祈りの本質と目的
- 詩篇62:5~8 -
[インマヌエル 下巻.7-01]
[詩篇62:5~8] 「5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」
*** キリスト者は日常生活で絶え間なく直面する葛藤と対立の中で、神の摂理のもと、祈りによって、信仰の力によって、そして神の御言葉に従って生きるよう定められている。祈りは神の御言葉によって動機づけられ、枠組みが形成され、導かれるため、キリスト者の信仰生活において最も重要な行為である。
1. 祈りの本質
◎ 神の子らに与えられた最たる特権は祈ることである。キリスト者は祈りを通して信仰の真の証しを示すため、祈りを「信仰の持続的実践」(perpetual exercise of faith)と呼ぶ。
(1) 人間の心の中に真実で生きた信仰があれば、祈りは自然に即座に湧き出る。(マタイ福音書21:21)
○ 祈りは人間の心の中に信仰がある時に必然的に現れる結果である。すなわち信仰は即座に祈りとして湧き出る。
(2) 祈りは生きた信仰の表現であり、神に対する愛と必要を言葉で伝える信仰である。(詩篇54:6)
○ 神の子らの祈りは、神の父性愛(fatherly favor)と善さに対する信仰と知識によって奮い立たされる。(詩篇18:7)
(3) 人の心の中に信仰を植え付ける聖霊が、信者をして祈らずにはいられなくさせる。
○ 真実で純粋な祈りは、単に声を大きくするだけではなく、信仰の願いを神に告げることである。(詩篇140:6)
(4) 私たちの祈りは、イエス・キリストにおける神の赦しの恵みに対する悔い改めと信仰の応答である。(詩篇143:10)
◈ 悔い改めと信仰とは?
イエス・キリストを信じる信仰によって自らを清め、キリストの苦難と死を通して私たちのために獲得された恵みを神に提示するときのみ、私たちは神の目には清く、満足のいく者となる。キリストを通さず他の方法では、神を父と呼ぶことはできない。そして、私たちがすでに神の赦しを確信し、その赦しの愛に完全に捕らえられているからこそ、赦しを求める祈りを信仰をもって行うことができる。したがって、私たちの祈りは神の赦しの憐れみに基づいている。
2. 祈りの目的
(1) 祈りは人間的必要から生じるものであることに間違いはない。
○ 私たちが神の恵みに対する必要を感じるときに求めることが、まさに祈ることである。
○ 祈りは、単なる人間的な資源だけでは満たされない状況の中で、人間の心霊が助けを求める純粋な叫びである。
(2) 祈りは神の霊によって動機づけられ、イエス・キリストの愛と恵みへの応答でなければならない。
(3) 神は御民が自らの必要を悟り祈ることを教えるため、彼らに十字架を担う訓練をさせる。
○ 誰も十字架を通して柔らげられ、徹底的に抑制されなければ、喜んで祈りをささげることはできない。私たちの必要を祈りの動機とすることを恥じてはならない。
(4) 神の御言葉と祈りは知恵の源となり、証しの実をもたらすだけでなく、私たちの戦いの武器となる。(エペソ書6:17~18)
(5) 神が私たちに祈りを命じられたのは、御自身のためではなく、私たちのためである。
◈ 宗教改革者ジョン・カルヴァンの言葉:
「私たちの信仰が弱まったり怠けたりしないようにし、神を愛し仕えるという熱意が私たちの心の中で燃え上がるようにし、神の前で私たちのすべての願いを完全に申し上げ、神がさまざまな恵みを与えてくださるときに心から感謝して受け入れ、その慈しみをさらに熱心に黙想し、より大きな喜びをもって神の応答を受け入れ、その摂理を確信するために、私たちは祈るのである。」 (ジョン・カルヴァン、『キリスト教綱要』Ⅲ. ⅹ.3)
*** 祈りは、人の心の中に生きた信仰があるならば、神の御言葉に基づいて、その善き御心に従ってなされるものであるゆえに、祈りの本質は、神の御心を知り信仰をもって求めることと、神を賛美しその助けを求めることにある。また祈りの目的は、神との交わりを通して聖霊の力を借りて成長することである。
◈ ウェストミンスター信仰告白(21章3項)
「感謝をもって捧げる祈りは、宗教的礼拝の特別な要素として、神がすべての人々に求められるものである。祈りが成就されるためには、聖子の御名によって、聖霊の助けを受け、神の御心に従い、思慮分別と畏敬の念と謙遜と熱心と信仰と愛と忍耐をもって行うべきであり、もし声を出して行う場合には、日常的な言葉で行うべきである。」