近代世界のキリスト教②

 

                                                                             ジェフリー・バラグラフ:図説・キリスト教文化史(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)
日本キリスト教団出版局:新共同訳・聖書事典 ほか

近代合理主義はキリスト教における科学的合理性との調和を目指す理神論を生み、批判精神と実証的な歴史研究にもとづく自由主義神学により聖書や教会史の歴史的・ 批評的研究が進められました。 勢力の拡大を続けるプロテスタント教会に対して、カトリック教会は20世紀になるまで、反近代主義をつらぬき、伝統主義を強化しました。 17世紀の西ヨーロッパの植民地政策とともに、カトリック教会、プロテスタント教会ともに、海外宣教に乗り出していきました。 18世紀末のフランス革命によって誕生した近代国家は「脱キリスト教」の宗教政策を推し進めました。  

 

 

(*1)啓示 人知では知る ことの出来ない 神の神秘や究極 的な真理が、神 によって人間に 示されることで 、聖書は啓示の 書であるといわ れます。 (*2)ガリカニス ム フランスの国 家と教会が宗教 的にはローマ・ カトリック教会 の傘下に留まり つつ、教皇権と は距離を保って 自国の宗教的・ 政治的自律を確 保しようとする 態度と思想。 (*3)ジャンセニ スム 主として恩恵 の問題をめぐり 、アウグスティ ヌスの思想を受 継ぐオランダの 司教やヤンセン の名に由来する 思想で、堕落し た人間性の回復 と、自由への再 生は贖い主であ るキリストの恩 寵によってなさ れることを説き 、その恩恵論を めぐってイエズ ス会と対立しま した。 (*4)ウルトラモ ンタニズム もとの意味は 「山を越えた向 こう側の立場」 で、アルプス山 脈をはさんで対 峙し、独自の運 営を主張するフ ランス、ドイツ、 英国のカトリッ ク教会に対して 、教皇の中央集 権的支配を保持 しようとするロ ーマ教皇の立場 を指します。 (*5)カトリック ・アクション 教会の司教を 信徒の側から助 ける組織的活動 のことで、教皇ピ ウス11世のもと で、世界的組織と なり伝道、慈善、 出版などの事業 を展開しました。 (*5)布教聖省 1622年、全世界 の宣教活動を指 導するために創 設された教皇庁 の行政機関。 教皇グレゴリウ ス15世の命によ り正式に発足、 「プロバカンダ」 とも呼ばれ、1649 年の資料では、26 宣教団と300名以 上の宣教師を指 導。


<近代合理主義とキリスト教>
 近代合理主義は合理的なキリスト教を目指す理神論を生み出しま
した。17~18世紀にかけて理神論はイギリスで盛んになり、フランス
やドイツへその影響を広げました。これはキリスト教の基礎をその
合理性に求め、キリスト教から反理性的、神秘的要素を排除し、科学
的合理性との調和を目指す思想でした。また近代神学の父と言われ
るシュライエルマッハーに始まる自由主義神学が形成されました。
 近代合理主義はまた国家理性による自律した新しい国家をも誕生
させました。
 -理神論-
 啓蒙主義は一切を理性の光に照らして見ようとする立場で、近代合
理主義の一つの流れです。そこでは人間の理性による神の理解が神
の啓示(*1)に優先し、啓示に基礎を置かない宗教「神の干渉なき自然
宗教」が主張されます。理神論はニュートンなどの科学的法則の発見
を背景に、合理的な宗教を目指す啓蒙主義的キリスト教として登場
しました。
 理神論は17世紀初めの思想家エドワード・ハーバードを先駆者とし
てイギリスで盛んになり、フランスやドイツに広まりました。
 哲学者ジョン・ロックは「キリスト教の合理性」でキリスト教の基礎
はその合理性にあるとしました。
 こうした考えはジョン・トーランドの「神秘的ならざるキリスト教」
、理神論の聖書とされるマシュー・ティンダルの「創造の昔からのキ
リスト教」によっても展開されました。
 理神論では神を世界の創造者として認めるものの、ひとたび創造さ
れた世界はそれ自身の法則によって自律しており、歴史において神
の摂理や奇跡が介入する余地はないとされます。こうしてキリスト
教から反理性的神秘的要素が排除され、近代の科学的合理性との調
和が目指されたのです。
 -自由主義神学-
 自由主義神学は「文化神学」とも言われ、シュライエルマハーの神学
が基礎となっています。
 自由主義神学では伝統に縛られず、近代科学の成果もとり入れ、批
判精神と実証的な歴史研究に基づく聖書や教会史の歴史的、批評的
研究が進められ、そこから、のちの「史的イエス」研究も進展しました。
 自由主義神学の第一段階を代表すろのが、テュービンゲン学派の創
立者F.C.パウルです。彼はヘーゲル哲学を新約聖書に適用し、原始
キリスト教史を、ペトロに代表されるユダヤ主義的傾向とパウロに
代表されるギリシア的傾向が対立し、その対立がヨハネ文書におい
て総合されていくという弁証法的過程と解釈しました。 
ヘーゲル哲学と弁証法
ヘーゲル(1770~1831年)は対立を媒介とする思考や存在の運 動・発展の法則として異質なものの突きあわせを通して不断の 統合、発展を生むとする弁証法を定式化しました。弁証法は元 来「対話」を意味しています。
第二段階のA.リッチュルはカント哲学の影響の下にキリスト教を 倫理的実践によって自己の真理性を証明する宗教としました。リッ チュル学派の近代主義的プロテスタント思想はA.ハルナックの「キ リスト教の本質」によって広く知られるようになりました。 第三段階の宗教史学派はリッチュル学派の内部に批判的勢力とし て形成され、キリストを啓示宗教(自然宗教の対語、その教えは人間 がつくったものではなく、すべて神の啓示に基づくものとする)とし て見る前提を捨てて、周辺の宗教的環境との関係からその成立と特 殊性を把握しました。宗教史学派の理論を体系化したE.トレルチは 「キリスト教の絶対性と宗教の歴史」を著しました. -国家理性の神格化- 国家理性の思想によれば、人間の理性と同様に国家にも独自の「理 性」が存在し、国家の制度や法律はすべて神の啓示や神学から独立し たこの「理性」から「社会契約」として生み出され、教会も国益に従属 するものとされます。 この思想はホップスやロックなどのイギリスの思想家によって基 礎づけられ「社会契約説」を唱えたフランスのルソーが最大の提唱 者となりました。

社会契約説
17~18世紀にイギリスやフランスで展開された政治学説で、 自然法思想にもとづき、社会・国家は人民の契約により成立す ると主張します。絶対王政の王権神授説に対抗し、イギリスで は名誉革命の裏づけとなり、フランスではフランス革命に発 展しました。ホップスは、人民はその主権(自然権)を社会秩序 維持のために統治者に全面的に譲渡したとして抵抗権を否定 し、絶対王政を擁護しました。しかしロックは統治者は契約者 (人民)の自然権を保障する限りにおいて正当化されるとしま す。 またルソーは一般意思の行使が主権であり、主権は人民自身 の中にあるとして、悪政に対する革命を肯定しました。 社会契約論はルソーの政治制度に関する著書で「民約論」と も訳されますが、社会(国家)は自由平等な人間同士の契約に よって成立し、法律は人民の一般意思の表現であると説きま した。人民主義と反王政の姿勢に貫かれ、フランス革命に大き な影響を与えました。冒頭の一節は、人権宣言に引用されてい ます。(参考サイト・フランスの啓蒙思想)
「国家理性」はまず絶対君主をその代行者として機能しはじめまし た。 フランス王ルイ14世は政治目的から宗教の統一を企て、少数派の ユグノー派への迫害、ナントの勅令の廃止によってプロテスタント 絶滅政策をとりました。またその一方でカトリック教会に対しても ガリカニスム(ガリア主義)(*2)を提唱して、ローマ教皇の影響力を 最小限に留めるとともに、反主流派のジャンセニスム(*3)を弾圧し ました。 帝政ロシアの近代化を図った皇帝ピョートル1世はロシア正教の 影響から国家権力を独立させるため、首都を宗教色の強いモスクワ からペテルブルグに移しました。 1721年には教会独自の教会会議 制度を廃止し、それに代わる会議を帝国の一機関として発足させま した。 またプロシア王フリードリッヒ2世は、ユダヤ教やイスラム教など に対して寛容な政策をとる一方で、ルター派の教会の独立自治権を 否定し、官僚制の内部に編入しました。 <フランス革命とキリスト教> フランスではブルボン王朝を打破したフランス革命によって議会 制民主主義を基盤とした近代国家が誕生、その宗教政策は「脱キリ スト教化」と表現され、神は祖国であり、賛美歌はラ・マルセイエー ズ(国家)、教理問答書や聖書は人権宣言や憲法でした。また教会の 管理下にあった人間の出生、結婚、死も国家管理に移されました。 フランス革命は当初、国民議会で「人権宣言」が採択され、自由、平 等、博愛などの理想が掲げられて、プロテスタントや一部のカトリ ックからも歓迎されていましたが、次第に国家主義が露骨になり、 特に反カトリック運動の性格を強めていきました。 教会財産は国有化され、修道院も廃止され、「聖職者民事基本法」 によって聖職者は国家管理に移されました。さらに革命の混乱期に は教会を「理性の神殿」とすべく、パリのノートルダムをはじめ、多 くの教会は「聖母マリア」の像に代えて「自由の女神」の像が置かれ、 1793年から数年間は「理性神礼拝」がも行われました。 その後1799年クーデターによって権力を奪取したナポレオンは政 治的支配とその安定のため、革命政府がとった極端な宗教政策を改 め、1801年教皇ピウス7世と政教条約を締結し、カトリック教会を 「大多数のフランス人民の宗教」として公認しました。しかしフラン ス皇帝として戴冠したナポレオンは全ヨーロッパへの覇権拡大を 目指し、神聖ローマ帝国の解体、教皇領の併合と教皇の幽閉、異端尋 問の廃止などの弾圧策を打ち出すようになり、カトリックの復権は ナポレオンの失脚を待たねばなりませんでした。 <カトリック教会の保守化> ヨーロッパ各地でプロテスタント教会と対抗したカトリック教会 は度重なる宗教改革や革命によって後退を余儀なくされました。 また啓蒙主義とフランス革命に見られるような合理主義と国家主 義の台頭を受けて、近代ヨーロッパ文明の発展に影響力を殆ど持ち ませんでした。 さらにトリエント公会議以降は伝統主義路線を選択し、第二ヴァ チカン会議に至るまで、ほぼ一貫して反近代主義の立場にたちまし た。 19世紀、ナポレオンによる幽閉から帰還した教皇ピウス7世はウル トラモンタニズム(*4)を唱え、イエズス会を再興し、異端尋問を復 活させました。またピウス9世以降の歴代教皇は「禁書目録」によっ てカトリック内部の近代主義を弾圧しました。 19世紀から20世紀前半にかけて、カトリック・アクション(*5)とカ トリック文学(ドイツのアイヒェンドルフ、フランスのモーリャッ ク、ベルナノス、イギリスのチェスタトンなどの文学)が保守的カト リシズムの運動を支えました。

カトリシズムとプロテスタンティズム
カトリシズムとはカトリック教会に固有な信仰理解や教会 理解のことですが、宗教改革以降のプロテスタント諸教会が、 聖書のみを絶対的な権威とみなし、個々の信仰者の自由と主 体性を重んじるのに対し、カトリック教会は教会の伝統と権 威を重視し、キリストへの信仰が教会の媒介なしにはあり得 ず、教会という信仰者の共同体の中に現されることを根本的 信仰理解としています。 プロテスタンティズムは人間が神の前で義とされるのは、ひ とえに「信仰のみ」による(信仰義認論)とし、原罪に犯された 人間の本性がそれ自体では救いに達し得ないことを強調する のに対して、カトリシズムは神の普遍的な救済意志を強調し、 神が既に創造の時に、イエス・キリストにおける救いの出来事 を予見して、人間に神の恵みを受諾する能力を与え、その本性 は人間の堕罪によっても損なわれないとします。
この時期に決定された教義も、中世以来の伝統を再確認するものが 殆どでした。1854年に教皇ピウス9世は、イエスの母マリアは、単に処 女としてイエスを懐胎しただけでなく、マリア自身が原罪を持たず に生まれたとする「
無原罪懐胎」の教義を決定しました。 また1869年の第一ヴァチカン公会議では、ローマ教皇が信仰と道徳 について公式に下す決定には誤りがないとする「教皇無謬説」が教義 に定められました。 さらに1950年には、教皇ピウス12世のもとで、イエスの母マリアは 死後、天に上げられたとする「聖母被昇天」の教義が決定されました。 <海外宣教> 西ヨーロッパ諸国の植民地政策とともにカトリック教会、プロテス タント教会とも海外宣教に乗り出していきました。 -カトリックの海外宣教- トリエント公会議以後のカトリック教会はプロテスタント勢力に 対抗しながら、海外宣教を模索していました。15~16世紀の大航海時 代を経て17世紀になると、西ヨーロッパの勢力は植民地政策によっ て世界中に拡大し、それにともないカトリック教会も世界中に布教 活動を展開しました。 まず16世紀のスペインとポルトガルの海外進出によってカトリッ ク教会はブラジル、メキシコ、ペルー、北米、フィリッピン、日本など で布教の成果をあげました。17世紀には世界布教は教会の一大方針 となり、1622年布教聖省(*6)が教皇庁に設けられました。 また教皇ウルバヌス8世は海外宣教師養成を目的として、1627年ロ ーマにウルバノ大学を設立しました。 -プロテスタントの海外宣教- プロテスタント教会の海外宣教は17世紀に始まります。その背景に は海上の覇権をにぎったイギリスによる北米への移民や、オランダ の東南アジアへの進出がありました。特に1620年のメイフラワー号 でのピューリタンのアメリカ移住は新大陸におけるプロテスタント の発展に重大な意義をもちました。 プロテスタントによる海外宣教は敬虔主義によるものでした。特に モラヴィア兄弟団は、アメリカ、西インド、グリーンランドなどでプ ロテスタント教会では始めての組織的な宣教を行いました。 1800年前後にはメソジスト教会などのプロテスタント教会に東洋、 アメリカ、アフリカを対象とした宣教機関が数多く設立されました。 19世紀後半には北米のプロテスタント教会自身が、海外宣教を開始 し、20世紀初めには質量ともにヨーロッパを凌ぐものとなりました。

 

 

http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou22.html