「信じる者になりなさい」

ヨハネによる福音書20章19-31節 

 来週、私たちの教会ではクリスマス祝会を迎えようとしております。賛美の練習をしてくださっている方、また何のデザートを持ってこようかと考えてくださっている方々もおられるでしょう。ともすれば忙しいだけのクリスマスとなってしまうこともあります。しかし、考えてみると最初のクリスマスは本当に薄汚れた家畜小屋で、料理も音楽もない場所でのイエス様の誕生でした。いつも原点に戻るという事は大切なことです。なぜ、クリスマスをお祝いするのか?イエス様は何のためにお生まれになったのか?イエス・キリストの何を信じたらいいのか?見つめなおすことは大切なことです。

 今朝の説教のタイトルは「信じる者になりなさい」というイエス様のことばです。イエス・キリストは十字架に架けられ、ほふられる小羊として血を流し、死なれました。金曜日の夕方に彼の体は引き下ろされて急いで墓に葬られました。安息日と過越しの祭りが始まろうとしていたからです。しかし、次の日曜日の朝にイエス・キリストは約束通りに復活されました。まずマグダラのマリヤと他の女性たちに現れ、エマオへ向かう途中の弟子二人に現れ、そしてシモン・ペテロにも現れたと他の福音書は伝えています。
 その日曜日の夕方にも弟子たちは集まっており、ユダヤ人の迫害を恐れて扉を閉ざしていました。この家が誰の家であったかは記されていませんが、おそらくイエス様と弟子たちが最後の晩餐を持った場所であったでしょう。イエス様の要請に応じて快く二階の大広間を貸した弟子の家であったと思われます。その場所に彼らは不安を抱えながら留まっていたのですが、女性たちの報告や復活したイエス様にお会いした弟子たちの報告を聞いて驚き戸惑っていました。今朝の聖書箇所はこの場面からはじまっています。

一、平安があなたがたにあるように  19-23節

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

①宣教の挨拶
 復活されたイエス様が弟子たちの中に立たれました。その最初の言葉は「平安があなたがたにあるように」でした。イエス様はおそらくヘブル語で「シャローム」と語られたのでしょう。ユダヤ人にとってそれは普通の挨拶(おはよう、こんにちは、こんばんは、さようなら)の言葉でした。アラビア語「サラーム」、インドネシア語「セラマット」となり、韓国語「アンニョンハシムニカ」も同じ意味だそうです。
 新改訳聖書が挨拶として「こんばんは」と訳さなかったのは正解だと思います。イエス様も「平安があるように」と言う意味を込めて語られたでしょう。なぜなら弟子たちには平安がなかったからです。エルサレムの町を混乱させローマ帝国の反逆者として十字架で処刑された人の弟子たちという事で迫害されることは目に見えていたからです。ですからイエス様は「平安があるように」と言われ、それは「もう心配することはない」という約束でもあります。その理由はまさに復活の主がおられるからです。

②宣教の命令
 弟子たちの驚きと喜びはいかばかりであったでしょう。弟子たちに主は続けて宣言されます。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」実は彼らが宣教の命令を受けるのはこれが初めてではありませんでした。以前にもイエス様は12弟子を宣教に遣わされていました。(マタイ10章参照)。その時には次のようも命じられていました。
マタ10:11 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
この挨拶は「シャローム」であったでしょう。
復活されたイエス様がまず弟子たちに語られたことは宣教命令でした。宣教のために12弟子は選ばれたと言えるでしょう。

 次に、驚き戸惑っている弟子たちにイエス様は聖霊を送られます。これは一時的なことであったはずです。なぜなら50日後のペンテコステの時こそ聖霊が与えられ教会が始まるのですから、この時はその初穂として、予表として聖霊が与えられたのでしょう。
(また別の解釈としては、実際に弟子たちが宣教を開始したのはペンテコステ以降でしたから、ここで聖霊が与えられたのではなく、ペンテコステの時に与えられることの約束としてイエス様は弟子たちに語られ息を吹きかけられた、という解釈もできるでしょう。)
いずれにしても、宣教のためには聖霊の働きがどうしても必要であることを教えられます。

③宣教の働き
 23節のことばは、使徒たちを通して語られる福音がもたらす結果です。(使徒たちに与えられた特別な権威であると考える人たちもいます)
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
 福音の働きはまさに人々の罪を赦す働きです。神様に背を向けて歩んでいる人間は、大きな罪を抱えて生きているのです。その罪のために神様は私たちを祝福したくても祝福できません。罪のゆえに私たち人間は苦しみ、不安で、自分の生きる意味も分かりません。しかし神様はイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを与えられています。罪の赦しを受け取る方法はただ一つです。イエス・キリストが私の罪のために十字架で身代わりとなって死んでくださり、そしてよみがえられたという聖書のことばを信じるだけです。これ以外に罪赦される方法はありません。キリストを信じる人は罪を赦されます。しかし信じない人は罪が残るのです。これが福音であり、神様はクリスチャン一人一人がこの宣教の働きに携わる事を願っておられます。

二、信じる者になりなさい 24-28節

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 著者ヨハネは一週間後の出来事に目を向けています。「八日後に」と書かれていますが、これもユダヤの数え方ですので、日本で言うなら七日後、つまり一週間後の日曜日になります。その日に、復活されたイエス様が再び弟子たちの間に現れました。一週間前の時にはトマスはいませんでしたが、この時にはトマスも一緒でした。弟子たちは相変わらず部屋の中に閉じこもり、迫害を恐れていました。イエス様の最初の言葉は再び「シャローム」でした。
そしてトマスに言われます。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 見るまでは決して信じないと宣言したトマスに対するイエス様の優しさです。この世の中には何でも信じてしまう人もいますし、疑い深い人もいます。どちらがいいとは言えないでしょう。人はそれぞれ違う性格を持って生まれ育ちます。福音が信じやすい人だけに向けて語られたなら、神様は人を差別することになりますが、もちろん福音はすべての人に対して語られるべきものです。疑い深く頑固な人にも福音が語られるのです。トマスはその代表です。イエス様が彼に言ったのは、「見なさい」「さわりなさい」という事です。夢でも幻でもなくここにイエス・キリストがおられることを確認しなさい、という事です。
 トマスは一瞬で変えられます。「私の主、私の神」と叫びます。何事も信じようとしない頑固な人が信じる時には固い信仰になることが多いようです。そしてトマスの救いは、私たちの福音宣教における大きな模範となっています。どれほどかたくなな人でも、確かな証拠と熱意をもって伝えるなら信仰に導かれるのだという事を教えられます。家族の救いを祈っている人、友人の救いを祈っている人にとって、トマスの救いは大きな励ましとなります。

三、見ずに信じる者は幸いです 29節

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 
 トマスにイエス様は続けて語られました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
弟子たちの前にイエス様が現れてくださったのは、彼らを宣教に遣わすための主の恵みでした。弟子たちが復活の証人となり、教会の基礎となるためです。彼らはイエス様を見て信じました。しかし本来、信仰とは見ずに信じることです。見て信じるのは当たり前だというのです。神様がすべての時代において望んでおられるのは信仰者です。それは人が罪のさばきから救われるのは信仰によるからです。「信仰は勝利」と歌う聖歌がありますが、信仰こそ私たちを救う唯一の条件です。旧約聖書も新約聖書も言っています。「義人は信仰によって生きる」のです。今の私たちは『主イエスを信じる信仰によって救われている』のです。
 私たちは今、現在イエス様を見ることはできません。ほかの教会へ行くと、「私はイエス様を見ました。御使いを見ました」という人がときどきおられます。私は面と向かって「それは間違いです」と言う事はしませんが、その証を信じようとは思いません。マザーテレサの信仰と働きを尊敬していますが、彼女がインドのコルカタのスラム街で主に仕えて生きようと決心したのは、イエス様を見て啓示を受けたからと証ししています。多くの人は素晴らしい証しと受け取るのですが私は信じようとは思いません。と言うのは一つの証言を受け入れるなら、ほかの証言も受け入れなければならないからです。世の中にはいろいろな目撃証言があります。たくさんの人がイエス様を見た、会話したと言います。なかには異端につながるものもあります。幽霊を見たという人、UFO、宇宙人を見たという人は数えきれません。証拠写真、証拠ビデオを持っている人もいます。降霊術によって死人と会話できたという人もいます。ではイエス様を見たという人と幽霊を見たという人の証言の違いはどこにあるのでしょうか?それを区別するのは難しいことです。私達は、復活されたイエス様が40日間にわたって弟子たちの前に現れてくださり、そして天に帰られたことの意味をよく知らなければなりません。再臨されるまでは私たちはイエス様の姿を見ることはできないのです。

 でも私達はイエス様を見ています。それは信仰によって見ているのです。私の罪のために死んでよみがえられた主イエスを信仰によって信じ見ています。そして私の内側に生きておられると信じます。イエス様が「助け主を遣わします」と言われた聖霊が与えられていることを信じます。イエス様が再臨されるときが近いことを信じます。将来、かならずこの目の通してイエス様を見ることができると信じます。「見ずに信じる者は幸いです」と言われた言葉は私たちに語られた言葉です。

 

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