人間、その性質-聖書的心理学
序論
人間の創造について、また、人間の他と区別される特徴は神のかたちに造られているという事実を考察してきたので、今や、わたしたちが人間の性質(his nature)についてもっと詳しく吟味することが重要である。わたしたちがすでに考察してきたように、人間が人間についての適切な理解に来ることは難しい。何故なら、人間は自分自身に関して客観的であり得ないからである。このことは、罪の認識論的影響(the noetic effects of sin)のゆえに真実であり、それは人間の思考を盲目にし、また、こうして、偽りとするのである。この理由のゆえに、わたしたちは、人間についての唯一の真理としての聖書に戻るということが絶対必要(imperative)なのである。
近代人は人間と人間の性質についての研究を「心理学」(psychology)として資格づけた、研究の対象としての人間に関する場合の性質によって、その研究は性質において大いに実験的であることが証明されてきて、厳密科学どころではない(anything but a precise science)のである。それは、ヒューマニズム的前提に基礎づけられ、また、使えるように思えるある仮説にときどき来ることが可能であったが、それは人間観において本質的に偽りであった。
クリスチャンたちが犯し易い最も重大な誤りの一つは、クリスチャンではない人々の未確認の諸発見を借用することができ、そして、それを聖書的なデータで単純に「洗礼化」(baptize)することができると考えることである。わたしたちが、この章において行うことを望んでいるのは、人間の性質に関する聖書的な所与(the Biblical givens)の幾つかを吟味することであり、そして、この吟味の根拠において、ある結論に来ることを求めることである。大量の材料ゆえに、わたしたちは、それについてすべてを扱うことはできないので、そこで、こうして、結論の幾つかが試案的となるにすぎないのである(only tentative)。
聖書的心理学(Biblical Psychology)という肩書は疑問とされてきた。ベルクーワは考察している。「あたかも、聖書の意図が人間のいろいろな局面についての情報、あるいは、人間の構成(the composition)について詳細なことをわたしたちに与えるかのように、人間についての神学的な探究は科学的な人間学、あるいは、聖書的な心理学と生理学(physiology)の線に沿って解決を求めることはできない」(The Image of God,op.cit.p.30)。
もし、わたしたちが、聖書的な心理学の理念を聖書から派生した人間についての十分な学問(a full science)として定義するならば、真に聖書的な心理学はないということにわたしたちはベルクーワと共に同意しなければならない。というのは、聖書は、心理学についてのそのような教科書を作るためのデータを与えないからである。
もし、聖書が学問の教科書でないならば、そして、特に心理学の教科書でないならば、心理学の研究との関連における聖書の適切な場は一体何であるか。如何にして、わたしたちは、「聖書的心理学」という肩書をつけて1章を持つことできるのか。
聖書はすべての最初に、書かれた神の言葉である。そのようなものとして、聖書は聖霊の霊感の下に与えられ、その結果、人間の著者たちによって提示されたすべてのことは神の聖なる言葉である。この霊感が書を生み出したのであり、それは人間の著者たちのペンを通して来たのであるが、それにもかかわらず神の無謬の言葉-誤りなき神の言葉、また、完全に権威があるとして保存されてきたのである。 この事実から、教会は、聖書は信仰と生活の唯一の誤りなき言葉として結論してきたのである。
このことは、聖書の外の研究(extra-Bible study)に対する何の場がないということを言うことではない。わたしたちは、聖書の教えによってカバーされないところの非常に多くのことについて一般啓示の領域から非常に多くのことを学ぶのである。さらに、わたしたちは聖書の外の真理について学ばないことを言うことでもない。というのは、一般啓示の全領域それ自身が神の啓示であり、神の真理も反映しているからである。人間の問題は、一般啓示と特別啓示の両方の領域を適切に解釈できないことにある。この問題は、人間が有限の被造物であることが第一義的な理由ではなく、むしろ、罪の認識論的影響の結果のゆえになのである。堕落前の人間は、有限であったが、神が造り、啓示したすべてのことを十分に把握することはできなかったが、しかし、彼は正しく理解できたのである。善悪の知識の木との関連において神が表した現実性についての真の解釈を人間が拒否したので、人間は世界についての、また、聖書における神の特別啓示についての偽りの解釈者(a false interpreter)になったのである。このことは、心理学の領域において、自分自身についての近代の罪深い人間の解釈以上により明白に見られるところは他にないのである。
当座は、罪深い人間が自然科学を扱うとき、一般啓示(General Revelation)の領域を扱うことにおいても、それは言われるべきである。わたしたちは、クリスチャンとして、人間のその前提-人間のいわゆる中立的方法、またその最終的な結論に反対しなければならないが、それにもかかわらず、わたしたちは、非キリスト教的精神は、彼の根拠に基づいてでなくて、わたしたちの根拠に基づいて、わたしたちが真実であると認めること以上に事柄を明らかにしてきたことをわたしたちは認めねばならない。このことは、化学や物理学の分野に負けないくらい心理学の分野においてもそうである。
わたしたちが、クリスチャンとしてクリスチャンでない人に勝っている偉大な利益は、わたしたちが神の誤りなき言葉としての聖書を持ち、そして、承認しているという事実であり、そして、こうして、わたしたちは、クリスチャンでない人が拒否している情報の付加的な源泉(an additional source of information)を持っている。こうして、聖書は心理学の教科書ではないことを認めて宣言する用意があるが、それにかかわらず、聖書は人間についてあることを教えている、また、聖書が教えていることは十分権威があることを信じるのである。
心理学という用語は、「霊魂」(soul)、「精神」(mind)、あるいは、「命」(life)と意味するギリシャ語のψυχή:psuche;プシュケーから来ている。そして、「言葉」(word)あるいは「知恵」(wisdom)を意味するλογος:logos:ロゴスから来ている。オッックスフォード辞典(the Oxford Dictionary)は心理学を単純に「人間の霊魂あるいは精神の性質、機能、現象についての学問」と定義している。デリッチ(Delitzsch)は、聖書的心理学をこのように定義している。「聖書的心理学の名の下に、わたしは、造られたものとしての人間の心理的な構成(the psychical constitution)について、また、この構成が罪と贖罪によって影響を受けてきたいろいろな方法についての聖書の教理の学問的提示と理解している」(FrsnzDelitzsch
,Biblical Theology,op.cit.p.16)。
Ⅰ.聖書の用語
人間の性質についての一つの局面あるいは他の局面への題材的な言及の豊富さは聖書において広範囲である、このことは、主題についての余すところのない研究であることを意図していないので、わたしたちの目的は、その主題に関する用語の幾つかを吟味することであり、この主題についての言葉の研究の発見を要約することである。この概観を始めるとき、わたしたちは最初に、人間の性質についての霊的局面に言及するそれらの用語を考察しよう。その後、人間の肉体的側面から来る表現を見よう。
A. 主に霊的な旧約聖書の用語
霊魂、soul:נפש:nephesh:ネフェシュ
soul:נפש:nephesh:ネフェシュは、喉あるいは首を意味するアッカド語のNaptistu、
ウガリット語のnpsの両方に関係している。この使用法はイザヤ5:14「それゆえ、陰府は喉を広げ その口はどこまでも開く」、また、ヨナ2:6「大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」のような章句に表れる。他の可能な場合は、詩編105:18、124:4-5、イザヤ23:7a、エレミヤ4:10、エゼキエル24:21、25。
首と喉は、息をする空間を表すので、その言葉が息(the breath)に言及することは自然的となった。死は、霊魂:nepheshあるいは息が絶えることの結果として言及された。ヨブ41:21、イザヤ23:7a、詩編29:9を見よ。れ
息の理念から、その言葉は、生命力(the life-power)、生きた霊(the life spirit)のしるしに言及するのに使われた。創世紀1:30。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった」(創世紀2:7)。「すべての命あるものは、肉なる人の霊も/御手の内にあることを。」(ヨブ12:10)。新約聖書の霊魂:psucheは同じ意味を持っている、黙示録8:9。この使用法においては、適用の多様性がある。
a.霊魂:nepheshは、動物一般について、少なくとも32回、旧約聖書の使用の全体の5パーセントにおいて使われている。
b.霊魂:nepheshは、神について21回、その内8回はエレミヤ書において使われている。エレミヤ5:9、26、6:8、9:9、12:7、14:9、15:1、51:14。
c.最も一般的な使い方で生きた人間に使われている
1).人間生きている限りは、彼の霊魂は彼にある。サムエル下1:9、使徒言行録20:10.
2).霊魂は死のとき去る。エレミヤ15:9、38:16、ヨブ11:20、31:9、創世紀35:18。創世紀30:18、エレミヤ15:9においては、霊魂は
去ると言われている。
3).命が戻るとき霊魂も戻ると言われている。列王上17:21以下。
4).霊魂は、命と同一されている。出エジプト4:19、マタイ2:13、ローマ11:3、士師記5:18、使徒言行録15:26。
d.ときどき、霊魂:nepheshは、その人の全体(the totality of the person)に言及する。創世紀44:30、49:6、出エジプト23:9(心:heart)、箴言12:10。
e.特に興味深いのは、そこにおいて霊魂:nepheshが、人間の性質のいろいろな局面に関して用いられる適用の幅である。霊魂と結びついた特殊な感情の幾つかは次のようである。
1).霊魂は、喜びの座である、申命記23:24。
2).霊魂は、飢えと渇きの座である、詩編107:5、箴言6:30、霊魂はパンで満たされる。雅歌1:11、19。
3).いろいろなものへの欲求が霊魂に帰せられている。
a.食糧 申命記12:15、ミカ7:10、黙示録18:14
b.賃金 申命記12:15(他の個所か?)
c.祖国 エレミヤ22:27
d.悪 箴言21:10
4).霊魂は、神と聖さを望む座、詩編25:1、42:2、3、119:81。
5).霊魂は、愛の座である、サムエル上20:17、イザヤ42:1、マタイ12:18、22:37。
6).霊魂は、憎しみの座でもある、サムエル上5:8、イザヤ1:14、エレミヤ5:9、6:8、詩編11:5。
7).霊魂は、喜びの座である、詩編35:9、71:23、86:4、イザヤ61:10.
8).霊魂は、悲しみの座である、詩編119:25、28、マタイ26:38。
9).霊魂は、休息する、詩編62:2、マタイ11:29。
10).霊魂は、不安と心配を経験する、イザヤ15:4、ヨハネ10:24。
11).霊魂は、忍耐を持つ、ヨブ6:11。
12).霊魂は、我慢できない、民数記21:4。
13).霊魂は、苦々しさあるいは苛立ちを経験する、サムエル上30:6、使徒言行録4:2、ペトロ二2:8。
f.認識の座としての霊魂:nepheshの使用は、旧約聖書においては稀であるが、しかし、詩編139:14、箴言2:10、19:2、24:14において見い出される。
g.霊魂は、意志の座である、創世紀23:8、申命記21:14、列王下9:15、ヨブ7:5、詩編27:12、47:3。
h.霊魂は、霊魂の望みを表すאוה:awah:アワーとの関連で用いられる。
1).飢え 申命記12:15、20
2).力の拡大を求める王の望み、サムエル上3:21「主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された」。
3).礼拝者たちがヤーウェを求めること イザヤ26:8-9「主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み/わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは/わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し/わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき/世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう」。
i.霊魂は、体を持った人格性の理念を示唆し、集団の意図について使用される、列王下9:15。
j.霊魂は、これらの人間の感情と望みのすべてが、神について擬人的に使用される、イザヤ1:14、42:1、エレミヤ12:7、マタイ12:18。
k.感情の座を表すための霊魂:nepheshの使用は、その所有者から区別される何ものか-人間における何か-内側にある―として現れる事実を生じさせる、ヨブ30:16「もはや、わたしは息も絶えんばかり/苦しみの日々がわたしを捕えた」。詩編42:6、131:2。
l.語る者が自分自身から区別される自分の霊魂に語りかけることを見い出すことは、驚くべきことではない、詩編42:5、11、103:1-2、「【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。ルカ12:19。
m.聖書における霊魂の再帰的使用(the reflexive use)は、強調の使用に思える-集中的使用、サムエル上18:1、箴言6:16、エレミヤ12:7。ブリッグス(Briggs)は、この使用法の123場合を引用している。ヨブ16:4「わたしがあなたたちの立場にあったなら/そのようなことを言っただろうか。あなたたちに対して多くの言葉を連ね/あなたたちに向かって頭を振り」。
n.霊魂は命と同一視されているように、霊魂は血とも同一視されていて、それが失われることは死を意味する、創世紀9:4、レビ17:11、申命記12:23-4。
聖書的心理学のための霊魂nepheshについて考察
a.霊魂:nepheshは、知ること、感じること、意志することの中心として使われ、また、人格の理念に応答する。
1).霊魂にかけて誓うことは自己によって誓うことである、エレミヤ51:14。
2).「我が魂よ」(My soul)は、「わたし自身よ」(my person)に等しい。サムエル上20:3、創世紀49:16、12:13、詩編66:16、ルカ1:46。
b.霊魂:nepheshは、人間の霊的で、非物質的な局面に限定されていないが、しかし、全人(the total man)を包含する、民数記5:2「・・・死体(ヘブライ語לנפש:lanaphesh:ラーナーぺシュ)」。霊魂は、創世紀46:15においては人(person)に等しい。「(All the souls of his sons and daughters)」。出エジプト1:5、使徒言行録2:41「(three thousands souls)」。使徒言行録7:14、ペトロ一3:20。
2.霊:Spirit:רוח:ruach:ルーアフ、pneuma:πνεμα:プニューマ
a.ヘブライ語 霊:Spirit:רוח:ruach:ルーアフについての統計学
霊:ruachは、ヘブライ語において378回使用されており、11回はダニエル書のアラム語の部分において使用されている。こうして、合計で389回使われている。旧約聖書においては次のようにいろいろな部分で見い出される。
モーセ5書 6回
歴史書 105回
詩歌 40回
知恵文学 75回
預言者 163回
合計 389回
b.霊:ruachという言葉の語根-風
霊:ruachは、合計で389回のうち117回は風(wind)を意味して使われている。エレミヤ2:24、14:6においてのようにやさしい風(a gentle wind)
から、詩編48:8、ヨナ1:4においてのように嵐(stormy wind)に至ることごとくを包含している。
37回において、神が風の行為者である。強調はその力と強さである(アモス4:13)。神が風の創造者であり、支配者である(ヨブ28:25)。
エゼキエル3:7において、霊:ruachは命を与える資質に言及して使われている。霊:ruachは、ときどき、世界の隅あるいは側について言及するのに使われる(エレミヤ49:36、エゼキエル42:19)。
c.霊:ruachも、霊(spirit)を示す
1).霊:ruachは、強力な影響(a powerful influnce)としての神について使用される。それは、創造し、支配する。列王下2:16における言葉の二重の意味における遊び(a play)がある。エリヤを運び去った風をについて語っている「彼らはエリシャに言った。『御覧ください。僕たちのところに五十人の戦士がいます。彼らにあなたの主人を捜しに行かせてください。主の霊は彼を運び去り、どこかの山か谷に投げ落としたかもしれません』」しかしエリシャは、『行かせてはならない』と答えた」。(創世紀1:2、列王上18:2、エゼキエル2:21、3:12、14、24なども見よ)。
2).神の霊は人々において働き、肉体的力、勇気、預言者的恍惚などのいろいろな心理的-肉体的効果を生み出す。士師記3:10「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた。彼が戦いに出ると、主は、アラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡してくださったので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えることができた」。イザヤ61:1「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために」。
悪の感覚あるいは罪ある良心は、神の霊に帰される、あるいは、主からの悪霊(the evil spirit)に帰される。サムエル上16:1-4、15、16、23。人の人生において悪を見る力を与えるのは、それは主からの霊(the spirit from the Lord)である。創世紀6:3、箴言20:27では、人間の霊は主の灯である。
3).神の霊は聖と呼ばれる
このことは旧約聖書において稀に起こる、詩編51:13「あなたの聖なる霊を取り上げないでください」。イザヤ63:10-11。
d.人間に言及する使用法
1).神の霊は人間の命の源として見られている。このことは創世紀2:7において、ここで使用されているのは霊:רוח:ruach:ルーアフでなくנשמתי:nishmathi:ニシュマーティであるが、人間の命の源が意味されている。ヨブ33:4で「神の霊がわたしを造り/全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」と読む。ヨブ27:3で再度言う。「神の息吹(רוח:ruach:ルーアフ)がまだわたしの鼻にあり、わたしの息(נשמתי:nishmathi:ニシュマーティ)がまだ残っているかぎり」。創世紀6:17、7:15、ハバクク2:19、エゼキエル37:5、詩編31:6、ゼカリヤ12:1。
J.G.S.S.Thompson(ソムプソン)は、一方において、神の霊と呼ばれるのは、人間における同じ霊であり、また、他方において、人間の霊と呼ばれることを示唆している。詩編104:29で「御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹(霊:ruach)を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に帰る」。ソムプソンは言う。「それは神の霊であり、あるいは、人間を動物の世界と区別するところの人間の霊である」(The Spirit in the Old Testament,ChristianityToday,March 1957)。
これらの章句から、神の霊と人間の霊は交換可能性があるように思われるかもしれないが、それは人間を動物から区別するのは、人間が担うところのかたち(the image)である。上に引用された詩編104は、まさに人間について語っているのではなく、被造物全体についてである。これらの用語の明白な交換可能性は、創造者-被造物の区別が如何なる仕方でも止んだことをわたしたちに教えはしない。神の霊と人間の霊は密接に関係しているが、しかし、それらは一つではなく同じでもないことをわたしたちは結論するのである。一つは源、他は結果であり、それは最初のものに応答するのである。
2).人間の霊(the spirit of man)
人間の霊は、人間のいろいろな異なった活動との関連で使用されている。
a.それは、力、勇気、怒り、苦悩などの座としても、あるいは、直接に力、勇気、怒り、苦悩などとして使用されている。士師記8:3「神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか。」彼がこう語ったので、彼らの憤りは和らいだ」、ヨブ7:11「わたしも口を閉じてはいられない。苦悶のゆえに語り、悩み嘆いて訴えよう」、箴言18:14「人の霊は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」、感情と愛情(affections)が列王下19:7、創世紀14:8、サムエル上1:15のような章句において見られる。
b.それは、知的な活動の座として見られる。ヨブ20:3「あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう」。ヨブ32:8「しかし、人の中には霊があり/悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」。幕屋を計画し、建てる能力は御霊によって与えられたもとして見られる。出エジプト28:3、31:3、35:31、申命記34:9。夢を解釈するヨセフの能力は神の霊を持っていることによる。創世紀41:38。モーセは、裁きの働きのために神の霊の賜物を与えられた。民数記11:17。
c.人間の霊は気質(disposition)と意志、あるいは、人間の性格の座である。出エジプト35:21「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た」。霊と心の協働に注意せよ。箴言16:2「人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる」。列王上10:5「また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった」。創世紀45:27「彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した」、サムエル上30:12「更に干しいちじく一かたまりと干しぶどう二房を与えて食べさせると元気を取り戻した。彼は、三日三晩、飲まず食わずでいたからである」、わたしたちはこれを意気消沈と高揚(low spirits and high spirits)と表現できよう。怒り-士師記8:3「神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか。」彼がこう語ったので、彼らの憤りは和らいだ」。苦悶-出エジプト6:9「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。心が騒ぐこと-創世記41:8「朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった」。嫉妬-民数記5:14「夫が嫉妬にかられて、事実身を汚した妻に疑いを抱くか、あるいは、妻が身を汚していないのに、夫が嫉妬にかられて、妻に疑いを抱くなら」。
e.神の霊と人間の霊の関係
1).肉体的命の源、ヨブ33:4
2).人間の精神生活の源 創世紀41:38、ヨブ32:8、出エジプト28:3、31:3、35:31、申命記34:9
3).人間の道徳的生活の源 聖霊として、彼は人間の良心と戦う、創世紀6:3。聖霊は悪霊を送る、サムエル上16:14、18:10
4).人間の更新された生活の源
罪人の再生の作者(the Author)は神の霊である。その結果、彼は生活の更新を始める。エゼキエルは、再生における霊のみわざを描く。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26-27、参照 エゼキエル11:19-20、ヨハネ3:5-6)。イエスがニコデモに言ったように、神の霊によって生まれ変わらなければ、誰も神の国を見ることができない。この再生はわたしたちの内に新しい霊を植え付けること(the planting of a new spirit)を含み、また、聖霊をわたしたち与えることも含むのである。
f.霊:ruachと霊魂:nephesの関係
1).ある個所においては、霊:ruachと霊魂:nepheshは、事実上、同一であるように見える。それらは交換可能の用語である、「わたしの魂は夜あなたを捜し/わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき/世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう」(イザヤ26:9)。
2).違いがある個所 スナイス(Snaith)は、心理学的な用語として、霊:ruachは支配的な傾向を示唆している。霊:ruachによって意味されている力の理念があり、それは、霊魂:nepheshには見いだされない。「人間は霊魂:nepheshを支配することができるが、他方、人間の霊:ruachが人間を支配するのである」(Norman Snaith,The Distinctive Ideas of the Old Testamewnt:London:Epworth Press,1944、p.150)。箴言16:32は言う。「・・・自制の力(ברוחו:berucho:ベルホウ)」。
オエラー(Oehler)は次のように主張する。「・・・人間の霊魂の本質は、自らを物質と結びつける命の神的霊(the divine spirit of life uniting itself with matter)なのである。霊は、創世紀2:7がある人々によって理解されているように、前もって体において含まれていた霊魂:nepheshが生きる者になるという理由によって単なる原因(not merely the cause)ではないのである。というのは、そのようなものとしての塵(dust):עפר:aphar:アーファールは、塵の構造において、旧約聖書によれば、潜伏的にさえも、まだ霊魂:nepheshではないのである。これは、最初は肉(flesh):בשר:basar:バーサールにある。しかし、地の物質(the earthly materials)は霊:ruachと結びつけられるまでは、肉にはならないのである、6:17、7:15、ヨブ12:10、34:14以下・・・。霊魂は霊:ruachから生じ、そして、その存在の根拠として霊の本質を含むのであり、霊魂は、霊:ruachの力によってのみ存在し、生きるのである。生きるために、存在に呼び出される霊魂は、その生命の源を関連して留まるのである」(Gustave FreidrichOehler,Theology of the Old Testament,translated by George E. Day:GrandRapids:Zondervan Publishing House,pp.150-151)。
霊:ruachの撤退は、霊魂を弱めてその結果、霊魂の死を引き起こす。個性(the individuality)は霊魂にあり、霊にはない。人間は霊ではないが、しかし、霊を持つ。他方、人間は霊魂である。こうして、霊魂:nepheshだけが、反省的感覚(reflexive sense)として仕えることができるのである。霊魂:nepheshは、全人(the whole person)を表す(創世紀12:15、17:14、エゼキエル18:4)。気を失った人間は自分の霊:ruachを自分に戻す(サムエル上30:12)。他方、霊魂:nepheshは死のとき去り(創世紀35:18)、命の更新において回復される(列王上17:22)。
行意をする衝動は、霊:ruachから来るが、しかし、行為の主体は、霊魂:nepheshである、すなわち、罪を犯すのは霊魂:nepheshである(エゼキエル18:4)。
こうして、旧約聖書は体、霊魂、霊の三元説(a trichotomy)を教えてはいない。聖書は、 肉:basar:バーサールと霊魂:nepheshに包含されたところの全人の理念を教えるが、霊魂:nepheshは、塵:apharと霊:ruachの結合から生じるのである。「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」(詩編84:3)。(イザヤ10:18、詩編16:9)。「霊:ruach:は、個性化された霊魂の本質を部分において構成するし、また、部分において、霊魂が立てられた後で、個性化された霊魂に流れ込み、そして、撤退するところの力と能力(power and endowment)である」(Oehler.op.cit.p.151)。
J.バートン ペイン(J.Barton Payne)は、霊:ruachと霊魂:nepheshについての彼の比較から結論して言う。「霊魂:nepheshは、一般的に、霊:ruachよりももっと人格的で個人的な用語として感じされる。人間は霊:ruachを持つが、しかし、人間は霊魂:nepheshである。人間は霊:ruachで思考するが、しかし、思考者は霊魂:nepheshである。それゆえ、荒っぽく言えば、人間の構成的な要素は次のように見取り図が描ける。
aphar(塵)
+ basar(肉)
nishman(息) nephesh(霊魂、自我)
ruach(霊)
死のとき、肉は塵に戻る(創世紀3:19、詩編103:14、ヨブ34:14,15)。というのは、人間は塵と灰に過ぎないからである(創世紀18:27)。・・・
死のとき、霊は神御自身の元に(to the presence of God Himself)帰る(コヘレトの言葉12:7)。これに関して、ruach(霊)とnephesh(霊魂、自我)は、しばしば交換可能的に使用される(イザヤ26:9、参照:民数記21:4とともに出エジプト6:9)。両方とも死のとき去り、それから、それらは体の状態から分離した状態において存在する(創世紀35:18)」(Op.cit.p.225)。
g.ruach(霊)とnephesh(霊魂)についての研究からの結論
nephesh(霊魂) ruach(霊)
語根の意味
喉、首、息 風
妥当性の原理
動物と人間の命の霊 神の霊から生じた人間の霊
命の戻り
血に関係している(related to the blood)
心理的な使用法
知識の座 知的
感情の座 全人格を支配するものとしての感情
意志の座 通常、強い意志と性格
全人格 人格として使用されない
共同的人格(corporate personality) 共同的人格として使用されない
反省的使用-自己(reflex usage -self) 反省的に使用されない
この比較から、用語はそれらの意味において同一ではないが、それらは使用法において密接に平行的であることが結論されねばならない。オエラー(Oehler)が、ruach(霊)は、行為への衝動を与えるが、他方、nephesh(霊魂)は行為する行為者(the acting agent)であることを示唆している。彼は、ruach(霊)は、nephesh(霊魂)の本質を構成することを示唆している。換言すれば、それらは2つに分離した実体ではないが、しかし、人間の霊的性質の異なった曲面なのである。
B.新約聖書の用語 ψυχή:pshyhe:プシューケーと霊:πνευμα:pneyma:プニューマ
a. 統計学
ψυχή:pshyhe:プシューケーは、新約聖書において104回、使用されている。その内、58回は霊魂(soul)と訳され、40回は命(life)と訳されている。
B. 使用法
1).霊魂:pshyheの2つの使用は、神に言及する。それらは両方とも旧約聖書の章句の引用である、マタイ12:13、ヘブライ10:38。
2)動物の命がこの言葉によって言及される。旧約聖書における生きたものとして多くが動物の命に言及する、黙示録8:9、16:3。
3)2回、その言葉が形容詞的形態において見い出され、生きているものに言及している、コリント15:45、ペトロ二2:14
4)多くの場合、それは人間に関して使われていて、ここでは、同じ理念が旧約聖書において見い出されるそれらのものである。
a)人間の人生の活動原理、マルコ3:4、10:45、使徒言行録15:26、27:22、ローマ16:24、フィリピ1:27、ヨハネ13:27、黙示録12:11。
b) 人格的な反省的使用(personal reflexive use) マルコ13:34、ルカ1:46、ヨハネ10:24、使徒言行録2:27、ヤコブ5:20、ペトロ一1:19。
C)経験するところの人間の性質の要素
(1)知的に 使徒言行録3:23、14:22、フィリピ2:2
(2)感情的な、愛情 マルコ12:30、使徒言行録14:2、黙示録18:14。
(3)意志 エフェソ6:6、コロサイ3:23
次のものはその使用例、その内のあるものは上に挙げた異なった範疇と重なる
マルコ12:30、精神を尽くし(with all the soul)主を愛しなさい
ルカ1:47 わたしの魂(my soul)は主をあがめ
ルカ2:35 剣で心(the soul)を刺し貫かれます
使徒言行録3:23 この預言者に耳を傾けない者は皆(every soul)
使徒言行録14:2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人(the souls
of the Gentles)を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた
エフェソ6:6 心(魂)から神の御心を行いなさい
ヘブライ12:3 気力を失い(fainting of your soul)
黙示録18:14 お前(thy soul)の望んでやまない果物は、お前から遠のいて
いき
人間はときには霊魂(a soul)であり、また、他のときには、霊魂(a soul)を持っている。
d.新約聖書における新しく一般的に行われている使用法
新約聖書における新しい使用法は、現在の状態ではなく、霊魂(the soul)の将来を強調している
マルコ8:35-37「自分の命を救いたいと思う者は・・・福音のため命(霊魂:pshyhe)を失う者は・・・自分の命(霊魂:pshyhe)を買い戻す・・」。
ルカ21:19「忍耐によって、あなたがたの命(your souls)をかち取りなさい」
人間は、霊魂(the soul)を傷つけることできない、しかし、神は霊魂(the soul)
を滅びに渡すことができる。マタイ10:28「体は殺しても、魂を殺すことので
きない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れな
さい」。
そのことは共観福音書において、死後の命を言及するのに11回用いられている。
e.パウロ的使用
霊魂(soul)と霊(spirit)についてのパウロの使用法は、旧約聖書の使用法と
対照的である。旧約聖書は、nephesh(霊魂)の使用を756回、ruach(霊)の378
回持っていて、それは約2対1である。パウロは、:?:霊魂:pshyheの使用を13
回、霊:pneymaの使用を146回持っていて、それは約1対10である。
彼は、旧約聖書においてnephesh(霊魂)が使用されている3つの仕方で霊魂:pshyhe
を3回、使用している。
(1) 活動 コリント一14:7、15:45、ローマ11:3、16:4、フリ
ピ2:30、テサロニケ一2:8、コリント二1:23。
(2) 経験、感情、意志、思考の座 コロサイ3:23、エフェソ6:6、フィリピ1:27。
人を表すのに使われている ローマ2:9、13:1、コリント二12:15、使
徒言行録27:37。この使用法は、パウロが霊魂:pshyheを人格性の座として考
えていたことの理念を表すと言えるが、しかし、そのことを要求はしないのである。
ペトロはその言葉を、全人を言及するのに使った。「しかし、主の言葉は永遠に変る
ことがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(ペ
トロ一2:25)。
C. 結論
霊魂:pshyheは頻繁には使われないが、あるいは、旧約聖書におけるnephesh(霊魂)のようの新約聖書においては、多くの回数において使われはしないが、でも、それがnephesh(霊魂)と同じ意味をなお担うことを、新約聖書におけるその使用法の例がある。新約聖書は、同じ概念を表すためにある付加的な用語を用いるのである。また、新約聖書においては、生まれ変り(rebirth)の理念がより顕著である。
2.霊:πευμα:pneyma:プニューマ
霊:πευμα:pneyma:プニューマは、ruach(霊)のように、幾つかの異なった理念を伝えるのに使われる。
a. 風
ヨハネ3:8「風は思いのままに吹く」
b. 息
テサロニケ二2:8「その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます」。
c. 神の霊
その用語は、次の区分にしたがって神の霊について使われる。29回が神の霊あるいは主の霊について使われる。102回が真理の御霊、聖めなどの御霊について使われる。89回が聖霊について使われる。
1) 非日常的な賜物の原因 コリント一12:4、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」。
2) イエスの身ごもりの原因 マタイ1:18「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。ルカ1:35と比較せよ。
3) 神における知的な活動の座 コリント一2:11、「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」。
4) 外的な世界において働いている 使徒言行録8:39「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」。
5) 力の霊 ルカ4:14「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった」。使徒言行録1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
6) 人間において倫理的な結果を生み出す ローマ8:4「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。
d. 人間の霊
1) 命の座あるいは原理 ルカ8:55「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」。マタイ27:50、ルカ23:46、ヨハネ19:30、徒言行録7:59、ヤコブ2:26
2) 感情の座 マルコ8:12「イエスは、心の中で深く嘆いて」、ルカ1:47「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」、ヨハネ11:33「イエスは、・・・心に憤りを覚え」、ヨハネ13:21「イエスは、・・・心を騒がせ」、使徒言行録17:16「パウロは・・・憤慨した」。使徒言行録18:25「彼は・・・熱心に語り」。
3) 意志の座 ヨハネ4:23-24「霊と真理をもって・・・礼拝する」、ローマ1:9「わたしは、・・・心から・・・仕えています」。
4) 知性の座 ローマ8:16「この霊こそは、・・・わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」、コリント一2:11「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか」、マタイ5:3、マルコ2:8、ルカ1:80。
この概観から、霊:pneymaの使用法は、旧約聖書におけるruach(霊)の使用法に非常に近いということが考察される。
C.霊:pneymaという言葉についてのパウロ的な使用法
1)神の霊としての霊:pneyma
ローマ8:14、コリント一2:11、コリント二3:3、神は霊である。パウロは、神を神の霊と交換しているし、また、キリストの霊とも交換している、ローマ8:9、ガラテヤ4:6、フィリピ1:19。神の霊の本質的な側面は霊の活動である―創造すること、贖うこと、保持すること、人間を聖めることの活動である。霊がなければ、クリスチャンの生活は無いのである、ローマ8:9。
2)クリスチャンへの聖霊の影響
霊:pneymaの116の場合が、信者への超自然的な影響について使われている。
3)聖霊は、クリスチャンの霊(the Christian spirit)を造る。御霊のみわざの結果は、
a.子とする霊 ローマ8:15
b.力 コリント一2:4
c.信仰 コリント一4:13
d.知恵と啓示 エフェソ1:17
e.柔和 コリント一4:21
御霊の賜物と比較せよ、コリント一12章と御霊の実、ガラテヤ5:16とローマ8:1-4。
神の霊とクリスチャンたちの霊を混ぜ合わせてはならない。コリント一2:11は、人間の霊の不十分さを示すため、その二つを対比させている。ローマ8:16において、神の霊と信者の霊の両方が、信者のたちの子であることについての証人として呼ばれている。その二つの対比のため、ローマ8:12-14、23、26も見よ。神の霊は、人間に内住して、御自身の家、御自身の神殿とする。人間の霊は神の霊によって活力を得るが、決して混ぜ合わされない。両者にはコミュニケーションとまじわりがあるが、決して吸収されない。
1. 自然の人の霊(natural personal spirit)
コリント一2:6-7。自然の人は自分自身の霊を持っているが、それは神の事柄を受け入れることができない。コリント一15:45は、自然の人は、霊魂:pshyheのみを持っていて、霊:pneymaを持っていないということを前提することをわたしたちに保証しない。
クリスチャンは、自然の人の霊とクリスチャンの霊の両方を持っているのではない。再生は、霊:pneymaの更新を包含するが、その結果、それは新しい性格を持つ、ローマ8:10。しかし、この更新後、霊が感情などの座であり、また、こうして、その言語は人間の如何なる霊にも共通で、クリスチャンの霊に関しても使うことができる。コリント一16:18、コリント二2:13、7:13。
霊は人間における指導的で支配的な要素である。それは、活動における霊魂:pshyheに非常に近い。「パウロの使用法と旧約聖書の使用法が幾つかの点において同一であることは真実であるだけでなく、それらは同じ領域をまったくカバーするということも真実である。パウロと旧約聖書の間には、著しい違いはなく、あるのは発展と強調の度合だけである。御霊についてのパウロの枠組みは、まさに旧約聖書の枠組みなのである。それは、神的性質に始まり、人間に入る神的活動と力に、それを受け入れる再生された人間における要素に、そして、霊が入つことから起こるところの信仰と生活における結果にと進むのである」(W.DavidStacey,The Pauline View of Man 1956 p.138)。
霊魂:pshyheよりも霊:pneymaのより顕著な使用法は、パウロの回心の経験によって説明され得る。彼は、自分の人生において神の霊の力についての感覚を持っていたし、また、霊:pneymaはこの概念を最善に伝えるのである。こうして、彼の人間学はユダヤ的でもなく、ギリシャ的でもないのである。それはキリスト教的なのである。
Ⅱ.第一義的に身体的である(physical)
A.旧約聖書における心(heart:לב:leb:レーブ)(לבב:lebab:レーバブ)
フォン マイエンフェルト(Von Meyenfeld)は、心を表す旧約聖書の重要な研究をした。わたしたちは、彼がそれらを列挙したように、この用語の使用法を要約しよう。
1. 人間の心
1) 生物学的意味
a)生命の主要な器官 サムエル上25:37、列王9:24、詩編37:15
b)栄誉の座 雅歌8:6
C)底の部分 サムエル上25:37、ナホム2:11、海の底 ヨナ2:3 天 4:10
2) 生命力の主体
a) いつまでも健やかな命が与えられますように 詩編22:27
b) 生命を担うもの 創世紀18:5、士師記19:5、詩編22:27
c) 人格的な反省的感覚(personal reflexive sense)詩編4:4、申命記7:17、
詩編22:27
心と血の関係についての旧約聖書の言及はない。
2. 感情的な感覚(感覚性)における心
1) 苦痛の座 創世紀6:6、エレミヤ4:19
2) 喜びの座 箴言14:10、15:13、コヘレト7:3
3) 好色の行為者 申命記17:17、ヨブ31:9、ホセア4:11
4) 他の感情
不安 サムエル上4:13
おののき イザヤ21:4
憎しみ レビ19:17
勇気 詩編31:24
傲慢 申命記17:20、列王下14:10、エレミヤ48:29
憐み イザヤ15:5
怒り 申命記19:6
心 箴言14:30
心における恵みのみわざ エレミヤ31:33、エゼキエル36:26、
エゼキエル18:31
3. 認識的感覚における心-知的なものの座
1) 認識 エレミヤ44:21
2) 記憶 イザヤ33:18
3) 知識 箴言15:7
4) 洞察 申命記8:5、5:29、箴言15:28
5) 意識 エレミヤ5:21、イザヤ32:4
6) 批判的な判断 コヘレト2:1、2:3、15
7) 司法的な感情(juridical feeling) 列王上3:9
8) 知恵のための器官 出エジプト35:26、ヨブ12:3
9) 愚かさのための器官(organ for foolishness) 箴言12:23
4. 意志的な感覚における心
1) 計画者 列王上8:17、10:2
2) 決定する主体 創世紀8:21、イザヤ63:4、ダニエル1:8
3) 理念の座 サムエル上13:14、エレミヤ3:15
4) 欲望の座 エレミヤ22:17、ヨブ17:11、詩編21:2、
申命記30:17
5) 原動力 出エジプト25:18、35:5
6) 行為の計画を作り上げる(forge of the deed) 列王上3:6、8:39、
エレミヤ17:10
7)行為の基準 申命記29:18、サムエル上2:1以下、13:14
5. 倫理的な感覚における心
1) 良心 創世紀20:5-6、サムエル上24:5、ヨブ27:6
2) 倫理的な実現 箴言15:21
3) 性格 箴言15:30、コヘレト7:7
4) 人間の命令を守る人 箴言3:1、6:21、7:3
5) 他の人々への気持 出エジプト14:5、申命記15;7
6) 傲慢な気質 申命記17:20、列王下14:10、エレミヤ48:29
7) 非社会的な気質 申命記15:9
8) 愛 サムエル上10:26、サムエル下14:1、箴言26:23、
箴言31:11、歴代誌下7:16
9) 配慮 サムエル上9:19、エレミヤ32:41
10)憐み イザヤ15:5
11)悪意のある喜び レビ19:17、箴言24:41
12)憎しみ レビ19:17、箴言26:25
13)心における恵みのみわざ エレミヤ31:33、エゼキエル18:31
エゼキエル36:26
6. 心の特色
心は代表(representative)である。このことは、心は諸器官において誉れの場を持つことを意味している。代表は、代表されるものから区別されよう。心は、まさに人間の身体的な部分を示しはしない。それは、全人格(the whole person)を代表する。心を使うことは、最も深い感覚は、それは心からのもの(the genuine)、真正なもの(the authentic)、本質的なもの(the essential)である。独立的の存在しているものとしての心の使い方はないのである。
心は、至って宗教的な使い方である。宗教は、神に対する全人格の関係として見られる。もし心が関与しているならば、全人格に関係があるのである。
新約聖書における心:καρδία:kardia
新約聖書を書くときまでは、心:καρδία:kardiaは、意志、思考、感情の座として使われた。それは人格性の理念(personality)に近いし、また、反省的な代名詞(a reflexive pronoun)として事実上使われたのである。
1. 身体的な意味で145回
肉で造られている コリント二3:3
意志の座 マルコ3:5、マタイ5:8.ローマ6:17、コリント一4:5、ヘブライ10:22
知性の座 マタイ2:6-8、ルカ2:35、ローマ1:21、エフェソ1・18、ヘブライ8:10
感情の座 ルカ24:32、ローマ1:24、コロサイ3:16、ヨハネ14:1
2.人格を意味する
全体としての内的な人間 ルカ16:15、マタイ12:34、ローマ8:27、
ヘブライ13:9 ペトロ一3:4 ヤコブ4:8
3.良心を意味する ローマ2:15、ヘブライ10:22、ヨハネ一3:19-
20
2. 倫理的な判断が心に属する ローマ1:21、2:15
3. 神が人間の霊に関係しているように神の霊が心に関係している
コリント二1:22、ここでは全人格が心によって表わされている
4. 神の愛がわたしたち心に注がれている ガラテヤ4:6、恵みがわたしたちの心に宿る コロサイ3:16
5. キリストの割礼は心の割礼である ローマ2:29
6. 信者の心は神の霊の座である コリント二1:22、ガラテヤ4:6
7. 信者でない人における罪の座が心である マルコ7:21
8. キリストが心に住んでくださる エフェソ3:17
心(the heart)に関するまとめ
心それ自身は道徳的な資質を持たない。心から善と悪が生じる。明らかに、心は人間のより高い原理ではないが、しかし、意図する自我(the intending,purposing self)であり、それは自身の内において決断するし、あるいは、外側から動かされ、それは善とも悪ともなる。パウロにとって、邪悪の心は肉のように大きくはなかった(not so much the heart as flesh)。
「キリスト教辞典」(the ChristelijkeEncyclopedie)によれば、「まさに体のように、血は心臓からすべての肢体に流れるように、比喩的な意味において、霊魂全体(the entire of the soul)は心から来るのである」。キッテル(Kittel)によれば、「心は人間の内的生命の中心であり、すべての力の源泉であり、霊魂と霊の機能なのである」
(Theological Dictionary of the New Testament,GerhardtKittel,ed.translated by GoeffreyW.Bromiley:GrandRapids,Wm.B.Eerdmans Publishing Co.,1965 Vol.Ⅲ.p.611)
バーフィンク(Bavinck)は、心は生命精神の理解力の座であり、源泉であり、(the seat and the source of the life)、またもや欲求と意志の座であり、源泉でもある(of the desire and the will)。霊が生命の原理であるが、霊魂は生命の主体であり、心はその中心的な器官を形成するのである。心は人間の最深の核心(the innermost kernel)なのである。それは深く、暗く、他の人々にとっても自分自身にとっても貫通できない、エレミヤ17:9、また、心とはらわたを試みるお方によって知られるだけである、エレミヤ17:10。心は人間の隠れた生命の座であり、他の人々から隠れているだけでなく、しばしば、部分的には、自分自身からも隠れているのである。
ジョン・フレーム(John Frame)の解説は、人間の構成の第一義的な中心としての心の意義を理解するのに役に立つ。「神についての認識は心の認識である(出エジプト35:5、サムエル上2:1、サムエル下7:3、詩編4:4、7:10、15:2、イザヤ6:10、マタイ5;8、12:34、22:37.エフェソ1:18以下を見よ)。心は、人間の最も基本的な性格において人格性、人格それ自身の『中心』なのである。聖書は、それを思考、意志、姿勢、語ること(speech)の源泉として表わしている。それはまた道徳的な認識の座でもある。旧約聖書において『心』(heart)は、『良心』(conscience)が受け入れられる翻訳であろうところの文脈において使われている(サムエル上24:5)。
『心』が堕落しているという事実は、恵みを離れては、わたしたちは神の事柄について根源的に無知なのである・・・神の恵みによってのみ、それがわたしたちの心を回復し、神の契約の僕たちの属するところの認識―従順と相関関係にある認識をわたしたちに回復できるのである。
この事実の一つの意味は、神についての信者の認識は神的性格から切り離せないことである。再生において最初のものを与えてくださったところの御霊は第二のものも与えてくださるのである。聖書における教え(神学)の奉仕に対する資格は至って道徳的な資格なのである(テモテ一3:1以下、ペトロ一5:1以下)。こうして、神学的な働きの資質は、命題的な認識に依存しているだけでなく、あるいは、論理学、歴史、言語学などに依存しているだけでなく(もちろん、それらには、信者たちも信者でない人々も大きな程度において共有しているが)、それは神学者たちの性格にも依存しているのである。
第二の意味は、神についての認識は、一つの『機能』(one faculty)を通してのみでなく、知性や感情などの他のものを通しても得られるが、しかし、心を通し、全人格を通してなのである。神学者は、ことごとくのものによって、自分と自分の能力と才能は、神によって自分に与えられたことを知っている。知性、感情、意志、想像力、感覚、自然的な賜物、霊的な賜物あるいは技術(skills)は-すべてが神認識に寄与する。神についてのすべての認識は、わたしたちの能力の「すべて」(all)を協力させるのである。何故なら、それはわたしたちがことごとくのものであるところのことに従事させるからである(John M.Frame,The Doctrine of the Knowledge of God,Nj:Presbyterian and Reformed Publishing Company,1987 p.
322-323)。
C.精神(mind)を表す言葉
1.古典ギリシャ語における精神:νους:nous:ヌウスは、感情を含めて、知性あるいは理性、精神を意味する。70人訳聖書(LⅩⅩ)は、νους:nous:
ヌウスを11回のうち、心:לב:leb:レーブ:心と訳し、1回を霊:רוח:ruach:ルーアフと訳すのに使っている。
1. 思考、知的な活動の理念を持つ新約聖書における他の言葉は下記のようである。
知性:nous: ヌウス 23回
認識すること:noein:ノエイン 13回
認識:noema:ノエーマ 6回
愚かな:anoetos:アノエートス 6回
理解力:dianoia:デアノイア 11回
善意:eunoia:ユウノイア 1回
善意であること:eunoien:ユウノイエ 1回
戒め:nouthesia:ヌウセシア 1回
戒めること:nouthtein:ヌウセテイン 8回
これらの用語の8回は福音書で、ほとんどルカにおいて使われている。その基本的な理念は、
1. 認識すること マルコ8:17、エフェソ3:4
2. 理解すること マルコ12:34、テモテ一1:7
3. 何をすべきかを考えること ルカ1:51、マルコ12:30、テモテ二2:7
人間は、自分が理解し、何をすべきかを考えることを認識する。最初の戒めは、精神についての教理の新約聖書の理念を要約し、人は神が自分をどのように生かすかを理解し助言する。
ヨハネ一5:20は、精神についての新約聖書の教理を要約する。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」。公平な精神についての教理はない。
パウロにおいては、2つの組がある。最初は、キリストの心(the mind of Christ)を持つところの人々である、コリント一2:16、彼らの心の霊において更新される、エフェソ4:23。クリスチャンの心がテサロニケ二2:1-3、エフェソ4:20-24において説明されている。
第2の組は、信者でない人々の心で、彼らは肉の心(the mind of flesh)を持つと描かれている。罪深い心(the sinful mind)は、ローマ1:28-32、エフェソ4:17以下において説明されている。
知性:nous: ヌウスについてのパウロの使用は、人間の部分としてのギリシャ精神の分析的アプローチではなく、むしろ、ヘブライ的な精神の綜合的なアプローチであり、全人を表す。知性:nous: ヌウスは、能力(a faculty)であることを止めて、全人の一つの局面となるのである。知性:nous: ヌウスは、学問的であることを止めて、実践的となるのである。
A. 良心(conscience)
1. 使用される用語
良心についての理念は、良心を表すヘブライ語には見い出されないが、旧約聖書において明らかである。アダムとエバは、堕落後、良心の呵責を確かに感じた。ナタンの前でのダビデもそうであった(詩編51:5)。
70人訳聖書(LⅩⅩ)は、自己についての「共感認識」(fellow knowledge)を意味する良心:suneudesis:シュネイデーシスという言葉を、意識的な行為に対する道徳的な判断をする理念を伴って、使っている。
良心:suneudesis:シュネイデーシスは、新約聖書において30回使われている。20回はパウロによって、3回はペトロによって、ヘブライ人への手紙において5回使われている。
ヘブライ人への手紙―良心 ヘブライ13:18
他の4つの使い方は、キリストの血は、良心をきよめて、完全にする(perfects)、ヘブライ9:9、14、10;2、22
ペトロ-ペトロ一3:21 真剣な告白の承認
ペトロ一2:12と3:16-クリスチャンの良心に言及している。正しい良心を持って苦しむ。
パウロの使い方
1. 普遍的-ローマ2:14-15
2. 働き(functions)
a. 義務的-人に、彼が正しいと見なしていることをするように促し、悪を控えるように人を抑制する、ローマ13:5
b. 司法的-人間の行為と判断を裁く、コリント一1:12、コリント一4:4
c. 執行的-不安、恥、苦悩、悔悟を引き起こして、罪に定めるため、心における判断を遂行する。他方、その行為を正しいと裁くときには、称賛する、コリント一4:4。
3. 良心(conscience)に関するまとめ
a. どの人も良心を持っている(コリント二4:2)、すなわち、人は善と悪の違いを知っているし、正しいことをすることは正しいし、悪いことをすることは悪いことであることを知っているのである。良心は、何が善で、何が悪かを語らない。良心は、自分自身の決定者(the arbiter)なのである、ローマ2:15。良心が認識に関係するとき、良心は心の働き(a function of mind)なのである、テトス1:15。人が良心のために従うとき、それは、人はそれが正しいことを知っているからであり、それを行うことの結果を恐れているからではない、ローマ13:5、コリント一10:25―27
b. もし、人は自分が正しいと考えることを行うならば、彼は良い良心の承認を持つのである、使徒言行録23:1、テモテ一1:5、19、テモテ二1:3、ペトロ一3;16、21、ヘブライ13:18
c. もし、人は自分が悪いと考えることを行うならば、彼は悪い良心の不承認(the disapproval of an evil conscience)を持つのである、ヘブライ2:15。良心は彼を守りもしないし、責めもしないのである、ローマ2;15
d. 頑固な罪は、良心を麻痺させ、テモテ一4:2、心と良心を汚す、テトス1:15。心(the heart)が頑なであれば、良心を衰えさせる。
e. どの人の良心も自分にとって権威であるが、しかし、無謬ではない。というのは、ひとりの人の良心は、他の人が禁止することを許すかもしれないからである、コリント一8:7。そのような違いは認識の違いから生じる、ローマ2:12、また洞察力の違いからも生じる、コリント一8:7、10:22-23
f. クリスチャンたちは自分自身に命じることを求めるが、自分自身だけでなく、他の人にも命じる、使徒言行録24:16、コリント二4:2
4. 良心と神との関係
a. 神は、良心がモーセの律法の下で行為しようが、あるいは、一般啓示の下で行為しようが、各人の部分である良心の創造主である、ローマ2:15、8:29:4、ガラテヤ4:6
b. 信者は、すべての良き良心において神の前で生きねばならない、使徒言行録23:1、参照 使徒言行録24:16、テモテ二1:3、ペトロ一2:19。彼は、非人格的な倫理的理念あるいは自分自身の良心に対してさえも答えることができず、神に答えるのである。
c. 聖書は、良心のために、わたしたちの上に権威を持つ人々に従順を命じる。何故なら、彼らは神に定められた権威(God-ordained authorities)だからである、ローマ13:1-7。彼らの権威が神の戒めと衝突するときには、そのときには、地上的な権威に勝って神に従うべきである、使徒言行録4:19、5:29、ローマ2:12以下
d. 最後の審判は、どの人も知っているところの律法(the law)と一致してなされる、ローマ2:12
4. 人間の良心とキリストの関係
a. 良心は、キリストの血によってきよめられる、ヘブライ9:14、10:2
b. 信仰と良心は関係している、テモテ一1:5、「」。テモテ一3:9で「」
c. キリストは、良心の主である、ペトロ一3:15以下、「」
d. 信者たちは、今、神の右にいますところのキリストの復活により、神に対して良き良心を持つ、ペトロ一3:21
e. ヨハネ1:1-3におけるロゴス(the Logos)は、どの人をも照らし、そのロゴスは、どの人にもある神に植え付けられた良心に言及する。
5. 良心と聖霊の関係
聖霊は、わたしたちの良心と共に証しをする、ローマ9:1、参照 ローマ8:16、2:15
B. 身体的な意味において使用される身体的な用語
肉-בשר:flesh;basar:バーサール、שאר:she’er:シェエール
a. 肉-בשר:flesh;basar:バーサールは、人間を神と区別する、創世記6:3、歴代誌下32:8、ヨブ12:10、詩編56:4、65:2、イザヤ31:3、40:6以下
b. 全体に対する部分 列王上21:27、レビ記13:38、17:15以下
c.身体的な使用
「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身(בשר:flesh;basar:バーサール)も心も叫びます」(詩編84:3)、詩編63:2「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだ(בשר:flesh;basar:バーサール)は/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています」。
箴言11:17における霊魂と並行している「慈しみ深い人は自分の魂を益し/残酷な者は自分の身(בשר:flesh;basar:バーサール)に煩いを得る」。霊魂と肉の両方とも、ここでは反省的な感覚において(in the reflexive sense)使われている。
d.肉は、人間と動物の身体的な本質を示す、ヨブ7:5、創世紀6:12、7:15以下、8:17
e.体全体が肉によって表わされている、レビ記6:3、16:4
f.性の器官 出エジプト28:42、彼女たちの裸の肉を隠すため
g.性的結合の結果として一つの家族の統一性、一つの肉、創世紀2:23。親族の近さは文字通り肉の近さを表す。
体(גויה:giwiyyah:ギッゲイハー)を表す適切なヘブライ語用語は、旧約聖書に4回生じるが、しかし、決して身体的な意味では使われない。
頭(ראש:rosh:ローシュ)と(κεφαλή:kephale:ケファレー)
a. 嘲りが頭を振ることによって表わされる、列王下19:21、ヨブ16:4、詩編44:14、18:16
b. 垂れた頭は弱さのしるしである、創世紀40:13、列王下25:27、ヨブ10:15、詩編83:2、あるいは、謙孫、詩編3:3、27:6、110:10
c. 祝福が頭に手を置くことによって与えられる、創世紀48:13以下。神に献げることが油を頭に塗ることでなされる、詩編23編、133:2
d. 問題への責任、ヨブ2:19、サムエル下1:16、3:29、志師記9:57、詩編7:16、箴言25:22
e. 頭は全人を表す、「アキシュはダビデに言った。『「それなら、常にあなたをわたしの護衛の長としよう(a keeper of my head)』」サムエル上28:2
顔(פנים:panim:face)
顔、あるいは、姿は人を表す
a.友好的でなく、ヤコブに対するラバンの顔、創世紀31:2
b.決定 イザヤ50:6
c.固い 反抗 エレミヤ5:3、エゼキエル2:4
d.図々しい 箴言7:13、21:29
e.無慈悲 申命記28:50、ダニエル8:23。
f.ライオンのような獰猛さ 歴代誌上12:
g.快活な ヨブ29:24
h.親切な 箴言16:15、コヘレトの言葉8:1
i.恐れ イザヤ13:8、エゼキエル27:35
j.謙孫 サムエル下19:6、歴代誌下32:21
k.激しい苦痛 エレミヤ30:6
l.無邪気(innocence) 顔向けができない(hold up the face)
サムエル下2:22
m.意気消沈 顔を伏せる 創世紀4:5-8
n.反省的(reflexive)「主を求めることを決意し」歴代誌下20:3。
o.個人的な接触を楽しむ 列王下14:8、11
p.モーセの顔の輝き 出エジプト33:14、申命記4:37
4.頭あるいは顔の部分
a.口(פה:peh:ペ)
1)自分自身において、あるいは、自分から語る 創世紀45:12
2)賢くあるいは愚かに語る 詩編37:30、イザヤ9:17
3)賛美を献げるあるいは非難する 詩編63:5、ヨブ9:20
4)偽りを語ることを結びついている 詩編55:21
b.口蓋(חך:chek:ヘーク)
1)味わう ヨブ12:11
2)道徳的な裁きを宣言する(pronounces moral judgments)
3) 真理を語る 箴言31:30
c.舌(לשון:lashon:ラーショウウン)
1) 語る ヨブ27:4
2) 歌う 詩編119:172
3) 計画する 詩編52:2
4) 争いを好む イザヤ54:17
5) 義と知識をもって語る イザヤ54:17
6) 高ぶりに対して責任がある 詩編37:30
7) 悪口 詩編140:11
8) 欺き 詩編52:4
d.唇(שפה:saphah:サーファー)
1) 語る ヨブ27:4
2) 大喜びする 詩編71:23
3) 唇がわなないて裏切りが恐れる ハバクク3:16
4) 知識を保つ 箴言5:2、マラキ2:7
5) 栄誉を授ける 詩編63:3
6) 論争する ヨブ13:6
7) 信頼できる ヨブ33:3、箴言8:7
8) 欺くことができる 詩編12:3-4
e.目(עין:aiyn:アイン)
1) 見る 創世紀45:12
2) 人の目に愛顧を見い出す 創世紀33:8
3) 誇りあるいは謙孫 詩編18:27、箴言30:13、ヨブ22:29
4) 愛顧と不興 詩編101:6、民数記15:39、歴代誌下20:12、
詩編25:15、
5) 望みと希望 ヨブ11:20
6) 失望 ヨブ11:20
7) 憐れむことができる 創世紀45:20
8) 道徳的判断の主体-善い目と邪悪な目 箴言22:9、申命記15:9
9) 全体としての個人に言及する ヨブ24:15で「だれにも見られないように」。
鼻(nose,ornostil:ף:aph:アペ)
1) 息をする 創世紀2:7、7:22、イザヤ2:22
2) 怒り 箴言14:17、29、15:18
3) 誇り 詩編10:5
額(מצח:metsach:メツァフ)
1) 決定 イザヤ48:4、エゼキエル3:3-7
2) ずうずうしいこと エレミヤ3:3
耳(אזן:ozen:オウゼン)
1) 聞く サムエル下22:45
2) 知識を求める 箴言18:15
3) 理解と識別を示す ヨブ13:1、12:11、34:3
2. 体の周辺部分
腕(אזרוע:זרוע:eroa,zeroa:エズレロウア、ゼロウア)
1) 行為のためまくった腕 エゼキエル4:7、イザヤ52:10、53:1
2) 力、攻撃あるいは防御 サムエル上2:13、ヨブ22:8-9
3) 全人(the whole person)を表す ヨブ26:2、イザヤ17:5
手(יד:yad:ヤード)
1) 右手、誉れの場 列王上2:19、詩編45:9、110:1
2) 悲しみ、恥 サムエル下13:19
3) 祈り 箴言1:24
4) 嫌悪 ゼファニア2:15
5) 大喜び エゼキエル25:6
6) 力 民数記20:20
7) 手を置くこと 歴代誌上18:3、出エジプト7:4、列王下13:14-
17
8) 倫理的、サムエル上24:12 わたしの手に反逆はない
9) 血にまみれた手 イザヤ1:15
10)無罪、きよい手 詩編24:4
腕(hands)は人の活力の手段と見られる、あるいは、人の機嫌(mood)、目的、性格へ導くものと見られる
首(צואר:tsawwar:ツァウアール)
1) 伸びた首、誇り 詩編75:5
2) 固い首、頑固 出エジプト32:9
膝(ברך:berek:ベレク)
1) 震える膝、弱さ 詩編109:24
2) 失望 ヨブ4:4
3) パニック エゼキエル7:17
4) 礼拝、膝まづく イザヤ45:23
足(רזל:regel:レゲル)
1) 足で踏みつけること、怒り エゼキエル6:11
2) 首に足をかける、勝利 ヨシュア6:11
3) 奢る者の足 詩編36:11
3. 内的器官
a.骨(עצמת:atsmoth:エツェモウス)
1)全人(the entire person)、イザヤ66:14「これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ」。ハバクク3:16で「腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた」。 エレミヤ23:9で「わたしの心臓はわたしのうちに破れ/骨はすべて力を失った」。
2)骨は恐れる、詩編6:3で「主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ」。
3) 骨は我慢ができない エレミヤ20:9aで「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。
4) 骨はねたみによって滅びる 箴言14:30で「穏やかな心は肉体を生かし/激情は骨を腐らせる」。
5) 骨はいつくしみを経験する 箴言15:30「目に光を与えるものは心をも喜ばせ/良い知らせは骨を潤す」
6) 骨と霊魂は神に感謝を献げる 詩編35:9-10で「わたしの魂は主によって喜び躍り/御救いを喜び楽しみます。わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます」。
7) エリシャは死と命無きものとしての枯れた骨の谷を見たが、骨と霊魂は死後でさえも活力を持つ、列王下13:21
b.血(דם:dam:ダーム)
わたしたちは、血は霊魂と結ばれていることをすでに見てきた。何故なら、血は命を包含するからである。血については、血と霊魂の同意一視以外には、特別な章句が身体的な理念に帰されていない、レビ記17:11、申命記12:23
c.身体的な枠組みの内面的部分、胸の部分(the chest region:קרב;qereb:ケレブ)
1) 感情の場所 イザヤ16:11
2) 霊の場所 ゼカリヤ12:1
3) 霊的生活の座 詩編51:12、イザヤ26:9
4) 神的知恵の座 列王上3:28
5) 心(the heart)は、胸の中心
6) 思考の中心 詩編49:11
胸は、内臓(bowels:מעים:meim:メーイーム)に平行し(イザヤ16:11)、心(the heart)に平行し(箴言14:33)、また複数形において霊魂に平行する(詩編103:1)。
腹、下腹部、腹部(בטן:beten:ベテン)、ギリシャ語ではκοιλία:koilia:コイリア
1) 身体的食欲の場所
2) 感じるところ(that which feels)ハバクク3:16
3) 考え、意志する ヨブ3:16
4) 霊的なものを受け入れる 箴言22:18
5) 御霊によって探られる 箴言20:27
6) 目、霊魂、腹は詩編31:9においては相関関係している
はらわた(מעים:meim:メーイーム)
1) 身体的な器官 創世紀15:4、25:23
2) 他の諸器官と相関関係している 心とは詩編37:31、イザヤ51:7、胸とはエレミヤ31:31
3) 律法はその中にある 詩編40:8で「わたしのことは巻物に記されております(Thy law is within my inward parts)」。
4) 神について使われている イザヤ63:15、エレミヤ31:20、人々について使われている イザヤ16:11。
肝臓(כבד:kabed:カーベード)
1) 望みと希望の座 箴言7:23
2) 極端な苦痛 雅歌2:11
腎臓(כליות:kelayooth:ケロウヨウト)、ギリシャ語はνεφροί:nephroi:ネフロイ
1) 犠牲の儀式における特別な器官 レビ記3:4
2) 感情の座 箴言23:16
3) 苦しみ 詩編73:21
4) 苦悩の克服 ヨブ16:13
5) 喜びの座 箴言23:16
6) 懲しめる 詩編16:7
7) 求めること ヨブ19:27
人間についてのヘブライ的見解のこの概観にしたがえば、人間は有機的全体(an organic totality)として表わされ、霊と身体的‐心理的な局面から構成されているものと結論されねばならない。そのようなものとして、人間は推論し、考え、意志する神の被造物なのである。これらの機能のすべては、人間の存在のいろいろな局面に、霊、霊魂、肉、心、また体のいろいろな部分に関係していることが見い出される。
ベルクーワは、人間について使われているいろいろな用語についての自分の考察を次のように結論している。「わたしたちは、わたしたちの時代において、聖書の研究の影響下において、見解についてのかなり一般的な意識が神学者たちの間に生じたと言うことができる。彼らは、人間についての聖書の見解は人間を印象的な多様性においてわたしたちに示すという事実に次第に意識しているが、しかし、それは全人(the whole man)の統一性についての視野を決して失うことなく、かえって、それをもたらし、強調するという事実に次第に意識している。
人間のどの部分も他の部分から独立しているもとして強調されない。それは、いろいろな部分が重要でないからではなくて、神の言葉がまさに全人を神との関係において関心をもっているからである。こうして、それはいろいろな用語と概念を、正確に表明された、あるいは、学問的に役に立つ定義のために役には立たず、むしろ、人間らしさ(humanness)についての同じ基本的な現実性(reality)に常に関係しているのである。その結果、用語におけるいろいろな移動(the various shifts)にもかかわらず、わたしたちは、人間についての描写における重要な移動(an important shift)を扱っているという印象を決して受け入れはしないのである」(Berkiuwer:Image of God,op.cit.p.200)。
これらのいろいろな形而上学的用語に加えて、わたしたちは、聖書が人間について「わたし自我」(”I”ego)あるいはani:אני:アニーとanochi:אנכי:アノーキーを使っているのを見い出す。最も一般的な言及は全人格性(the whole personality)である。それは、体の諸部分にも使われる。全体としての人格性は、「わたしは目を覚ます(I awake)、わたしは勉強する(I studying)、わたしは考える(I think)」のような叙述の下に描写されるのである。
パウロは、ローマ7:15において「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」について語る。再び20節において、彼は言う。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。パウロは生まれ変り、罪を犯さないところのより深い「わたし」(I)について語っていると思われる。もちろん、罪を犯すのはパウロであるが、しかし、罪は彼のより深い自我から来たのではないのである。こうして、「わたし」(I)は、ここでは、自分の全体における人(the person)ではなくて、自分の最深の本質における人なのである。わたしたちは、「わたしの霊魂の深みにおいて、わたし以上のわたしであることを願う」と言うとき、同じ概念を使っているのである。
わたしたちは、身体的な行為の本質的な主体とわたしたちであるところの主体を区別しなければならない。より古い心理学は、諸機能、すなわち、知ること、感じること、意志することの区分において順序を求めた。これらは合法的な区別であるが、わたしたちは、霊魂はまさにこれら3つの機能以上のものであると言われるかもしれないことを見てきた。一方においては、霊魂は唯一つの機能、すなわち、生きること(to live)であると断定されるかもしれない。他方、生きた霊魂は、多くの区別される機能を持つのである。
聖書は、創造の説明において、人間に対する3つの第一義的な義務があることを示す。すなわち、預言者的なもの、祭司的なもの、王的なものである。預言者として人間は神の言葉を理解し解釈するのである。祭司として、人間は自分自身を神に献げるのである。王として、神の名において、神が人間の下においてところの被造物を支配するのである。
3つの職務が果たすべきものとして人間に与えられているが、それらは分離できるものであることが考察されるべきである。たとえば、人(the person)は、被造物について研究し、より多くを学ぶことを決めるかもしれない。それは第一義的に預言者的職務である。このことを行うことを決定する行為は、王的職務の遂行である。また、人間が行うところのことの全体は、神の栄光に献げられる。彼は祭司として行為もするのである。
心理学は、わたしたちが内的人間-「わたし」(”I”)の行動において、また、相互のいろいろな関係において、経験するところのことを理解することに関心がある。これらの機能は外的な世界に関係し、心理学は如何に「わたし」(”I”)が内的世界に関係するかに関心がある。心理学が考察する諸課題は次のようである。
如何に、わたしたちは認識するか。
何を思考するか。
わたしたちは、自分の記憶において、事柄をどのように知るか。
わたしたちは、感情について何を知るか。
感情と思考の関係は何か。
わたしたちは、意志することについて何を知るか。
良心はどのよう機能するか。
聖書的心理学の全分野はそのように広いので、それはまだ適切に扱われてはいない。聖書的な所与についてのまさに幾ばくかのこの簡単な概観は、その幅とわたしたちがそれを把握することにおいて持っている難しさを示しているのである。
人間についての聖書的な理解のすべてにおいて基本的なことは、人間は神のかたちに造られたのであり、また、人間は、自分が行うすべてにおいて責任的に考え、意志し、行為するところの人格的な存在なのである。
解説
「18章:人間、その性質-聖書的心理学」の紹介が終わったので、5点の解説をする。まず第1点は、スミスは、どのような意味で聖書的心理学と言うのかという点である。すると、スミスは、これまでで人間の創造について、また、人間の他と区別される特徴は神のかたちに造られているという事実を考察してきた。そこで、今度は、人間の性質(his nature)についてもっと詳しく吟味する。そこで、スミスは、人間の性質についての聖書の教えを整序して総合的に学問的にまとめることを聖書的心理学と呼ぶ。したがって、スミスは、一般学の心理学に並ぶほどの膨大で詳細な心理学的材料を聖書が与えているので、聖書的心理学が成立すると考えているわけではない。
では、聖書的心理学が一般学の心理学と根本的に違うところはどこか。すると、聖書的心理学は、あくまで霊感ゆえに神の言葉それ自身である聖書が、人間の性質について教えていることを真理として扱うのである。すなわち、一般学の心理学は近代のヒューマニズムを前提し、神の存在、創造、罪、キリストによる救いを前提していないので、人間は救いが必要である罪人として扱ったりはしない。しかし、聖書的心理学は、それらを前提し、人間は神が遣わしてくださったキリストを信じて救われるべき罪人としての人間を扱うのである。こうして、聖書的心理学は、人間の性質についての聖書の教えを誤りなき真理として受け入れ整序して総合的に学問的にまとめるのである。
なお、心理学(pshchology)という用語は、「霊魂」(soul)、「精神」(mind)、あるいは、「命」(life)と意味するギリシャ語のψυχή:psuche;プシュケーから来ている。また「言葉」(word)あるいは「知恵」(wisdom)を意味するギリシャ語のλογος:logos:ロゴスから来ているが、ドイツの聖書学者のデリッチは、聖書的心理学とは「・・・造られたものとしての人間の心理的な構成について、また、この構成が罪と贖罪によって影響を受けてきたいろいろな方法についての聖書の教理の学問的提示」と理解していることを表明している。
第2点は、人間の性質を表す聖書の用語についてであるが、旧約聖書においては、霊魂(魂)と霊(spirit)であるが、両者の多種多様な使い方は、どこの個所でどのような意味で使われているのかを、スミスが丁寧に述べているので、スミスの本文を読んでいただければと思うが、気づいた点だけを述べておきたい。
すると、霊魂(魂:soul)は、ヘブライ語でנפש:nephesh:ネフェシュであるが、もともとは、喉あるいは首を意味するアッカド語から来ている。そして、首と喉は、息をする空間を表すので、その言葉が息に言及することは自然的となり、今度は、息の理念から、その言葉は、生命力、生きた霊のしるしに言及するのに使われた。また、特に興味深いのは、霊魂が、愛、喜び、悲しみ、憎しみ、飢え、不安、忍耐など人間の性質のいろいろな局面に関して幅広く用いられることである。
他方、霊は、ヘブライ語でרוח:ruach:ルーアフで、旧約聖書において389回出てくるが、もともとの意味は風で、389回のうち117回が風(wind)を意味して使われている。また、霊が神の霊の意味で使われるときには、強力な影響力で、それは創造し、支配する霊を表す。また、神の霊は人間の命の源として見られている。
霊が人間の霊として使われるときには、人間のいろいろな異なった活動との関連で使用されていて、力、勇気、怒り、苦悩などの座としても、あるいは、直接に力、勇気、怒り、苦悩などとして使用されている。また、知的な活動の座、気質と意志、あるいは、人間の性格の座としても使われている。
では、神の霊と人間の霊の関係は何か。すると、神の霊は、肉体的命の源、人間の精神生活の源、人間の道徳的生活の源、人間の更新された生活の源として使われている。では、人間の霊と人間の霊魂の関係は何か。すると、ある個所においては、霊と霊魂は事実上、同一で、交換可能の用語である。しかし、他方、両者は区別され、スミスは、ドイツのオエラーの説を紹介する。「霊魂は霊から生じ、そして、その存在の根拠として霊の本質を含むのであり、霊魂は、霊の力によってのみ存在し、生きるのである。生きるために、存在に呼び出される霊魂は、その生命の源を関連して留まるのである」。一言で言えば、人間の霊魂(魂)の存在根拠が人間の霊であり、人間の霊の存在根拠が神の霊なのである。
第3点は新約聖書における霊魂(魂)と霊についてである。新約聖書における霊魂(魂:soul)は、ギリシャ語では、ψυχή:pshyhe:プシューケーで、霊(spirit)はπνευμα:pneyma:プニューマであるが、それぞれがどこの個所でどのような意味で使われているかは、スミスが本文で丁寧に説明しているので、本文を読んでいただければよいと思が、気づいたことだけを述べておく。
新約聖書における霊魂(魂)の使い方は、旧約聖書における霊魂(魂)の使い方
に相応していて、生きているものに使われ、動物にも使われるが主には人間につい
てであり、さらに、人間の人生の活動原理、人格的な反省的使用、知的なこと感情
的なこと、意志的なことを表すのに使われる。しかし、マルコ8:35-37「自分の命を救いたいと思う者は・・・福音のため命(霊魂:pshyhe)を失う者は・・・自分の命(霊魂:pshyhe)を買い戻す・・」に見られるように、新約聖書における新しい使用法として、人間の霊魂の現在の状態ではなく、霊魂の将来を強調する使い方が出てくる。また、スミスは、新約聖書においては、霊魂の生まれ変りの理念がより顕著であることを指摘している。
なお、新約聖書における神の霊の使い方は、旧約聖書の人間の霊の使い方に相
応していて、風や息の意味でも使われる。神の霊として使われるときには、9回が神の霊あるいは主の霊について使われ、102回が真理の御霊、聖めなどの御霊について使われ、89回が聖霊について使われる。特に、聖霊については、マリアの身ごもりや聖霊の種々の非日常的な賜物などにおいて特別な働きにおいても使われる。人間の霊については旧約聖書の使い方に相応していて、命の座あるいは原理、感情の座、意志の座、知性の座に使われている。特に、パウロは、聖霊は、子とする霊、力や信仰や知恵と啓示や柔和を与える霊として語られている。また、パウロは、信者の霊と信者でない自然的な人の霊との根本的違いを述べて、後者は霊的な事柄を理解できないことを語っている。
第4点は、第一義的に人間の身体を表す用語についである。スミスは、まず心
(heart)を挙げる。旧約聖書において、心は代表であり、誉れの座であり、全人格を代表する器官である。心は、至って宗教的な使い方をされており、宗教は、神に対する全人格の関係として見られていることをスミスは述べて、旧約宗教における心の重要性を指摘する。こうして、旧約聖書においては、心は生命の主要な器官であり、生命力の主体であり、苦痛、喜び、不安、おののき、 憎しみ、勇気、傲慢、憐みなどの諸感情を覚える座であることを語る。さらに、認識の座、道徳的・倫理的座である。
では、新約聖書における心とは何か。すると、意志、思考、感情の座として使われた。それは人格性の理念に近い。スミスは、心に関するまとめとして、心は意図する自我であり、それは自身の内において決断するし、あるいは、外側から動かされ、それは善とも悪ともなると述べる。また、スミスは、キッテルを引用して語る。「心は人間の内的生命の中心であり、すべての力の源泉であり、霊魂と霊の機能なのである」と。
第5点は、心以外の人間の性質や機能を表す用語として、聖書において使われている用語を説明していく。その一つは精神(mind)である。精神は、具体的には、認識すること、理解力、善意、戒めることなどの意味で使われる。続いて、良心(conscience)であるが、良心を表すヘブライ語は見い出されない。しかし、その概念は堕落後のアダムとエバ、また、姦淫と殺人の罪を犯したダビデに明白にあった。良心は、新約聖書において30回使われ、20回はパウロによって、3回はペトロによって、5回はヘブライ人への手紙において使われている。ヘブライ人への手紙においては、キリストの血が、良心をきよめて、完全にすることに4回使われている。
さらに、スミスは、肉(flesh)、頭(head)、顔(face)、口(mouth)、口蓋・口腔(palate)、舌(tongue)、唇(lips)、目(eye)、鼻(nose or nostril)、額(forehead)、耳(ear)、腕(arm)、手(hand)、首(neck)、膝(knees)、足(foot)、骨(bones)、血(blood)、身体的枠組みの内奥部、胸部(Inward part of the physical frame,the chest region)、腹、下腹部、腹部(belly、lower internal area,the abdomen)、腸(intestines)、liver(肝臓)、腎臓(kidneys)が、どこの個所でどのような意味で使われているかを丁寧に説明しているので、本文を読んでいただければと思う。
わたしは、このように丁寧な聖書的心理学にこれまで出会ったことがなかった。スミスは、32頁もの多くの頁数を費やしてとてもよくまとめたと感心する。人間の霊魂(魂)と霊からはじめて人間の体の各部位まで丁寧に取り上げて説明しているので、これらの性質、機能、部位を持っている全人としての人間がどのようなものか、その全体像が具体的にとてもはっきりしてよいと思う。特に、わたしが興味を持ったのは、神の霊と人間の霊の関係、人間の霊と人間の霊魂(魂)の関係についてであった。すなわち、一言で言えば、」神の霊は人間の霊の存在根拠であり、人間の霊は人間の霊魂(魂)と交換概念でも使うが、区別されるときは、人間の霊は人間の霊魂(魂)の存在根拠と言える関係であることがよくわかった。
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