罪の結果

 


序論


 


 罪の起源と性質を、また、その下にアダムが置かれた試験(the probation)を考察したので、わたしたちは、堕落それ自身と罪の結果を今や吟味しよう。


 


1. 堕落


 わたしたちは、罪の本質的は神の律法の違反であるであることを見てきた。アダムとエバの罪は、まさにこれであった。彼らは禁じられ実を食べることにより罪を犯した。その下に彼らが生きていた特別な命令は、善悪の知識の実を食べるなという命令であった。


 ダブネー(Dabney)は解説する。「アダムの罪は、本質的に、もちろん、彼の身体的な行為にあったのではなく、彼の意図にあった。教皇派の神学者たちは、アダムの心の罪の最初の要素は高慢(pride)であったと通常言うのである。それは、悪魔(the Serpent)の嘲る言及によって、悪魔への依存と服従へと覚醒され、また、そのように高められる存在において不自然ではないもの(as being not unnatural in so exalted a being)としてであった。プロテスタントたちは、テュレチニ(Turretin)と共に、通常、それは不信仰(unbelief)であったと言う。何故なら、高慢は、もし、不信仰が無限の神とのアダムの適切な関係についての記憶を消し去る前に先行していかなったならば、自然的には被造物の心に暗示され得なかったからである。何故なら、心の不信仰(unbelief of the mind )は、意志における感情と行為を通常、命令するからである」(Op.cit.p.310)


 パウロは、エバの罪とアダムの罪を区別する。「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」(テモテ一2:14)。この違いは何を意味するのか。ジョン・ジル(John Gill)は、この疑問を次のように論じる。「アダムがエバと同様に罪を犯したことは最も確かである。というのは、『アダムはだまされませんでしたが』(Adam was not deceived)と言われているが、それはアダムが最初にだまされたのではないという意味であり、アダムは蛇(the serpent)にだまされたのではなく、彼の妻にだまされたのである。彼女が『だまされて』(in the transgression)と言われているとき、その意味は、彼女は最初に罪を犯したという意味である。しかし、そのことにおいてだけではない。というのは、アダムもである。それゆえ、わたしたちは、アダムの罪(Adam’s transgression)をローマ5:14で読むのである。そして、もし、彼女が実から食べた(原文のまま:sic)


とき、彼が妻と一緒にいたならば、創世紀3:6のテキストの文字から見えるように、彼は蛇の詭弁を見つけようとしないで罪を犯したのである。自分の妻を蛇の攻撃から守ることをしないで、彼女が実から食べないように説得することをしないで、危険を彼女に警告することをしないで、食べないように彼女を戒めることにおいて罪を犯したのである。というのは、もし、彼がいたならば、そして、何も言わなかったならば、彼は犯罪者また彼女の罪の共犯であらねばならないが、しかし、おそらく彼は彼女と共にいなかった(but perhaps he was not with her)。しかし、彼の罪は彼女に、彼女の勧めと求めに耳を傾けたことにある。それらの上に彼の罪が置かれているのである、創世紀3:17。


 ある者たちは、彼は彼女によって騙されなかったと考える、すなわち、彼は自分が行うことを知っており、また、何がその結果となるであろうかも知っていた。彼は、開いた目を持って罪を犯したのである。彼は律法の意味を十分知っていた。しかし、彼がしたことは自分の妻への愛想のよさ(in complaisance to her wife)であり、彼女への熱烈な愛と愛情からであった。何故なら、彼は彼女を悲しませたくなかった。また、彼女だけが死ぬことがないように、彼も食べること、彼女と共に罪を犯すこと、そして死ぬことを選んだのである。しかし、そのとき、これはすべてまさに犯罪(all very criminal)であった。自分の妻を、自分自身の肉(as his own flesh)として愛することは彼の義務であった。しかし、そのとき、彼は神以上に彼女を愛すべきではなかった。また、神に耳を傾ける以上に彼女の耳を傾けるべきではなかったのである」(John Gill,Body of Divinity,Atlanta:TunerLassetter,1950 pp.317-318)。


 


Ⅱ.最初の罪の直接的結果


 堕落の直接の結果は、彼自身の霊魂の堕落と共に神の即刻の不興と神からの疎外であった(the instantaneous displeasing of and alienation from God,along with the depraving of his own soul)。アダムは、罪を犯すことにより、わざの契約を破り、また、こうして、契約の呪い、すなわち、死の下の倒れたのである。A.A.ホジ(A.A.Hodge)は、このことは3つの局面を含んでいることを示す。体が死ぬべきもの(the mortality of the body)、霊魂の腐敗(the corruption of the soul)、永遠の死の宣告(the sentence of eternal death)である(A.A.Hodge,Outlines of Theology,p.323)。わたしたちは、霊的な死としての神からの疎外をすでに考察してきた。


 アダムとエバにとっては、最初の顕著な結果は、恥の感覚であった。両者が同等に有罪である。両者が同じ結果を経験する。ここに、歴史の最も悲しい反対の頂点(the anticlimaxes)の一つがある。『彼らは食べた、彼らは素晴らしい結果を期待した。彼らは待ち―そして、彼らには恥の感覚が生じた』(プロックシュ:Procksch)。彼らは、今や、善と悪の知識を持ったが、しかし、善において安定して留まったという結果としてでなく、それは巧みに置かれていたものとして、罪の低いレベルからであった。罪の経験が直接得たものはまったく下劣なもの(so utterly sordid)であった・・・明白な目的をもったいつくしみ深い主は、罪を行うことの下劣さとまったくの無価値さが明らかにされるために、この結果を 最初に感じるようにしたのである・・・恥の感覚は、子を産むことの器官(the organs of generation)によってしるしづけられる体の部分の周囲に集中していることは、疑いもなく、人間は人間の生命のまさに源と源泉が罪により汚染されていることを本能的に感じるというこのことにそのより深い理由を持っているのである」(H.C.Leupold,op,cit,p.14)。


 バーフィンク(Bavinck)はこのときを次のように解説している。「その罪の後、人間は、あたかも何事も起こらなかったかのように進ことはできかかった・・・このことは、堕落後、アダムとエバは、神から、また、お互いから身を隠そうとした事実から明らかである。そして、人間の目が開き、彼らは自分たちが裸であったことを知った(創世紀3:7)。突然、すぐに彼らは異なった関係にお互いに対立した。彼らは、以前にはお互いを見なかったようにお互いを見たのである。彼らは、お互いの目を自由に素直に見ることを敢えてしなかったし、また、そうできなかった。彼らは自分たちを有罪で不純と感じたのである」(Herman Bavinck,Our Reasonable Faith,GrandRapids:William.B.Eerdmans Publishing Co.1956 p.230)。


 罪の他の直接的な結果は、神に合うことの恐れ(the fear of meeting God)である。これは、審判の恐れを構築した。アダムとエバは、自分たちが神に不従順であったこと、また、自分たちがまさに神の怒りと呪いの下にあることを強烈に知った。彼らは、彼らを造り、また、恵み深く扱ってくださったところの造り主(the Maker)に会いたくなかった。というのは、今や、彼らは、神に憎悪されるもの(odious)になったからである。彼らは、それゆえ、彼らの審判者としての神から自分たち自身を隠そうとした。彼らの造り主へのこの恐れの理由は、彼らが霊的な死を経験したからである。それについては、わたしたちはすでに論じてきた。彼らが恥の感覚において現れたところの罪の感覚(the sense of guilt)を持ったのは、それは神との彼らの霊的な関係における変化のゆえである。彼らがお互いから隠れようとしたのは、彼らが自分たちの性的な違いをはじめて見つけたことの証拠として理解してはならない。原初の命令は、産めよ、増えよという命令を含んでいた。こうして、堕落していないときの人間は、結婚の結合を開始して、種を繁殖させることであった。恥の感覚は、彼らの内奥の存在において自分たちを巻き込んだ罪の感覚の結果だったのである。


 神から隠れることの人間の不可能性、あるいは、自分自身を覆うことの不能性は、人間が自分の性格を変える能力を失ったことの証拠なのである。堕落に先立って、人間は善(good)を持つが、しかし、変える能力(the ability to change)も一緒に持っていたのである。今や、彼は悪を選んだので、その過程を逆転することができない。これは、かみのみわざとしてのみ来るのである。


 最初の罪はそれだけで立たなかった。それは、そこから流れてくるところの罪の川となる最初のものにすぎないのである。アダムとエバは神に直面させられたが、告白し、悔い改めるのではなく、自分たちの罪の言い訳をするのである。彼らの罪は最初の世代における最初の殺人を生み出すのであり、また、人間が住むところどこでも、罪の洪水は全地を飲み込み続けるのである。


 


Ⅲ.呪い


A.  アダムとエバに


アダムとエバに宣告された呪いは、彼らの心に生じた変化を示している。女は産みの苦しみにおいて呪われた。こうして、彼女を女として構築していたところのものにおいて、彼女は罪の結果を受けた。男もそうである。彼は、神の栄光のための奉仕と労働のために創造された。堕落に先立ち、彼は園を耕す任務を与えられており、また、これは彼の喜びに満ちた奉仕であったが、今や、彼は額に汗して労働しなければならなくなった。両者の場合において、神の恵みの要素が見られることが考察されるべきである。というのは、女は痛みにもかかわらず子どもたちを産むことがであるであろうし、また、男は労働の悲哀にもかかわらず食べ物を得ることができるであろう。


 


B.  地において


 地そのものが呪われたと言われている。このことは、土地に置かれた呪いに見られる。「」(創世紀3:17-18a)。これは、罪の結果として、自然それ自身の転倒(the upset)を語る。人間の罪の極悪(the enormity)が、全被造物が彼の罪によって妨げられたところの事実において見られる。パウロは、全被造物が贖われるのを待っていると語る。「」(ローマ8:20-22)。このことは、現在の被造物の滅びにおいて完成する。「」(ペトロ二3:10)。


 


Ⅳ.人類への罪の結果-全的堕落と不能


A.  全的堕落


1. 定義


 わたしたちは、人間の堕落が人類に全的堕落(the total depraviry)を導入したことを断定するとき、わたしたちは、この用語によって意味されるところのことを定義する必要がある。否定的には、これは、アダムがなり得たと同じように直ちに邪悪になったことを肯定するものではない。意味されるものは、


「第1に、神からの彼の背教は完全であった。神は完全な従順を求めた。アダムは今や、武装した反逆者であった。


 第2に、神の愛顧とまじわり、彼の霊的生活の条件は取り去られた。


 第3に、隙間が霊魂それ自身に導入された。良心の痛みを伴う非難が引き起こされた。また、贖いなしでは決して鎮められ得なかった。このことは、神への恐れ、不信頼、言い逃れへと、そして、最終的には、必然的な結果により、無数の他の罪へと導いた。


 第4に、こうして、全被造物が堕落した。意志は良心と絶えず戦争状態であり、理解力は暗くなった。良心は、絶え間のない不法行為(the outrage)と無視の結果、麻痺させられた。体の欲求は過度になり、体の各部分は不義の器となった。


 第5に、人間の性質には、回復する原理がない。彼は、もし神が間に入らなければ、ますます悪くなる。


 こうして、人間の霊魂は、本質的に活動的であり、一つの罪が習慣を構築したのではないが、一つの罪は神とみわざを霊魂の混乱において遠ざけ、そして、こうして、罪の終わりのない流れに導くのである(A.A.Hodge,op.cit.p.323-324)。


 


2. 堕落の範囲


 人間の堕落は、通常の出生によるアダムから下るすべての人類を全包含する。ローマ3:9-23は、このことを明らかに断言している。義人はいない。神を求める人はいない。善を行う人はいない。すべてが罪を犯し、神の栄光を受けられないのである。


 わたしたちは、アダムの罪と人類の関係を考察し、また、その伝達を次の章で吟味しよう。当座は、引用される聖句に基づいて、通常の出生によるアダムのすべての子孫は罪によって影響を受けたことを断定することで十分である。再び、A.A.ホッジはこのことを簡潔に提示する。


「第1に、アダムがわざの契約で代表していたところのすべての被造物に法的な責任を司法的に課すこと。


 第2に、神の霊の命を与えること(the life-giving divine Spirit)から除外する状態における子孫の一人一人の結果としての誕生。


 第3に、原義(the original righteousness)の喪失、生まれたときからのアダムの子孫の各人の不変の道徳的な状態であるところの罪を犯す本来的で広く行き渡っている傾向。


 第4に、自分の性質を変えること、あるいは、自分の義務を果たすことの人間の絶対的な道徳的不能性。


 


3. 堕落の強さ(intensiveness)


 この堕落はわたしたちの性質のすべての局面に広がっている。心、あるいは、精神のように、わたしたちの特別な局面を一つ取り出すことがあっても、聖書の全的堕落の考察は、全人(a whole man)が堕落していることを教える。彼の体は、罪の体として語られている。罪のすべての様態が発出するのは、わたしたちの心からである。人間の理解力は暗い。


 このことは聖書において明らかに教えられている。わたしたちは、創世紀6:5と8:21において、人間の堕落について早い証言をしている。「」。「」。これらの章句において、わたしたちは次の教えを持つのである。


a.最初に、罪の強さ(theintensity)がある。「主なる神は人間の悪が大きい(great)のをご覧になって」。


b.第2に、悪の全体性(the totality)が断言されている。心に思いはかることは悪いことばかりである。わたしたちが、心に思いはかることを注意深く計画された思いだけなく、わたしたちの最も基本の思いであり、わたしたちは罪が如何に浸透しているかを見るのである。


c.第3に、罪の内面性(the inwardness)が述べられている。心の思いのどの思いにおいても(every imagination of the thoughts of the heart)である。これらの用語の結び合わせは、聖書においてほとんど平行していない(almost unparalled)のである。それは、歴代誌下において1回だけ使われている。その用語のどの一つも、罪の内面性を示唆するに十分であろうが、しかし、3つのすべての用語が、わたしたちの存在の基本であるところのまさに最大限度にまで罪の内面性に迫るのである。


 


d.第4に、人間における悪は排他的なの(exclusively)である。人間の思いは継続的(continually)に悪だけ(only )なのである。どの(every)思いも悪だけ(only)なのである。


 


e.第5に、悪の習慣的な性格は、その用語によって強調されている。


 


f.第6に、人間の罪深さは、生得的で(innate)ある。人間は、「幼いときから」(創世紀8:21)罪人なのである。人間は、彼の環境から何かを獲得するのではなく、生まれたときからこのようなのである。


 


 旧約聖書の他の個所は詩編38編と51編のように、この同じ教理を断言している。新約聖書におけるローマ3:9-23は、罪についての同じ教理を提示している。使徒は、ここで、詩編とイザヤ書における旧約聖書から引用している。「」。使徒は内面性を最初に断定している。悟る者もいない。そして、それから、この結果として、人間の行為は悪と見られている。わたしたちの罪の内面性を省察したので、彼は、身体的な器官に移るのである。喉、舌、口、足である。こうして、全人が、内面的にも外面的にも、悪なのである。18節の最後の告発は、「」。これは、聖書の用語において、敬虔の完全な欠如があることの断定なのである。というのは、聖書は、「主を恐れること」(the fear of the Lord)を敬虔のはじめとして見ているのである。


 9節、19節、そして、23節はすべて、この告発は全人類(the whole race)についてであり、まさにただの一つの部分や一つの世代ではないのである。これは、わたしたちについての記述であり、あなたであり、わたしなのである。パウロが、信仰義認の教理を展開するのは、この背景に対してなのである。これが見えるとき、福音は良き知らせとして真の現れるのである。


 この関連で注目されるべき他の章句は、ヨハネ3:6で、そこは、わたしたちは肉から生まれた者として言及されている。エフェソ2:1、2は、そこは、わたしたちは罪の中に死んでいると描かれている。ローマ8:5-8は、そこは、わたしたちは神の敵として、それゆえ、神を喜ばすことができないことが描かれている。わたしたちは、これらの章句から、それは罪人たちにとってのわたしたちの自然的な状態の事柄なのである。さらに、わたしたちは、生まれつき神と善に対立することを見るのである。それがわたしたちの自然的な状態の一部なのであり、わたしたちはこれを人間の正常な状態(man’s normal condition)と考えるべきではないのである。罪は異常(abnormal)である。正常な状態は、堕落する前の人間の状態である。堕落以来、人間は異常なのである。


 神の告発の下でのわたしたちの堕落した性質の局面は、


-理解(the understanding)である。コリント一2:14で「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」。コリント二4:4で「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」。エフェソ4:18で「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」。-意志(the will)である。ヨハネ5:14で「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。ローマ8:7で「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」。


-感情あるいは愛情である(the feeling or the affection)である。ヨハネ一2:15-17で「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、れで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです」。


-良心(the conscience)である。テトス1:15で「清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています」。参照 テモテ一4:2。


 


B.  全的不能性(total inability)


1. 定義


a.  否定的に


わたしたちが、人間の不能性について語るとき、わたしたちが何を意味するかを理解するために、それらの理念について意図していないことを最初に語ることは助けとなるであろう。まず不能性は、わたしたちの限界あるいは被造物性ゆえの如何なる制限でもない。第2に、自然的な人としてさえも、わたしたちが行使するところのある自然的な徳(certain natural virtues or civil virtues)あるいは市民的な徳の可能性を否定することではない。そのような自然的な徳は存在する。何故なら、神の律法がわたしたちの心に書かれているからであり、また、こうして、それらはわたしたちを構築しているからである。第3に、不能性は、人間が原初の状態において持っていなかったところの何かである。第4に、わたしたちがすでに注目してきたように、不能性は自由の喪失(the loss of liberty)と同じではない。自由(Liberty)は、反対の選択の能力にあるのではなく、行為者が自分の好きなように行うことに自己を動かす(self-moved to do as he pleases)という事実にあるのである。

 


b.  積極的に


 不能性は、罪の結果として来たところのものである。不能性は、踏み深い性質をその罪深さから反対のものに変えることの不可能性なのである。不能性の2つの特徴が見られる。最初に、人間は全的に堕落したものとして善であるところのことを行うことを望むことができない。第2に、彼は自分自身が善を選びあるいは善を行うように変えることができない。彼の精神は神に対する敵であり、また、この敵性を変えることができない。


 


2. 聖書的な根拠


a.  マタイ7:17-18で「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。


良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」。イエスは、人間の場合を例証するために、木についてのたとえ的な言い方を用いた。それは、罪人は、悪い実を結ぶこと以外は不可能であることを語っている。


 


b.  ヨハネ6:44-65。この章句において、イエスは言う。「わたしをお遣わし


になった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」。また、再度言う。「そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」」。これらの両方の節が、父の助けなしでは、救拯的信仰において、イエスに来ることの不可能性を教えている。換言すれば、イエスは、もし人間が神に来るならば、神的な介入(the divine intervention)の必要性を断言しているのである。強調は、わたしたちの不能性であり、また、救いの計画の恩恵的な性格である。イエスによるそのような一致した叙述を根拠にして、福音派(the evangelicals)が、神は、わたしたちが許可を与えるまでは、わたしたちを救わないと主張するのを如何にして理解するかは難しい。


 


c.  ローマ8:16、20、7:1。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。これらの節は、罪への人間の隷属を断言している。含みは、人間は自分自身にあるこの隷属を打ち破ることができないということである。


 


d.  ローマ8:7-8。「死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。この章句の最初の部分は、神の律法に言及しているであろうが、しかし、第2の部分は、自然的な人は神を喜ばすことが不可能であることを明らかに断言している。


 


3. 人間の説明責任(man’s accountability)


 自然的な人は霊的な善をまったく行うことができないことを示したので、このことは、自分の行いに対する責任性を如何なる方法でも免除するものではないことが断言されねばならない。彼は、罪を犯すことを望んだゆえに罪を犯すのである。彼は、自分がしたいことをする自由から行為し、また、こうして、神は人間が行うところのすべてに対する説明責任に人間を留めておく。これがその場合であることは、審判の日における事実から明らかに見られる。人間は、説明を求められ、また、自分たちの行いに基づいて裁かれるのである。


 わたしたちが全体の十分な意味人間の心の堕落、また、自分の罪に留まっていたいという自分の本人自らの願いに直面するとき、神の恵みが驚くべき対照において立つのである。ある者たちは、選びの教理は不公平であるという理念を示唆する。何故なら、神はすべての人に救われる平等のチャンスを与えないからである。事実は、すべての人平等のチャンスを持っている。すべての人は、どこででも、悔い改めて、キリストを救い主として受け入れることの招かれているのである。神の有効な恵みによって、自分たちの心が変えられなければ、誰もこのことを行うことを望まないのである。重要なのは、神が救いの神の計画によって見過ごしたことではないことが驚くべきなのではなく、神がある人々を救いに選んだことなのである。埋まれつき、わたしたちは罪人であり、まさに神の怒りと呪いに値するのである。自然的な人は、自分の罪に隷属しており、また、この隷属を打ち破ることができないのである。そのようなものとして、人間は、こうして、神を喜ばすことができないし、あるいは、神を喜ばすことに自分を作り直すことができないのである。


 罪の結果についての聖書的な教理は、すべての人は神の裁きと定罪の下にあるという事実である。換言すれば、もし、神がある者たちをそれによって来るべき怒りから贖い主によって救うことを決定した神の主権的な恩恵がなければ、すべての人が地獄に値し(hell-deserving)、また、すべての人がそこで終わるのであろう。


 


 


 


解説


 


以上で、「第21章:罪の結果」の紹介が終わったので、7点の解説をする。まず第1点は、人間の堕落の事実についてである。そこで、スミスは、創世記3章のアダムとエバが善悪を知る木の実から取って食べて堕落した出来事についてのダブネーとジョン・ジルによる解説を引用するが、アメリカの南長老教会の神学者ダブネー(1820-1896)の解説の特色は、堕落の原因は、カトリックはアダムの高慢と語り、プロテスタントは、高慢に先行するアダムの不信仰と語ったことにあると言う。次いで、スミスは、ジョン・ジルの解説を引用する。ジョン・ジル(1697-1771)は、英国のバプテスト派の神学者であったが、 カルヴァン主義的救拯論を主張した人物として知られている。ジルの解説は、そばにいたアダムが、エバが実を食べることを止めなかったことまで解説していて興味深いが、ジルは、エバが食べたとき、アダムはそばにいなかったと考えている。また、他のある者たちは、アダムは神以上にエバを愛し、エバに気に入られようとして、実を食べたらどうなるかまで知っていて、自分も食べて、一緒に罪を犯すことを選んだという解説もあることをスミスは紹介している。いずれにしても、アダムは食べるなという神の言葉、戒め、律法に背いて罪を犯し堕落したことを、スミスは語る。


第2点は、アダムの罪の直接的結果についてである。すると、スミスは、彼自身の霊魂の堕落、神の即刻の不興、神からの疎外を挙げる。また、アダムは、罪を犯すことにより、わざの契約を破り、契約の呪いとして死ぬ者になったが、A.A.ホッジは、死の3つの局面として、肉体の死、霊魂の腐敗、永遠の死の宣告を語ったことを紹介するが、スミスは、前章でアダムの罪の直接的結果について、霊的な死としての神とのまじわりの分離、断絶をすでに考察している。


 なお、スミスは、アメリカのルター派の神学者のロイポルド(1891-1972)の創世紀注解を使って、最初の罪の直接的な結果としてアダムとエバに恥の感覚が生じたことを詳しく取り上げる。恥の感覚が生じたことを、これほど詳しく論じたものを、わたしは初めて読んで興味深かった。また、お互いが裸であることを知ったとき、お互いに恥を感じたというのは、特に生命が生まれるお互いの生殖器官が見えたこと、それはとりもなおさず、人間の生命の源が罪によって汚染されたことを本能的に感じるようになったという深い理由があることを初めて、わたしは知った。また、スミスは、バーフィンクを引用して、罪の他の直接的な結果として彼らは神に合うことの恐れを持つようになったことを語る。罪を犯す前の神との親しい喜びに満ちたまじわりは最早無くなり、神を恐れ、神から身を隠すようになったのである。


 第3点は、最初の罪の結果としての呪いについてである。アダムとエバは呪われる者となった。エバには産みの苦しみが生じ、アダムには労働の苦しみが生じた。しかし、それでもエバは子どもを産むことが許されたこと、また、アダムは額に汗してではあるが、地を従わせる働きが許されたことは、神の恵みであったことをスミスは語る。また、地は呪われ、本来の豊さを失ったいばらとあざみを結ぶ地となった。また、全被造物は人間の罪によって神に呪われ、創造の本来の豊さを失い、人間に十分奉仕しないもの、人間に敵対するもの、朽ち果てるもの、壊れるもの、虚しいもの、すなわち、滅ぶものになってしまったのである。まさに全被造物が滅ぶもの、すなわち、虚無に、奴隷のように服従している悲惨な状態にされたのである。そして、この滅びの隷属から贖われるのは、すなわち、解放されるのは、わたしたちクリスチャンが世の終わりに、再臨のキリストと同じ二度と死ぬことのない不死の体に復活させられて神の子として出現するときである。全被造物の滅びの隷属からの解放の解説については、拙著「ローマの信徒への手紙説教集」の「上巻 『栄光を受ける約束』参照のこと。


 第4点は、全的堕落についてである。アダムは人類の代表またわざの契約の当事者として罪を犯したので、アダムが堕落しただけでなく、アダムの子孫である全人類がアダムにおいて、またアダムと共に堕落した。そして、その堕落は全的堕落と言われるもので、人間の全人が罪に染まり、罪の影響を受けない部分は何もなく、すべての部分に罪の影響が及んだ。スミスは、全的堕落が意味するものとして5つ挙げている。完全な脊教、神の愛顧とまじわりの喪失、良心の痛み、体が不義の器となったこと、本来の人間性を自力で回復できないことである。また、全的堕落の範囲は、通常の出生によるアダムの子孫のすべての人類を包含するが、スミスはA.A.ホッジを引用して、全的堕落の範囲として、わざの契約に入っていた全被造物にも罪の法的責任が及んだこと、人間一人一人が命を与える神の御霊とのまじわりを受けられなくなったこと、原義(神についての正しい知識、神との義しい関係である義、人間の性質である聖さ)を失って、生まれつき罪を犯す傾向を持つようになったこと、律法の義務を果たすことの絶対的な霊的不能性にまで罪の力が広範囲にまで及んだことを語る。しばしば引用されるA.A.ホッジ(1823-1896)について述べておくと、彼は、オールド・プリンストンの組織神学者のChales Hodgeの息子で、24歳から3年間、インドで宣教師として働いたが、その後、アメリカに戻り、牧師としての働きをした。その後、プリストン神学校で父親と同じ組織神学を教えた。主な著書は、Outlines of Theology(「神学概論」)、Commentary of the Westminster Confession(「ウェストミンスター信仰告白注解」)である。わたしは両方を読んだが、特に後者は、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」を執筆するのに読むべき必須の1冊であった。


 第5点は、全的堕落の強さについてである。スミスは、創世紀6:5と8:21に基づいて罪の強さを語る。罪の強さは大きい。心に思いはかることは悪いことばかりであると言われるほど、罪は思いの全体に及んでいる。また、心の思いのどの思いにおいても罪が浸透し、貫通しているほど、罪は最も深い内面性にまで及んでいる。また、再度、心に思いはかることは悪いことばかりであると言われるほどに、罪は人の心を占めて排他的、独占的であり、また、いつまでも継続し、習慣化していく。


 また、人間の罪深さは、生得的であり、「幼いときから」(創世紀8:21)罪人なのである。ローマ3:9-23によれば、わたしたちの罪は内面から出て、喉、舌、口、足などの身体的な器官にも及ぶ。さらに、この罪の告発は、人間の一つの部分や一つの世代に及ぶだけでなく全人類に及んでいる。人間性は罪により完全に腐敗している。


 また、スミスは、エフェソ2:1、2とローマ8:5-8に基づき、人間は神の敵で、神を喜ばすことができないことを述べる。これが罪人としてのわたしたちの自然的な状態の事柄なのであり、これは創造されたときの人間の正常な状態ではなく、異常な状態なのあり、堕落以来、人間は異常であることを認識すべきことを語る。人間の堕落した性質の局面は、理解力、意志、感情、良心のすべての及ぶのである。まさに人間の全体性が罪によって腐敗し、全人が罪に真っ黒に染まったことを、スミスは語る。


 なお、スミスは、全的堕落と区別して、人間は、最初の罪により、堕落によって全的不能性(total inability)になったことを、全的堕落(total depravity)と別個に語るが、ベルコフはSystematic Theology(「組織神学」)において、全的不能性を全的堕落に含めて語っている。どちらの仕方もあるのであろうが、スミスのように別個に扱えば、さらに人間の罪深さがよりはっきりするかもしれない。では、全的不能性とは何か。すると、全的不能性とは、用語の意味は、全体が不可能という意味であるが、それは、人間が創造されたこと自体から起因するものでないし、また、堕落して罪人となった人間は市民的善もできなくなったことを意味しない。堕落して罪人となっても一般恩恵のように市民的善が可能なので社会が成り立つのである。しかし、罪人となった人間は神の敵となり、神を喜ばせることも、自分の罪の性質を自分で変えることも不可能なのである。こうして、霊的な善を行うことはまったく不可能なのである。


 第6点は、スミスは、罪人になった人間は、最後の審判で自分の行ったことに対する神への説明責任があることを語る。最初の罪を犯して罪人になった人間は、説明を求められ、また、自分の行ったことに対して神に正当に裁かれる者となったのである。それゆえ、神がわたしたちを、来るべき怒りの最後の審判から贖い主によって救うことを決定した神の主権的な恩恵がなければ、わたしたちは、すべての人が地獄に値し、また、すべての人がそこで終わり、神から永久分離され、滅んでしまう存在となったのである。こうして、罪の結果についての聖書的な教理は、すべての人は神の裁きと定罪の下にあるという事実であること、スミスは述べる。


 第7点は、スミスは特に述べていないが、バルトの死についての理解についてである。バルトにとって、人間が限られた時間に生きて、そして、死んで終わることは、それは自然なことで、最初からそうであったことを語る。人間がはじめと終わりをもつこと、すなわち、誕生して死ぬことは、神の創造により、人間の死ぬべきことは、神の善き創造に属していると言う。これがよく知られた死は善き創造の一部であるというバルトの根本主張である。しかし、人間は、罪人なので、罪を犯すことにより死に罰の意味が入る。それゆえに、死は、恐ろしいものとなった。でも、イエス・キリストが十字架と復活のみわざによって、罪への罰を受けてくださったことにより、人間の死から、神の裁きの刑罰の意味を取り除いたので、人間の死は安らかなものとなった。そえゆえ、クリスチャンであろうとなかろうと、人間の死には、最早、罪への神による刑罰の意味はないので、この結果、人は誰でも死んで人生が終わると、恵み深い神に出会うことができるようになったと主張する。


 わたしは、死は創造のとき、すでにあったというバルトの見解を知ったとき、すぐにおかしいと思った。というのは、聖書は創世記2:17で、神は「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と語って、人間の代表のアダムがわざの契約を破ったときには死をもって罰すると威嚇し、その後、アダムが契約を破り、最初の罪を犯したので、罪の結果、罪への神の刑罰、罪への神の裁きとしての死が入ってきたのであると極めて明白に書いてあるのに、しかも、新約聖書もローマ5:5:12で「のようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」と疑いもなくはっきり言っているのに、その教えに反することを主張していると思った。しかも、キリストがもうすでに十字架の死と復活によって、罪への神の刑罰、罪への神の裁きとしての性格を死から取り除いて死に客観的に勝利しているので、死は本来の善き創造の一部である自然的な死が回復され、クリスチャンでない人も死後、恵み深い神にお合いできるという主張を知ったとき、バルトはますますおかしいと思った。クリスチャンでない人も死後、恵み深い神にお合いできるということを、実際的に考えれば、生涯、キリストを知らず、偶像を拝んでいた人でも、死後、安心して、平安のうちに神にお合いできることになるが、そのようなことを聖書はどこにも教えていない。逆に、ローマ1:18-31「・・・滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです・・・造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです・・・彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら・・・」とはっきり教えられているように、神は偶像礼拝の罪を裁かれる。


 キリストの十字架の死と復活は、罪に対する神の裁きとしての性格を死から取り除いたことは、否定はされないが、もっと根源的に積極的に、ローマ6:23で「罪が支払う報酬は死です」と明白に言うように、罪が支払う報酬としての死そのものという性格を変更し、チェンジして、死を天国の門、「永遠の命への入り口」(ハイデルベルク信仰問答 43問)に変えたのである。それゆえ、キリストを信仰するクリスチャンだけが、死後、恵み深い神に平安の中でお合いできるのであり、ヨハネ14:1-3が「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言うように、「父の家」、また、「キリストのいる所」に迎え入れられるのである。バルトは、いろいろなところでキリストを信仰しているクリスチャンと信仰していないクリスチャンでない人を区別しないで、一緒にして人間を語るので無理がある。聖書は、キリストを信仰しているクリスチャンと信仰していないクリスチャンでない人を峻別して語っていて、クリスチャンとクリスチャンでない人が同じ霊的な恵みや霊的な祝福を受けることを語っていない。クリスチャンだけが霊的な恵みを受け、クリスチャンでない人は、厳粛なことであるが、最後の審判で自分の罪が正当に審判され、滅ぼされるのである。それゆえ、教会の語る福音を聞いて、心柔らかにして、自分の罪を素直に悔い改め、十字架のキリストを自分に救い主と信じ、恵みによって罪赦され救われ、クリスチャンになって真の人生を生きることが必要である。今は恵みのとき、救いのときなのである。


 なお、バルトは、人間の死後については、人間がもっている神とのまじわりにある現在の命が永遠化されればそれで十分としているが、そうではない。クリスチャンは死後、永遠の命を受け、終末には、再臨のキリストと同じ二度と死ぬことのない栄光の体に神の力によって復活させられ(マタイ22:29-33、コリント一15章)、そのとき完成する栄光の神の国、新天新地において、父なる神・主イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神との言葉では言い表せない喜びのまじわりの中に永遠に生きていくのである。


聖書は、バルトが言う現在の命の永遠化などどこにも教えていない。世界的改革派神学者のベルクーワは、バルトの死は善き創造の一部であるという根本主張、また、死後の現在の命の永遠化の主張は聖書の根拠がないことを明言している。バルトの独創的な解釈である。バルトの死の理解については、拙著「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第6章 終末論的勝利」、「第12章 終わりの勝利」、「解説」、改革派神学における死の理解については、拙著「ウェストミスター信仰の解説」の「第32章 人間の死後の状態について、また、死人の復活について」、「改革派教会の神学・説教・伝道・教会形成」の「下巻 終末論 118.神の愛から出る信者の死」、論文「ウェストミスター信仰基準の個人終末論 わたしたちの死と死後について」を参照のこと。ー

         

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