ハイデルベルク信仰問答 [問1~129]
*Shalom Mission シャローム宣教会:http://shmission.com/xe/shalom_jp
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。 そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。
問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。
答 三つのことです。第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです。
問3 何によってあなたは自分の悲惨さに気づきますか。
答 神の律法によってです。
問4 神の律法はわたしたちに何を求めていますか。
答 それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で次のように要約して教えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。
問6 それでは、神は人をそのように悪い邪悪なものに創造なさったのですか。
答 いいえ。むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。
問7 それでは、人のこのような堕落した性質は何に由来するのですか。
答 わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆罪のうちにはらまれて、生まれてくるのです。
問8 それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
答 そうです。わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。
問9 御自身の律法において人ができないようなことを人に求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。
答 そうではありません。なぜなら、神は人がそれを行えるように、人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、故意の不従順によって自分自身とそのすべての子孫からそれらの賜物を奪い去ったのです。
問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。
答 断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしいさばきによって、この世においても永遠にわたっても罰しようとまさるのです。それは、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と神がお語りになったとおりです。
問11 しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。
答 確かに神はあわれみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。
問12 わたしたちが神のただしいさばきによってこの世と永遠との刑罰に値するのであれば、この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるにはどうすればよいのですか。
答 神は、御自身の義が満足されることを望んでおられます。ですから、わたしたちはそれに対して自分自身によってかあるいは他のものによって、完全な償いをしなければなりません。
問13 しかし、わたしたちは自分自身で償いをすることができるのですか。
答 決してできません。それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています。
問14 しかし、単なる被造物である何かがわたしたちのために償えるのですか。
答 いいえ、できません。なぜなら、第一に、神は人間が犯した罪の罰を他の被造物に加えようとはなさらないからです。第二に、単なる被造物では、罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、かつ他のものをそこから救うことなどできないからです。
問15 それでは、わたしたちはどのような仲保者または救い主を求めるべきなのですか。
答 まことのただしい人間あると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわちまことの神でもあられるお方です。
問16 なぜその方は、まことのただしい人間でなければならないのですか。
答 なぜなら、神の義は罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。
問17 なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。
答 その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ、わたしたちのために義と命を獲得し、再びそれをわたしたちに与えてくださるためです。
問18 それではまことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。
答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。
問19 あなたはこのことを何によって知るのですか。
答 聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し御自身の愛する御子を通してついに成就なさいました。
問20 それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。
答 いいえ、まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。
問21 まことの信仰とは何ですか。
答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことのすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
問22 それでは、キリスト者が信じるべきことは何ですか。
答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。
問23 それはどのようなものですか。
答 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえり、永遠の命を信ず。
問24 これらの箇条はどのように分けられますか。
答 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。
問25 ただ一人の神がおられるだけなのに、なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。
答 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。
問26 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を信じているのですか。
答 天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。
問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。
答 全能かつ現実の、神の御力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。
問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような恵みを受けますか。
答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。
問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。
答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、他の誰かに救いを求めたり、ましてやそれを見出すことなどできないからです。
問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。
答 いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしてもその行いにおいて、彼らは唯一の救済者または救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れて、自分の救いに必要なことのすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。
問31 なぜこの方は「キリスト」すなわち「油注がれた者」と呼ばれるのですか。
答 なぜなら、この方は父なる神かから次のように任職され、聖霊によって油注がれたからです。すなわち、わたしたちの最高の預言者また教師として、わたしたちの救いに関する神の隠された熟慮と御意志とを余すところなくわたしたちに啓示し、わたしたちの唯一の大祭祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを救い、御父の御前でわたしたちのために絶えずとりなし、わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊によってわたしたちを治め、獲得した救いによってわたしたちを守り保ってくださる、ということです。
問32 しかし、なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれているのですか。
答 なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。それは、わたしもまた、この方の御名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心えおもって罪や悪魔と戦い、ついにはこの方と共に全被造物を永遠に支配するためです。
問33 わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。
答 なぜなら、キリストだけが永遠の、本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。
問34 あなたはなぜこの方を「われらの主」と呼ぶのですか。
答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちの罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って、御自身のものとしてくださったからです。
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とはどういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神でありまたあり続けるお方が、聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪は別にしてはあらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。
答 この方がわたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによって、母の胎にいる時からわたしの罪を神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。
答 キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられたのですか。
答 それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした。
問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。
答 あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
問40 なぜキリストは、「死」を苦しまなければならなかったのですか。
答 なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
問41 なぜこの方は、「葬られ」たのですか。
答 それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちがさらに死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。
問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか。
答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです。
問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。
答 それは、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と。
問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということ。
問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。
答 キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、わたしたちのためにそこにいてくださるということです。
問47 それでは、キリストは、約束なさったとおり、世の終わりまでわたしたちと共におられる、というわけではないのですか。
答 キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊において片時もわたしたちから離れておられないのです・
問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもあるというわけではないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。
答 決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合しているのです。
問49 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方が天において御父の面前でわたしたちの弁護者となっておられる、ということ。第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。第三に、この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。
問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。
答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、そこにおいて御自身がキリスト教会の頭であることをお示しになるためであり、この方によって御父は万物を統治なさるからです。
問51 わたしたちの頭であるキリストのこの栄光はわたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方が御自身の聖霊を通して、御自身の部分であるわたしたちのうちに天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。そうして次に、わたしたちをその御力によってすべての敵から守り支えてくださる、ということです。
問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。
答 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった。まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち、天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。
問53 「聖霊」についてあなたは何を信じていますか。
答 第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしたちに与えられたお方であり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。
問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
答 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。
問55 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。
答 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。
問56 「罪のゆるし」について、あなたは何を信じていますか。
答 神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。
問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしもこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。
問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答 わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。
問59 それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか。
答 わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる。ということです。
問60 どのようにしてあなたは、神の御前で義とされるのですか。
答 ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てたとしても神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです。
問61 なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。
答 それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、 わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。
問62 しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。
答 なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。
問63 しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。
答 その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。
問64 この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。
答 いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。
問65 ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。
答 聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。
問66 礼典とは何ですか。
答 それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた封印であって、神は、その執行を通して、福音の約束をよりよくわたしたち理解させ、封印なさるのです。その約束とは、十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、ということです。
問67 それでは、御言葉と礼典というこれらの二つのことは、わたしたちの救いの唯一の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか。
答 そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、わたしたちの救い全体がかかっている、ということだからです。
問68 新約において、キリストはいくつの礼典を制定なさいましたか。
答 二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。
問69 あなたは、聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益となることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時約束なさったことは、わたしたちがわたしの魂の汚れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ。そして、それは、日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです。
問70 キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。
答 それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みよって、神からの赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです。
問71 わたしたちが洗礼の水によるのと同じく、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけるということを、キリストはどこで約束されましたか。
答 洗礼の制定の箇所に、次のように記されています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」、(「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣言を受ける」。)この約束は、聖霊が洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいる箇所でも繰り返されています。
問72 それでは、外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものなのですか。
答 いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。
問73 それではなぜ、聖霊は洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでおられるのですか。
答 神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪がキリストの血と聖霊とによって除き去られるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの神聖な保証としるしを通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。
問74 幼児にも洗礼を授けるべきですか。
答 そうです。なぜなら、彼らも大人と同様に神の契約とその民に属しており、キリストの血による罪の贖いと信仰を生み出される聖霊とが、大人に劣らず彼らにも確約されているからです。それゆえ、彼らもまた、契約のしるしとしての洗礼を通してキリスト教会に接ぎ木され、未信者の子供たちとは区別されるべきです。そのことは、旧約においては割礼を通してなされましたが、新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです。
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ この杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分けられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血をもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答 それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
答 聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。この約束はまた聖パウロによってくりかえされており、そこで彼はこう述べております。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるものでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
問79 それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血が、また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信出せようとしておられるのです。
問80 主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。
答 主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。〔また、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されている、ということです。この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられそこで礼拝されることを望んでおられます。〕しかし、ミサが教えることは、今日も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない、ということです。〕このようにミサは、根本的には、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕
問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。
答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって締め出す責任があります。
問83 鍵の務めとは何ですか。
答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ不信仰者たちには閉ざされるのです。
問84 聖なる福音の説教によって、天国はどのように開かれ閉ざされるのですか。
答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦されるということです。しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。そのような福音の証言によって、神は両者をこの世と来るべき世において裁こうとなさるのです。
問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、度重なる兄弟からの忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは締め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一部として受け入れられるのです。
問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
答 なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって、わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか。
答 決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
問88 人間のまことの悔い改めまたは回心は、いくつのことから成っていますか。
答 二つのことです。すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。
問89 古い人の死滅とは何ですか。
答 心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです。
問90 新しい人の復活とは何ですか。
答 キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに心を打ちこんで生きる、ということです。
問91 しかし、善い行いとはどのようなものですか。
答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。
問92 主の律法とはどのようなものですか。
答 神はこれらすべての言葉を告げられた。第一戒は、わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。第二戒は、あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。第三戒は、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。第四戒は、安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。第五戒は、あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。第六戒は、殺してはならない。第七戒は、姦淫してはならない。第八戒は、盗んではならない。第九戒は、隣人に関して偽証してはならない。第十戒は、隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。
答 二枚の板に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対して、どのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているかを教えています。
問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。
答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。
問95 偶像崇拝とは何ですか。
答 御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。
問96 第二戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない、ということです。
問97 それならば、人はどのようなかたちも造ってはならないのですか。
答 神は決して模造されえないし、またされるべきでもありません。被造物については、それが模造されうるとはいえ、人がそれを崇めたり、またはそれによってこの方を礼拝するために、そのかたちを造ったり所有したりすることを、神は禁じておられるのです。
問98 しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。
答 いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。
問99 第三戒は、何を求めていますか。
答 わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない、ということ。要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。
問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、それをできうる限り阻止したり、禁じたりしようとしない人々にも神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。
答 確かにそのとおりです。なぜなら、神の御名の冒涜ほどこの方が激しくお怒りになる罪はないからです。それゆえ、この方は、それを死をもって罰するようにお命じになりました。
問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。
答 そのとおりです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており旧約と新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです。
問102 聖人や被造物によって誓うことはよいのですか。
答 いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと呼びかけることであり、このような栄光は、いかなる被造物も帰されるものではないからです。
問103 第四戒で、神は何を望んでおられますか。
答 神が望んでおられることは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする、ということ。第二に、生涯のすべての日において、わたしが自分の邪悪な行いを休み、わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです。
問104 第五戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです。
問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。
問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ語っているのではありませんか。
答 神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。
問107 しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
答 いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。
問108 第七戒は、何を求めていますか。
答 すべてみだらなことは神に呪われるということ。それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。
問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は、禁じておられないのですか。
答 わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を、禁じておられるのです。
問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。
答 神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。
問111 それでは、この戒めで、神は何をあなたに命じておられるのですか。
答 わたしが、自分になしうる限り、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対してしても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。
問112 第九戒では、何が求められていますか。
答 わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです。
問113 第十戒では、何が求められていますか。
答 神の戒めのどれか一つでも逆らうようなほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ。かえって、わたしたちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
問114 それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか。
答 いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。
問115 この世においてはだれも十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。
答 第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです。
問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
答 なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけ、だからです。
問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。
答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の貧しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れてくださるという、揺るがない確信を持つことです。それは、神が御言葉においてわたしたちに約束なさったとおりです。
問118 神はわたしたちに、何を求めるようにとお命じになりましたか。
答 霊的または肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中にそれをまとめておられます。
問119 主の祈りとはどのようなものですか。
答 天にましますわれらの父よ。ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日用の糧を今日も与えたまえ。われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をゆるしたまえ。われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。(国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。)
問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して、「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。
答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです。
問121 なぜ「天にまします」と付け加えられているのですか。
答 わたしたちが、神の天上の威厳については何か地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては体と魂に必要なことすべてを期待するためです。
問122 第一の願いは何ですか。
答 「み名をあがめさせたまえ」です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、讃美できるようにさせてください、ということ。第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください、ということです。
問123 第二の願いは何ですか。
答 「み国を来らせたまえ」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられるみ国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによって、わたしたちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください。あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください、ということです。
問124 第三の願いは何ですか。
答 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。すなわち、わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。
問125 第四の願いは何ですか。
答 「『われらの日用の糧をきょうも与えたまえ』です。すなわち、わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物さえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです」。
問126 第五の願いは何ですか。
答 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとくわれらの罪をもゆるしたまえ」です。すなわち、わたしたちのあらゆる過失、さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、わたしたちもまた、あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますから、ということです。
問127 第六の願いは何ですか。
答 「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。すなわち、わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。ですから、どうかあなたの聖霊の力によってわたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊的戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください、ということです。
問128 あなたはこの祈りを、どのように結びますか。
答 「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」というようにです。すなわち、わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、あなたこそわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、またそれがおできになるからであり、そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に讃美されるためなのです。
問129 「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
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