敎會,敎會論
1.序
2.用語
3.敎會の本質
(1)神の民としての敎會
(2)キリストのからだ
(3)聖靈の御住まい․交わりとしての敎會
1.序.
いずれの敎會も「聖なる公同の敎會,聖徒の交わりを信ず」という使徒信條の告白にアーメンを唱え,かの*アンブロシウスがいみじくも述べたように「敎會は月のよう」(義の太陽であるキリストを反映する意味)でなければならないという願望と祈りとを共通に持っている.しかし,今日,こうした公式見解とは對照的に,キリスト敎界には多樣な敎會論の提唱が見受けられる.そもそも近年において,敎會論が改めて眞劍に問われるようになったのは,それぞれ獨自の特色ある敎會․敎派理解を持った海外宣敎師たちが一緖に宣敎活動に當らなければならなかったミッション․フィールドにおいてであり,それを受け止める形で,敎會合同運動を推進してきた世界敎會協議會(WCC)を中心とする*エキュメニカル運動によって敎會論は神學的注目を浴びるようになった.ちなみにPaul Minear, Images of the Church in the New Testament, 1960は,WCCの設立を宣言したアムステルダム會議(1948年)からエバンストン會議(1954年)までの成果の一つと言われている.まず,WCCの「他者のための敎會」(1967年)や最近の*解放の神學との關連では″世俗的宣敎″を擔う″政治的敎會″の主張が登場してきている.この立場は,エペソ6:12の「主權,力」を神の目的を妨害している抑壓的な社會構造と解釋し,それを″人間化″(Humanization)することが敎會の宣敎の働きであると主張する.『世俗都市』などの著書で知られているハーヴィ․コックスは「ピケ隊の列に加わることは,みことばを語る一つの方法であり,そのように行爲することによって,キリスト者は神について語るのである」と言っている.この立場においては,「要するに福音宣敎とは,種々なる次元における政治(politics)なのである」(G・ウェーバー).次にパウル․*ティリヒは『組織神學』の中で,イエスの出現以前の「潛在的敎會」″latent church″(出現後の「顯在的敎會」″manifest church″と對照させて)について語り,傳道にとって異敎徒,ヒューマニストたち,ユダヤ人たちを潛在的な御靈の交わりの肢であると言っている.また,最近の宗敎多元主義の傾向に同調している*カトリックの代表的神學者カール․*ラーナーは,說敎を聞くことがなく,未受洗の者であっても,良心に從って行動する者を「匿名のキリスト者」(ananymous christian)と呼んでいる.一方,アメリカのドナルド․ブロッシュは『敎會の改革的形成』(1970)の中で,敎會は,もはや神の惠みの證人ではなく,精神のためのビタミン劑を調合する藥劑師のようになっていると批判している.こうした多樣な論議を檢討してみて,一つ氣付くことは,現代神學において,一般の思想界の動向(*形而上學やオントロジーからプロセス,歷史のカテゴリー,機能主義への移行)と連動して,敎會の本質論の神學的な掘り下げは後退し,代って激變する社會變動との關連で,現代の世俗社會における敎會の生き殘り論と機能論に集中している感が强いということである.また,日本には*無敎會主義が,そしてわれわれの周圍には現在*統一協會,*エホバの證人といった*異端と言われているものの主張が渦卷いている.このような狀況の中で,*モルトマンが「敎會は,自己の根源について徹底的に問い直し,ゆだねられた使命を明確に自覺し,脆弱となり,息も絶えだえの姿からキリストの將來へと復歸するように挑戰されている」(『聖靈の力における敎會』1975)と言っていることは正しい........................................................
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