古代ローマ帝国のキリスト教①

                                                               ジェフリー・バラグラフ:図説・キリスト教文化史(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
日本キリスト教団出版局:新共同訳・聖書事典 ほか

原始キリスト教団の衰えとともに、キリスト教はローマ都市部に広がり、ヘレニズム教会を中心として発展しました。 ヘレニズム教会は聖書の正典を選定し、基本信条を定め、組織の強化などにより、原始教会的な状況から脱皮し、古カトリック教会へと成長していきました。 数々の異端思想と戦った教会は、ローマ帝国による激しい迫害を受け、多くの殉教者を出しましたが、信徒の結束は固く、ローマ皇帝コンスタンティヌスは313年ミラノ勅令 により、キリスト教を公認、ローマ帝国はこれを利用して、帝国を再編成しようとし、392年テオドシウス帝の時代、異教崇拝が全面的に禁止され、キリスト教はローマの国教と なりました。

 

<ヘレニズム教会の発展>
ペトロやパウロの殉教、ユダヤ戦争によるエルサレム初代教会の壊滅など、初期の教会を支えた人々や組織が失われてからのキリスト
教は「使徒たちの時代」からヘレニズム教会を中心とした「後継者たの時代」に移ります。
二世紀から三世紀にかけてキリスト教はローマ都市部の幅広い層に急速に広まっていきました。同時に教会の制度も整えられ、使徒の
持つ権威を拠りどころにした「初期カトリシズム」と呼ばれる教会の制度化の動きが進み、古カトリック教会へと発展しました。


 教会内部におこった異端問題(*1)きっかけに、自らの正当性を明 らかにする必要に迫られた教会は聖書の正典(信仰の基準となる教 典)を選定し、信仰の原則を示す基本信条(基本となる信仰の内容)を 定めました。 正典の選定に当たっては、使徒の権威が重んじられ、すでに広まっ ていた諸文書の中から、使徒に関すると見られる文書の目録がつく られ、新約聖書の原型が登場しました。 基本信条の原型は二世紀のローマ教会の洗礼告白文に見られます。 基本信条は異端に対して正統的信仰の立場を明らかにするものと して用いられました。それらはやがて直接十二使徒に由来するとみ なされるようになり、四世紀末には「使徒信条」と呼ばれるようにな ります。 また二世紀には新約聖書に見られる監督(エピスコポス)、長老(プ レスビュテロス)、執事(ディアコノス)という奉仕職が教会の職制に 発展しました。それとともに監督(エピスコポス)を、教会を創設した 使徒たちの後継者とみなす「使徒伝承」(*2)の思想が発生し、司教の 権威が強化されました。 <新約聖書の成立>(詳細はこちら) キリスト教は、教えの拠りどころとなる権威を使徒の文書に求めま した。これにより、口伝に頼ってきたキリスト教の教えは文書による 正典を拠りどころとする宗教になりました。 新約聖書は二十一の手紙を含む二十七の文書からなる書物です。 最も早く執筆されたのは十三巻にのぼるパウロ書簡で、紀元50年代 に執筆された手紙です。ついでユダヤ戦争(66~70年)の前後にマル コ福音書がつくられました。 使徒行伝は使徒の布教記録であり、イエス死後の教会と信者たちの 活動を描いています。 ヨハネ黙示録は教会宛の手紙の様式をとり、この世に対する間近な 神の審判について語りながら、教会を迫害するローマ帝国支配に対 して、真っ向から痛烈な批判を浴びせています。 キリスト教諸派の中で、いち早く正典編纂を目指したのは異端とさ れたマルキオンです。教会による正典編纂の本格化は、このマルキオ ンの活動やグノーシス主義が与えた危機感に触発されたことにより ます。 しかし最終的に新約聖書の二十七の文書がすべてそろうのは、393 年のヒッポ会議(*3)であり、正典目録の発表は397年の第三回カルタ ゴ会議(*4)でした。 <教父の登場> キリストの使徒たちの後の数世代の教会指導者は教父と呼ばれ、正 統的信仰を伝え著し、自らも聖なる生活を生きたと認められた人々 です。 二世紀の代表的な教父はユスティノス、テルトゥリアヌス、エイレナ イオスなどです。彼らは異説を唱える異端を攻撃し、異教世界に向け てキリスト教を弁明するために、文筆活動を行い、護教家(あるいは弁 証家)とも呼ばれ、多神教が主流だったヘレニズム世界に一神教のキ リスト教を浸透させていきました。 「キリスト教哲学者」と呼ばれたユスティノスは[第一弁明][第二弁 明]などを著しました。彼はキリスト教が、プラトンらのギリシャ哲学 と同様の普遍的真理を示しているとして両者の調和に努めました。 北アフリカのカルタゴに生まれ、ローマで法学者となったテルトゥ リアヌスは、ユスティノスとは対照的にキリスト教信仰は合理性を超 えるものであると強調し、哲学との断絶を説きました。 彼のラテン語による多くの文書は教会の教えを形づくるのに重要な 影響を与えました。その著「護教論」は古代キリスト教擁護論の傑作の 一つとされています。 リヨンの司教として活躍したエイレナイオスはグノーシス主義を徹 底的に攻撃し、正統信仰を守ることを生涯の課題としました。彼は最 初の「聖書学者」とも「カトリック神学者」とも言われます。 キリスト教信仰を様々な思想によって表現する試みはクレメンスや オリゲネスなどギリシャ哲学に通じた三世紀のアレクサンドリア学 派の神学者によってさらに体系化されました。 <異教思想と古カトリック教会> -グノーシス主義- 「グノーシス」とはギリシャ語で「知識」「認識」を意味する言葉ですが キリスト教との関係では1~4世紀に正統派教会から異端とされた宗 教思想を指しています。 その起源としてギリシャ哲学、ペルシャ的二元論(*5)、非主流的ユダ ヤ教などがあるとされています。 グノーシス主義の最も基本的な概念は「霊的世界」「物質界」という二 元論です。「物質界」は悪とされ、この世界を創造した旧約聖書の神は、 至高神(最高の神)に敵対する造物主(デミウルゴス)として否定され、 人間は「物質界(肉体)」の牢獄から解放される必要があり、キリストは 無知の中にたたずむ人間によびかけ、それにより人間は、本来自分が 持っている「霊的世界」に対する認識(グノーシス)を持たなければな らないと説いています。 しかしこのような霊肉二元論に立った場合、キリストは生きた人間 としてのナザレのイエスとは全く無関係な霊的存在であるか、せいぜ い神がイエスという仮の形で現われたに過ぎないとされ(仮現論)、正 統派の根幹となるキリストの受肉(*6)や十字架、復活の教理はすべて 否定されることになります。 グノーシスのような異端の脅威に対してキリスト教会は位階的な職 制による組織の強化、基本信条の制定、正典の編纂などを急がねばな らない状況に置かれました。グノーシス主義の影響がキリスト教会を 原始教会的な状況から脱皮させる方向に向かわせたのです。 -マルキオン- 黒海の南岸の町、ポントス州シノペに生まれたマルキオンは裕福な 船主でした。同地の司教であった父親から異端思想のため破門され、 ローマに上ったと伝えられています。 138年頃、ローマ教会に現われて、多額の献金を行い、自説の宣伝を開 始しましたが、ローマ教会内ではその教説が認められず、144年に破門 されると同時に独自の教会を設立し、宣教に乗り出しました。 マルキオンは旧約聖書の「創造神」とイエスによって啓示された「愛 の神」とを厳しく区別し、物質世界の創造者である旧約の神を劣った 神として否定的に評価しました。この点で彼はグノーシス主義の二元 論にたっていますが、神を信ずることによって救われるとするパウロ 主義の枠を離れない点では、グノーシス主義と一線を画したものとい われます。マルキオン派の教会は、西方では3世紀初め、東方では5世紀 頃まで存続しました。 マルキオンは自派教会の組織化と平行して独自の正典を定めました 世界の創造者を神とする旧約聖書を排除し、ルカ福音書とパウロ書 簡に手を加えて、ユダヤ教の要素を取り除き、それを正典とし、「正規 の書」と名づけました。 これは明確な原則に基づいて範囲を確定し、正典編纂を目的として 新約文書を編集したものとしては、キリスト教史上最初の例です。 マルキオンの正典は正統派教会の中にすでに起こりつつあった新約 正典編纂の動きを大いに刺激し、これをきっかけに正統派教会の正典 編纂が急速に進んだと見られています。 -モンタノス派- 二世紀の中頃小アジア(現在のトルコ)のフリギアでモンタノスは、 予言活動を開始し、「天のエルサレム」がフリギアのぺプーザに下り、 世界の終末が起こると予言しました。 モンタノスはパラクレートス(*7)(聖霊)の働きを重視して、自分を 通して聖霊が語ると宣言しました。 モンタノス側近のプリスキラとマクシミラという二人の女予言者も 聖霊がのりうつり、神がかり的な状態で予言したと言われます。 モンタノス派は200年頃にはアフリカまで拡大していましたが、急速 に禁欲主義的傾向を帯びるようになり、再婚の禁止、迫害時の逃亡の 禁止、厳しい断食などを信者に要求しました。アフリカのカルタゴで はテルトゥリアヌスがこの運動に加わって(207年頃)、多くの同調者 を獲得し、フリギアを越えてローマ、ガリア(現在のフランス)一帯に 広がりました。 早くからその聖霊理解に対して、正統派教会から激しい攻撃が浴び せられていましたが、モンタノスの主張した「切迫した終末」が、結局 訪れることもなかったので、熱狂も徐々に後退し、6世紀頃には収束し ました。しかしモンタノス派のこの運動は、組織化、制度化が進行しつ つあった正統派の動きに対して、かって原始キリスト教が持っていた カリスマ(*8)(宗教的活力)を取り戻そうとする情熱の現われとして 理解されます(ハルナック等)。 <ローマ帝国のキリスト教迫害> ユダヤ教から一神教的信仰を継承したキリスト教は、ローマ帝国が 要求した神々への犠牲を捧げる国の祭儀に参加することを、拒みまし た。それは帝国の秩序を乱す危険な宗教とみられ、またユダヤ教から 分離したキリスト教はローマ帝国には、もはや尊敬されませんでした が、ユダヤ教徒以外の多くの異邦人は、ますますキリスト教を信じる ようになり、ローマ帝国にとって不安要因となっていました。 ローマ政府による最初の迫害は64年頃ネロによって行われ、その後 も迫害が続きましたが、信者たちは屈服することなく、帝国における キリスト教は3世紀中頃までには、強力な指導体制をもつ宗教集団に 成長していきました。 こうした中で始まったデキウス帝による迫害は、それまでの局地的 な迫害と異なり、組織的な激しいものとなりました。デキウス帝はロ ーマの神々への崇拝が、国家の盛衰を左右するという古来の考えに基 づいて、250年勅令を布告し、全属州に対して全面的にキリスト教を禁 止し、迫害はこれまでになく厳しいものとなり、教会は数え切れない ほどの殉教者を出しました。 デキウス帝の死により迫害は中断しましたが、ウァリアヌス帝が即 位すると再び始まりました。 257年の教会禁止令や翌年の全教職処 刑令など過酷な禁令が発せられ、教会組織の根絶が企てられました。 このとき教父のキュプリアヌスがカルタゴで殉教するなど、教会の 指導者層からも犠牲者がでました。しかし260年にウァリアヌス帝が 失脚すると、キリスト教徒にも、つかの間の平和が訪れました。 284年に即位したディオクレティアヌス帝は勅令で会堂破壊、聖書の 廃棄、聖職者の逮捕、キリスト教を棄てない者の死刑を命じ、皇帝とロ ーマの神々への礼拝を強制しました。 しかし、このローマ帝国による国家的迫害も結局キリスト教を根絶 できませんでした。やがてキリスト教は313年コンスタンティヌス帝 によって公認され、392年にはテオドシウス帝のもとで国教となった のです。 <キリスト教公認> ディオクレティアヌス帝は専制君主制を導入し、立法・司法・軍事の 最高権力を一手に握りました。また四分統治(帝国を東と西に分け、そ れぞれに正帝、副帝を置く政策)をとり、広大な領土を効率的に収めよ うとしました。 この頃、帝国はキリスト教会に対する態度の選択を迫られていまし た。迫害を生き延び、「帝国内の帝国」とまで呼ばれた独自の組織力を もつようになったキリスト教会を無視できなくなったのです。 その際武力によって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結 び、それを利用するか、この二つの対策のうち前者の迫害対策をとっ たのが東の正帝ディオクレティアヌスで、後者の融和政策をとったの がコンスタンティウス・クロルスとその子のコンスタンティヌス帝で す。 父コンスタンティウスは西の副帝としてライン川前線防衛の任にあ たり、今日のイギリスとフランス地域を統治していました。彼はディ オクレティアヌスのキリスト教迫害に対して、会堂破壊などのジェス チャーを示したものの、積極的な迫害は行わず、キリスト教徒に好意 をもたれていたと言われます。 彼の死後、息子のコンスタンティヌスが、その政策を継ぎ、いよいよ 迫害政策と融和政策の決定的な対決が起こりました。312年10月、帝国 の西半分の覇権をかけたミルウィウス橋の決戦で、コンスタンティヌ スは大勝利をおさめ、翌313年東の正帝リキニウスとともに「ミラノ勅 令」(*9)を発布、実質的にキリスト教を公認、324年にはリキニウスを 破り、ローマ帝国の単独支配を達成しました。 <キリスト教の国教化> 313年のミラノ勅令によって、ローマ帝国の公認宗教となったキリス ト教は帝国の宗教政策の一環に組み込まれることになりました。 コンスタンティヌス帝の宗教政策は「一つの帝国、一つの教会」と表 現されますが、これは一人の独裁的な皇帝の意志によって、帝国を再 編成しそのために特にキリスト教会を利用することを意味しました。 この政策を進めるため、キリスト教徒の集中している東方に新都コ ンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)が建設され、330年に 異教の影響力が強いローマから帝都が移されました。 さらに帝国にふさわしい組織と信仰を持つ、統一された「一つの教 会」を形成するため、対外的には教会の権威を高め、内部的には教会 の統一が図られ、そのため分派や異端は厳しく処罰されました。 また国内は大きな教区に分けられ、それぞれの中心地にある教会の 主教が総主教となりました。まず325年、ローマ、アンティオキア、アレ クサンドリアがニカイア公会議で承認され、さらに381年、コンスタン ティノポリスがコンスタンティノポリス公会議で、451年エルサレム がカルケドン公会議で承認されて五つの総主教区が誕生しました。 こうして教会の組織が帝国の組織とますます似通ったものになり、 両者の一体化が進んでいきました。 その後ローマの伝統宗教を復活しようと試みたユリアヌスのような 皇帝も現われましたが歴代の皇帝は大体キリスト教を支持しました。 そして392年テオドシウス帝の時代に異教が全面的に禁止され、キリ スト教はローマの国教となりました。

 

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou15.html