キリストのみわざ 

 


序論


 


 わたしたちは、創造されたものとしての人間は、神との人格的な関係において、また、果たすべき契約的働き(covenant functions)との関係における契約的被造物(a covenant creature)であるという事実を考察してきた。これらの働きは、神の下での人間の職務(his office)を構成する。それらは三重(three -fold)である、すなわち、預言者的職務、祭司的職務、王的職務である。フクセマ(Hoeksema)は、これらの三つの働きは一つの基本的な職務(one basic office)を構成すると指摘する。「それらのすべてを貫く一つの根本的な思想がある。三つのすべての基礎にある一つの理念がある。そして、この根本的な概念を、わたしたちは、簡単に、職務によって、意味されることは、神との関係において僕-王の立場を(the position of servant-king)を語ることによって表わせる。わたしたちは、また同じ理念を、目に見える世界において、目に見えない神についての公的な代表(the official representative)としての職務の担い手(an office-bearer)として描くことにより、表わすのである。もっと十分に定義するならば、職務によって、人間が神の名において働くことに権威づけられ、資格づけられる、また神の契約と御国のために、神に仕え、神の下で支配することに権威づけられ、資格づけられていることが意味されるのである」(Hoeksema,ReformedDogmatics,op.cit.p.363頁)。


 こうして、この職務に対して二つの面がある。一方においては、人間は主の僕であり、他方においては、彼は他の被造物を支配することである。「人間の意志による生活の観点からは、彼は祭司であり、世界との彼の積極的な観点からは、神の下での王であった」(Ibid.p.364)。罪によって、人間は反逆者となり、悪魔の職務の担い手(the office-bearer of the devil)となった。「人間は悪魔の友人-僕(the friend-servant of the devil )、罪の奴隷となった。そのようなものとして、人間は悪魔の預言者であったし、嘘を愛した。人間は悪魔の祭司であったし、罪と不義の奉仕へと神に反する敵意に自分自身を献げた。また、人間はサタンの下での王であり、サタンは人間を通してこの世の君であった」(Idem.)


 もし、神がこの傾向を逆転させるならば、神はこのすべての型(this whole patterns)を逆転させねばならない。これがまさに創世紀3:15の女の子孫において約束された(in the Seed promise)ところのことであり、そこでは、神御自身がサタンと人類の間に導入するであろうところの敵意をサタンに語っている。このことを生じさせるために、彼らの適切な働きにおける三つの職務の更新(a renewal of the three offices)があらねばならない。こうして、人間が踏み外した三つの職務をキリストが、果たすのが見い出されるのがそれである。そうすることにおいて、キリストは、贖った人々を本来の職務に再び回復したのである。わたしたちは、これらの三つの分けられた働きの下にキリストのみわざを考察しよう。


 


 


 


 


1. 預言者としてのキリスト


 


A.  預言者の聖書的な概念


 


預言者を意味するヘブライ語のנביא:nabi:ナービーは、「沸騰する」(boil forth)を意味するנבא:naba:ナーバーから来ている。受身形において、この言葉は「神的影響の下に語る」を意味する。その動詞の受け身形は、預言者は神の霊感によって語るように動かされたところの者であることを示唆するために使われる。彼は、こうして、神の公的な大使あるいは使者なのである。これが、出エジプト7:1において描かれた用語の意味である。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる』」。この関連において、出エジプト4:16も考察せよ、そこでは、アロンについて言われている。「彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる」。エレミヤは神の口として描かれている。「それに対して、主はこう言われた。『あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ』」(エレミヤ15:19)。再び、預言者についての彼の記述において、神は言われた、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」(申命記18:18-19)。預言者は、こうして、神の公的な代弁者(the official spokesman)であった。しかしながら、預言者と教師との間には区別がなされた。預言者は霊感によって神から直接使信を受けた。他方、教師はそのようには霊感されなかった。こうして、今日の奉仕者(the minister today)は、御言葉を教えることにおいて預言者的な働きを遂行しているが、とはいえ、言葉の専門的な意味においては預言者ではない。神の言葉の全体が霊感によって与えられたので、神の言葉の全体が性格において預言者的と呼ばれよう。将来についての予言(the prediction)は、預言者的な働きの付随的な局面に過ぎないのである。


申命記18:15以下において、預言者の職務の一般的な記述がある。この章句はその強調において二重である。一方においては、来るべきところの唯一人の預言者、すなわち、メシア(使徒言行録3:23)に言及している。他方においては、その全体の職務(the whole office)への言及があり、また、偽りの預言者の可能性が生じることにも言及している。真の預言者たちと真の預言者(the true prophets and the true Prophet)に関する使信は、彼らが神の真の代弁者であることのそれである。こうして、それは、イエスが御自身について言うところのことなのである。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」(ヨハネ14:24)。ルカは、キリストに従う人々は彼を預言者と考えた事実を記録している。「イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした』」(ルカ24:19)。


 


B.  キリストは、如何にして預言者の職務を遂行するか


 


1.  キリストはロゴス(the Logos)である


 


キリストの預言者的な働きの基礎は、彼が聖書においてわたしたちに対する永遠のロゴス(the eternal Logos)として啓示されているという事実である(ヨハネ1:1)。そのようなものとして、彼は、神のまさに性質の啓示者なのである。彼は真理である(ヨハネ14:6)。彼は世の光である(ヨハネ8:12)。彼は神の知恵である(コリント一1:24、30)。


 


2.キリストは、旧約聖書の付与者(the Giver of the Old Testament)である


 


 ペトロ一1:10-11において、わたしたちは、旧約聖書を与えたのは、キリストの霊であったことが特別に語られている。「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」。旧約聖書の著者たちのこの霊感することに加えて、彼は旧約時代の聖徒たちに御自身を現わしたのであり、こうして、神の真理を人々に啓示したのである。


 


3.キリストは、受肉において預言者である


 


 この地上にいる間、イエスは預言者と見られていた。彼が来たことの目的は、職務的な意味においてだけでなく、預言者的で教育的な条件においても(also in prophetic and didactic terms)来たことを考察することは興味深い。ルカ4章において、わたしたちは、メシアについてのイザヤの記述をイエスが読むことの説明を持つ。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)。イエスはこの章句を御自身に当てはめた。再び、ピラトの前での裁判のとき、彼は御自身が世に来たのは、預言者的な条件においてであることを描いた。「また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」(ヨハネ18:37)。彼が世に留まることは、彼の教える奉仕によってしるしづけられるのである。


 


4.この職務の継続


 


 彼が離れる前に、彼は聖霊を弟子たちに遣わすことを約束した。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ16:13)。こうして、彼は、今や、天に戻られてさえも、わたしたちは、キリストが預言者的職務を果たし続けることを見るのである。教会は、彼がわたしたちに与えたところのすべてのことを教え続けるべき使命を、彼によって与えられたのである。こうして、最初から、謙卑の状態においても高挙の状態の両方において、また、肉において来る前も来た後も両方において、わたしたちの救いのために神の御心を御言葉と御霊によってわたしたちに啓示することにおいて、キリストは預言者の職務を行うのである(C.Hodge,SystematicTheology,op.cit.Vol.Ⅱ.p.463)。


 「彼は、神の言葉を誤りなく語るだけではなく、彼御自身が人格的な言葉(the Personal Word)なのである。彼は真理を語るだけでなく-彼が「真理」(THE TRUTH)なのである。「真理」(the Truth)は、予備的で、相対的で、派生的なところのすべてと対照的である。彼は、真理の受肉した体現であり、また、それゆえ、彼は絶対的で究極的な真理(TRUTH absolute and ultimate)なのである。そのように、彼は預言者の単なる概念を超越するのである。何故なら、彼は彼がユニークにまた超越的である神の御子であるところの預言者的職務の御自身の遂行を担うのである。イエスが、世に来たことの御自身の目的を特別に贖罪の言葉で(in specificallyredemptive terms)まさに定義するように、人の子(The Son of Man)は―御自身の命を多くの人のための贖いとして与えるために来たのであり―また、預言者的条件における御自身の使命の贖罪的な目的を特別に定義することができるのであり、彼はこのことを彼が明らかに超越的な『存在』(he distinctly and transcendently IS)であるところの言葉において(in terms)このことを行うのである」(John Murray,Unpublished Class Notes)。


 


Ⅱ.祭司としてのキリスト


 


A.  祭司についての聖書的な理念


 


ヘブライ5章は、祭司についての基本的な聖書的理念の記述を与える。彼は神に関する事柄において、他の人々のために行為するために任命された者でなければならない。彼は、罪のために、賜物(gifts)と犠牲を献げるために特別に任命される。このことは、神との和解(reconciling God)、また、罪の償い(expiation)、最終的には、人々と彼らの供えものを神へ献げることの必要性を示唆する。さらに、彼は、民のために執り成しの責任がある。ヘブライ人への手紙は、これらの点のすべてにおいて、キリストが真の祭司であることに要点がある。また、彼がアロンの秩序よりも高い秩序の祭司であることに要点がある。


 


 


 


B.  キリストは、わたしたちの祭司である


 


 祭司についての概念を描いた後で、著者は、それからヘブライ人たちに言う。「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、/『あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」(ヘブライ5:5-6)。ここに、わたしたちは、キリストは神に選ばれ、神によってその職務に任命されたことの明らかな断言を見る。旧約聖書からの最初の引用は、詩編2編の引用であり、そこでは御子の油注ぎが提示されているが、他方、詩編の110編への第二の言及は、それは、彼が油注がれたところの特別な職務は祭司職として描かれている。


 アロンの秩序の代わりにメルキゼデクの秩序の祭司に倣っての任命への言及に注目することは興味深い。両方の秩序は真に祭司の秩序である。両方とも、キリストの祭司の型(types)であった。しかしながら、アロン的なものは、メルキゼデク的なものよりも低い。ヘブライ7章は、二つの間のある違いを示している。最初に注目すべきは、メルキゼデクはまさに祭司以上のものであったという事実である。


彼は王、サレムの王であり、また、彼の名は「義の王」(king of righteousness)であった。換言すれば、メルキゼデクは、王的な祭司職(a royal priesthood)を表し、他方、アロンはレビの部族出身であり、王的な職務を遂行することが禁止されていた。アロン的な祭司職は、キリストの職務の一つの局面の前触れ(a foreshadowing)であるが、しかし、二つの職務を含んでいるメルキゼデクの王的な祭司職がより十分な型(much fuller type)なのである。さらに、ヘブライ7:3、7-10に示されているように、アロン的な祭司職はレビとアロンの子孫に依存しているが、他方、それを証明するための系統への言及なしに、メルキゼデクはいと高き神の祭司であったことが単に言われている。このことは、メルキゼデクが、人間存在以上であったことを言うことではなく、彼の祭司的職務は、系統によって消え去っていくものではないそのような性質のものであることを示唆しているのである。換言すれば、彼の祭司職は、家族への言及なしに、神への彼のユニークな奉仕の故であった。それはキリストにもそうであった。それはユニークな任命であった。アロン的な祭司職の任命は、律法の下で真実な任命であったが、しかし、それは一時的な性格であった。このことは、それがレビの家族において人から人へと移行していくまさにその事実によって証言されたのである(ヘブライ7:23)。他方、メルキゼデクの秩序によるキリストの祭司職は、誓いをもってなされてもので、律法によってではなかったし、それは、何一つ完全にしなかったのである(ヘブライ7:17-20、28)。さらに、アロン的な祭司職は、彼らの職務を行う前に罪からの個人的な清めを必要としたところの罪深い人々を持つことによってしるしづけられたのである。他方、キリストは罪深い性質にそのように制限されなかったのである。


 ウェストミンスター小教理問答は、神の義を満足させるために、また、わたしたちのために絶えず取り成しをするために、彼が一度限りに御自身を献げることとして、キリストの祭司的な働きを描くのである。このことは、わたしたちが贖い(the atonement)と呼ぶところのみわざの記述と一致するのである。それは、わたしたちが、この章の別の部分を贖いのこの主題に献げることが適切なのである。


C.  贖い(the  Atonement)


 


1. 贖いについての誤った種々の理論


 


 わたしたちが、贖いについての聖書的な教えについて吟味する前に、キリストの死を説明するために示唆されてきたところの種々の誤った理論を簡潔に一覧表にすることは適切である。フクセマ(Hoeksema)が示唆しているように、それらは、現実には、贖いについての理論と呼ばれるべきものではない。キリストは、彼の死によって、御自身の命を真理のために喜んで与えようとしたことにおいて、人々にと


っての模範を置いた。あるいは、キリストは、わたしたちに、御自身の死によって真の愛を示し、彼の模範にわたしたちも従うように呼びかける。償いあるいは満足の理念がこの理論には含まれていない。この理論は、幾つかの問題点において定罪されるべきである。最初に、それは聖書が人間を罪人として、神による定罪の下にあるものとして提示しているという事実を考慮に入れていない。人間は、神の前に有罪であり、また、神の義が十分の満足させられることなしには、この罪責(this guilt)からの救いはあり得ない。第2に、それは、愛のどの模範に応答するのにも、罪人の堕落と不可能性を否定するのである。聖書は、彼らがキリストの愛の偉大な模範を見るとき、キリストを嘲ることは、罪人の心における彼の死の結果(his death in the heart of sinners)であり、これらの人々の道徳的な改良ではないことを示している。最後に、この理論は、キリストの死は、罪に死んでいたわたしたちが彼にあって、神の義とされるために、罪の償いであり、贖いの犠牲であり、わたしたちの罪を担うという趣旨で、聖書の直接的な教えを考慮することに失敗しているのである。


 


b.統治的理論(the Governmental Theory)


 


この理論は、オランダのアルミニアン論争の間のグロチウス(Grotius)によって提示された理論である。彼は、神の道徳的な統治は神により維持されなければならない。神は、罪人を罰する御自身の権利を証明しなければならない。それは、神の義の満足ではなく、罪に対する神の不興を示すことである。神の憐れみと恵みは、人間が罪を犯すことを赦し、また、何の満足なしにその負債を帳消しにするが、しかし、神は人間が罪を犯すことを勇気づけないようにするため、神は罪に対する御自身の怒りをキリストの死において証明するのである。この理論は、道徳的影響力の見解よりも正統であるが、しかし、キリストの死の理念がわたしたちの代表であることを教えていることで失敗している。キリストの死は、罪に対する神の怒りの最も恐るべき証明であったが、しかし、それはその怒りの単なる示しではないのである。むしろ、キリストは、聖書においては、わたしたちの罪を負うことにおいて表わされ、また、こうして、怒りと呪いの下に、わたしたちの代わりに置かれたのである。如何に他のように、彼が罪人の罰を受け得ても、彼は罪を知らないのである。実際に、正しい人を不義な人のために苦しめることは、義と正義を示すことではなく、最もひどい不正である。さらに、罪に対する神の不興のこの種の証明は、わたしたちの罪の罪責を扱うことに失敗している。そのような罪責は神の義の満足によってのみ除かれるのである。


 


c.神秘的理論(the Mystical Theory)


 


キリストのみわざについてのこの見解は、血による犠牲(a blood sacrifice)の必要性を否定する。罪は、罪責を負うものと見られるが、しかし、道徳的な弱さあるいは道徳的な病いと見られる。その力からの解放は、キリストの受肉によって、また、彼の死によって実効化される。ここで特別に強調されるのは、神的なものと人間的なものの結合である。そのようなものとして、この見解は、強い汎神論的傾向を持つ。それは、中世のスコトウス・エリウゲナ(Scotus Erigena)と宗教改革のときのオジアンダー(Osiander)とシュヴェンクフェルト(Schwenckfeld)によって主張された。シュライエルマッハー(Schleiermacher)学派も宗教改革以後主張してきた。この見解には、信者がキリストと共に持つところの神秘的な結合の理念における真理の要素がある。聖書は、わたしたちがキリストと共に死んだことを教えるし、また、彼と共によみがえり、彼と共に天上的な場所を持つことを教えている。罪の支配は、彼の死によって破られた。しかしながら、わたしたちを支配していた罪の力のこの敗れは、わたしたちの義認の根拠として、十字架におけるキリストのみわざの実として見られる。聖書は、キリストの身代わりの犠牲が、わたしたちの義認の根拠としての神の義を満足させることを提示している。それゆえ、わたしたちは、キリストとの神秘的結合におけるわたしたちの満足に参与するのである。


 


d.(the Ransom theory)


 


 (身代金理論は、それが主張されているように、この時点においては批判されている。身代金理論に関する正しい聖書的教えは、後に詳しく扱われる)


 


 簡潔に述べれば、身代金理論は十字架においてキリストによって支払われた代価はサタンに支払われたところの代価であったと主張する。この理論は、初期の教会教父たちのある者たちによって主張され、また、異なった方法で表明された。最初のものは、サタンの権利を戦いの権利(the rights of war)と見ることであり、そこにおいて征服された人々が征服者の奴隷(the slaves of the conqueror)となるのである。サタンは、アダムを征服したゆえに、彼はアダムとアダムの子孫の正当な所有者となった。キリストは、これらの奴隷たちを自由にするために身代金を払ったものと見られる。キリストは、身代金を払っただけでなく、死者からのよみがえりによって、サタンの束縛を御自身において破壊したのである。


 この教理の第2の形態は、彼に払った代価の理念以上に、キリストによるサタンの征服を強調した。サタンは、最初は、アダムに対して勝利したが、しかし、キリストが来て、サタンを打ち破り、また、こうして、人々をサタンから救い出したのである。


 この教理の第3の形態は、人間を支配するサタンの力を罪に閉じ込めるものと見たことである。サタンは、キリストの死をもたらしたことにおいて、遠くに行ってしまい、また、こうして、人間を支配するサタンの権威を失ったのである。


 これらの見解のすべては、キリストが神にではなく、サタンに代価を支払ったという理念を共通に持つ。それは、多くの神学者たちによって主張された。アイレイナイオス(Irenaeus)、オリゲネス(Origen)、テオドルス(Theodoret)、バージル(Basil)、エルサレムのキュリル(Cril of Jerusalem)、アウグスチヌス(Augustinus)、ヒエロニムス(Jerome)、ヒラリー(Hilary)、レオ大帝(Leo the Great)、その他である。チャールズ・ホッジは言う。「人々はサタンの捕らわれ人であり、彼の支配下にいたことは真実である。キリストが御自身を身代金として与えたことも真実である。また、その身代金の支払いによって、わたしたちは、暗闇の君の束縛から自由にされたことも真実である。しかし、身代金がサタンに支払われたこと、あるいは、サタンが、人々を支配する自分の権威への何かの権利を持っていたことは、事実ではないのである」(C.Hodge,op.cit.p.565)。


 


2. 贖いについての聖書的な見解-満足説


 


 十字架のキリストのみわざは、誤った種々の理論のよき局面を抱くだけでなく、より重要に、それは聖書自身と一致する。それは、最初に、カンタベリーの大司教アンセルムス(Anselm:1093-1109)によって、彼の書の「神は如何にして人となったか」(Cur Deus Homo?)において表明された。これは、プロテスタント信条において主張されてきたところの見解である。


 


a.  贖いの源


 


わたしたちが、贖いの理念についての聖書的な表明を吟味し始めるとき、その源と必要性についてそれが教えるところのことを見ることは、最初に適切である。わたしたちの救いの源泉は神の主権的な愛において見い出されることは、ヨハネ3:16のような章句から明らかである。わたしたちが、神の愛について語るとき、神の性質とその性質の神の遂行の間に区別がなされることが考察されるべきである。神は愛である。彼は、本質において愛である。この本質的な性格は三位一体内において現わされている。それが、神御自身の存在の外側にあるところのものへの愛の神の愛の行為の方向に来るとき、わたしたちは、神の聖定の下に、神の主権的な御旨のよしとするところの下に(under his sovereign good pleasure)来るものと直面するのである。換言すれば、三位一体内の愛は、神の必然的存在の部分であるが、しかし、神は、神の内的な存在を超える(beyond his inner being)愛の遂行においては、主権的なのであると、わたしたちは言うのである。神が、御自身の愛を地獄に値する罪人たちに愛を置くことは、神の主権的な御旨のよしとするところ(his sovereign good pleasure)なのである。


贖いの源としての神の愛の主題を離れる前に、わたしたちは、聖書においては、神の愛に関して見い出される区別があるという事実を考察すべきである。最初に、すべての人に一般的に来るところの神のいつくしみ(his goodness)の源である区別のない神の愛(the non-differing love of God)がある(マタイ5:45-48)。その中において、キリストの到来はすべての人に恩恵(benefits)をもたらし、また、贖いそれ自身もある一時的な恩恵(certain temporal benefits)を選民でない人々(the non-elect)にももたらすが、わたしたちは、神のこの一般的な愛-親切が贖いの源であるその愛にも含まれることを見るのである。しかしながら、それは聖書が分離していく愛(a differentiating love)について語っていることが考察されねばならず、それはある者たちの選びにおいて永遠の命になるものである。そのような分離していく愛(a differentiating love)は、エフェソ1:4-5で見白にみられる。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。ここに、わたしたちは、主権的な選びが断言されているのを見る。この選びを動機づけて、生かしていく原因が愛なのである。わたしたちは、この愛に予定それ自身の適用以上により広い含蓄を与えることはできない。こうして、わたしたちは、ここに分離していく愛(a differentiating love)の例を持つのである。それは、特別な目的へ予定するところの愛なのである。


この理念は再びエフェソ2:4-5において示唆される。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」。愛は、ここでは、死ぬことにおけるキリストの実際のみわざの背後における、また、わたしたちが死から命に移されることにおける動機づける力なのである。この愛は、再び選民に限られる。ローマ8:31-39もこれを語る。ここで、贖いは32節における言及に明らかに言及している。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。分離(the differentiation)は、ローマ8:29と33の文脈において明らかである。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」。


ヨハネ3:16のような章句は、選びの愛の性格を否定していない。この節における「世」(world)という言葉を、その概念をここで制限するために、わたしたちが選民の世界として解釈する必要はないのである。むしろ、この章句の真の趣旨は、「何を」(What)を神が愛したかであって、「如何に多くを」(How many)ではないのである。すなわち、それは腐敗した世である。ここでの基本的な理念は、神の愛の性格であり、神に御自身の独り子を与えるように動かしたところの愛の資質なのである。愛の分離していく性格は、ここでも主要な思想ではなく、むしろ、神が御子を遣わすように動かすところの愛の資質の偉大さなのである。


わたしたちが、キリストの贖いのみわざを考えるとき、わたしたちは、その背後の動かしていく力であるところのまさに全世界に向かう神の無分離の愛-親切(the undiffering loving-kindness)ではなくて、むしろ、それは、神御自身の御子のかたちへの一致のために罪人を子とすることへの予定に結果するところの分離していく愛なのである。


 


b.  贖いの必要性


 


もし、それゆえ、神の愛が贖いの測り知れない源であるならば、わたしたちは、問わなければならない。何故、神の愛は、贖いにおける実現にその方法を取るのかと。贖いの必要性は何か。何故、栄光の主の血は流されねばならないのか。アンセルムス(Anselm)は、この古典的な形態において疑問を述べた。「というのは、何の必要性が、また、何の理由で、神はそうしたのか。何故なら、神は全能なのに、その回復のために、御自身に謙孫と人間の弱さを取ったのか」。


神は、彼の愛をわたしたちに、彼の力のあるみわざを通して行使することができなかったのか。何故、神は、人間を力ある命令の布告によって、贖うことをしなかったのか。もし、わたしたちが、彼はそれを望まかったと言うならば、わたしたちは神の知恵を制限するのではないか。わたしたちが、神の超越性とわたしたち自身の被造物性を見るとき、そのとき、永遠なるお方は、被造物の一時的な資質を取ったのか。また、何故、神は、人間のように、死なねばならなかったのか。何故、神の御子は死んだのか。さらに、神の御子は十字架の恥の死で死んだのか。4つの基本的な答えがこれらの疑問に対して与えられる。


 


(1)それは必要がなかった


 


ソシニウス派の見解、また、今日、リベラルで近代的主義的なサークルにおいて、通常、主張されているところの見解は、贖いは必要がなかったという見解である。神は恵み深く、憐み深い神として、何の代価をなしに、あるいは、満足が支払われることなしに赦すことができる。もし、赦しが、恵み深いのであれば、満足が要求され得ない。そのような見解は、神の恵み深さの真の性質を見ることに失敗している。というのは、福音は、わたしたちによき知らせを与え、神は恵み深く、わたしたちの罪のための罰を引き受け、また、御自身がそれを払ってくださったのである。


 


(2)先行する絶対的な必要性


 


この見解は、神学の歴史において明らかには採択されなかったが、しかし、それはいろいろな神学者たちにおいて暗黙の内に見い出される。この見解の理念は、神は、御自身の栄光を保持するため、失われた人類を救わねばならなかった。神は、御自身の手の業が完全に滅びることを赦すことができなかった。神は、こうして、人間を救う義務の下にあったし、また、御自身の義と一致する方法で彼らを贖う務の下にあった。そのような贖いは、神でもあり人間でもあるお方によってのみ遂行され得る。この教理は、アタナシウス(Athanasius)、アンセルムス(Anselm)、A.H.ストロング(A.H.Strong)において表明を見い出す。


 


(3)仮説的必要性(hypothetical necessity)


 


 これは、教会史におけるよき多くの神学者たちによって主張された見解である。たとえば、アウグスチヌス(Augusine)、アクイナス(Aquinus)、トマス・グッドウィン(Theoma Goodwin)、ジョン・ボール(John Ball)、トマス・ブレーク(Thomas Blake)、サムエル・ルザフォード(Samuel Rutherford)がすべて主張した。神の愛の目的を遂行するためには、贖いに対する絶対的な必然性はなかったことが主張される。神は、もし、神が望むならば、他の方法でも赦すことができたであろう。その理由は、贖いの方法は、この方法がより神の栄光をもたらし、また、人間にもより大きな益となるという事実に見い出されるために、選ばれたのである。


 この見解を支持する2つの論拠がある。最初に、それは、神の全能と主権性にとってより偉大な誉れとなり、また、救いのこの方法を選ぶことにおいて、神の知恵への偉大な誉れを与えることになると思われる。第2に、聖書は、「血を流すことなしに罪の赦しはない」(Without the shedding of blood IS no remission of sin)と教えている。このことは、「赦しはあり得ない」(there  CIULD BE no remission)と言うことではない。それは、事実上(de facto)超えて行くことを前提しており、また、神が実際に決めたところのことに対する正当な(de jure)必要性なのである。


 これに答えると、神にとって行うことが可能でないことがあることと認めることは、それは聖書を超えて行くことではないことが覚えられるべきである。とたえば、神は罪を犯すことができない。神は偽りを言うことができないし、あるいは、自己自身を否定することができない。もし、これがそうならば、そのとき、贖いについての必然性の疑問は、神の完全性についてのわたしたちの知識の根拠において答えられなければならない。神が贖いの手段によって救いを達成することが必要であることを本来的に必要とするところの神の完全性から生じる何かの事柄があろうか。


 


(4)結果的に絶対的な必要性(consequent absolute necessity)


 


結果的に絶対的な必要性についての理念は、すべての最初に、第2の見解の先行的なことと対照的に見られる。神が誰かを救うことを要求するために、神に依存ずる必然性はない。神の性質は、それを要求しないし、また、神の誉れはそれを要求しなかった。救う聖定は、神御自身の御旨のよしとするところによる。こうして、「もし、何かの必然性があるならば、それは救う聖定に結果するのである。


この見解は、救うという神の聖定は自由で主権的聖定であることを教える。神が一度そのように聖定すれば、そのとき、本来的必要性がある。救いが、血を流すことにより、神の義の満足によって達成されることを要求したのであり、それは、神でもあり人間でもあるお方によってのみ果たされ得るのである。これが、ある著名な改革派神学者たちが仮説的必要性的見解を主張したという事実にも関わらず、古典的なプロテスタントの見解である(カルヴァンは、仮説的必然性(the hypothetical necessity view)を主張した(Calvin,Institutes,op.cit.Ⅱ-12-1)。


 


この見解に有利な論拠


 


(a)義認の必要性から


 


義認の仮説的必要性(the hypothetical necessity)を支持する論拠は、神が血の贖い以外の何か他の根拠において、罪を赦すかどうかについての疑問に基づく。これは、赦しは永遠の命を含むところの救いを構成しないし、また、それは神の愛顧に対して必要であるということを受け入れるという事実を考慮することに失敗する。永遠の命は、まさに赦し以上のものに基づかねばならない。それは義である。人間を神に受け入れられるにふさわしくするであろうところの義だけが、聖書が神の義(God-righteousness)として描くところの義である(ローマ1:17、3:21-22)。受肉した神の御子だけが、不信仰なる者の義認のための適切であろうところのそのような義を与えたのである。こうして、罪人が神に受け入れられるために必要な義は、救いが意図され得ないところのものから離れて、御子の受肉と死に至るまでの従順なのである。


 


(b)聖書の言語は必要性を意味する


 


 ヘブライ2:10は、「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」と読む。わたしたちの熟慮のために意義深い言葉はπρέπει(prepei:ペレペイ:beame:ふさわしことであった)である。それは、多くの子らを栄光に導くことにおいて、単純にキリストの苦しみの適切さに言及していると取られようが、しかし、テキスト自身を根拠にして、それはもっと強く思われる。「それはふさわしかった、あるいは、彼がこれをすることは、それはふさわしかった」(It became or it was becoming that he should do this)。神的預言の理念がその用語によって表わされている。より強い理念は、マタイ3:15において見られる。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(It becometh(πρέπον έστìν:preponestiv:プレペン エスチン)us to fulfill all righteousness)。すべての正しいことを行わないことは、イエスとヨハネの使命に違反したであろう。それらはそのようにすることが義務の下にあった。再び、コリント一11:13において、「自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか」(πρέπον έστìν:preponestin:プレペン エスチン)」。この個所の文脈は、女は神の定めに従って、祈りにおいてはかぶりもが要求される状態である。エフェソ5:3は、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく(πρέπει:prepei:プレペイ)、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」。ここでは他の選択はない。それは、要求(the reqirement)であり、あるいは、聖徒であることの要求(the demand of sainthood)である。ヘブライ7:26の「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方(έπερπεν:ereipen:エペルペン)なのです」。これは、わたしたちのニードに単に適切あるいは便利あるいは一致しているよりも、もっと強い。むしろ、それは不可欠なの(the indispensable)である。この用語の使用法のこの研究から、わたしたちは、ヘブライ2:10は、少なくとも神の固有性(the divine properties)のレベルについて語っているのである。すなわち、神的固有性は、もし、ある者たちが栄光に導かれるならば、神の御子が苦しまねばならないことを要求したのである。それは、イエスによってまさにすべての正しいことを行うことのようにまさに必要なのであり、あるいは、聖徒たちが不品行にふけることがないようにとの要求なのである。


 ヘブライ2:17に「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とある。「ならねばならなかったのです」という言葉は、ωφειλεν:behooved:opheilen:オウフェレインである。この言葉とその同族は、成すべきことあるいは負っている負債についての理念を表す(ヘブライ5:3,12)を見よ)。それゆえ、この句においては、思想は、キリストが、もし、彼が彼らの祭司ならば、民の罪をための償いとなることが必要であったことである。


 ヘブライ9:23に「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません」とある。ここでの教えは、天の模範はキリストの血によって清められねばならない。言葉はανάγκη:anagke:アナグケーである。写し(the patterns)の場合は、雄牛と雄山羊の血によっては清められないという本来的な必然性(an intrinsic necessity)がある。天の模範も清めが必要と言われている。必要性は神の住む場所としての天自身にあるのではなく、罪人のための場所としての備えにある。換言すれば、キリストによる天にあるものの清めは、選民のための彼による贖いの犠牲の必要性と相関関係がある。


 


(c)神の義からの論拠


 


 わたしたちが、罪はその本質において神と神の聖さと矛盾することを思い出すとき、わたしたちは、罪があるところはどこでも、神の怒りが啓示されねばならない(ローマ1:18)。もし、神の怒りが、すべての不義に対して啓示されないのであれば、そのとき、神は御自身を否定しているのである。もし、救いがあるならば、この怒りは除かれなければならない。その怒りの除去のために唯一の備えが宥め(propitiation)である。このことは、ローマ3;25-26において指摘されている。そこでは、宥め (propitiation)は、それによって神が義でありまた罪人の義認者の両方(both Just and the Justifier of sinners)であることが可能である手段なのである。宥めのため仮説的必然性(hypothetical necessity)のみを設定することは、神の怒りがすべての不義に対して啓示されているように、神の怒りの除去の本質的な必要性を見ることに失敗することなのである。


 


(d)キリストの十字架


 


 十字架でキリストによって支払われた罰のひどさ(the enormity)は、それ自身、贖いの必然性の証拠である。ゲツセマネにおけるキリストの祈りは、もし、この盃を去らせて、何か他の方法が用いられたならば、また、とはいえ、もしそうでなかったならば、そのとき、それはそうなされる。わたしたちは、十字架を、わたしたちに対する神の愛の最も偉大な証明(the greatest demonstration of God’s love)として考える。もし、他の、あるいは、より劣った方法で同じ目的が果たされたならば、それは愛であったろうか。


 これらのすべての論拠から、わたしたちは、贖いの必要性は、結果的な絶対的必要性(the consequent absolute necessity)であると結論しなければならない。


3. 贖いの性質


 


 贖い(the atonement)の性質を決定するために、再び、聖書がこのみわざをまさに如何に表明しているかを吟味することが必要である。キリストのみわざを表わすために、少なくとも聖書においては5つの異なった用語が使われている。従順(obedience)、犠牲(sacrifice)、償い(propitiation)、和解(reconciliation)、贖い(redemption)である。わたしたちは、それがキリストの贖いのみわざ(his atoning work)に関係しているものとして、これらの各々の意義を決定するために、各々を簡潔に吟味しよう。


 


a.  従順(obedience)


 


  従順のみわざを行うためにキリストが来たことについての理念は、彼の全体の働きを第2のアダム(the Second Adam)、最後のアダム(the Last Adam)として語る。


わたしたちは、すでに創造されたものとしての人間は、僕-王(a Servant-King)の職務を果たすことであったことに注目してきた。人間はこの職務に失敗し、また、キリストにおいて、わたしたちは、この職務が回復されるのを見るのである。キリストが、彼の贖いのみわざの局面のすべてにおいて果たすことは、僕の資格(the capacity of Servant)においてである。


 


(1) 聖書的な証拠


 


 僕としてのキリストのみわざについての古典的な章句は、イザヤ42:1、19、49:6、56:10、52:13-53:12において見い出される。再び、詩編40:7-8において、この同じ思想が示唆されている。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております」。イエスが来たとき、彼はこれが自分の職務であると教えた。というのは、たとえば、彼の洗礼のために与えた理由は、「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3:15)。再び、ヨハネ4;34において、「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。ヨハネ6:38は、彼が来たことの理由について語る。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。特に、彼の死についての言及があり、彼は、それは従順の行為としてなされることを示した。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:17-18)。


 パウロは、フィリピ2:7-8において、彼が受肉を語るとき、僕のかたち(the servant-form)と神のかたち(the divine-form)を調和させているし、また、それゆえ、彼は従順、十字架の死に至るまでの従順さえも強調することに進む。僕とその従順への言及においてイザヤ53章へのほのめかしがあると思われる。


 再びローマ5:19において、平行がアダムの不従順と第二のアダムの従順の間に引かれる。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。


 ヘブライ2:10において、わたしたちの救いの創始者は、苦しみを通して完全にされる。このことは、さらにヘブライ5:8において、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と言われる。


 これらのすべてから、わたしたちは、僕としてのキリストの職務についての一連の言及があるのを見るのし、また、特に、従順のみわざとしての十字架における彼のみわざへの言及がるのを見るのである。


 


(2) この従順の性格


 


 彼の従順の性格について注目すべき最初のことは、それは内面的な従順(an inward obedience)であり、また、まさに律法への外面的な一致ではないのである。「わたしの神よ、わたしはあなたの御心を行うために来ました。実に、律法はわたしの心にあります」。それは、彼の心からの喜び(a whole-hearted delight)であったし、その結果、彼の父の御心を行うことは、彼の食事であったのである。


 従順の性格の第2の局面は、それは進展的(progressive)であったことである。人間存在として、彼が成長し、発展することは自然なことである。このようにわたしたちは読む。「彼は知恵が増し、背丈も伸び」と。このことをわたしたちは期待していたかもしれないが、しかし、この節の残りは、「神と人とに愛された」である(ルカ2:52)。もし、ここで明白に述べられているように、彼が、知恵が増すのであれば、わたしたちは、彼はまた従順においても増したと推測できよう。というのは、彼は父の御心をますます知るようになり、それへの自己意識的従順(self-conscious obedience)も増したであろう。神に愛されることが増すことは、神の御心の増してくる要求に継続的に一致するという理念を示唆する。こうして、神の拡大する要求が果たされるように、父の側における満足のそれに相応する要求があるであろう。ヘブライ5:8は、彼が従順を学んだと言うとき、彼の従順についてのこの進展的な性格(this progressive character)を確信させる。従順が進展的であると言うことは、何かの点において何かの不従順があったことを示唆しない。生涯のどの段階における彼の従順は完全であるが、しかし、最後的には、彼は死の要求に直面するまでに、彼は神の要求にますます広範囲に成長したのである。クライマックスの要求は彼の死である。このことは、ヨハネ10:17-18における彼の言葉、また、フィリピ2:8においてパウロにより意味されている。


 このことのクライマックスの局面は、まさに死の性質にある。それは、罪のない正常な人間にとって矛盾である。こうして、それはイエスに矛盾するのであり、彼は聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から分離されていたのである(ヘブライ7:26)。罪人であるわたしたちでさえも、それを恐れ、それから後ずさりするのである。キリストと共に、罪人に課せられた死ではなく、罪のない神の御子によって取られた死であった。こうして、彼にとり、死は彼に突然襲いかかったのではなかった(death did not overtake him)。彼は自分自身の命を捨てたのである。「彼は魂を注いだ」のであり、また、自分自身の命を捨てたのである。彼は御自身の霊を去らせたのである。わたしたちがこのように彼の死を見ることき、それはユニークなのであり、わたしたちは、ゲツセマネにおける彼の応答について幾ばくかの理解を持ち始めることができるのである。マルコ14:33は、彼が驚き始めた(to be amazed)ことをわたしたちに語る。「彼が驚き始めたというマルコの表現は、特別な経験を表す。また、この新しい経験は何か。それはまさにこれである。すなわち、彼は、今や、それを通して、すでに彼の魂に殺到し(to inundate)始めたところの滅びの深遠(the abyss if damnation)を通過するところの滅びの深遠を見ているのである・・・彼が御自身の受難において消す深遠(the abyss)である。また、そうして、この恐るべき厳しい試練からの避けられない後ずさり(the inevitable recoil)があった。何故なら、それは他の仕方ではあり得なかったからである。わたしたちは、彼の苦悶の非常に大きいことと彼の人間性のリアリテーを考慮しなければならない。というのは、滅びのこの深遠とは何か。それは、罪に対する神の和らげられず、軽減されることのない裁きであり、また、それは彼を恐怖と恐れ(horror and dread)で満たしたからである。それは、他の方法があり得なかったのか。もし、後ずさりしなかったならば、そのような禁欲主義的な無関心(stoical indifference)は、彼の優しい感受性と彼の人間的性質の感受性にとって、不自然であったろう。後ずさり、恐怖、恐れは、彼の人間性の比べるものがない厳しい試練と彼の人間性のリアリテーの証拠なのである」(John Murray,UnpublishedClaas Notes on Soteriology,p.16)。


 


(3) キリストの従順とわたしたちの救いの関係


 


ヘブライ2:10と5:9は、キリストの従順とわたしたちの救いの関係を示唆している。両方の個所が、わたしたちの救いの創始者あるいは作者として(the captain or Author)、彼の職務におけるキリストを語る。救いの創始者あるいは作者は、苦しみを通して完全な者とされる(2:10)、あるいは、従順を学んだので、父の要求をすべて果たすことができる。換言すれば、彼は、従順によって救い主として立てられた(constituted)のである。すなわち、わたしたちの救いは、キリストの従順によって造り出されたのである。


 


(4) 積極的従順と消極的従順(active and passive obedience)


 


改革派神学においては、キリストの従順を積極的と消極的の範疇の下に語ることが習慣的であった。積極的従順は、父の御心の要求についてすべて彼の積極的な従順に言及するし、また、特に、律法の要求すべての実現に言及する。彼の積極的な従順は、神の律法に服従以上のものであった。というのは、もっぱら父のものであったところの父の御心の要求があったからである。


消極的従順は、神の律法についての罰的な制裁(the penal sanctions)へのキリストの服従に言及する。消極的従順においてさえも、彼は父の要求に積極的に従ったことが考察されねばならない(ヨハネ10:17-18)。消極的従順は、わたしたちの罪の除去の根拠であり、罪責の償い(the expiation)と神の怒りの宥め(the propitiation)である。しかし、救いは、赦し、償い、宥め以上のものである。それは、義として神に受け入れられることである。救いは、こうして、わたしたちを義とするところの義、すなわち、神の義を要求するのである。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマ3:21-22)。わたしたちが神に受け入れられる根拠になるには、キリストの積極的な律法の実現なのである。わたしたちに転嫁されるのは、この義なのである。


 キリストの従順は、それゆえ、義の要求を満たすことに対する神の恵みの備えなのである。積極的な従順は、アダムが失ったところの義を積極的に得ることなのである。消極的従順は罪人に対する神の要求を満たすことである。わたしたちが、キリストの贖いのみわざ(the atoning work)の犠牲的な性格を吟味するとき、特にわたしたちに関わるのはこの後者なのである。


 


(b)犠牲


 


(1) 彼の死が犠牲であったことの聖書的な証拠


 


 キリストの死は、聖書においては、ほとんど犠牲として証明さる必要がないほどである。旧約聖書の全経綸は、その犠牲制度をもって、来るべきメシアを指し示していた。彼は、神の義(the Divine justice)を満足させるために犠牲(the Sacrifice)として、御自分の命を捨てるであろう。わたしたちは、より長い幅で、旧約聖書の犠牲の意義を吟味するであろう。最初に、メシアの犠牲を語る多くの個所の間で最も顕著なのは、イザヤ53章であることに注目させる。新約聖書においては、わたしたちは、ローマ3:25が、彼が宥めの犠牲(a propitiatory sacrifice)として献げられることを語る。またローマ8:3も、彼が罪の献げもの(a sin offering)であることを語る。ガラテヤ1:4は「御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」と言っている。ヘブライ9章と10章は、彼を犠牲として御自身を献げるものとして提示している。ヨハネ一2:2は、「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を宥めるいけにえ(the propitiation for our sins)です」と語る。黙示録におけるキリストについての好まれている表現は、小羊はほふられたである(黙示録5:6、8、12、7:14、13:8など)。


 


(2) 犠牲についての聖書的な理念


 


 キリストの死は聖書において、犠牲として表わされているが、彼の死の真の意義を理解するため、犠牲についての聖書的な理念を吟味することが重要である。旧約聖書の犠牲が、キリストの犠牲からその意義を真に得ることが考察されるべきである。その逆ではない。換言すれば、型(the types)は、原型(the anti-type)のリアリテーについての影に過ぎないのである。とはいえ、わたしたちは、これらの犠牲に関して、わたしたちに与えられたもっと多くの詳細を持つので、わたしたちは、キリストの犠牲的なみわざについての意味を発見するために、それらに戻るのである。


 人が犠牲についての全儀式を考察するとき、それは、その中において見られる最も意義深い理念の一つは、身代わり(substitution)の理念である。礼拝者は、神の臨在とまじわりの中に入ることを望む。その結果、彼は自分自身のために身代りをもってくる。モーセの律法に命じられているように、手を置くことが血の犠牲のすべての種類に要求された(レビ1:4、3:2、4:4、15、16:21、歴代誌下29:23)。「このことは、課す人から課される人あるいは物の移行についての自然的で明白な象徴である。こうして、それは、人格的な身代わりあるいは代表を示すことに使われたのである」(A.A.Hodge,TheAtonement:Grand Rapids


:William.B.EerdmansPublishing Company.1953 p.134)。特に、罪への言及で、罪は犠牲に移行されると言われ、それは、それゆえ、罪人の罰を負うのである。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる」(レビ16:21)。ふさわしい犠牲の選択のための規定において、動物が体において完全でなければならなかった。そのような動物だけが、罪人のための身代りにふさわしかった。イサクを献げるとき、代わりに献げられるために、神によって小羊が与えられた(創世紀22:13)。献げられるものは、贖罪の献げ物(a sin offering)(レビ4:3、8:20-28)、あるいは、賠償の献げ物と呼ばれた(レビ5:6、16、19など)。何故なら、手を置く前には完全で罪がなかったが、それは罪人のための身代わりとなり、また、その罪のための罰、すなわち、死を支払わねばならなかったからである。イエスもそのようであった。彼は罪を知らないお方が、「わたしたちのために罪となった」(コリント二5:21)のである。


 


(3) レビ的犠牲


 


 犠牲についての種々のレビ記的な形態の扱いのために、学生はフェアバイルンの「聖書の予型論」(Fairbairn’s Typology of Scripture)とヴォスの「聖書神学」(Vos’s Biblical Theology)を参照すべきである。わたしたちは、5つのレビ的な献げ物の基本的な意義をまさに要約しよう。


(1) 焼き尽くす献げ物は、宥め(propitiation)、償い(expiation)、献身(consecration)を含む


(2) 穀物の献げ物は、聖化(sanctification)と奉仕(service)を表す


(3) 和解の献げ物は、神とのまじわり(communion with God)を表す


(4) 贖罪の献げ物は、宥め(propitiation)、償い(expiation)、血によって罪を覆うことを含む


(5) 穀物の献げ物は、宥め(propitiation)と償い(expiation)に加えて、罪に対する補償(the reparation)と賠償(compensation)を含む


 


 これらすべての犠牲が、イスラエルの礼拝者に対して当時の宗教的な意義を象徴していて、それは上に挙げた各々に関して述べられた要点である。それらはキリストの将来の犠牲をも予型していた。これらの異なった献げ物すべてが、新約聖書によってキリストのみわざに結びついて引用されるわけではないが、わたしたちは、すべてが彼のみわざを指し示すと安全に結論できる。彼は、それらのすべての原型(the Anti-Type)であり、一つだけのあるいは他の一つだけの原型でなない。彼は明らかにわたしたちの罪のための献げ物(our sin offering)である(ヘブライ9章、13:11-13)、彼御自身の血の流しを通して、わたしたちのための贖い(atonement)とされたのであり、また、贖いの日(the Day of Atonement)における罪の雄山羊のように、わたしたちの罪を取り去ったのである(レビ16章、ヘブライ9章)。彼は、神の怒りを宥め(propriate)、わたしたちの罪を償った(expiate)だけでなく、彼はわたしたちのために彼の積極的従順において備えをしてくださり、こうして、穀物の献げ物(the trespass offering)の理念を実現したくれたのである(イザヤ53章)。彼が流した血に基づいて、彼は栄光に入られたのである。そこで、彼はわたしたちのために執り成しを継続的に行い、それは、神への香しい香りとして上る煙をもって、焼き尽くす献げ物(the burnt offering)の予型を実現したのである。彼は、わたしたちの平和と唱えられ(エフェソ2:14)、また、わたしたちが神とのまじわりを持つのは、彼の血を流すことと体を裂くことを通してである。こうして、彼は、わたしたちの和解の献げ物となったのである。最後に、彼の復活において、わたしたちは、今や、その中で彼に結びつけられて歩むところの命の更新を持つのである。こうして、穀物の献げ物(the meal offering)は、彼において実現した 聖化と奉仕を表すのである。


 旧約聖書においては、4つの血の犠牲がある。それらは、焼き尽くす献げ物(the burnt offering)、和解の献げ物(thepeace offering)、贖罪の献げ物(the sin offering)、穀物の献げ物(the trespass offering)である。献げ物の各々の異なった予型はそれ自身の卓越した特色を持っていた(レビ記1章-7章)。贖罪の献げ物と穀物の献げ物は、罪によって被った責務を配慮するために特に備えられた。それらは、罪責の除去を含んだ。それらは、犠牲の命の支払を通してこれを行った。そのような要求は、堕落前のアダムに神によって与えられたものとしての罪に対する原初的なエデン的な威嚇から生じた。「あなたが食べたその日に、あなたは死ぬであろう」(in the day that thou eatest thereof thou shall surely die)(創世紀2:17)。罪の支払う報酬は死であることの概念が聖書を貫いている。こうして、幕屋(the Tabernacle)が、天の住まいの型(a pattern of the Heavenly places)(ヘブライ9:23、24)として建てられたとき、至聖所(the Holy of Holies)へ近づく道は血の犠牲を通して神によって表された(レビ記16章)。このことは、一年に一度、贖いの日になされた。大祭司のための若い雄牛の犠牲、また、民のための2匹の雄山羊の犠牲は、贖罪の献げ物(sin offering)と呼ばれた(חטאה:chataah:ハーターアー)。血の注ぎ(the shed blood)の意義が、神へ命を献げることなのか、それとも、犠牲の死であるのかという疑問に注目することは興味深い。レオン・モリス(Leon Morris)は、彼の「十字架の使徒的説教」(his Apostolic Preaching of the Cross)(第3章)において、この主題についてのよき扱いを提示している。彼は結論する。「わたしたちは、それゆえ、旧約聖書における血(דמ:dam:ダーム)という用語に使用によって与えられる証拠は、何かの新しい働きのために使われる命の継続的な存在よりも、それが力づくで取られた命(life violently taken)を示すことを、すなわち、命よりも死を示すことを、また、このことは、贖い(the atonement)への言及によっても支持されることを結論する」(Grand Rapids:WilliamB.Eerdmans Publishing Company,1955)。こうして、礼拝者は、自分の罪を動物に移し、また、罪の支払う報酬は死であり、その動物は礼拝者の代わりに屠られねばならないのである。ヘブライ9:6-15、23、24、28、13:10-13において、著者は、明らかにキリストの死を贖罪の献げ物(a sin-offering)と同一視している。他方、イザヤ53:10は言う。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物(אשם:asham:アーシャーム)とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」。キリストの贖罪の献げ物と穀物の献げ物(the sin and trespass offering)へのこれらの言及の他のものは、レビ的体系の特別な献げ物と同一視されていない。コリント一5:7における過ぎ越し祭への追加的な言及がある。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」。キリストの死との関連における旧約聖書への新約聖書の言及から、人は彼の死は贖罪の献げ物と穀物の献げ物(the sin and trespass offering)の光において見られているという印象を得る。すなわち、彼の死は、性質において償い的(expiatory)であり、また、宥め的(propitiatory)なのである。


 


(4) 償いと宥め(expiation and propitiation)


 


 さらに先に行く前に。償い(expiation)と宥め(propitiation)の区別を明らかにすることがよいであろう。これらの言葉の両者は、ギリシャ語のίλασκεσθαι(hilakesthai:ヒラスケサイ)を訳したものである。償い(expiation)は、罪の罪責への言及を持つ。償うこと(to expiate)は、罪の罪責を除くこと、あるいは、覆うことである。宥め(propitiation)は、神の怒り、あるいは、不興への言及を持つ。宥めること(to propitiate)は、神の義を満足させ、また、こうして、神の怒りを宥める(to appease)ことである。その用語の聖書的な使用において、神の義は宥めの犠牲(by the propitiatory sacrifice)によって満足させられることである。今日、宥めの理念について攻撃がある。神の怒りの宥めは、新約聖書に無縁であると論じられる。こうして、新約聖書のより最近の翻訳のあるものにおいては、アメリカ改訳標準聖書(RSV)と新英語訳聖書(the New English Bible Translation)の「償い」(expiation)のように、あるいは、キング・ジェームス訳(KJV)とアメリカ標準訳聖書(ASV)において使用されている「宥め」(expitiation)の代わりに、他の用語が使われている。C.H.ドット(C.H.Dodd)は、この見解の主な主張者の一人である(Journal of Theological Studies ⅩⅩⅩⅡ,July 1931,reprinted in the Bible and the Greeks)。宥め(propitiation)が、キリストの犠牲の適切な理解であるという見解の最善の防御は、レオン・モリス(Leon Morris)の「十字架の使徒的説教」(The Apostolic Preaching of the Christ)とロジャー・ニコル(Roger Nicole)の「C.H.ドットと宥めの教理」(C.H.Dodd and the Doctrine of Proptiation,Westminster Theological Journal,May,1955」である。わたしたちは、これらの2つの著作におけるC.H.ドットを反駁する論拠の趣旨を与えるであろう。「『宥めること』(to propriate)というギリシャ語は、ίλασκοαι:hilaskomai:ヒラスコマイという動詞は、新約聖書において2回生じる。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れん(ίλαστθητί μαι:hilastheti:ヒラステーティテイ マイ)でください』」という罪人の祈りにおいて(ルカ18:13)とヘブライ2:17で「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償う(ίλασκεστθαι:hilaskethai:ヒラスケスサイ)ために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのですである。「宥め」(proptiation)という名詞は、「わたしたちの罪の償い」という表現において2回生じる。ヨハネ一2:1-2で「たしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく(ίλασμός έστιν περì των άμαρτιων ήμων:hilasmosestinperi ton hamartionhemon:ヒラスモス エスチン ペリ トウン ハマルトウン ヘーモウン)、全世界の罪を償ういけにえです」とある。また、ローマ3:25は言う。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物(ίλαστήριον:hilasterion:ヒラステリオン)となさいました」。この同じ言葉がヘブライ9:5において見い出され、そこでは、「償いの座」(mercy-seat)と訳されている。形容詞の「憐み深い」(ίλεως:hileos:ヒレオウス)が慣用句として「とんでもないことです」で使われている。また、ヘブライ8:12においては、「わたしは彼らの罪を思い出しはしないからである」(I am merciful:償い的な:propitious:ίλεως:hileos:ヒレオウス)とある。わたしたちは、この概観から、新約聖書において、4カ所だけで、この言葉がキリストの死に言及しているのを見る。しかしながら、このことは、その概念をわたしたちが軽く扱うように導くべきではない。というのは、「その理念は、たとえば、神の怒りを扱う個所において、この特別な用語法が欠けているところに存在するからである」(Morris,op.cit.p.125)。


 モリスは、むしろ、旧約聖書に見い出されるものとしての神の怒りについての絵についての十分な研究を提供している。彼は言う。「旧約聖書の人々にとって、神の怒りは非常にリアルで非常に重大なものでもあった。神は、(異教徒の神々のように)気まぐれの怒りとして考えられたのではないが、しかし、彼は道徳的な存在(a  moral Being)であるから、彼の怒りは何かのかたちや形態における悪事に向けられたのである。しかし、旧約聖書は、一貫して神を憐みの神として見なすということを追加することはただ公平なだけで、その結果、人々は罪を犯すが、また、こうして、自分自身に神の怒りの結果を招くが、とはいえ、神は罪人の死を喜ばず、また、神は、それゆえ、罪の結果が変えられる方法を供えるのである」(Op.cit.p.131)。彼は、それから、70人訳聖書におけるίλασκομαι(hilaskomai:ヒラスコマイ:宥める)の言葉のグル―プの使用法の十分な研究を与えるのである。彼は、異教の神の粗末な意味において、神は旧約聖書においては、宥められる(propitiated)とは言われていないという趣旨で、ウェストコット(Westcott)とドット(Dodd)に同意して結論するのである(Ibid.p.155)。しかし、人々は、宥めの全理念を否定する思考のこの線において余りに遠くにしばしば行きすぎたのである。「この言葉のグループについての吟味は、さらにίλασκοαι(hilaskomai:ヒラスコマイ:宥める)などは、神的怒りを拒絶する理念を保つという結論を強くするところのפפר:kipper :キッフェールと:כפר:kopher:コヘルに結びついた理念のサークルにわたしたちを不可避的にもたらしたのである。何故なら、わたしたちは、宥め(propitiation)として不当にも認めないところのその身代金(that ransom)を見るからである。こうして、わたしたちは、宥め((propitiation))の意味は、ίλασκοαι:hilaskomai:ヒラスコマイとその同族語が生じる個所から確立されたと思われるのである。


 わたしたちが、新約聖書に戻ると、わたしたちは、再び、すべての不義に対して啓示されている神の怒りについての理念は、新約聖書のすべての部分の教えであることを見い出すのである。このことは、ローマ1章から3章に明らかに見られ、そこでは、ίλασκεστθαι:hilaskethai:ヒラスケスサイ)という用語の最初の使用法の文脈である。ここでも疑問は、その用語が「償い」(expiation)か、それとも「宥め」(propitiation)かによって訳されるかどうかである。文脈は、神の怒りを鎮めること(the appeasing)の理念、あるいは、宥め(proptiation)を明らかに要求すると思われる。


 「怒りは、わたしたちが、救いをもたらす過程において、取り消しを示す表現を探すことにおいて正当化されるこの部分に導く論拠においてそのような重要な場所を占めている。償い(expiation)以上のものが要求される。というのは、償い(expiation)を語ることは、ホラス・ブシュネル(Horace Bushnell)がずっと以前に指摘したように、人格下の範疇(sub-personal categories)において扱うことであり、他方、神と人間の間の関係性が最も十分な意味において人格的として考えられねばならない」(Ibid,p.169-170)。


 ヘブライ2:17は、(ίλασκεστθαι:hilaskesthai:ヒラスケスタイ)という動詞を使っている。この節の構文は、宥め(proptiation)の代わりに償い(expiation)の理念を示唆する。動詞の後の目的格は罪であって神ではない。A.A.ホッジは言う。「すべての人が認めるίλασκεστθαι(hilaskesthai:ヒラスケスタイ)というギリシャ語、また、その同族語の:hilasmos:ヒラスモスとίλασμός:hilasterion:hilasterionは、普遍的に、また、大昔から、「宥め」(proptiation)と共に組み立てられるときには、また、厳密な意味で償い(expiation)の罪と共に組み立てられるときには、その意味を持つのである」(Op.cit.p.139)。しかしながら、レオン・モリスは言う。「動詞の後の目的格は、わたしたちの注目を引く。というのは、今書かれる多くのことにもかかわらず、それはとても通常ではない構文なのである」(Morris,op.cit.p.175)。モリスはそれからίλασκοαι:hilaskomai:ヒラスコマイとεξιλάσκομαι;exilaskomai:エクシラスコマという動詞を吟味することに進む(εξιλάσκομαι:exilaskomai:エクシラスコマという動詞は、新約聖書には生じないが、70人訳聖書には見いだされる)。彼はこれらの動詞の116回の使用について、目的格として罪と共に使われるのは8回に過ぎないこと、また、これらのうちの2回以上が明白に償い(expiation)を意味することは論争の余地があることを結論している。さらに、新約聖書は、動詞の後の目的格が、しばしば前置詞的な構文に取って代わるところの他の動詞の例を、意味を少しだけ変えて、あるいは、何の変化なしで、与えているのである。


 「これらの環境の下で、ヘブライ2:17における目的格の生起に大きな強調を置くことは賢明とは思えない。上記の動詞のどの場合にも、前置詞の構文の代わりに目的格を使用することによって、その意味が重大に変化させられたことが言われ得ることはない。また、それゆえ、何故、わたしたちは、それが他のίλασκοαι:hilaskomai:ヒラスコマイでないのかと、公平に問われるであろう。こうして、ヘブライ2:7における目的格を一般的な観点の目的格として取り、また、「民の罪に関する宥めをするために」(to make propitiation with regard to sins of the people)としての表現の意味に理解することが、最善と思われるのである。このことは、その動詞の通常の意味を無視するよりもよい流れなのであり、また、それはここで、償い(expiation)より以上の何ものも意味していないことよりもよい流れなのである」(Ibid,pp.176-177)。


  ジョン・オーエン(John Owen)は、その動詞の意味の変化に対する同様の仕方において論じている。彼は言う。「それゆえ、この言葉の使用においては、常に理解されている―(第1に)、罪(An offense)、犯罪(crime)、罪責(guilt)、負債(debut)


が除かれるべきである。(第2に)、罪を犯される人格(A person offended)が宥められ(pacified)、贖われ(atoned)、和解される(reconciled)べきである。(第3に)、罪を犯す人格(An offending person)が赦され(pardoned)、受け入れられる(accepted)べきである。(弟4に)、犠牲(A saciricife)、あるいは、贖いをする他の手段(or other measns of making the atonment)。ときどき、一つのことが表わされ、ときどき、他のことが表わされるが、しかし、その言葉の使用はそれらのすべてに関している(John Owen,An Exposition of the Epistle to the Hebrews:Edinbugh:J.Ritchie,1813 Ⅲ.pp.474)。


 わたしたちが、ヨハネ一2:2に戻るとき、わたしたちは、再び、ローマ3;25の場合におけるように、「宥め」(proptiation)の理念を要求する文脈を見い出す。神の義が言及され、罪人の罪が見解に入り、また、宥め(proptiation)の理念を事実上要求する聖なる神の前での弁護者としてのキリストの理念が述べられている。 「要点は、キリストは、父のもとにいる弁護者であることが言われている。また、もし、わたしたちが父のもとにいる弁護者を必要とするならば、そのとき、明らかにわたしたちは、よい場合にいるのではなく、わたしたちの悪い行いはわたしたちに対して勝っているのであり、わたしたちは罪深いすべてのことに対する神の敵意を感じている。これらの環境下にあって、わたしたちは、神の怒りを方向転換させるキリストについて語るのであり、また、こうして、ίλασμός:hilasmos:ヒラスモスは、文脈に自然な言葉なのである(Morris,op.cit.p.178-179)。


 ヨハネ一4:10においては、わたしたちは、宥めから償いへ(from propitiation to expiation)の言葉の意味を変更する理由はないことを見い出す。モリスは、適切な注解をしている。「ヨハネ一4:10における用語の使用に関して、わたしたちは、単純に考察する もし、ίλασμός:hilasmos:ヒラスモスがその通常の意味を与えれるのであれば、わたしたちは、ここで、犠牲についてのキリスト教の見解の理解のためのそのように多くのことを意味する逆説(paradoxes)を鳴り響かせているそれらの一人なのである。というのは、そのとき、わたしたちが神の怒りの除去を負うのは、神御自身に対してという思いを持つであろうからである(参照 。敵意の除去に関する同様の叙述に対して、コロサイ1:21以下)。他方、もし、より色のない意味の『償い』(more colourless meaning)が理解されるならば、その節は増して目立たない(Op.cit.p.179)。宥めについての批評家たちは、彼らが、宥めの理念は愛としての神の理念に反すると示唆したとき、この個所の趣旨を見ることに失敗したのである。神は愛であるという断言が言われているのは、まさにこの個所においてである。神の愛は現わされたが、わたしたちの罪を神の心のいつくしみから神が単純に見過ごすという柔らかで、感傷的な理念ではないのである。むしろ、神の愛は、わたしたちのため、神が御自身の怒りを宥めること(propitiation)のみわざを遂行することにおいて見られるのである。もし、わたしたちに対する神の愛が、キリストの死に先行するならば、何故、何かの神の怒り(any wrath)の宥めが必要であったのかと、反対されるであろう。エフェソ2:3は、聖徒は、神の恵みが実際に福音において彼らに与えられるまでは、神の怒りの子らであったことを明らかに断言している。問題は、この反対を持つ人々は、神は愛することができ、また、同時に、怒りを持つことができることを認めることである。愛と憎しみは矛盾するが、しかし、愛と怒りは矛盾しないのである。愛と怒りは、自分の子供に対する人間の親の同時的な感情である2つのものの両立性を例証するのである。これらの2つの姿勢は、神の選民に対する神の心に共存するのである。キリストのみわざは、神の怒りの機会を除去する神の愛の備えなのである。


 宥めの犠牲としてのキリストのみわざについての最後的な言葉が与えられなければならない、キリストの犠牲の宥めの性格の否定することは、贖いの本質を否定することである。というのは、贖いは、キリストがわたしたちの罪を担った(bore)ことを意味するからである。罪を知らない方が、わたしたちのために罪とされたのである。如何にして、わたしたちは、彼がわたしたちの罪を負うかを、それらの罪に対する裁きを担うことなしに、わたしたちは知ることができるのである。地獄は救いのない神の怒りと不興なのである。もし、イエスがわたしたちの代わりに、わたしたちの罪を担ったのであれば、そのとき、彼はわたしたちの罪にかかるすべての裁きを担わなければならなかった。宥めの否定は、わたしたちとキリストの身代わり的な同一視のまさに心なのである。キリストがわたしたちと共に、同一視されるとき、彼は罪とされたのである。このことは、彼がわたしたちの罪を担い、また、罪人となることなしに、罪との密接な結びつきとして入って来たのである。


 


b.  和解(reconciliation)


 


(1) 語彙(vocabulary)


 


和解について語る新約聖書において見い出される幾つかの言葉がある。それらは次のようである。


 


καταλλαγή:katallage:カタラゲー・・・和解(reconciliation)・・・これは、和解を示すために使われる新約聖書において名詞相当語(substantive)のみである。


 


καταλλάσσω:katalasso・・・和解する(to reconile)


 


αποκαταλλάσσω:apokatallasso・・・和解する(to reconile)


 


διαλλάσσω:dialasso・・和解する(to reconile)・・・この用語は、キリストのみわざについて新約聖書においては遣われていないが、しかし、70人訳聖書にみられるように、他の言葉と同義語(the synonymous term)である。


 


(2)新約聖書の言及


 


 和解への聖書の言及は、わたしたちが神に和解されること(ローマ5:10)と神がわたしたちを御自身に和解させてくださることであることに注目することは興味深い(コリント二5:18-19、エフェソ2:16、コロサイ1:20-22)。神がわたしたちに和解されることは決して明白には述べられていない。この使用法に基づいて、十字架のみわざは神に向けられているのではなく、人間に向けられていると断言されてきた。除かれた敵意は神のではなく、わたしたちのなのである(この見解は、ウィリアム・バークレー(William Barclay)と多くの他の近代の学者たちによって主張されている)。最初に、和解は、神とのわたしたちの敵意(our enmity with God)に関することが考察されるべきである。それは、わたしたちの罪に関係し、また、わたしたちの罪が確かに神に対する敵意なのである。しかし、聖書のより十分な分析は、和解はまさにこの理念以上のものを包含するのである。


 マタイ5:24は、和解の意義のよき模範を与える。その個所は、兄弟たちの間の和解を扱う。わたしたちは、ここに、和解する(διαλλάσσω:diallaso:ディアラッソー)という言葉の新約聖書におけるただ1回の使用法を持つ。その言葉は、70人訳聖書の使用法はκαταλλάσσω(katallaso:カタラッソー:和解する)と同義語であることを示す。その個所は次のように読む。「まず、兄弟と仲直りをしなさい」。礼拝者は、自分の献げ物を祭壇に持って行く間に、自分の兄弟が自分に対して反感を持っていることが思い出させられる。彼は、自分の兄弟と「仲直りすること」(be reconciled)が命じられている。ここでの疎遠(the alienation)は礼拝者のそれではなく、礼拝者に向かう疎遠なのである。こうして、和解するようにとの命令は、自分自身の怒りに対して向けられているのではなく、兄弟の怒りに対してである。もし、わたしたちが、わたしたちの神との関係に平行線を引くならば、そのとき、わたしたちは、わたしたちが神に和解されることを語る聖書の原語はわたしたち自身の怒りに向けられているのではなく、わたしたちに反感を持っている相手に向けられていることを見るのである。


 ローマ11:15は、新約聖書における和解という用語の使用法への興味深い他の洞察を与える。ここに、ユダヤ人たちと異邦人たちの間の対照があり、また、異邦人たちに向かう神の姿勢の変化があり、それは、和解という用語で表わされている。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解(καταλλαγή:katallgae:カタラゲー)となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」。和解という言葉は、ここでは、神による姿勢の変化を語っているのであり、異邦人たちの姿勢の変化を語っているのではない。このことは、この用語がユダヤ人たちの「捨てられること」(casting away)と対照されており、神の姿勢との対照ではないという事実から明らかである。この個所においては、ユダヤ人たちあるいは異邦人たちの姿勢に焦点が当てられているところはどこにもないのであり、すべての方法により、人間に対する神の姿勢に焦点が当てられているのである。それゆえ、和解(καταλλαγή:katallgae:カタラゲー)は、異邦人たちからの神の疎遠の除去(the removal of God’s alienation from the Gentiles)を意味し、神からの彼らの主観的な疎遠を意味しているのではない。


 


(a)ローマ5:8-11


 


 わたしたちが、今や、キリストのみわざを和解として語る個所を見るとき、罪は神の怒りを招くだけなく、神からの疎遠(alienation from him)という事実を思い起こすことはよいことである。こうして、和解は、わたしたちの心に生じる主観的な変化への言及ではなく、神からの疎遠の変化(a change of the alienation)も包含する。ローマ5:8-11は、和解を扱う主要な個所の一つである。ローマ5:8-11においては、わたしたちに向かう神の愛が強調されている。この愛は、キリストがわたしたちのために死に、また、このことはわたしたちがまだ罪人である間に生じたのである。マーレー教授(Professor Murray)は8節を考察する。『・・・8節は、次の3つの節に続くところの本質を明白に述べている。というのは、「キリストがわたしたちのために死んだ』(8節)という節は、10節において『御子の死によって神と和解させていただいたからです』という言葉において広げられている。それゆえ、それは、「わたしたちがまだ罪人であったとき」(while we were yet sinners)、キリストの死によってなされたとことの和解である。もし、和解が、罪と敵意から愛と忍耐へのわたしたちの心の変化にあると考えられるならば、如何にこのことは効果を無にするであろう。8節の全要点は、わたしたちがまだ罪人のとき、わたしたちの内に何の変化にもなく、また、わたしたちの内に何の変化も前提されていないとき。神がキリストの死において行ってくださったことなのである。わたしたの内における変化の思想はその宣言の中心点に矛盾することなのである(Murray,TheAtonement,a monograph in Biblical and Theological Studies Series,Philadelphia:Ptesbyterian and Reformed Publishing Company,1962,p.12)。


 9節と10節においては、義とされたことと和解されたことが平行句で置かれている。それゆえ、義とされたことと和解されたことは、同じ軌道に属さねばならない。それらは同様の概念を表す。しかし、義とする(justify)というその用語は、特に、この手紙においては、法的意味(forensic meaning)を持つ。それは、義を作り出すことを意味しない。それは形態において宣言的(declarative in form)であり、また、その反対を定罪するのである。それは司法的関係(judicial relation)に関わる。和解は、同様に、同じ力を持ち、また、心と姿勢の内的変化へ言及をすることができないのである。


 


(b)コリント二5:18-19


 


 同じ結論がコリント二5:18-19から出て来る。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。ローマ5:10とコリント二5:18-19の両方において、わたしたちは、不定法過去(the aorist tense)が使われているのを見い出す。強調は両方において完結された行為(a ompleted act)の強調である。キリストの死とそれに結果する和解は唯一回きりの行為(once for all action)である。主観的な和解が継続的な過程を包含する。


 コリント二5:21において、わたしたちは、先行する節において語られている和解に包含される一種の行為(a kind of action)を指摘されている。それは、「罪と何のかかわりもないお方を、神はわたしたちのために罪となさいました」である。これは、疑いなく、キリストが身代りに罪を担ったことに言及し、客観的な領域に属している。それは、わたしたちの心に登録された主観的な変化と親密な関係がない(Ibid,p.19)。


 和解についてのこの理解のためのさらなる論拠は、ローマ5:10において熟考された敵意から派生する。8節において、使徒は、わたしたちが罪人であることに言及し、また、10節において、彼は敵意に言及されている。10節の敵意を、8節の神に対するわたしたちの罪との平行において、神に対するわたしたちの敵意と解釈することは完全に可能である。しかし、ローマ11:28は、このまさのその用語の他の使用法を与える。パウロはイスラエルについて語る。「イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対しています」。敵意は、ここでは、神の愛顧からの阻害(the alienation from God’s favor)に言及しているに違いない。彼らは捨てられて、受け継げないものとして語られている。(ローマ11:15)。さらに、敵意は、愛されることに対照させられている。確かに、愛されている者は、神の姿勢と彼らへの関係に言及するし、また、人々の主観的な姿勢ではない。このことから、わたしたちは、ローマ5:10は、わたしたちからの神の疎遠に言及するものとして非常に適切に理解され得る。


 「この意味は、ローマ5:10の思想によく合っている。というのは、和解が果たすところのものは、神の疎遠、神の聖なる敵意からの除去である。その論拠は、もし、神が御自身の御子の死によって御自身の聖なる敵意を除くのであれば、神はわたしたちを愛顧の状態に入れ、キリストの復活によって神の怒りから救われることは、なおさらです(Murray,unpublishedmimeographednotes,p.27)。


 この点において、マーレーは、わたしたちは、これが敵意という言葉の適切な意味であることを、わたしたちは絶対的に教義学的にあり得ないことを容易に認める。もし、それがそうでなければ、そのとき、5:10は、5:8の意味において平行なのである。


 ローマ5:11は、和解を受け入れられてものとして語る。「今やこのキリストを通して和解させていただいた(την καταλλαγζν ελάβομεν:ten katallagenelabomen:テーン カタラゲーン エラボメン)からです」。表現のこの形態は、主観的な変化としての和解の理念にふさわしくない。むしろ、それは、与えられた賜物として見られている。わたしたちが受け入れた理念は、神が最早わたしたちから疎遠されていない状態であり、その中においてわたしたちは神との平和とまじわりを持つのである。


 コリント二5:19において、わたしたちは、和解について宣べ伝えることへの言及を持つ。「和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。わたしたちは、和解を宣べ伝える責任性を受けた。これが、わたしたちが宣べ伝えるべき福音への言及の他の方法である。わたしたちが宣べ伝える福音は、キリストがわたしたちのためにしてくださったことについてのよき知らせであり、わたしたちの内に生じる主観的な変化ではない。もちろん、福音は主観的な変化を生み出すが、しかし、これは、わたしたちが宣べ伝えるべきよき知らせではない。換言すれば、福音は、その説教から生じることを要求するが、しかし、要求は福音それ自体ではない。福音の基本的な使信は、勧めあるいは訴えでなく、それは、神がわたしたちのためにしてくださったことについてのよき知らせなのである。


 わたしたちが、「神と和解させていただきなさい」というコリント二5:20についての勧めを考察するとき、わたしたちは、いろいろに解釈されてきた章句を見る。最も正統的な注解者たちのある者たちでさえも、それをわたしたちは敵意を捨てることをわたしたちに訴えているものと看做す。「このことはそれ自体において、福音の宣教への不適切な応答としての不適切な訴えではない。しかし、その個所から生じる証拠は、この解釈への支持と関係がない。それは、むしろ、『和解』(the reconciliation)であり、また、和解が果たされたところのものを有効に使うことをわたしたちに訴えているのである。その趣旨は、和解の恵みに入りなさい。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリント二5;21)という真理を抱きなさいという趣旨である」(Murray,Atonement,p.20)。


 和解についてのこの考察を結論するとき、それはモリス(Morris)に戻ることは適切である。彼は言う。「人間が敵意の原因を克服し得ないことは、聖書の一貫した教えである。人間の罪は人間の知力を建ててきた障壁は、除去する手段を見い出すことができかった。しかし、人間のために『罪とされた』(made sin)お方の死においては、敵意の原因が真正面から向き合われ、そして、除去されたのである。それゆえ、完全な和解が結果し、その結果、人間は悔い改めと信頼において神に向かい、また、神は怒りでなく、愛顧をもって人間を見てくださるのである」(Op.cit.p.222)。


 罪が神と人間の間に生じさせた妨げは、キリストのみわざにおいていやされ、また、人間は、再び、神とのまじわりに入れられるのである。「わたしたちの神からの疎遠が熟考された急務(the exigency contemplated)と確保された神とのまじわりである点において以上に、贖いの備えがその恵みと栄光を表す点はどの点においてもないのである」(Murray,op.cit.p.21)。 


 


c.  贖い(redemption)


 


(1)  贖いについての旧約聖書の理念


 


 贖いについて理念を表す旧約聖書において見出される2つの用語がある。גאל:gaal:ガーアルとפדה:padah:ファーダーである。これらの用語は、救出(deliverance)の様式に何の言及なしに救出に関して使われ得る(創世紀48:16、イザヤ29:22)。他方において、それらは、代価の支配による解放、あるいは、買い戻しとの関連においてしばしば使われる。


 その用語は、人間あるいは獣の初子(the firstborn)の清め(the sanctifying)に言及して使われる。清い動物にとって、身代わりの代価の支払いはなかった。それらは祭壇で犠牲にされた。人間と清くない動物の両方の場合には、それらは祭壇で犠牲にされることなく、贖いの備え(a provision of redemption)がなされた(出エジプト13:11-15、民数記18:15以下)。再び、その用語は、土地あるいは財産の回復との関連において使われる。財産は、永遠には売られなかった(レビ記25:23-24)。親類が財産を買い戻すことができた(ルツ4章)。この代価は贖い(גולה:geullah:グエラー)と呼ばれた。旧約聖書における言葉のこれらの使用法また他の使用法に研究は、次のことを示す。最初に、贖いは人あるいは物の回復に言及する。第2に、贖いの代価(s redemption price)は、そのような回復のために必要であった。第3に、仲保者が贖いを果たすと、彼は贖い主(a redeemer:גאל:goel:ゴーエール)と呼ばれた。


 しかしながら、わたしたちの研究にとって、より重要なものは、神の民の救いの贖いのための言及である。両方の言葉がこの方法で使われている。エジプトからのイスラエル人の救出は、この名によって示される(出エジプト6:6、15:3、申命記7:8)。贖いとしての出エジプトから、わたしたちは、次のことに来る。だ最初に、それは奴隷状態から異質の力(a foreign power)への救出であった。第2に、それは、神の伸ばされた腕の力によってなされた。第3に、代価の支払の理念がある。これは、出エジプト15:16、申命記32:6、詩編74:2、イザヤ11:11のような個所において明らかに断言されている。イザヤ43:3-4においては、エチオピアとシェバがイスラエルの身代わりの身代金と呼ばれている。


 最後の理念が旧約聖書から考察されるべきである。仲保者は、彼は贖いを確保するが、גאל:goel:ゴーエール、あるいは、親類の贖い主(kinsman-redeemer)と呼ばれる。この用語は、次のような多くの個所で主御自身に言及されている。ヨブ19:25、詩編19:14、イザヤ41:14、43:14、44:24、24、47:4、48:17、49:7、26、54:5、8、60:16、エレミヤ50:34。イザヤ59:20において、その言及は、贖い主(the Redeemer)は、シオンに来るという趣旨である。それはローマ11:26に引用されている。こうして、メシアのみわざは、贖い主(a redeemer)のみわざとして特別に言及される。


 


(2)新約聖書における贖い


 


次の用語が新約聖書において、贖い言及して用いられている。


 


λύτρον:lutron:リュトロン・・・身代金・・・これは用語の最も明らかなものである。それは2回だけ使われるが、しかし、キリストの御自身みわざに関してキリストについての叙述である(マタイ20:28、マルコ10:45)。


 


λυτρουσθαι:lutrousthai:リュトルウスタイ・・・身代金の動詞形(ルカ24:21、テトス2:14、ペトロ一1:18)。


 


λύτρωσιν:lutrosin:リュトロウシン・・・他の名詞相当語の形態(another substantive form(ルカ1:68、2:38、ヘブライ9:12)。


 


απολύτρωσις:apolutrosis:アポルトロウシス・・・複合形 この語根の最も頻繁に使われる携帯である(ルカ21:28、ローマ3:24、8:23、コリント一1:30、エフェソ1:7、14、4:30、コロサイ1:14、ヘブライ9:15、11:35)。


 


αγοράζω:agorazo:アゴラゾウ・・・買う、贖罪的な意味で数回出てくる(コリント一6:20、7:23、ペトロ二2:1、黙示録5:9、14:3,4)。


 


έξαγοραζω:exagorazo:エクサゴラゾウ・・・買うことの理念、2回だけ出てくる(ガラテヤ3:13、4:5)。


 


 これらの用語に言及する個所の研究は、贖いの理念は、代価の支払、すなわち、わたしたちの救い主が血を流すこと(the bloodshed of our Savior)によってであることを明らかに示す、


 マタイ20:28、マルコ10:45において、キリストは、多くの人の身代金(a ransom for many)として自分の命を献げるために来たことにおいて、御自分のみわざに言及している。3つの理念に注目せよ。最初に、彼が行うために来たところのみわざは、身代金のみわざである。第2に、身代金は彼自身の命を与えることである。第3に、この身代金は、性格において身代わり的(substatutionary)である。B.B.ウォフィールドは、弟子たちに与えられた彼御自身のみわざについてのこの記述は、わたしたちが、彼の弟子たちの言葉において繰り返された同じ理念を見い出すことは驚くべきことではないことを指摘している(Biblical Doctrines,op.cit.p.361)。パウロは、これらの言葉をテモテ一2:6に響かせている。再び、テトス2:14において、キリストが与えられることは、二重の意図(a two-fold design)を持つものとして提示され、すなわち、不法からの贖い(of ransom from iniquity)と贖われて所有された人々の清め(sanctifying the ransomed possession)である。ローマ3:24において、パウロは、キリストの贖いによって義とされることを語り、また、直ちにこれを血を流すこと(the blood shedd)に関係させている。身代金の理念は明白である。ガラテヤ3:13、4:5において、パウロは異った用語を使用するが、とはいえ、奴隷状態からの買い戻しの概念がある。律法への奴隷状態は、4:5において見解に入っており、また、3:13において支払われた代価がわたしたちのための呪いとされ、また、4:5において律法の下にいる者とされている。この代価は、奴隷状態の両方の類からの救出であった。コリント一6:20と7:23において、代価そのものへの言及なしに、代価を払って買い取ることの理念がある。ヘブライ人への手紙の著者も、キリストの血を贖いと結びつけている。ヨハネは、黙示録5:9において、キリストの血を贖い(αγοράζω:agorazo:アゴラゾウ)との関連において明らかに名を挙げている。


 この短い概観から、新約聖書は、贖いの概念を失われた者の救出のための身代金の支払いとして表わしている。払われた代価は、キリストが血を流すことである。ルカ1:68、2:38は、救出を異なる力の圧迫への奴隷状態からの救出と見る。これは、わたしたちが、以前の部分で見たように、贖いという用語の旧約聖書の使用法における強調である。救出の手段であり、また、結果的にエジプトの対する勝利である主の力強い御腕についての旧約聖書における強調を思い起こすと、勝利の調べが新約聖書における贖いと結びついていることを見い出すことは、驚くべきことではない、ヨハネ12:31-33、ヘブライ2:14-15。これは、グスタフ・アウレン(Gustaf Auren)などのような近代の神学者たちが見た要点の一つなのである(Gustaf Auren,ChristusVictor:London:SpCk,1953)。それは、正統神学においてしばしば見過ごされてきた事実なのである。罪の奴隷状態からの救出する手段である身代金支払いの理念は、教会の初期の歴史において顕著であった。それが贖いの身代金理論を生ぜしめたのであり、それは、約10世紀の間、顕著であった。これらの初期の神学者たちは、聖書的なデータについてのわたしたちの研究においてわたしたちが注目してきた2つの理念、すなわち、身代金の支払いとサタンの力からの救出であった。彼らの誤りは、代価がサタンに払われたと見ることにおいてであった。アンセルムス(Anselm)は、「神は如何にして人となったか」(Cur Deus Homo)において、この理念における誤りを示している。プロテスタント神学において身代金理論全体への極端な傾向があり、また、こうして、サタンの力の現実性(the reality)と、そこからわたしたちを解放するキリストのみわざを考慮に入れる失敗への傾向があったのである。キリストはサタンを「この世の君」(prince of the world)として表わした(ヨハネ12:31)。ヘブライ2:14は、キリストのみわざをこうして語る。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪


魔を御自分の死によって滅ぼし」。再び、コロサイ2:15は言う。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」。ヨハネ一3:8においても、「罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」。わたしたちは、これらの個所からキリストの贖いのみわざの勝利の局面(the triumphant aspect)の調べを見るのである。現代の神学における悪魔的なもの(the demonic)への強調があるが、この思想の注意深い分析は、それは「神話的なもの」(the mythological)として見られるところの強調である。他方、聖書は、悪魔的なもの(the demonic)への現実性(the reality)を強調しているし、また、この真の悪(this real evil)へのイエスの勝利の現実性を強調しているのである。


 「もし、わたしたちが、神の国とキリストの栄光についての要求に敏感であるならば、そのとき、わたしたちは、サタンが君であるところの目に見えない王国に敏感であるだろう。もし、わたしたちが、神の国とキリストの栄光についての要求に敏感であるならば、また、わたしたちが戦うもろもろの支配と権威に敏感であるならば、彼がこの世の神を滅ぼし、死の力を持つ者を無にしたとき、そのとき、わたしたちの慰め、信仰、希望は、キリストがひとたび確保したところのその勝利に戻るであろう(Murray,mimeographed class notes,p.35)。


 創世紀3:15における福音のまさに最初の約束はその中において勝利の調べを持っていたことが、記憶されるべきである。この約束は、年を経た蛇、サタン(the Devil:黙示録20:10)を追放することにおいて、その頂点に達するのである。エジプトからのイスラエルの贖いは、神が御自分の民を力強い御腕で救出したように、この勝利の絵(the picture of the triumph)なのである。


 


(3)わたしたちが救い出されたところの奴隷状態(bondage)


 


贖いは、それが救出を示唆するように、わたしたちの救いを覆う包括的な用語である。キリストの贖いの救出に包含されているわたしたちの救いのいろいろな局面がある。


 最初に、罪からの贖いである。テトス2:14は言う。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。わたしたちの贖いは、「わたしたちの罪の赦し(forgiveness of our trespasses)(エフェソ1:7)。同じ思想がヘブライ9:15によって示唆されている。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」。旧約聖書は詩編130:7-8において、同様の叙を使う。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」。


 罪の奴隷状態は、3つの局面を含む。すなわち、罪責(guilt)、汚れ(defilement)


、力(power)である。キリストの贖いは、これらの3つのすべての局面において、わたしたちを罪への奴隷状態からわたしたちを除く。ローマ3:24は、そこはわたしたちの罪の罪責を強調した後に見い出されるが、疑いもなく、罪責の除去に言及を持つ。テトス2:14は、罪責から清めの理念への救出を加えるし、あるいは、罪の汚れからの救出を加える。罪の力からの贖いは特に彼のみわざの勝利的な性格である。


 「新約聖書の教えの標準が理解されることが必要とされるのは、それはしばしば見過ごしにされるが、この関連においてである。キリストは、信者のために死なれたものとして見なされるだけでなく、信者はキリストにあって死に、命の新しさにおいてキリストと共によみがえらされたのである。これは、キリストとの結合の結果である。というのは、キリストとの結合によって、キリストに与えられた者たちに結合されるだけでなく、彼らがキリストに結合されるのである。キリストは彼らのためだけに死なれたのではなく、彼らが彼にあって死に、また、よみがえるためなのである(参照 ローマ6:1-10、コリント二5:14、15、エフェソ2:1-7、コロサイ3:1-4:1、ペトロ一4:1-2)。神の民のすべてのために罪の支配からの救出を確かにするのは、キリストの死の効力においてキリストと共に死に、また、彼の復活の力において彼と共によみがえったことのこの事実なのである(Murray,Redemption Accomplished and Adapted:GrandRapids:William B. EEerdmans Publishing Company,1961,p.54)。


 第2に、罪からの贖いだけでなく、彼の贖いのみわざの結果として律法からの救出でもある。わたしたちは、「律法の呪い」(the curse of the law)から贖われているのである。わたしたちは、律法を守ることにおいて、どの一つの点においても失敗したことに対して、律法の呪いの下にいるのである(ガラテヤ3:10)。誰も律法を守れる人はおらず、かえって、すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっており、もし、わたしたちが律法の呪いから救い出されなければ、救いはないのである。これが、わたしたちは、彼のみわざの結果であることを明らかに語られている。彼が払った代価は、わたしたちにふさわしい呪いを御自身に取ったことなのである。彼は、呪いのためわたしたちにふさわしい神の十分な怒りを担ったのである。「彼が担ったその呪い、そして、その呪いを彼は無にしたのである」(Murray,op.cit.p.50)。律法の儀式的な局面からの救い出しに加えて、彼は子としてのわたしたちの養子の身分(our adoption)を買ったのである。このことは、ガラテヤ4:5によって示唆されていて、そこでは、わたしたちは贖い出されて「わたしたちを神の子となさるためでした」とあり、その理念は、イスラエルが儀式律法の下にあって、「養育係」(a tutor)として律法の下にあったことである。今や、キリストが律法の下にあって、律法を完全に全うしたので、神の民は最早、律法の儀式的な局面の下にはいない。養育係の代わりに、わたしたちは、今や、子とされ、そして、このすべての特権と自由を持つのである。


 キリストのみわざにおいて全うされた律法の一つの最後的な局面はわざの契約への律法の関係である。わたしたちは、すでに、キリストのみわざは、アダムが守ることを失敗した従順のすべてを満たしたものとして見られる従順として、贖い(the atonement)の部分において考察した。こうして、彼が多くの人を義とした(ローマ5:19)のは、彼の従順によることであった。キリストは、彼の従順によって、積極的なまた諸極的な従順を果たしたのであり、それはアダムが彼の不従順によって失敗したところのものであった。


 わたしたちが、わたしたちが贖い(the atonement)の性質について考察したこの部分において、結論したように、わたしたちがわたしたちの見い出したことを要約することはよいことであろう。キリストの従順は、義に対する要求を満たした。彼は神の怒りを宥めたのである。和解は、神からの疎遠によって引き起こされた必要を満たしたのであり、また、贖い(the redemption)は、わたしたちの奴隷状態から生じる必要を満たしたのである。


 


(5) 贖いの完全性(the Perfection of the Atonement)


 


 この見出しの下に、わたしたちは、贖いのユニークさ、最後性、効力を考察するであろう。


 


(a)   キリストの贖いのユニークさと最後性


 


 十字架上のキリストのみわざは一度限りの犠牲であったことは聖書の明白な表明である。これは、キリストの犠牲は旧約聖書の犠牲よりも勝っているということを断言しているように、ヘブライ人への手紙の主要な点の一つである。旧約聖書の犠牲は繰り返えされねばならなかった。他方、キリストは、唯一度の犠牲であり「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:25、26)。再び、28節は「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き」(ヘブライ10:11-12)。また14節で「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。


 彼だけが大祭司の職務を果たすことができ、また、御自身を献げることができた。わたしたちは、模範として彼に倣うように召されているが、仮に、わたしたちが彼のために死ぬとしてさえも、わたしたちの死は、罪責を償うことができないし、怒りを宥めることもできないし、世を神に和解させることもできないし、贖いを確保することもできない。「すべてこれらの範疇はキリストにのみ属するのである」(Murray,op.cit.p.27)。


 


 


(b)   キリストの贖いの効力


 


 ここでの疑問は、彼は彼の命を捨てることにおいて、彼の目的を果たしたかどうかである。聖書は、そのみわざは、それが意図された目的の各々を果たしたものと表明している。彼の従順は単にしるしの従順ではなく、すべての義を果たしたのである(マタイ3:15、ヘブライ5:9)。彼の従順はわたしたちを義とした(ローマ5:19)。彼の犠牲は、わたしたちの罪責を追放した。彼はわたしたちの罪のため神の怒りを宥めた(ヨハネ一2:2)。彼は実際にわたしたちの罪を担い、わたしたちの罪に対する神の怒りを実際に担った(イザヤ53:6,11、ペトロ一2:24)。彼は和解を造り出し、その結果、神の疎遠が除かれたのである(ローマ5:9、10、8:32)。彼は御自身の血をもって教会を買い取ったのであり、永遠の贖いを獲得したのである(使徒言行録20:28、ヘブライ9:12)。「要約は、キリストが御自身の贖いのみわざによって、命の復活において登録されるであろう完成を確保し(secured)、確かなものとした(insured)のである(参照 ヨハネ6:39)」(Murray,Atonement,p.27)。


 


(5)贖いの範囲


 


 「誰のためにキリストは死んだのか」というこの部分における疑問が答えられるべきである。その疑問に答える以前、否定的に、わたしたちの前にないところのことを示すことはよいことである。それはキリストの死の十分性(the sufficiency of Christ’s death)についての疑問ではない。それは、福音が世界に提供されているという事実から明らかであり、それはどの人も、また、来る人すべてを救うに十分に違いない(must to save any and all who come)。罪の性質と救いのための要求についての分析は、同じ罰がまさに1人の人のため、あるいは、全世界のため、キリストが死ぬことを必要としたのである。彼の人格の本来的な効果は、彼の犠牲に無限の価値を与える。こうして、それは、すべての人への十分性の疑問ではないのである。


第2に、すべての人を救うことは、彼のみわざのふさわしいこと(the suitability)についての疑問ではない。それは、聖書において、どの罪人のためにも、また、すべての罪人のためにも、ふさわしいものとして表明されている。第3に、それは、贖いが客観的な利用できることと提供(objective availability and the offer)の疑問である。福音を世に提供するという聖書の個所のむぞうさな読み方(the casual reading)は、福音は真実に提供され、また、こうして、すべての人が受け入れられるのに利用できることを明らかに示している。贖いは、無限の十分性を持つ(of infinite sufficiency)という事実は、それは客観的にすべての人に利用できることを意味する。


 第4に、それは、キリストの死からすべての人に対する益があるかどうかの疑問ではない。「不信仰で遺棄された人は、この世において、キリストが死んで、再び復活したという事実から流れる多くの益を享受する。キリストの仲保者的な支配は普遍的である。キリストは、すべてのものの上にいまし、天と地のすべての権威を与えられている。人々が享受するところのすべての祝福が与えられるのは、この仲保者的な支配の内においてである。・・・すべての益と祝福はキリストの支配の領域内にあり、また、この支配は、贖いの彼の終結したみわざに依存しているから、すべての人によって差別なく享受されている多くの益は、キリストの死と関係しており、また、一つの方法であるいは他の方法において、キリストの死から生じると言われよう。もし、それらがキリストの死から流れ出るならば、それらはこうして流れ出るように意図されていた。それゆえ、ある益の享受は、選民でなく遺棄された人によってさえも、キリストの死の意図の内側に落ちるのである。普遍的贖いの否定は、それと共に、すべての人によって享受される益が、キリストの死と終結したみわざに保つところの何かそのような関係の否定を担いはしない。


 第5に、それは、彼らに適用された贖いの疑問でさえもない。すべての人は、それが救われたところの人たちだけに適用されるということに、同意するのである。


 


(c)   語りかけられていることの疑問


 


 積極的には、疑問は、誰のためにキリストは死んだのかである。誰のために、彼は神の怒りを宥めたのか。誰のために、彼は、御自分の死において和解をもたらしたのか。誰を、彼は御自分の死によって贖ったのか。誰を、彼は、カルバリで死んだとき、彼の贖いと贖いのみわざの対象として、熟考したのか。マーレー教授はその疑問をこのように置く。「キリストは、すべての人の救いを可能にするために来たのか。救いの道に立つところの妨げを除くために来たのか。そして、単に、救いの備えをするために来たのか。あるいは、彼は御自分の民を救うために来たのか。彼は、すべての人が救われ得る状態に入れるために来たのか。あるいは、彼は、永遠の命に定められたすべての人々の救いを確保するために来たのか。彼は、人々を贖い得るようにするために(redeemable)来たのか。あるいは、彼は、効果的に、無謬的に贖うために来たのか。贖いの教理は、もし、贖いとして、永遠の命を受け継ぐ者たちと同様に、それは最後的に滅びる人々に適用されるのであれば、根本的に改定されねばならない。その出来事において、聖書が贖いを定義し、また、それらからそれらの貴重な意味と栄光を得るところによって、わたしたちは、壮大な範疇を弱めねばならないであろう(Redemption,pp.73-74)。


 わたしたちは、これらの疑問に、イエスの言葉へのまさに急な言及で答えよう。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6:38-39)。贖いについての限定されたあるいは特別な理念を教えている聖書の多くの個所がある。最初に、その概念は、旧約聖書の犠牲の各々の一つによって明白に教えられている。それらは、それらの意図において、すべて特別であり、限定されている。犠牲は常に限定的であるという旧約聖書の証言の重みをもって、わたしたちは、何故、新約聖書におけるこの理念のために特別な場合がないのかを理解できるのである。


 


(c)聖書の証拠


 


(1) 旧約聖書の特定主義(Old Testament Particularism)


贖いについての旧約聖書における大きな個所、すなわち、イザヤ52:13-53:12は、贖いの限定された意図と範囲(the limited design and extent)についての教理を支持する。最初に、53:6で、普遍的な贖いを支持しているように見えるかもしれず、そこでは「そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた」と言う。しかしながら、平行個所の11節は、「すべて」(all)の限定を「多くの人」(many)を示唆している。さらに、6節自身において、「わたしたちすべて」(us all)というイザヤの限定である。換言すれば、イザヤは、僕(the Servant)は、世のすべての人(all the world)のために苦しんだことを言ってはおらず、わたしたちすべてのために苦しんだと言っている。4節と5節は、この限定する概念をも持つ。「・・・わたしたちの(OUR griefs),Our sorrows・・・しかし、彼は、わたしたちの不義(OUR iniquities)のため・・・わたしたちの背き(OUR chastisement)・・・わたしたちの平和(OUR peace)・・・わたしたちはいやされた(WE are healed)」。これらの節において、わたしたちは、「一連の維持された所有形を持ち、また、6節において同じ語り手が見解に入っている。もし、告白的な断定(the CNFESSIONALN AFFARIMATION)が先行する節において普遍化されていないならば、6節には普遍主義はないのであり、これはその場合ではない。わたしたちは、6節の「『わたしたちのすべて』(all of us)を先行する節の告白的な断定を超えて広げてはならない」(Murray,ClassNothes,p.41)。わたしたちがこの章を進んで行くと、わたしたちは、6節、11節、12節において、その章の残りにおいて、見解に入っているお方を告げるところの8節において、「わたしの民」(my people)への特別な言及を見い出す。再び、10節は、彼の子孫について語る。ここには、子孫のための身代わりの理念が明らかに述べられている。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」。52:15に、民族的な普遍主義(an ethnic universalism)があり、「それほどに、彼は多くの民を驚かせる」と言われているが、しかし、この章句に、それぞれの民族、また、各々の民族に分配する普遍主義の理念(no idea of a distributive ,each and every one,universalism)はないのである。逆に、この章句には明白な限定がある。


 


(2) 新約聖書の特定主義(New) Testament Particularism)


 


たとえば、天使がヨセフにイエスの名を告げたとき、彼は言った。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民(his people)を罪から救うからである」(マタイ1:21)。2つのことがこの節において考察されるべきである。最初に、イエスは、実際に救う、救いを可能にするだけでなくである。第2に、彼の救いのみわざは、特別に彼の民のために意図されている。イエスは、御自分もみわざの目的をマタイ20:28で描く。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人(for many)の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ここに、再び特別な贖いについての「多くの人のため」(for many)における示唆があり、普遍的な贖いではない。再び、ヨハネ10章において、イエスは御自身をよき羊飼いとして描き、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる・・・それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11、15)。ここに、わたしたちは、イエスが、彼を受け入れない彼の羊ではないところのユダヤ人の語るところの文脈において、特に関心がある。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」(ヨハネ10:26)。同様の章句がヨハネ15:13に見い出される、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。使徒言行録20:28において、使徒はキリストの死について、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会(the church of God)の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。ここでは、買うことの意図は、明白に主の教会として示されている。再び、エフェソ5:25において、使徒は教会を、そのためにキリストが死なれたところの対象として名を挙げる。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。


 ヨハネ17章の大祭司の祈りは、父が子の与えたところの選民のためにおけるものとして明らかに述べられている(ヨハネ17:2、6、11、12、24)。これは特に意義が深い。何故なら、この祈りは、キリストの祭司的みわざの主要な部分であるからである。彼は、この祈りにおいて、十字架の死のために御自身を清め、あるいは、向かわしめている(19節)。もし、彼が、彼の祭司的みわざのこの局面を選民に限定するならば、そのとき、それは彼の祭司的みわざに一部であるが贖いそれ自身がその意図においても限定されているのである。


 イザヤ53章の場合においてのように、「すべて」(all)が文脈によって限定されているように、ローマ8:23において見い出される「すべて」(all)という言葉も同様な限定である。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。表面的には、再び、キリストがすべての人のために死んだことを断言しているところのこれは普遍主義者の章句に見えるかもしれない。しかしながら、その章句の文脈は、この表現の限定を示している。ローマ8:32は、特に選民に言及している。33節もそうである。32節においても、「わたしたち」(us)によって修正されている。28節から32節まで全章句の特定主義が32節の「わたしたちすべて」(us all)についてのわたしたちの理解を神御自身のもものに限定しているのである。33節は、明らかに「神の選民」(God’s elect)という用語をキリストがその者たちのために死なれた者たちへの言及なのである。34節に進むと、「わたしたちのため」(for us)のキリストの効果ある執り成しへの言及がある。こうして、この章句の「わたしたち」(us)は再び31節のそれらによって限定されている。最後に、35節から39節において祝福されている神の愛が、それは信者の安全を保証するものであるが、キリスト・イエスにあるところの愛なのである。


 「今や、パウロが「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(32節)と言うとき、そこから分離されることが不可能であり、また、その中に抱かれるところの者たちの祝福を保証するところの不可避の言及は、その章句において以前に言及されたに違いない同じ愛なのである。それは、39節で「キリスト・イエスにおける神の愛」と呼ばれているところの確かに同じ愛である。それは、父として御子をさえ惜しまずに渡したのである。このことは、32節に意味されている愛、御子を与える愛は、35節から39節にしたがって、その対象であるところの者たちの永遠の安全を確かにするところの愛以上に、より広い言及が与えられないのである。もし、すべての人々がこの安全を享受しないのであれば、この安全の源泉であり、また、その所有についての保証であるところのものは、如何にして、そのような安全を享受しない者たちをい抱くであろうか。わたしたちは、それゆえ、パウロがここで語る安全は、愛の対象である者たちに限定された安全であり、それはカルバリの呪われた木において表わされ、また、それゆえ、カルバリにおいて表わされた愛は、それ自身が著しい愛であり、また、無差別的に普遍的であるところの愛ではないのである(Murray,Redemtion.pp.78-79)。


 


(3) 普遍主義的章句を吟味する


 


i.       一般的考察


 


 キリストの愛と彼の贖いの特定主義を教える明かな数個所があることを見てきたので、わたしたちは、今や、普遍主義を教えていると思える個所の幾つかを吟味しなければならない。最初に、神の御言葉の内には何の究極的な矛盾はないことが言わるべきである。こうして、信者が、聖書を解釈することは義務であり、特に矛盾と見えるところはそうである。別々の章句を吟味する前に、幾つの予備的な考察をしよう。


 第1に、聖書において、意図において明らかに限定されている普遍的な用語(universal terms)がある。たとえば、創世紀6:12-13は言う。「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。


神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす』」。これは、個々に普遍的ではない(not distributively universal)。というのは、ノアと彼の家族は、除かれているからである。またマルコ5:3において、イエスの上着に触れたその女は、「すべてをありのまま(all the truth)」イエスに話したと描かれている。明らかにこれはすべてについての限定された使用である。疑いもなく、彼女の行為に関する真理であるが、しかし、普遍的な意味での真理ではない。マルコは、その用語を洗礼者ヨハネの奉仕との関連において使う。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆(all they)、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:5)。彼が、ユダヤとエルサレムの非常に多くの人々が出てきたことを意味していることは明白であるが、しかし、彼は、一人一人どの人も(each and every one)出て来たのではない。他のそのような章句は使徒言行録2:43、コリント一10:23、ペトロ一4:7を含む。


 第2に、聖書においては、民族的普遍主義(ethnic universalis,)と個々の普遍主義(duatributive universalism)の間には区別が見い出される。わたしたちは、このことをすでにイザヤ52章から53章についてのわたしたちの扱いにおいて注目した。キリストの死は、すべての国民のため(for all nations)、すべての人種と親族の人々ため(for people of all tribes and kindreds)であったという事実は、新約聖書のユダヤ人弟子たちとの関連で強調されねばならない概念であった。ヨハネ12:32の文脈は、このことは、イエスのもとにすべての人を引き寄せる意味を示唆した。すべての類の人が彼に引き寄せられるが、それは世界の一人一人どの人も(each and every one)引き寄せられる意味ではない。


 第3に、無差別の普遍主義(an indiscriminate universalism)も新約聖書に見い出される。福音は、すべての人の救いに役立ち、また、招きがすべての人に与えられるという事実に見い出される。すべてについてのパウロの使用法はある場合には、グノーシスの古典主義(the classism of Gnosticism)に反対するものとして、福音の無差別的性格(the undiscriminating nature of the Gospel)を強調してきた。たええば、テモテ一2;7。


 弟4に、言葉新約聖書において「世」(world)として使われている用語は、むしろ、個々に理解されるものとしての世への言及よりも(rather than as a reference to the world as distributively understood)。特に、明らかにヨハネが民族的な資質において(best be understood in distinctly ethnical quality)、最もよく理解されるであろう。


 第5に、わたしたちは、著者の意図を超えて、普遍主義を押し込まないように、章句の釈義に注意しなければならない。たとえば、ヘブライ2:9において、「ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」の「すべての人のために」(for every man:ύπερ:huperpanta:ヒュペル パンタ)死んでくださったのです」は、次の節の「多くの子らを栄光に導くために」(in bringing many sons into glory)という句によって明らかに限定されている。


 これらの考察をしたので、わたしたちは、今や、いわゆる普遍的章句(the so-called universalistic passages)の幾つかを見よう。


 


ⅱ.ヨハネ3:16


 


 この章句の注意深い分析は、普遍主義を教えることを意図していないことを示したている。神の愛の対象が「世」(the world)として描かれている。わたしたちは、ヨハネにおけるこの用語は、量的な意味よりも(a quantitative sense)、むしろ、しばしば民族的(in an ethnical)であることをすでに示唆してきた。ヨハネ一2:16は、「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(参照 ヨハネ14:17、27、15:18、19、16:11、ヨハネ一2:15、3:1、13、4:5、4:19)。ヨハネ3:16の神の愛の対象は、それゆえ、まったく神に憎まれている(detestable)ところのものである。何故なら、世は聖にして善いものであるすべてに反しているからである。神がそのように御子を与えるほどに愛したのはこの主の世なのである。こうして、この節が祝っているこの節は、卑しむべきで憎むべき世の矛盾と呪いを担うために、神の独り子を遣わすところの愛の公平性、愛の強さなのである。強調されているのは量でなくて、質なのである。さらに、愛のこの行為の結果は、彼を信じる者たちのための救いの確保なのであった。限定されたもの、すなわち、永遠の命を確保し、確かにするのが、キリストを与えることだったのである。


 「神は、選民が滅びないために、御自分の御子を与えたということは、釈義的に適切である。このことそれ自身は真実で十分であるが、しかし、それはテキストが言うところのことではない。その解釈をテキストの後半部分に課すことは茶化しでる。テキストは、キリストへの信仰についている安全に強調がある。その安全は御子を与えることによって目的に到達されるのである。キリストを信じる者たちの安全は、それがどんなものであれである(Murray,Claas Notes,p.46)。


 その節それ自身が、信じる者たちだけへのこの救いの適用の限定を含んでいることが考察されるべきである。もし、わたしたちが、ヨハネ3:16の「世」(world)を普遍化するならば、そのとき、わたしたちは、3:17においてもそうしなければならない。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。もし、わたしたちが、世を一人一人どの人も(each and every one)に普遍的に言及すると取るならば、そのとき、わたしたちは、3:17の根拠において、一人一人どの人も(each and every one)を救われると設定しなければならない。とはいえ、3:16は、信じる者たちだけを救うところの者についての明らかな限定があるのである。もし、他方、わたしたちが、「世」(world)を神の愛の対象についてのひどさ(the vileness)に言及していると理解するならば、神は、それにもかかわらず、御子を喜んで世に遣わし、また、そこから信じる者たちがいるであろうところの、また、こうして救われ、わたしたちは、限定され、制限された贖い章句に何の矛盾なしに、テキストを正当に扱うのである。


 


ⅲ.コリント5:14-15


 


 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。この章句において、2回もキリストが「すべての人のために死んだ」という叙述を見る。その章句の吟味は、そのために彼が死んだところの者たちが彼と共に死んだことを示す。ローマ6:8は、彼と共に死ぬ者が彼と共に生きることを述べている。「たしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。その章句は、わたしたちの前に同じことを意味する。ローマ6:2-8は、キリストと共に死んだ者たちを命の新しさの中を歩く者たちとして明らかに制限している。こうして、パウロ自身の教えから、わたしたちは、「すべての人のために死んだ」(died for all)というこの章句における表現は、個々の意味における普遍的贖いを教えることを意図してはいないのである。


 


 


 


ⅳ.ヨハネ一2:2


 


 「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。この章句は普遍主義者的意味における全世界(the whole world in a universalistic sense)へのキリストの宥めのみわざの広がりを教えているように思える。この言語は、もし、これが聖書の残りの教えであったならば、普遍的な贖いと完全に一致するであろうと言われるべきである。しかしながら、疑問は、この章句が、普遍的贖いを要求しているかどうかである。それを他の方法において置くために、この章句は、解釈に原則に違反しないで、制限的贖罪の教理(the doctrine of the limited atonement)と一致して解釈され得るかどうかである。わたしたちは、聖書の他の部分において、そのように明きらかに制限的贖罪が断言されれているのを見い出したので、わたしたちは、この教理と一致してこの章句を解釈する何かの方法をがあるかどうかを適切に問うのである。普遍的贖罪の教理を要求しないところの「全世界」(the whole world)という表現についてのヨハネの使用に対するよい理由があるだろうか。「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償う受けににえです」という表現に対して与えられるであろう幾つかの理由がある。第1に、それは、「罪をつぐなういけにえ」(propitiation)は、主を見たし、聞いたし、手で触れたところの弟子たちのはるか以上のものであることとの事実に言及している(ヨハネ一1:1-3)、あるいは、使徒たちの証言を通して信じたところの者たちの直接のサークルのはるか以上のものであることとの事実に言及している(ヨハネ一1:3-4)。第2に、キリストの「罪をつぐなういけにえ」(propitiation)は、まさにユダヤの民よりもはるかに超えることを強調する必要があった。それは、民族的な普遍的な適用を持った、というのは、どの国民、親族、民族もキリストのみわざにい抱かれたからである。さらに、文脈は、キリストの「罪をつぐなういけにえ」(propitiation)は、すべての時代とどの時代にも継続的な効力を持つ事実を強調している。


 叙述のこの形態が、「正しい方、イエス・キリスト」(Jesus Christ the righteous)を十字架の犠牲によってすべての人のために唯一度、罪を償ういけにえ(propitiation)とされたお方としてだけでなく、彼の唯一度、それを達成したことから確保する罪を償ういけにえ(propitiation)の力の永続的な具体化(the abiding embodiment)であるお方としても、また、彼を信頼する者たちに有効な罪を償ういけにえ(propitiation)を提供するお方としても、指し示していることは、十分あり得る(Murray,Redemption,p.84)。罪を償ういけにえ(propitiation)の制限は、1節の弁護によって示唆されている。「もし、わたしたちが、「罪を償ういけにえ」(propitiation)を彼の弁護を超えて広げるならば、わたしたちは、(2節の)この熟考とほんど合わないところのものを導入するのである(Ibid,p.85)。


 わたしたちが、贖いの範囲にいてのこの部分を結論するとき、聖書はキリストの死を救いの祝福の達成と確保として、すなわち、償い、宥め、和解、そして、贖いとして、表わしていることを覚えることはよいことである。これらのどの場合も、これらの祝福をまさに可能にすることについての表明ではないが、しかし、むしろ、それらは実際にキリストによって達成されたのである。単なる可能な償い、可能な宥め、可能な和解、そして、可能な贖いへとこれらの用語を弱めるであろうところの普遍主義は、贖いについての聖書の教理の妥協であろう。贖いがこれらの祝福を実際に達成するものとして見られるときにのみ、キリストのみわざの十分さが見られる。聖書の表明の十分さを保持するのは、限定された、あるいは、制限された贖いなのである。ジョン・マーレー(John Murray)教授は言う。「キリストの十字架の栄光は、その達成の効果性(the effectiveness)と結びついている。キリストは、すべての不義からわたしたちを救いだすために、わたしたちを御自分の血によって神へと贖ったのであり、彼は御自身を身代金としたのである(Idem.)。


 


Ⅲ.王としてのキリスト


 


A.  序論


 


わたしたちが、キリストの王的職務(the royal office)を考察するとき、ここで見解に入っているキリストの王性(the Kingship)は、彼の神性のゆえに持っているところのものではないことが、直ちに考察されるべきである。むしろ、それは、彼が恵みの契約の仲保者として持っている王的職務なのである。それは、十字架のみわざのすべてが完成したとき、彼が復活した後で(after he has risen from the dead)、彼が受けた職務である。それは、それゆえ、彼は神人(the God Man)として遂行したところの王の職務である。すべての彼の王的行為は、限りなく賢明であり、義しいものであり、力あるものである。何故なら、彼は神だからである。また、とはいえ、それらは真実な人間的な資質を所有している。というのは、彼はわたしたちのすべての弱さに対する感情を持っているからである。


 


B.  彼の支配の起源


 


1.キリストは、時間の始めから、恵みの契約の仲保者であった。というのは、彼は世の基いから屠られた小羊であったからである(黙示録13:8)。彼は、アブラハムとモーセ以前に預言者であり、メルキゼデクとアロン以前に祭司であり、ダビデ以前に王であった。彼は彼らの職務の基礎である。彼は、それらを御自身の型(types)として設立したし、また、彼らは自分たちの意味を預言者、祭司、王としての彼から取ったのである。王として、イエスは旧約聖書のヤーウェ(Jehovah)であった。イエスのためのパウロのお気に入りの肩書は、主(the Lord)であったことに注目することは興味深い。その用語は、70人訳聖書においてヤーウェ(Jehovah)と訳されている。彼は、主の天使(the Angel of the Lord)であった。彼は、歴史におけるすべて人間の事柄を支配する。彼は、シナイ山における律法付与者であった。彼は、イスラエルを「力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって」(申命記26:8)エジプトから導き出した。


 


2.しかしながら、厳密に言えば、王的職務の実際の公的な就任(the actual and formal assumption)は、復活後であり、昇天と共に(with the Ascension)である。彼は、受肉のときまで神人の性格(the God-Man character)を所有していなかった。ここに、彼の祭司的なみわざが彼の王的職務に先行する。「この人が、罪のために唯一の献げ物を献げ後、神の右に座したのである。そのときから、彼の敵が彼の足下に服従させられるときまで、期待されるのである」(ヘブライ10:12-13、マタイ28:28、使徒言行録2:32-36も見よ)。


 


C.  王的職務の性質


 


この王的職務は本質的に救い主としてのキリストによる恵みの王的分散である。このことは、教会への彼の王的な命令において見られる。「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:18-19)。ペンテコステにおける聖霊の注ぎは、また、こうして、福音を世界へと運ぶため、教会の権限を与えることは、キリストのみわざである。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2:32-33)。この王位(this kingship)はそれゆえ性格において恵み深いのである。


 


D.  彼の王位の目的(the object of his Kingship)


 


この王職の目的は、この罪によって破壊された世界に秩序をもたらすことであり、また、特に、彼自身の者たちに救いをもたらすことである(エフェソ)1:10-23、コロサイ1:20)。彼は彼らのために王国を樹立する(ルカ22:29、ヨハネ10:13)。彼は、最後には、すべてを御自身に服従させ(コリント一15:25、ヘブライ10:13)、すべてが彼を礼拝し、彼を主と認めるのである(フィリピ2:7、ヘブライ1:6、黙示録5:2-13)。


 


E.  彼の王位の局面


 


1. 彼の王国は力の王国


 


 それは、世界のすべてを包含する。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている』」(マタイ28:28)。


 


2. 彼の王国は、恵みの王国である


 


 彼は、彼の民に霊的支配を行う。このことは、わたしたちを御自分に従わせることにより、個人的に、また、わたしたちを恵みの御自分の王国の中に有効召命する。さらに、彼は、御自分の敵とわたしたちの敵のすべてを抑制し、克服する。彼は、困難のときのわたしたちの今の助けである。さらに、彼は、わたしたちを集合的に支配する。彼は、シオン、見える教会における唯一人の支配者である。彼は、その法を、そのメンバーシップを、その職にある者たちを、そして、その弟子たちを建てるのである。


 


3. 彼の王国は栄光の王国である


 


 彼は、人格的な再臨によって、御自分の王国を栄光的な完成を導き入れるお方である(黙示録19:1-16、22:3-4)。彼は、偉大な白い御座に座し、永遠に支配するお方なのである。


 


 


解説


 


 「第27章:キリストのみわざ」の紹介が終わったので、?点の解説をする。まず第1点は、キリストのみわざの議論の展開の仕方についてである。すると、スミスは、改革派神学の伝統に従い、キリストの三職と二状態の仕方で展開する。三職とは、キリストの預言者職、祭司職、王職を表し、二状態とは、キリストの謙卑の状態と高挙の状態のことである。こうして、キリストは恵みの契約の仲保者として、三つの職務を二つの状態において果たすことによって、選民に救いを得させるみわざを行うのである。そこで、スミスは27章でキリストの三職論を扱い、次の28節において二状態論を扱う。


 第2点は、では、どうして、キリストは恵みの契約の仲保者として、三つの職務を二つの状態において果たさねばならかったのかについての理由である。すると、スミスは、人間は、神との契約的被造物としての職務を担う者として創造され、その職務は三重で預言者的職務、祭司的職務、王的職務であったと言う。すなわち、人間は神についての真理を語り、自分自身を神に献げ、他の被造物を支配する職務を担っていた。しかし、アダムの罪により堕落し、罪人に転落し、偽りを愛する悪魔の預言者となり、自分自身を罪に献げる悪魔の祭司となり、悪魔の下で被造物を支配する王となった。そこで、三つの職務の更新が必要とされ、人間が踏み外した三つの職務を二つの状態においてキリストが果たし、贖った人々を本来の職務に再び回復するためであることを、フクセマを引用して明らかにする。


 第3点は、預言者としてのキリストについてである。スミスは、キリストが預言者であることを語るにあたって、預言者の概念を旧約聖書の具体的個所を釈義しながら詳しく解説していくが、詳しい議論はスミスの本文を読んでいただけばと思う。わたしは気がついたことだけを述べる。預言者は、神の霊感によって語り、神の公的な大使あるいは使者であり、神の代弁者、スポークマン、神の口である。では、キリストはどのようにして預言者職を果たしたのか。すると、三位一体の第二人格のロゴスであったが、受肉して神の意志を伝えた。また、ペトロ一1:10-11にあるように、キリストは御自身の霊である聖霊によって、御自身の苦難とそれに続く栄光について旧約聖書の著者たちに語らせた。また、地上にいる間、キリストは預言者と見られていて、父の御心を語り続けた。また、キリストは昇天前に、聖霊の派遣を約束し、聖霊が真理の御霊として教会を導きようにされた。それゆえ、キリストは、今や、天に戻られてさえも、キリストは預言者的職務を果たし続けているのである。キリストは、肉において来る前も来た後も両方において、わたしたちの救いのために神の御心を御言葉と御霊によってわたしたちに啓示することにおいて、預言者の職務を行うのである。


 第4点は、祭司としてのキリストについてである。スミスは、ヘブライ人への手紙を引用しながら、祭司の職務がどのようなものかを明らかにする。すなわち、祭司は、罪のために、賜物と犠牲を献げるために特別に任命され、神との和解、罪の償い、最終的には、人々と彼らの供えものを神へ献げることを行う。またキリストの祭司職は、アロンの秩序よりも高い王であったメルキゼデクの秩序の祭司である。また、祭司は、罪人の罪の贖い(atonement)のために神に犠牲を献げるが、その贖いについては、歴史上、種々の誤り現れた。すなわち、道徳的理論、統治的理論、神秘的理論、身代金的理論である。なお身代金論については、十字架においてキリストによって支払われた代価は、サタンに支払われたところの代価であったと主張するが、これは誤りである。しかし、キリストは御自身の命を身代金として神に支払ったことは正しいので、この正しい身代金論については、スミスは後で詳しく述べる。


 また、贖いの源泉は、ヨハネ3:16にあるように、主権的な神の愛であり、贖いの必要性は、いろいろに主張されてきたが、スミスは、結果的な絶対的必要性であると結論する。すなわち、神は、罪人を救う義務を本来持たない。しかし、神は聖定において人間を救うことを決定したので、結果的に、救いの必然性が生じたのであり、救いはキリストが血を流すことにより、神の義の満足によって達成されることを要求したのであり、それは、神でもあり人間でもあるお方によってのみ果たされ得るのであることを、スミスは述べる。


 第5点は、贖いの性質についてである。聖書は、少なくとも5つの異なった用語が使って、贖いの性質を語っている。それらは、従順(obedience)、犠牲(sacrifice)、償い(propitiation)、和解(reconciliation)、贖い(redemption)である。従順は、


父に従う僕としてのキリストのみわざの曲面を表わし、古典的な章句は、イザヤ52:13-53:12である。また、フィリピ2:7-8は、僕のかたち(the servant-form)と神のかたち(the divine-form)を調和させているし、また、それゆえ、キリストの十字架の死に至るまでの従順さえも強調している。なお、改革派神学は、キリストの積極的従順と消極的従順を語ってきた。積極的従順は律法の要求の完全な実現を意味し、消極的従順は、人間が律法に背いた罰をキリストが受けてくださることを表す。


 第6点は、キリストの従順の犠牲の局面についてである。キリストの十字架の死は、聖書においては、どこででも犠牲として示していると言えるほどである。キリストは、神の義を満足させるために犠牲として、御自分の命を捨てるのである。この流れで注目すべきことは、「罪の償い」(expiation)と「罪の宥め」(propitistion)の違いを、スミスが強調していることである。償い(expiation)は、罪の罪責を除くこと、あるいは、覆うことである。宥め(propitiation)は、神の怒り、あるいは、神の不興を宥め、鎮めることで、意味がより強い。すなわち、神の義は宥めの犠牲によって満足させられるのである。そこで、スミスは、ローマ3:25は「罪を償う供え物」(新共同訳聖書)と訳されているが、「罪の宥めの供え物」と訳すべきことを主張している。また、ヨハネ一2:2は「全世界の罪を償う供え物」と訳されているが、「全世界の罪を宥める供え物」と訳すべきことを主張している。


 第7点は、キリストの従順の和解の局面についてである。聖書は、わたしたちが神に和解されること(ローマ5:10)と神がわたしたちを御自身に和解させてくださることであること(コリント二5:18-19、エフェソ2:16、コロサイ1:20-22)の両方を語っているが、特に重要なのは、神がわたしたちを御自身に和解させてくださることである。和解の代表的な個所は、コリント二5:18-19であるが、和解は、わたしたちの罪ゆえに神がわたしたち罪人に対して敵意と疎遠を持っていて怒っていることを前提している。しかし、神はキリストの犠牲のゆえに、わたしたちを御自身と和解させ、疎遠を取り除き、まじわりに入れてくださるのである。また、それゆえ、和解を受けたわたしたちは、今度は和解の言葉を他の人々に語るのである。


 第8点は、キリストの従順の贖い(あるいは贖罪:redemption)の局面についてである。旧約聖書における贖いを示す原語は、救出、救い出しを表す。また、代価の支配によって解放すること、買い戻し、回復をあらわす。すなわち、旧約聖書における贖いは、人あるいは物の回復のことで、回復のためには贖いの代価(身代金)が必要であり、贖いを果たす人は贖い主と呼ばれたのである。


 新約聖書においては、贖いの理念は、代価の支払、すなわち、わたしたちの救い主が血を流すことによってであることを明らかに示している。マタイ20:28、マルコ10:45は、まさにキリストは、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たことにおいて、御自分のみわざに言及しているが、要点は、身代金は彼自身の命を与えることであり、この身代金は、性格において身代わり的である。


では、何かから贖われるか。すると、罪からの贖いであり、罪の奴隷状態からの解放であり、代価はキリストの血を流すことである。また、贖いは、キリストが、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼすことで、キリストの贖いのみわざの勝利の局面の調べがある。律法からの救出でもある。


 第9点は、キリストの贖い(あるいは贖罪:redemption)の範囲にいてである。すなわち、キリストは誰を贖うために死んだのかという疑問を、スミスは扱う。すると、スミスは、ここで、キリストの贖いの十分性と効果を区別することかを語る。すなわち、キリストの贖いは、すべての人を救うのに十分であるが、しかし、その効果が働くのは選民に対してだけであるという特定者救済主義を聖書は明白に教えていることを語る。すなわち、救いのための福音は一般的に広く誰にでも語られるが、有効召命されて救われるのは選民に限られるのでる。キリストの犠牲は限定的である。旧約聖書のイザヤ書53章を見れば、メシアの犠牲は「わたしの民」と言われる者たちの背きの罪を赦すためで限定されて、特定者救済主義を語っている。新約聖書においても、ヨハネ10:11、15において、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語り、10:26では、「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」と語り、御自分を信じないユダヤ人の贖いをしないことを明白に語っている。こうして、新約聖書も特定者救済主義を語っている。


 なお、聖書の中には、ヨハネ3:16その他の万人救済主義、普遍的救済主義を教えているように見える個所があるが、ヨハネ3:16の「神は・・・世を愛された」の「世」は、世界のこの人あの人1人1人すべてを数量的に意味しているのではなく、罪の染まっているこの世の人々を質的に表しているので、万人救済主義の根拠にはならない。また、18節で「信じない者は既に裁かれている」とあるので、万人救済主義を支持しない。また、ヨハネⅠ:2は、「この方こそ・・・全世界の罪を償ういけにえです」とあり、万人救済主義、普遍的救済主義を教えているように見えるが、キリストの「罪をつぐなういけにえ」は、ユダヤの民を超えて、どの国民、どの親族、その民族もキリストの贖いによって救われること、また、キリストの「罪をつぐなういけにえ」(propitiation)は、すべての時代とどの時代にも継続的な効力を持つ事実を強調していることを、スミスは述べる。


 第10点は、キリストの王職にいてである。キリストの王的職務と言うときには、三位一体の第二人格の子なる神としての万物支配の王を表すのではなく、恵みの契約の遂行をするためにキリストが取られた王職を表すことを、スミスはまず述べる。キリストは生まれたときから王であったが、特に、十字架のみわざ完成し、復活した後で、彼が受けた職務であると言える。マタイ28:18-19で、キリストは、


「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と語り、王の職務を遂行する。王職の目的は、罪によって破壊された世界に秩序をもたらすこと、また、特に、彼自身の者たちに救いをもたらすこと、彼らのために王国を樹立すること、最後に、すべてを御自身に服従させ、すべてが彼を礼拝し、彼を主と認めさせることである。


 第11点は、スミスは述べていないが、バルトの和解論の問題点である。改革派神学のキリストの人格論とみわざ論と二状態論にあたることが、バルトの和解論であるが、世界的改革派神学者のベルクーワが、バルトの和解論の問題点を幾つも挙げて批判しているので、わたしの言葉で紹介しておく。バルトは、キリストにある神性のへりくだりと、キリストの人間性の高挙によって、救い、和解は成り立つと考えた。これで、もう、客観的に、神と人間の和解は成り立ってしまう。人間の救いは、客観的にすでに成立していることになる。


 すなわち、改革派神学においては、キリストは、わたしたちの罪を身代わりに背負って、十字架で、父なる神から裁かれ、審判されて、代理贖罪をしたと主張するが、バルトは、キリストが十字架で死んで、身代わりとなって行った贖いは、すべての人々が、キリストにおいて、また、キリストと共に死んだ出来事で、人は、すでに、神により客観的に和解させられていると主張する。


 そして、キリストの身代わりのみわざは、わたしたちがキリストにおいて、また、キリストにあって死んだ出来事なのである。そして、キリストの審判は、取り消されず、すべての人間は、審判によって打たれ、キリストの死を通して、審判は消し去られたのである。キリストの死において生じたところのキリストの死と和解は、世の終わり、また、罪人の終わりと呼ばれ得るのであり、審判、死、終わりは、ただ一度だけ、キリストの人格において、キリストと共なるわたしたちの上に来たのである、それゆえ、わたしたちが審判されることは最早ないと述べる。


 この意味は、イエス・キリストにおいて、人間に対する審判の意味での死は終わって、人間と神との和解が成立したことを意味する。そして、この和解は、客観的で、誰も取り消すことができない。すなわち、人が、これを信じようが、信じまいが、無関係のキャンセル不可能の客観的な出来事であり、神と人間の和解は、客観的に、すでに実現していることを語る。聖霊の適用のみわざを待たないで、救いは成立するという考えである。バルトの考えは、本当に、客観主義である。


 こうして、バルトは、和解は神の決定で、キリストだけが捨てられたことにより、すべての人がキリストにあってすでに和解されていて、最早、誰も捨てられることがなく、誰もこれを覆すことができないと主張する。同時に、バルトは、「あなたは、わたしを信じるか」という信仰も要求すると述べるが、しかし、バルトのこの考え方だと、和解はメッセージでなく、発表となり、さらに、一人ひとりが信仰するか、あるいは、信仰しないかの決断の真剣性、重大性の意義が弱くなり、また、宣教も緊急性をもたなくなる。バルトの和解論は、キリストひとりだけが捨てられたのは、他のすべての人が捨てられないためであったということで、万人救済論的になり、聖書の教えから外れる。また、和解はすでに客観的に成立しているので、誰も覆せないということになると、これは、信仰の決断で受け入れる和解の使信、メッセージではなく、神がキリストによりすべての人とすでに和解しているという事実の客観的報告となり、信仰の決断性を弱め、また、宣教の緊急性や責任性も弱めることになるので、不十分な理解となる。


 では、聖書に基づく正しい和解論は何か。すると、改革派神学が聖書に基づいて主張してきたことである。すなわち、二性一人格のイエス・キリストが謙卑と高挙の二つの状態において救いの道、和解の道を備えてくださり、その後は、人が教会の宣教する十字架の和解の福音を聞いて、聖霊の働きによって有効召命され、一人ひとりがキリストを自分の救い主と信仰することによって、キリストによる救いが一人ひとりにあてはめられ、適用され、実際に、このときはじめて神と自分が和解されるのである。バルトには、聖霊による救いの適用がまったく欠けている。一人ひとりがキリストを積極的に信仰するというダイナミックな面が欠ける。何でも、すでに、客観的に、イエス・キリストにおいて恵みが勝利しているという図式である。この主張は独創的で聖書の根拠がなく、信頼できない。この点については、拙著「G.C,ベルクーワ:教義学研究」の第7巻「キリストのみわざ」の「第11章 キリストのみわざの諸側面 a.和解」、「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第5章 和解の勝利」を参照のこと。


 第12点は、バルト神学における神の苦しみの問題についてである。バルトは、ためらいなしに、神の苦しみ、神の従順、神の自己放棄を語る。すなわち、イエス・キリストを和解する神御自身、すなわち、世を御自身において和解させる神として出会うと主張する。神御自身の苦しみは、バルト神学において、本質的重要性をもち、神御自身の自己謙卑、神御自身の自己放棄、神御自身の謙遜、神御自身の苦しみ、神御自身の従順を語るが、それらは、神の誉れや神の存在と矛盾せず、むしろ、わたしたちの思考の出発点、規範となる。


こうして、バルトは、「神御自身内」(within God Himself)の苦しみを語るが、これは、三位一体の神秘の侵害となる。何故なら、バルトの語る神の苦しみ、神の従順は、啓示の啓示を超えるからである。聖書の教えは、神性と人間性ともったキリストの苦しみは、あくまで、御父への従順における二性一人格の仲保者イエス・キリストの苦しみなのである。それゆえ、バルトの神の苦しみは、思弁であり、受け入れられない。バルトのように、キリストの神性から、神御自身を導き出し、キリストの苦しみは、神御自身の苦しみと言うことは、キリストの仲保者性についての聖書の教えをぼやかしてしまう。キリストが苦しみことを、神御自身が、身代わりの自己放棄において苦しむ主体であると言うとき、父なる神へのイエス・キリストの仲保者的従属は、ぼやかされる。キリストが律法の呪いの下にいたこと、キリストが神の怒りに耐えたこと、キリストが神に見捨てられたことを理解することは、困難となる。これらは、御父への仲保者キリストの従属として生じたのである。


この点において、聖書が、イエス・キリストと御父の間の関係性に絶えず言及することが重要である。代表的な個所として、わたしたちは、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27:46)で、キリストが、神から「見捨てられる」ことにおけるクライマックスを見る。このところを、キリストは神であるから、神であるキリストが、神であるキリストから見捨てられて苦しんだと言うのは、おかしなことになるであろう。では、そのとき、御父は一体どうなるのかという大きな疑問が出る。それゆえ、キリストが、仲保者として、御父から見捨てられて苦しんだという改革派の言い方が、健全で正確な聖書的言い方である。バルトの神の苦しみは、聖書の教えから外れる。この点については、拙著「G.C,ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利」の第11章「神的勝利」を参照のこと。


第13点は、バルトにおける律法は福音の形式の問題についてである。伝統的神学においては、ローマ3:20-21、ガラテヤ3:2-25などの明白な御言葉に基づき、律法が福音に先立ち、人間の罪を責め、人間に罪を自覚させ、人間が律法を守りきって、義を得ることは不可能であることを知らせて、人間が福音によりキリストを信仰して、恵みにより救われることへ導く、キリストへの守役、養育係としての律法の益が語られてきた。しかし、バルトは、律法と福音という伝統的順序を逆転させて、福音と律法と言い、律法は、福音の形式と語る。バルトによれば、人間は、キリストにおいて選ばれて、また、キリストの和解において、罪、呪い、死、裁きから解放され、義とされ、受け入れられていて、恩恵がすでに客観的に勝利していて、誰もこれを覆せない。福音は、この主権的恩恵を意味する。


 そして、主権的恩恵は、選ばれ、和解され、義とされた人間を召し、神の命令に従って生きるように、命令を与えるが、この命令が律法であるので、律法は福音の内にあり、福音の形式、福音の衣となり、律法は、恩恵の枠組み内においてのみ機能をもつ。こうして、神の言葉はひとつであり、内容から言えば福音であり、形式から言えば命令の形式で律法なのである。義とされた人間が、神の意志の表れである律法に従って生きることが聖化となる。すなわち、人間に、罪と悲惨さを教え、自覚させ、責めて、キリストによる救いの恵みへの信仰へ連れて行く律法の大切な効用はなく、すでに選びの恵みに入れられている人間に対してのみ、人間が従う神の命令として機能すると、バルトは主張する。しかし、このバルトの主張は、ローマ3:20-21、ガラテヤ3:2-25などで、聖書が律法について教えることに反していることは極めて明らかであり、まったく信頼できない。この点については、拙著「G.C,ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利」の第11章「神的勝利」、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説-」の「第19章 神の律法について」、拙著「ローマの信徒への手紙説教集」の「人は皆、罪の下にある」(ローマ3:9-20)、「信仰による救い」(ローマ3:21-31)を参照のこと。


        http://minoru.la.coocan.jp/morton27.html