに対して、旧約の「預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」と証ししている、と説いた(一○43)。イエスの名を告白する者には、救いの約束が神から与えられていた。この約束は、今も与えられ続けている。
 「白分の民を罪から救う」と言われるので、救いは単に人間的悩みから救うことに留まらない。実は人間のあらゆる苦悩と死への恐怖は、最も深いところでは神の聖前で神から問われているわれわれの罪に根本原因があると、神は聖書において語っておられる。この罪は、罪なき者として造られた始祖アダムの堕落に源を持つ。そして彼の子孫としてのすべての人間が生まれながらに負わされている原罪と、腐敗した性質や神の律法に背く行為、これらを言う。そしてこれらの罪と汚れを持つ人間に対して、義なる神は裁き、神の国から退け、やがて永遠の死の世界に捨てることを言明しておられる。このように神から裁かれている現実にこそ、人間のあらゆる苦悩と人生につきまとう死への恐怖の根本原因がある。
 なお、このようなアダムの堕罪によって負わされている原罪の理解は、第二のアダムとして来られたイエスの救いに与る時、その時初めてその者において受容できる教説となるのである(ローマ五12~21)。

 「キリスト」、これはヘブライ語旧約聖書に出てくるメシア、すなわち油注がれた者、これのギリシア訳である。それは、旧約時代、預言者・祭司・王がその職務につく時、油注ぎの儀式を受けたことに由来する。イエスは、聖霊によって油注ぎを受け(ルカ四18、三21、22)、真の預言者・唯一の大祭司・永遠の王として、地上生涯で救い主としての御業を全うされ、今も父なる神の右で救いの働きを続けておられ、終末の日の再臨においてそれを完成される。
 旧約時代から、イスラエル民族では、真のメシアの現われが待望されてきた。ですから、イエスがキリストであると告白する信仰は、旧約から新約に至る救済史の線上で捉えねばならない。このことは、キリスト教会が、新約聖書のみでなく旧約聖書をも正典とし、神の言葉として受け入れた決定的な理由の一つである(ルカ四16~21)。
 「イエス・キリストを信ず」とは、イエスをキリスト、メシアとして信じることであるが(マルコ八29)、あのナザレ人は、当時も今もいつの時代においても、すべての人からキリストとして信じられたわけではない。しかし彼を神からのメシアとして白覚的に信じるところに、使徒信条が述べる「イエス・キリストと信ず」という告白文の意味するところがある。
 これは、当然のこととして次のことも含む。あのマリアの子イエスをキリストとして信じることは、彼を「罪から救う」メシアとして告白することでもある。人間すべては、苦悩から解放される道を模索している。病や貧しさから、憎しみあいや争いから、抑圧や差別から。ところが地上を歩まれたイエスは、このような救いを人々に与えられた。しかしその御業に伴って、多くの場合、「あなたの信仰によってあなたは救われた」と宣告された言葉を見落としてはならない。この事実は、罪人に向けられる神の裁きからの救い、信仰による永遠の命への救い、これらと密接な関係に置かれている。実は、イエスは短かかった生涯の中で、メシアとしてやがての時に実現される霊肉共々永遠にいやされる御国での救いの完成像を、その前ぶれとして地上で幾度も示されたと解してよい。また今の時も天に在って、苦しみうめく地の人々に助けの手をのべておられる。それを、魂の救いを与えたキリスト者を用いてなし続けておられる。そこでわれわれはキリストの恵みに支えられ、愛の実践をもってそれに参加させられているのである。
 キリストは、真の預言者として神とその救いを欠けることなく語り、何よりもご自身の存在そのものをもって神を啓示された(ヨハネ一18、一四9)。また唯一の大祭司としてご自身を罪の贖いの全き犠牲として神に献げ(ヘブライ九11~14)、今も天に在って教会とその民の救いのために執り成しておられる(口ーマ八34)。そして永遠の王として、あらゆるものを従わせ(マルコ四41)、特に頭として教会とその民たちを守り治められておられる(エフェソ一22)。

 われわれがイエスをキリストと信じ告白する時、その者は、キリストに結合されたが故にキリスト者と呼ばれ、キリストの三職の賜物に与る。預言者としてキリストを口で告白し人々に語り、祭司として神に自らを献げ人々のために執り成し、王として内に働く悪魔と戦い世に在って正義をつらぬく。キリストヘの信仰は、信じる者をキリストに似る考と造り変え、その人生は新しくされる。この変革が起こることなしに、真のキリスト告白は在り得ない。

 今日、イエスが教え実践した愛の宗教をパウロが信仰のキリストヘと変えた、とする主張者がいる。イエスの宗教とパウロの宗教とを、非連続に捉えようとする考えである。前者は人間としてのイエスを、後者は高きにあげられた信仰のキリストとして。
 使徒信条は「我はイエス・キリストを信ず」と告白しているが、使徒信条の原型ローマ信条の段階から、イエスとキリスト両者は共に告白され、イエス単独のものはなく、むしろ初期にはキリストだけのものさえあった。遡って言うと、初代教会の終り頃には「イエスがキリストであることを否定する者」は偽り者とされており(Ⅰヨハネ二22)、初代教会の出発期には、「イエスを神は主とし、またメシアとなさった」と語る説教が公になされ始めていた(使徒二36)。さらにイエスの公生涯を見る時、ペトロの告白「あなたはメシア」に応えて、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とイエスは語り、神によって培われた告白として肯定的評価を示しておられる(マタイ一六16,17)。すでにイエスの意識の中に、ご自分をキリストとする自覚は明確にあった。ただ、それが誤った理解で広まるのを恐れて、時が来るまで公に伝えることを抑制するよう望まれた(20)。しかし聖霊降臨と共に使徒たちを用いて公的に明らかにされていかれたのである。

 イエスは、キリストすなわち預言者・祭司・王としての職務を全うすることによって、「自分の民を罪から救う」者となられた。「自分の民」とは、イエス・キリストの御名を告白するわれわれのことである。

 (せんげん台教会牧師)

 

http://www.calvin.org/apostle5.htm