古代ローマ帝国のキリスト教②

                                                               ジェフリー・バラグラフ:図説・キリスト教文化史(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
日本キリスト教団出版局:新共同訳・聖書事典 ほか


  ミラノ勅令によって公認されたキリスト教は、アリウス論争、三位一体論争、キリスト論論争などを経て、東西の教父たちによって次第に教義が整えられていきました。 ローマ皇帝コンスタンティヌスは帝国の統一を確実にするために、325年、ニカイア公会議を召集して教理の統一を図り、アリウス派は異端とされ、381年のコンスタンティノ ポリス公会議では三位一体の教理が確立され、451年のカルケドン公会議ではキリストの両性論を確認しましたが、論争はその後も続きました。 古代末期にはアウグスティヌスが出て、新プラトン主義(*1) とキリスト教思想を統合、多くの著作を残し、その後の西欧の思想の支柱、源泉となりました。
(*1)新プラトン主義:3世紀半ばプロティノスによって基礎づけられたギリシァ哲学最後の学派で、人間霊魂が物質的なものから脱出・上昇して世界の原理である一者(いっしゃ)と
合一できるという神秘哲学、キリスト教、イスラム教などに受け継がれました ローマ帝国内で発展を遂げたキリスト教会ではローマ司教が教皇と呼ばれ、西方の諸教会に対して指導力を発揮、中世のキリスト教世界に絶大な影響を及ぼすようになりま した。                   

 

<ドナトゥス派>
デキウス帝からディオクレティアヌス帝に至る迫害(249~305年)がキリスト教に残した問題の一つは、迫害に屈して一度はキリスト教から離れた棄教者(ラプシ lapsi)の復帰問題でした。
311年、新しいカルタゴ司教の就任に際して、司教フェリクスが叙階(聖職者を職務に就かせる儀式)の秘跡(*2)を行いました。 しかしフェリクスが棄教した経験を持っていたため、この叙階を無 効とする司教たちは、自分たちで別のカルタゴ司教を選任しました が、この反対派グループを率いたのがドナトゥスです。 ドナトゥス派は北アフリカ一帯で多数派となり、教会の純粋性と汚 れた人間の行う秘跡の無効を主張しました。これは執行する人間に 関係なく秘跡が有効であるとする正統派の主張と鋭く対立し、コン スタンティヌス帝が開催したローマ教会会議(313年)では司教フェ リクスの叙階は合法であると認められましたが、ドナトゥス派はこ れに従わず、弾圧をうけました。 4世紀末、正統派に属するアウグスティヌスはヒッポの司教に就任 した際、ヒッポ司教区の多数派はドナトゥス派が占めていました。 アウグスティヌスはドナトゥス派の説得に努めましたが、失敗にお わり、やむなくホノリウス帝の国家権力による教会統一政策を受け 入れ、412年ホノリウス帝の発布した「統一令」によりドナトゥス派は 異端と宣告されました。

 

<古典教義の形成>

330年首都がコンスタンティノポリスに移され、395年帝国が再び東 西に分割されると、キリスト教世界の中心は完全に東方に移行しま した。この時代に教義(古典教義)の制定に決定的な役割を果たした 公会議(ローマ帝国全体から司教<主教>たちが召集される教会会議) も、すべて東ローマ地域で開催され、東ローマ皇帝によって主宰され ました。 キリスト教の古典教義はアリウス論争(下記)、三位一体論争(下記) やネストリオス派(中世のキリスト教参照)などを通して整理されて いきました。その中心となったのはアタナシオスやカッパドキアの 三教父(*3)など東方ギリシァ教父です。教義は公会議の決定を経て 基本信条にまとめられました。 これに対して、キュプリアヌスやアウグスティヌスなど西方のラテ ン教父(*4)は三位一体論やキリスト論については独自の見解を立て ず、公会議の決定に従う一方、実践的・倫理的な問題を中心に、西方教 会の教義を形成しました。キュプリアヌスの教会論やアウグスティ ヌスの恩恵論(人間の救いは、人間の側の努力や功徳ではなく、神の 一方的な恩恵によって与えられとする)や歴史観は中世キリスト教 の神学思想に決定的な影響を与えました。 古典教義の形成に活躍したギリシァ教父やラテン教父は、すべて当 時の知的エリートであり、キリスト教と政治権力の結びつきととも に、キリスト教が社会の上層に進出したことを示しています。 -アリウス派- 聖書の神は父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの位格(知性 と意志を備えた独立の主体)が一つの実体として存在すると考えら れており、これを三位一体といいます。しかし子なる神であるキリス トの神としての性質(神性)を父なる神の本質(ウーシア)とは異なる ものと唱え、父と子はただ「類似本質(ホモイウーシオス)を持つのみ である、という考えが現われました。これがシリアのアンティオキア でキアノスの下に学んだアリウスの主張でした。 318年頃、アリウス説によるキリストの受肉(神の子が人間になった ことを意味する)の否定を危惧した主教アレクサンドロスは、これを 異端として破門しました。 アリウスの破門を機にキリストの神性をめぐって全教会を巻き込 む大論争がおこりました。皇帝コンスタンティヌスによって招集さ れたニカイア公会議では、アリウス説に対するアタナシオスの説(父 と子と聖霊が一つの本性であるという主張)が支持され、父と子は同 一本質(ホモウーシオス)であると宣言されました。 しかしその後も論争は続き、アリウス説とアタナシオス説はそれぞ れ歴代の皇帝の支持、不支持にも左右されて正統と異端の間を往復 しましたが、最終的に381年のコンスタンティノポリス公会議でニカ イア公会議を確認することによって一応の決着をみました。 この論争は、さらにキリストの人としての性質(人性)をめぐって、 キリストの神性と人性の一致を強調するアレクサンドリア学派と、 その区別を強調するアンティオキア学派の論争へと発展、両派はカ ルケドン公会議に至るまで、論争を繰り返しました。

 

-ニカイア公会議-

ニカイア(現在のトルコのイズニク)公会議は325年、皇帝コンスタ ンティヌスによって召集されました。アレクサンドリアで勃発した アリウス論争が、世界的に拡大したため、教会関係者を一同に集めて 、これを収拾しようとしたもので、皇帝は帝国の統一を確実にするた めに、教理の一体化を図ったのです。 この会議には250名以上の主教が参加、その殆どが東方の主教でし た。議事は三派に別れて進行しました。アリウス派はアリウスおよび その支持者。正統派はアレクサンドロス、アタナシオスほか。中間派 の指導的学者はカイサリアのエウセビオスらでした。 まずアリウスが自己弁護を行いましたが議事が紛糾し、提示された 信仰定式のうち、アリウス派のものがすべて却下され、中間派のエウ セビオスの信仰定式を基本定式として取り上げることになりました そしてそのやや漠然とした草案にきわめて明確な「同一本質(ホモ ウーシオス)」という語を挿入し、ニカイア信条が作成されました。 この信条は全会衆の前で朗読され、イエス・キリストは「父なる神の 本質(ウーシア)から生まれた真の神からの真の神、生まれたもので あって造られたものでなく、父なる神と同質」の者であることが宣言 されました。この信条は大多数の参加者によって受け入れられまし たが、アリウス及び彼を支持して署名を拒否した二人のエジプト主 教は、ともに追放されました。 聖書にはない「ホモウーシオス」という用語の採用については、多く の主教が反対しましたが、皇帝の強い主張によって採用が決定され ました。ニカイア公会義の意義は学者によって新しい用語を基本信 条に挿入したことで、神学によって聖書を解釈する道を開いたこと にあるともいわれます。

 

  -三位一体論-

ニカイア公会議の問題は「父」「子」「聖霊」の三位一体のうち「父」と 「子」をめぐる議論で、そこでは「父」と「子」が「同一本質」を持つとい うことが確認されましたが、、今度は「聖霊」をどうとらえるかという 問題と「三」と「一」の関係をめぐる問題が生じました。 サベリオスは神は同時に三位[三つの位格(父・子・聖霊)]ではあり えないとし、神は旧約時代には「父」として、イエスの受肉から昇天ま では「子」として、それ以後は「聖霊」として現われたとする「様態論」 を説きました。これはキリストの同一性を重んずるあまり、父・子・聖 霊の「一」に傾いて「三」の区別を危うくするものとして正統派からは 退けられました。しかし「三」に傾くと三神論になり、「一」を危うくす ることとなり、これを解決したのが、カッパドキアの三教父と呼ばれ る主教たちでした。 図形としては一つである三角形が三つの辺を持つように、彼らは父 ・子・聖霊という三つの位格は、一つの神の三つの側面だとしました。 そしてそれぞれの位格は「父は生まれないもの、子は生まれたもの、 聖霊は父から出たもの」として区別されました。彼らの活躍した381 年のコンスタンティノポリス公会議はサベリオスの様態論を否定し 、アリウス主義を退けました。ニカイア公会議の結論を再確認し、三 位一体の教理を確立、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を宣言 しました。

 

-キリスト論論争-

325年のニカイア公会議では「父」と「子」の「同一本質」が確立され、 キリストの神性が認められました。しかしこの公会議で課題として 残されたキリストの人性と、それに付随する「キリストの神性と人 性の関係」の問題がいわゆるキリスト論論争へとつながっていきま した。 4~5世紀の東方の神学にはアレクサンドリア学派とアンティオキ ア学派という二大潮流があり、前者はキリストの神性と人性の一致 を強調し、後者はその区別を強調し、一連の論争はこの両学派の論争 でもありました。 381年のコンスタンティノポリス会議ではアレクサンドリア学派に 属する主教のアポリナリオスが、キリストの生命原理は「ロゴス(神 の言葉)であり、キリストは「受肉したロゴス」であるとし「肉体」と 「霊魂」と「ロゴス」の三分法を説きました。しかしこれはキリストの 「人性」を霊魂を欠く不完全な「人性」とするものであるとして断罪さ れました。 431年のエフェソス公会議ではアンティオキア学派のネストリオ スが、聖母マリアの呼称を「神の母」でなく、「キリストの母」とすべき と主張し、キリストを「神の子」と「人の子」という二つの位格に分割 したとして断罪されました。 451年のカルケドン公会議では、アレクサンドリア学派のエウテュ ケスがキリストの受肉後は「人性」が「神性」に吸収され、両性の区別 がなくなったとする単性論を主張して追放されました。カルケドン 公会議はキリストの「神性」と「人性」は一つの人格に並存するという 「両性論」を確認して終了しましたが、論争は終結したわけではなく、 「両性論」と「単性論」という二つの立場の対立は、その後も続き、「単 性論」を支持する東方正教会が正統派教会から離脱しました。

 

<アウグスティヌス>

北アフリカのタガステで生まれたアウグスティヌスは、若い頃の思 想的遍歴の後、381年ミラノの修辞学(*5)教師となり、ミラノの司教 アンプロシウスと出会い、その聖書解釈に接し、また新プラトン主義 の創始者プロティノスの思想に触発されて、386年劇的な回心を経て 、33歳のとき、アンプロシウスより洗礼を受けました。その後、修道生 活に入り、37歳で司祭となり、その5年後にはヒッポの司教に任ぜら れました。 アウグスティヌスの思想の核は「恩恵論」「教会論」「歴史観」です。 論敵ペラギウスが人間の意志と自由と責任を強調し、信者に宗教的 道徳性を要求したのに対し、アウグスティヌスは、人間は自分の意志 ではなく、神の絶対的恩恵によってのみ救われるとする「恩恵論」を 展開しました。またその救いをもたらす唯一の機関としてあるのが 教会であるとして、その権威を確立する「教会論」を樹立しました。 さらに主著である『神の国』で展開された「歴史観」によると、歴史 とは「地上の国」と「神の国」との相克にほかならず、言い換えれば「自 己への愛」と「神への愛」との戦いが歴史である、としました。 『告白』『三位一体論』『創世記逐語注解』『ヨハネ伝講解』など 多くの著作は西欧思想の源泉となり、その思想はアンセルムス、トマ ス・アクィナス、ルター、カルヴァンらに引き継がれました。

 

ー原罪ー

原罪説とは、旧約聖書で人間の始祖はアダムとされますが、そのア ダムが犯した罪が子孫である人間全体に帰せられるという説です。 創世記(参考サイト、創世記・原初史)によるとアダムの妻エバの前に蛇 が現われ、神が禁じた「善悪の知識の木の実」を食べるよう誘惑しま す。「それを食べると神のようになる」という蛇の言葉に誘われ、エバ はそれを食べ、アダムにも与えて、ともに神との約束を破りました。 その結果、男女の支配関係、労働の苦しみなどが生じ、大洪水の神話 が象徴するように人間と自然との調和が失われました。 原罪は神と人間とのあるべき正しい関係が失われたことを意味し、 今日までそれが続いているとされます。 原罪の教理はパウロの「ローマへの信徒への手紙」5章12~21節を 根拠として主張されましたが、教理として明確化したのはアウグス ティヌスです。アウグスティヌスは原罪を、アダムから「遺伝された 罪」と理解しました。そしてそれは両親の性交によって遺伝すると考 えました。罪は一種の遺伝因子のようなものとして現実に存在し、そ れが性交という生物学的過程を通して遺伝するとしました。 アウグスティヌスは人間はアダムが犯した罪のゆえに意志的な努 力によっては罪を犯さない「可能性」を持ち得ないと主張しました。

 

アダムとキリスト(ローマの信徒への手紙5章12~21)
このようなわけで一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入りこ んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したから です。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ罪は罪と 認められないわけです。 しかしアダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯 さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは来るべき方を前 もって表す者だったのです。 しかし恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人 が死ぬことになったとすれば、なおさら神の恵みと一人の人イエス・キリス トの恵みの賜物とは多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は罪を犯 した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、 一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多く の罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば 、なおさら神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・ キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで一人の罪によっ てすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、 すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順に よって多くの人が正しい者とされるのです。 律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし罪 が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして罪が 死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたち の主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

<教皇(法王)制>

3世紀初頭から中頃にかけて、ローマ帝国内で著しい発展を遂げたキ リスト教会において、礼拝と信仰の指導者として次第に実権を掌握し ていったのが司教でした。とりわけ有力都市であるローマ、アレクサ ンドリア、アンティオキア、カルタゴ、エフェソスなどの教会と司教の 力は強大でした。特にローマ司教は帝都ローマの地位と歴史を背景に 、他の教会に対する首位権(*7)を持つと主張しました。聖書によって それを理論づける試みもローマ司教カリストゥスによってなされて います。(マタイ伝16章18~19節を根拠に、ローマ司教がペトロの使徒的権威 の正統な継承者であるとしました) 4世紀に始まるキリスト教公認、コンスタンティノポリス遷都、国教 化という流れは、キリスト教が国家に取り込まれつつ、東方に重心を 移していく過程でもありました。ローマ司教権の強化は、これに対抗 する動きでもあり、395年のローマ帝国の東西分裂という政治的弱体 化を機会に活発化していきました。(教会の東西分裂は1054年) ローマ司教シリキウスは最初の教皇令を発し、首位権を行使しよう としました。インノケンティウス1世(在位401~417)の時代になると 、ローマ司教は皇帝に代わって西ローマ帝国の政治、社会の中心にな りました。 そしてレオ1世の時代、ローマ司教の勢威は頂点に達し、コンスタン ティノポリス総主教と対立するまでになりました。 476年、西ローマ帝国の滅亡後、ゲルマン民族との結合を背景に、グ レゴリウス1世などの傑出した教皇が登場するに至り、ローマ教皇は 中世の西方キリスト教世界に、絶大な影響を及ぼすようになりまし た。 http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou16.html