神の祝福の継承
創世記 24章1~67節
+ 24章1節に「アブラハムは年重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。
= 神の祝福を受けたアブラハムの生涯の総括とも言える表現です。「老人になっていた」は原文では完了形の「ザーケーン」(זָקֵן)が使われており、完全に年老いてしまったという意味になりますが、アブラハムはこのあと35年間も生き、その間にもう一人の妻ケトラとの間に6人の息子をもうけています。
アブラハムはあらゆる面で主に祝福されていましたが、もうひとつ、最後の仕事として、自分に与えられた祝福を継承するという仕事が残されていました。それは息子に嫁を迎えることでした。アブラハムの家の全財産を管理させている年寄りのしもべにその任を託します。
+ [創世記24章2~4節] 2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
= 2節の「あなたの手を私のももの下に入れる」とは、当時の誓いの儀式です。創世記47章29節にもヤコブがヨセフに対して誓いを求めている箇所に同様です。「もも」(腿)はヘブル語の「ヤーレーフ」(יָרֵךְ)です。「股関節」「生殖器・恥部」をも意味します。「あなたの手を私のももの下に入れる」とは、誓いを立てる者が誓いを求める男性の生殖器、つまり一族が生まれ出てくる起点となる部分に手を置くことによって、「子々孫々に誓約」したのです。
アブラハムの最年長者のしもべエリエゼルは、そのためにアブラハムの親族のいる生まれ故郷へ(おそらく「ハラン」のこと、「アラム・ナハナイムのナホルの町」とも言う)と旅立ちます。果たして神の祝福を継承していく上で最もふさわしいイサクの嫁が見つかるかどうか、たとえ見つかったとしても、長い旅をしてまでついて来てくれるのかどうか、ただただ神の導きに頼らざるを得ませんでした。
1. 祝福されたアブラハムの生涯
アブラハムは75歳のときに「祝福の担い手」として神に召されてから、神はアブラハムはその担い手にふさわしくなるように彼を導き、その信仰を成長させていきました。アブラハムの生涯は175年ですから、100年間、アブラハムは神によって祝福された生涯を歩んできたことになります。
神が人を「祝福する」という「バーラフ」という動詞は、神が人に対する恩寵を統括するにふさわしい語彙と言えます。なぜなら、まだ「救い」ということばも、「愛」も、「恵み」も、「あわれみ」と言ったことばもまだないずっと遠い昔から使われていた神の恩寵用語は、この「バーラフ」祝福するということばでした。
このことばが創世記ではじめて登場するのは1章22節です。すべての被造物を神は創造されたあとで、それらを祝福して「生めよ。ふえよ。」と仰せられました。また1章29節では、創造の冠として神のかたちに似せて造られ人間(男と女)を造られましたが、神は彼らを祝福して、そして語りかけています。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と。
「祝福する」という動詞を手繰っていくと、神の恩寵がすべての被造物を通して地上に拡大していくことを含んでいました。しかも人間はすべての被造物の頂点的存在としてそれらを支配するという権威をあたえられています。ところが、人間の罪によってその祝福の恩寵はとどめられたために、神はすべてのものを洪水によって滅ぼして、神はノアを通してリセットします。しかし人間の心の中にある罪の力は再び増して神に背く勢力を作っていきます。それを象徴するのが「バベルの塔」でした。神は再びアブラハムを通して、救いのご計画を立てられました。アブラハムは神の救いの祝福の担い手として選ばれたのです。
+ [創世記12章1~3節] 1. その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。2. そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。3. あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
= アブラハムに対する神の召命のことばには、「救い」ということばはひとつもありませんが、「祝福」ということばがたくさん出て来ます。5回も出てきますが、そのうち4回は動詞の「バーラフ」בָּרַךְで、残りのひとつは名詞「ベラーハー」בְּרָכָהです。
驚くべきことに、聖書で神が祝福するという動詞はそのほとんどが強意形のピエル態で使われています。というこは、祝福するという行為は神が自ら強い決断の下になさることだということです。
+ 「バーラフ」בָּרַךְの原義 :
ちなみに「バーラフ」の原義は「ひざまずく、ひれ伏す」です。これがそのまま神に対して使われると、神を「賛美する、感謝する、ほめたたえる」という礼拝用語になります。しかしこの語彙が神から人へ向けられると「祝福する」となりますが、この「祝福する」ということばの中にはさまざまな諸相があります。
この原義からイメージするものは、他者の存在に対する敬意です。日本にも「挨拶する」ということは自ら相手に自分の心を開くことを意味します。腰を下ろして、膝を曲げて(ひざまずいて)、頭を下げて挨拶をするという古来からの美しい風習があります。神に対しても「ひざまずく、ひれ伏す」ことは礼拝そのものを意味しますし、神を祝福することは賛美となります。神が人を祝福するイメージの中に神の信任性と恩寵の拡大性・永遠性をみます。また神の人への歩み寄り、親しさをもイメージさせます。これがヘプル語「バーラフ」が持っているニュアンスです。さらには、そこに「選び」「使命」「導き」「育成」「豊満」「長寿」「平安」「守り」といった人にとっては尊いもの、幸いな事柄が含まれているように思います。このように、「バーラフ」は神の人に対する恩寵の統括用語ということが言えるのではないでしょうか。
神の「祝福」を得ることにおいて、ひどくこだわった人物が聖書の中に出てきます。それはイスラエルと名乗ることになるヤコブです。「私を祝福してくださらなければ、去らせません」と言って夜明けまで格闘したヤコブです。彼は父イサクと祖父アブラハムとも一緒に暮らした時期があります。計算したところによれば、ヤコブが15歳の時にアブラハムは亡くなっています。おそらくヤコブは父イサクとは別のもうひとりのアブラハムの息子であるイシュマエルのことも聞かされていたと思います。つまり、イサクが生まれて乳離れしたあとに、イサクをからかったために、母ハガルとともに追い払われたことを。ヤコブは祝福を受け継ぐ長子の権利のすごさを幼い時から知っていたのかもしれません。青年になって、兄のエサウがその権利をそれほど重要視していないことを見ぬいた彼は、時期到来とばかりに兄を騙してその長子の権利を奪い、イサクから祝福を受けてしまいます。
ヤコブという奴はなんとひどい奴だとお思いでしょうが、聖書はヤコブに対して一切お咎めなしです。むしろ、それを奪われたエサウが非難され、彼が長子の権利というものをどうのように考えていたかということについて記され、エサウのようにならないようにとむしろ警告されているのです。そのあたりのことについては、まだ別の機会に譲りたいと思いますが、一言だけ言うならば、エサウは長子のみに与えられていた神の祝福を軽蔑したのです。それを見下し、くだらないものとしてみなして、それを、一時の満足を得るためのものと取り換えたのです。神の定められた最も尊い永遠の特権よりも、一時的な楽しみの方を重要視し、ゆずってはならないものをゆずってしまったのです。
神からの祝福―私たちはそれをどのように考えているかが重要です。神の祝福は自分だけのものではなく、自分を越えたよりグローバルな、より末広がりの神の恩寵です。しかもそれは永遠につながっていく性格を有しているものです。
24章1節に「アブラハムは年重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とありますが、その祝福はそこで終わってしまうものではなく、アブラハムを越えて次の世代に継承されていくべきものでした。それは、自分に与えられた全財産を息子にゆずるだけでは足りません。イサクが結婚するという単純な問題でもありません。息子イサクにふさわしい嫁を探すことは、信仰の継承、祝福の継承という点において、アブラハムにとってきわめて重要な課題だったのです。
ちなみに、イシュマエルの妻は母ハガルによってエジプトから迎えられています。当時、自分の息子に嫁を迎えることは親の務めだったのかもしれません。イシュマエルからは信仰の継承はなされませんでした。信仰の継承、祝福の継承はイサクに与えられる特権だったのです。
2. 祝福の継承
結論を先に言うならば、この信仰の継承、祝福の継承という点においても実に不思議な神の導きがあったのです。その導きを詳しく記しているのが24章です。
しもべエリエゼルが、自分の主人であるアブラハムの神の導きを感謝して賛美していることばに注目しましょう。
[創世記24:27] 言った。「私の主人アブラハムの神、[主]がほめたたえられますように。[主]は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。[主]はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」
[創世記24:48] そうして私はひざまずき、[主]を礼拝し、私の主人アブラハムの神、[主]を賛美しました。[主]は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。
= 27, 48節の「導く、導かれた」のヘブル語は「ナーハー」(נָחָה)で、初出箇所はここ創世記24章27節です。39回使われています。有名な詩篇23篇3節でも使われています。
[詩篇23篇3節] 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
具体的には、しもべが目的地に着いた町の井戸のところで、「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。」(24:12)と祈ります。その祈りに神は即座に答えて、アブラハムの兄弟ナホルの孫娘のリベカと出会わせました。しもべの話に、リベカの父と兄は即座に、「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。・・リベカを・・連れて行ってください。」(24:50, 51)と応答しました。
しもべは即座に、翌朝リベカを伴って帰ることを願いますが、なんと、これに対してリベカは「はい。まいります。」(「エーレーフ」אֵלֵךְ)と答えます(24:58)。まさにこの姿勢は、アブラハムが行き先を知らずに主の示す地に旅立ったことと似ています。一度も会ったこともなく、顔も見たこともないのに、主の導きと信じて結婚を決断したリベカの姿は、全焼のいけにえとして祭壇の上のたきぎの上に置かれて身をまかせたイサクの姿(霊性)とも似ています。
このように、神は信仰の家族を創造するために、また祝福の継承という使命を担わせるために、最もふさわしい人物をイサクの妻として与えたのです。まさに神の導きは神の祝福のひとつのかたちと言えます。
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