日本近代史における政教分離

大政奉還がなされて明治政府が誕生し、日本の近代史が始まる。ここでは近代の法制史の立場から政教分離に関連する歴史を概説する。


大政奉還の年(1867年慶応3年)神祇官が復興され、明治新政府は祭政一致の国家形成を目指す方針を出した[222]1868年(明治元年)神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立して行政制度において独自の位置を占めた。しかし1871年には神祇省に格下げされて、1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。


これに対して浄土真宗本願寺派の島地黙雷が三条教則批判建白書を提出し(1872年明治5年)、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、結局同5月に大教院は解散することとなる。


1873年1月太陽暦が導入され、1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年(明治15年)には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じ、国家祭祀に専念させることとし、国民的な習俗として一般的な宗教とは区別されることが方向付けられた。このさい内務省通達により神社は宗教ではないとされた(神社非宗教論)


大日本帝国憲法(1889年明治22年)には第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。


昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件(上智大生靖国神社参拝拒否事件)が発生した。これに対してカトリック教会は1936年祖国に対する信者のつとめ』を出し、日本政府の方針にしたがうべきことを表明した。


第二次世界大戦後の1945年GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、現行憲法では政教分離が原則的には実現されている。