イサクの生き方に学ぶ
創世記 26章1節~33節
この26章にはアブラハム亡き後のイサクの生き方をよく示す記録が記されています。子どもの誕生(25章)とやがて老年になって子どもを祝福する27章との間に、イサクという人物がどのように主によって祝福されたか、またどんな生き方をしてきたかを知ることができます。
1. 26章に見られる動詞の強意形
まずは、26章にある強意形のピエル態の動詞を拾ってみると、この章には12個のピエル態と1個のヒットパエル態があります。24章でもそうでしたが、強意形の動詞を手繰ることで、26章でも聖書が私たちに伝えたいと意図しているメッセージが見えてくるはずです。
(1) 3節「あなたはこの地に、滞在しなさい(グール)。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」
(2) 8節「イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。」
(3) 11節「そこでアビメレクはすべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」
(4) 12節「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。」
(5) 14節「彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。」
(6) 15 節「それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。」
(7) 18節「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。」
(8) 20節「ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った(口論した、ヒットパエル態)。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。」
(9) 24節 「【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」
(10) 27節「イサクは言った。『なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。』」
(11) 29節「それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、【主】に祝福されています。」
(12) 31節「翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。」
2. イサクの柔和さという力
主が祝福するときには決まってピエル態が用いられます。これは主が祝福の神であり、与えることを最も喜びとするからです。3, 12, 24節。
アブラハムの時にもあったような飢饉が襲った時、主はイサクに対して「あなたはこの地(ゲラル)に滞在しなさい。そうすればわたしはあなたを祝福しよう」と約束され、イサクはその地にとどまりました。父アブラハムは飢饉のときに主のことばもなく、エジプトに行ってしまいましたが、イサクはとどまりました。そしてゲラルの地に種を蒔いたところ、百倍の収穫を得たのでした。さらに羊や牛の群れが増えて、多くのしもべを所有するようになりました。それだけに、その祝福に対する反動ともいうべき妬みや嫌がらせといったものが起こることは当然です。26章では、ゲラルの人々の妬みと嫌がらせに対してイサクがどう対処したかを記しており、そこから学ぶべきものがあります。
14, 15, 17には妬みによる具体的な嫌がらせとして、いのちの次に重要な「井戸」のすべてが土で塞がれるということが起こりました。そしてその地から出ていくようにと迫ったのでした。そして少し移動して、かつてアブラハムが掘っていた井戸で、これもアブラハムの死後、ペリシテ人によって塞がれていましたが、イサクはそれを再び掘り返しました。するとゲラルの羊飼いたちは、その井戸は自分たちのものだと主張したためにイサクの羊飼いたちの間に言い争いが起こりました。仕方なく、イサクはさらに移動して、もうひとつ別の井戸を掘りました。そこからさらにイサクはべエル・シェバに行き、そこでも新たな井戸を掘りました。
イエス・キリストは「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5:5)と語りましたが、まさにイサクは柔和な者の典型的なモデルです。争うことをせず、人から嫌がらせを受けてもそれに対抗することをしませんでした。一見、損な道を選びとっているように見えますかが、主はそんなイサクを祝福されたのです。このイサクの柔和さは主に対する信頼から来ています。このような者に対抗することは決して得にはなりません。そのことを悟ったアビメレクはイサクのもとを訪れて平和の契約を結びたいと申し出ます。なぜなら、「あなたは主に祝福されています」と言ったように、イサクと争いごとを起こしても何の得にもならないことを悟ったからだけではなく、神がイサクとともにいることを恐れたのです。
3. 主の守りは意外なところから
26章8節の「イサクがそこに滞在して、かなりたったある日、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見おろしていると、なんと、イサクがその妻のリベカを愛撫しているのが見えた。」という箇所に注目したいと思います。「愛撫している」という動詞がなぜピエル態なのかということです。これはイサクが夫婦の中の良さをこれ見よがしにだれかに見せつけている意味での強意形ではありません。自然な夫婦としての愛を交わしている姿です。それを目撃したアビメレクは以前に経験したことを思い出します。それはアブラハムが自分の妻「サラ」を自分の妹だと言ったことで、サラを召し入れたときに、神は夢の中で彼女が夫のある身であり、もし彼女に触れるならば、自分もまた自分に属するすべての者も、必ず死ぬと警告されたことがあったからです。
同じようなことがイサクの時にも起こりました。イサクも自分の妻を妹だと言っていたようです。サラのときもそうでしたが、イサクの妻リベカも美しかったからでした。ところがある日、アビメレクが窓から見下ろしているときに、イサクがリベカを愛撫しているのを見て夫婦だと知ったのでした。そのことを知らずに、もし民のひとりがリベカと寝るようなことがあれば、大変な罪を犯すだけでなく、多くの災いが起こると懸念し、すべての民にリベカに触れるなら必ず殺されると警告したという話です。この出来事によって、予期せず、イサクとその妻は寄留者としての恐れから守られたことになります。主の守りは意外なところからやってくるものです。つまり、身の安全がその地の王によって保障される形となったのです。
4. 最後に、「シャーラハ」שָׁלַחの強意形
最後に取り上げるのは、27節の「追い出す」と29, 31節の「送り出す」という動詞についてです。いずれも「シャーラハ」(שָׁלַח)ですが、これらのことばがなぜピエル態で使われているのかという点です。
動詞「シャーラハ」(שָׁלַח)は、パウル態でもピエル態でも、どちらも「送り出す」という意味で訳されますが、ピエル態の場合には「送り出す」の他に、「追い出す」という意味があるのです。前者は肯定的・積極的な意味合いとなりますが、後者は否定的・消極的な意味合いとなります。聖書ではじめて登場するのは創世記の3章23節で後者の意味で使われています。そこでは「神である主は、人をエデンの園から追い出されたので」とあります。26章27節もそうです。
しかし26章29, 31節は、前者、つまり良い意味で使われています。つまり特別な配慮をもって贈り物を持たせ、丁寧に祝福して「送り出す」という意味で強調形が使われています。例えば、創世記12章20節では、エジプトのパロが部下に命じて、アブハムと妻サライ、そしてロト、それに全財産を護衛付きで「送り出し」ています。こうした例は21章14節、24章59節、28章6節、43章14節などにも見られます。このように、敬意をもって特別な配慮をもって送り出すというのが「シャーラハ」のひとつの意味です。
ちなみに、アブラハムの最後の仕事として、イサクとケトラから生まれた6人の息子たちとの間に距離を取らせました。このときにも、アブラハムはその6人たちを東の方に「送り出し」ています。この「送り出し」も良い意味での「送り出し」です。そしてその最後の仕事は祝福されたと言えます。何の問題も起こっていません。
イサクとアビメレクとの間で交わした契約は、平和裡のうちに、お互いに「送り出す」ような関係であることを願ってのものでした。ちょうど、訪ねてきたアビメレクと契約をかわし、送り出したその日に、掘り進めていた井戸の水が出たことが報告されました。そこでその井戸を「べエル・シェバ」と呼んだようです。しかし、かつてアブラハムがアビメレクと誓いを交わした時に、アブラハムが7頭(「シェバ」)の雌子羊をアビメレクに与えたことで「べエル・シェバ」と呼んでいますので、おそらくここではそれを踏まえながら、「誓いの(誓われた)井戸」という意味でそう呼んだのだと思います。
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