御救いの全貌を見たシメオンの幸い
- ルカ福音書2:21-40 -
シャローム宣教会
[ルカ福音書2;22-35]「22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。23 ―それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。― 24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。27彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
28 すると、シメオンは幼子を腕に 抱き、神をほめたたえて言った。29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。30 私の目があなたの御救いを見たからです。31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
1. 聖霊に導かれたシメオンと幼子イエスとの不思議な出会い
ルカ福音書2:25-35には、きよめの期間が満ちて、エルサレムの神殿に幼子をささげにきたイエスの両親と、聖霊に導かれて宮に入った老人シメオンとが出会ったことが記されています。イエスの両親からみれば、律法の規定に従ってエルサレムへ来たわけですが、その時がいつかわからずにじっと待たされていた人物がいたのです。それが老人シメオンです。
老人シメオンは祭司でもなく、律法学者でもなく、預言者でもなく、ただ一介の敬虔な信徒であったようですが、長い間、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」人でした。しかし、彼の上には「聖霊がとどまって」おり、また彼は「主、キリストを見るまでは、決して死なない」と聖霊のお告げを受けており、彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを抱いた両親と出会ったのです。この出会いはまさに聖霊による不思議な神のご計画であったことは、シメオンが聖霊によって神を賛美した歌の中に隠されています。
その前に、聖霊がこのシメオンにしっかりと寄り添っておられたことに注目したいと思います。
(1)「聖霊が彼の上にとどまっておられた。」(πνεῦμα ἦν ἅγιον ἐπ' αὐτόν.)
彼の前でもなく、彼の横でもなく、彼の「上に」と訳されていますが、「エピ」έπίという前置詞は、接近的な位置を表わすことばでもあるので、「傍らに」とも訳すことができると思います。新共同訳ではただ「聖霊が彼にとどまっていた」と訳しています。現代訳に至っては「聖霊に満たされていた」と訳しています。
前でも、上でも、傍らでも、ともかく非常に接近した位置に聖霊がシメオンにとどまり、聖霊に満たされていたとも言えます。そのような彼が聖霊のお告げを受けていたのです。
(2)「聖霊のお告げを受けていた」(ἦν αὐτῷ κεχρηματισμένον ὑπὸ τοῦ πνεύματος τοῦ ἁγίου)
「お告げを受けていた」と訳されるκεχρηματισμένον「ケクレーマティスメノン」は「クレーマティゾー」χρηματίζωの分詞、現在完了受動態、主格、単数、男性形です。「クレーマゾー」は、「語る」「戒める」「示す」「呼ばれる」「お告げを受ける」と訳されていますが、元来は「商取引をする」という意味です。そこから「陳情に対して応答する」という意味が派生します。つまり、ここではシメオンが神に対してイスラエルの慰めを待ち望みながら、神の御旨を求めて神と「ある種の個人的な取引」をしていたことを連想させます。
取引の中で、神はシメオンに応えて、「あなたは、主、キリストを見るまでは、決して死なない」ということを告げられていたということです。そのことをルカはシメオンが「聖霊のお告げを受けていた」と記しています。神とシメオンとのかかわりの中に、自分の生涯の目的や生きる意味を真剣に神に問いかけて生きてきたシメオンの姿を見ることができるように思います。神はそうしたシメオンに対して聖霊を通して応えてくださったのです。「あなたは、主、キリストを見るまでは、決して死なない」と。
(3)「彼が御霊に感じて宮に入ると」(καὶ ἦλθεν ἐν τῷ πνεύματι εἰς τὸ ἱερόν:)
ἐν τῷ πνεύματι「エン・トゥー・プニューマティ」を新改訳では「御霊に感じて」、新共同訳では「“霊”に導かれて」、エマオ訳では「御霊に捕えられて」、岩波訳では「霊に駆られて」、柳生訳「御霊に導かれるままに」、などと訳されています。前置詞の「エン」ἐνがいかに豊かな意味合いを持っているに驚かされます。
いずれにしても、シメオンが幼子イエスを腕に抱きながら、聖霊によって語った神への賛歌は、当時のユダヤ人にとってとても受け入れられるものではなかったのです。
2. 私の目があなたの御救いを見た
聖霊がとどまり、聖霊に満たされていたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて神を賛美したその賛歌には、両親を「驚かす」ものがありました(2:33)。両親の「驚き」とはなんだったのでしょうか。
[ルカ福音書2:29-32]「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
一見、なんの変哲もないように見える賛歌、しかし実はこの賛歌はユダヤ人にとって想定外の賛歌だったのです。シメオンは幼子のうちに神の救いの全貌を見たのです。もちろん肉眼で見ることはできません。霊によって見たのです。またその全貌を一つひとつ説明する事はできません。シメオンは自分の目で神の救いの全貌を見ることができたので、安心して、死ぬことができると語っています。
シメオンほど最高度の幸いを経験した人はいないかもしれません。イエスの母マリヤも賛歌の中で「これから後、どの時代の人々も、わたしをしあわせ者と思うでしょう。」(ルカ福音書1:48)と語っていますが、シメオンもまた同様の幸いを感じていたはずです。
神の御救いの全貌はまだ成就していません。ですから、シメオンの預言もまだ実現途上にあるのです。シメオンの救いの全貌は、「万民の前に備えられたもの」と語ります。「万民」とは、ユダヤ人も異邦人もということです。異邦人である者にとってありがたい話ですが、神の選民であるユダヤ人にとってはありがたくない話なのです。そのために、シメオンは幼子イエスが「イスラエルの多くの人が倒れ、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められていることを予告しています。」(ルカ福音書2:34)
事実、イエスの救いはユダヤ人のかたくなさのゆえに、まさに「異邦人を照らす啓示の光として」異邦人に向けられていきます。しかし「御民イスラエルの光栄の光」にはまだ至っていません。これが実現するのは、キリストが地上に再臨する前です。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」(マタイ23:39)という時まで、あなだかたは今後決してわたしを見ることはありません。」と主が語られました。
シメオンの賛歌は私たちに壮大な神の救いの計画の枠組みを提供しています。神の御救いの計画の中で今がどういう時代であるかを知ることは、私たちの生き方を主にあって、確かな、安らかな生涯へと導くことでしょう。それゆえに、シメオンのように聖霊によって神の御救いの全貌を垣間見させていただく一人とさせていただきたいと思います。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?