預言者サムエルの母となる祈り

Ⅰサムエル記1章4-18節

 

http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2010y/101107.htm

 

 今日は、Ⅰサムエル1章から、<ハンナ>というい女性の祈りについて、考えてみましょう。彼女は、悩める普通の女性でしたが、祈りによって大預言者サムエルの母となった人なのです。時代は、紀元前1000年頃です。日本では、縄文時代ですね。<ハンナ>という名前は、「恵み」とか「慈しみ」という意味ですが、どういうわけか聖書には一人しかいません。

 ごく普通の弱い悩める女性が預言者の母となったプロセスは、大変に興味深いものがあります。彼女が絶望の淵から将来の展望が与えられたのは、祈りにおいてでした。それゆえに、彼女は、悩めるすべての人々にとって、希望の光なのえす。

(1)ハンナの不幸

家庭模様

エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。  Ⅰサムエル1:2

 2節をご覧ください。ここには、<ハンナ>の家庭の状況が簡潔に描かれています。夫の名は<エルカナ>(神が所有された、という意味)でしたが、<ハンナ>のほかに<ペニンナ>(サンゴ、あるいは豊かな髪の女という意味)というもう一人の妻がいたとあります。古代のイスラエル社会を含めて、オリエントでは「一族が代々繋がっていく」ことが、最大の価値とされていたようです。それで、子どもが生まれないときには、二人目の妻を迎えて子孫が絶えないようにするという風習がありました。おそらく、夫は<ハンナ>を大変に愛していたのですが、彼女には子供ができなかったので、やむなく<ペニンナ>が迎えられたと思われます。

 この<ペニンナ>には<息子、娘たち>(4節)があったと書かれています。しかし、このような彼女の功績にもかかわらず、5節にあるように、夫の愛は<ハンナ>にありましたので、<ペニンナ>は<ハンナ>を憎んでいたようです。このような人間模様が描かれています。このような事情で、<ペニンナ>も苦しんだのでしょうが、<ハンナ>はもっと苦しんだのです。なぜなら、<ハンナ>のような女性は、当時の文化においては、「最も不幸な女性」と見なされたからです。

最大の不幸も摂理?

しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。       同1:5

 彼女のこのような不遇な人生について、サムエル記は独特な解釈をしていますので、そのことを見てみましょう。5節をご覧ください。<主が彼女の胎を閉じておられた>と書かれています。それは、夫にどんなに愛されようとも、また、どんなに努力しようとも、変更できない彼女の不幸であったのです。6節には、<彼女を憎むペニンナ>という句が続きますから、すでに触れたように、夫の愛を独占していることは、もう一人の妻の憎しみを買ったということでしょう。この<ペニンナ>の嫌がらせがさらに、彼女の悩みを深くしたのです。

 しかし、<主が彼女の胎を閉じておられた>という表現に注目する必要があります。主語が<主>となっていますね。彼女の「不妊」が神の計画によるものという思想が、ここで表明されていると思われます。単に、「運悪く、たまたまそうなったのだ」という風に、偶然の出来事とはされていないのです。不幸に見えることを通して、神が何かをし、何かを語り、何かを教えようとしておられるというのが、聖書の解釈なのです。 

あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。  Ⅰテサロニケ3:3

 このように、一般的には災いや不幸とされる出来事でさえも、そこに何か「神の意図」があるとする解釈は、聖書の中でしばしば見られるものです。その中でも、Ⅰテサロニケ3:3が印象的です。ここに出てくる<苦難>(スゥリプシス)とは、「(両側から圧力をかけて)狭める」「押しつぶす」さらには、「圧迫する、苦しめる、悩ます、迫害する」という意味があります(新約聖書ギリシャ語小辞典)。

 <定められている>(ケイマイ)とは、<苦難に会う>ことが、神の摂理であることを示しています。神によって、<苦難に会うように定められている>とは、何ということでしょうか?誰もが嫌がる<苦難>を、何か有難いものでもあるかのように、聖書が肯定的な見解を持っていることが明らかなのです。何と言うことでしょうか?それは、どのような理由によるのでしょうか?このこと、今日のヒロインである<ハンナ>を通して見てみましょう。

(2)聞かれない祈り

どんなに祈っても

毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
                 同1:7

 7節をご覧ください。ここに、<ハンナ>の苦悩が何年も継続したことが暗示されています。自らの不幸の上に、<ペニンナ>のいじめがありました。これがどれだけの期間続いたかは、はっきりしていません。4節には、<ペニンナ>には<息子、娘たち>があったとあるように、複数の息子と娘がいたことがわかります。ですから、最低で4人の子どもがあったことになります。古代のイスラエル人は、三歳まで母乳を与えて育てるという伝統がありましたから、彼女が最初に子どもを産んでから、最低でも12年は経っていることになります。すると、<ハンナ>の悩みは、自分に子供ができないことが明らかになった時から、<ペニンナ>が一族に入って来て4人以上の子持ちになるまで、ずっと解消されないままで続いていることになります。

 <ハンナ>には信仰がありましたから、この間祈り続けたはずです。しかし、神は彼女の祈りを聞いてくださらないように思えたことでしょう。神は、彼女を<苦難>の中に捨て置かれたかのようでした。なぜ、こんな不幸なことが私の身に起こるのですか、こんなに訴えて祈っても、どうして私の悩みを解決してくださらないのですか、と何度も神に訴えたと思います。しかし、状況は何も改善しないように思えました。このように、<苦難>の中に見捨てられているように思える状況を、どのように考えたらよいのでしょうか?

<苦難>の中での学び

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。  詩篇 119:71

 詩篇119:71をご覧ください。普通は、「苦しみにあったことは、私にとって不幸でした」という告白があるはずなのですが、ここには、<苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした>と告白されています。詩篇の作者は、それによって<(神の)おきてを学びました>と述べています。<おきて>(ホォク)というのは、「法」とか「命令」という意味です。ここでは、「神の法」のことを指しています。ここでは、これ以上のことは触れませんが、とにかく、苦難によってそれを学び得たというメリットの故に、それが私の幸せだと言っているのです。

 私は、趣味で熱帯魚を飼うようになりました。熱帯魚の多くは卵や子供をたくさん産むのですが、驚いたことに、親が自分の産んだ卵や子供を食べてしまうのです。たまにそうするのではなく、決まってそうするのです。有り余るほどの繁殖力を持つ親は、子を産むことのありがたみが分からないようです。しかし、子供をわずかしか産まない種類の親は、自分が産んだ卵や子供を大事に守りながら、育てていきます。子孫を残すことの価値を理解しているかのようです。

涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
          詩篇126:5

 ハンナも最初から子供が与えられ、夫と幸せに暮らしていたら、普通の女性として平凡な暮らしをしていたに違いありません。そして、自分に与えられている恵みの絶大な価値を十分に分からないままで、一生を終えていたかも知れないのです。祈りが直ぐに聞かれず、乏しき中にいる時は、何かを学び取るためには絶好の機会なのです。そして、その機会に学び得たことによって、人は幸せになれるのです。ですから、その機会を否定的に考えて、逃避して何も学ばなかったことによる損失は、測り知れないものなのです。

 ですから、願いが直ぐに叶えられることが、必ずしも幸せに直結するわけではないのです。逆に、有り余る恵みが不幸に通じることさえあります。むしろ、願いが叶えられずに苦しむ中で、幸せの種が蒔かれるのです。詩篇126:5をご覧ください。ここには、「人生の喜び」が<涙とともに種を蒔く>結果として、与えられることが書かれているのです。何故でしょうか?<涙とともに種を蒔く者>は、苦難の中で、恵みの絶大な価値を認識するようになるからです。「豚に真珠」の比喩でイエスが教えられたように、恵みの絶大な価値が認識できないことほど不幸なことはありません。

(3)預言者の母となる祈り

人間的な祈りのレベル

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 ヤコブ4:3

 もう一つ、<ハンナ>の祈りが叶えられなかった理由を、ヤコブ4:3から見てみましょう。ここには、<悪い動機>(カコース;邪悪に、という副詞)がその原因であると書かれています。<ハンナ>の願いの動機は、最初は個人的な願望が強かったのではないかと思います。個人的に、子供が欲しかっただけかも知れないし、不妊の女という恥辱から解放されたい、<ペニンナ>を見返したい、夫の愛を独占した上で、子供を持つことでも、彼女に勝ちたい、恨みを晴らしたいというのが、最初の動機だったかも知れません。

 <悪い動機>の内容は、<自分の快楽のため>ということです。<快楽>(ヘードネー;快楽、楽しみ)自体が悪いというわけではありませんが、<自分の>(原語では、「あなたがたの」)という所有格が、自己の利益を優先する姿勢を明らかにしているのです。このように、個人のレベルでの願いだけの祈りという「自我の枠内」に留まる段階が、ハンナには随分と長く続いたのではないでしょうか?普通は、この段階にとどまることが多いと思います。もし、この段階で彼女の願いが聞かれたのなら、それから先に進むことはなかったことでしょう。

このむさぼりが、そのまま
偶像礼拝なのです。  コロサイ3:5
むさぼる者──これが偶像礼拝者です
                エペソ5:5

 世の中の宗教は、一般的に自己の利益が目的だと言えると思います。先日、富の神である「マモン崇拝」をしていた古代フェニキア人について触れましたが、フェニキア人は交易船の安全航行や商売の成功のためにマモンを信仰していたのです。このように、ご利益を目的とした信仰は古代から一般的でした。

 コロサイ3:5をご覧ください。<偶像崇拝>(エイドーロラトレイア)の本質は、<むさぼり>(プレオネクシア)なのだと、使徒パウロは述べています。<むさぼり>とは、飽くなき欲望(貪欲)のことですね。しかし、ご利益信仰を軽く見ることはできないのです。フェニキア人のマモン礼拝でも、太宰府天満宮の受験合格祈願でも、願う方は必死なのです。フェニキア人の地中海貿易は、難破や海賊の襲撃などの危険があって命懸けでした。現在の航海安全と大漁を祈る、漁師の家族と同じですね。受験合格祈願も受験生の必死な祈りが込められているのです。

ハンナの心は痛んでいた。
彼女は主に祈って、激しく泣いた。
           Ⅰサムエル1:10

 <ハンナ>の祈りも、個人的な悩みを解消するためであったとはいえ、必死の祈りであったことは間違いありません。下記のⅠサムエル1:10のように、泣きながら神に祈る経験を何度もしたに違いありません。しかし、あえて、神は彼女の願いを直ちには聞こうとはされなかったのです。

預言者の母の祈り

万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。 同1:11

 このような長年の苦難を経て、ハンナは11節のように祈りました。状況はこれまでと何ら変わるところはありませんでした。しかし、目には見えませんでしたが、彼女の内面が決定的に変わっていたのです。それは、11節の彼女の祈りを読めば分かります。

 ここで、彼女は、個人的な願望の枠を越えて、<一生を主におささげし(た)><男の子>の母親になりたいと願っているのです。一般的に、当時の女性が関心があることは、自分が夫に愛されているか、子供が上手く育ってくれるか、農業や牧畜業などの家業がうまくいくか、ということでした。自分の家庭だけに関心が集中したのです。しかし、彼女は、その枠を超えて、神の栄光を求めるようになりました。神の栄光の価値の認識に達したからです。そして、人は、神の栄光のために生かされているという人生観を持つに至りました。しかも、自分の子供さえも、そのためにおささげします、と祈っているのです。11節は、「預言者の母となる祈り」と言えると思います。それは、不妊の女が出産に至る、すなわち、無から有を産み出す祈りでもあったのです。

それからこの女は帰って食事をした。
彼女の顔は、もはや
以前のようではなかった。  同1:18

この祈りに達した彼女は、顔の表情が変わったと18節には書かれています。以前は、苦悩と緊張のために顔の表情が堅く歪み、暗かったのでしょう。しかし、それからは何かを確信したように、表情に余裕が出てきたのです。それは、神に委ねきれた者だけが経験できる平安でした。

 これは、幸せの心境と呼べるものです。神を信じ切れる者だけが味わうことができる「幸せの感覚」なのです。状況が変わったわけではありません。しかし、神のゆえに、未来への希望が膨らんできたのだと思います。

事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。   同2:21

  結局、ハンナには男の子が生まれ、<サムエル>という名が付けられました。これは、「神の名」という意味です。ハンナは、その子が乳離れをしてから、礼拝に奉仕するために祭司エリに預けられました。この子が将来、イスラエル社会において預言者としての立場を築くという歴史的な役割を果たしたのです。

 2:21をご覧ください。長男を捧げたハンナには、さらに5人の子供たちが与えられたと書かれています。これは、<神の国とその義とをまず第一に求め(る)>人生のあり方において、<それに加えて、これらのものはすべて与えられ(る)>(マタイ6:33)という「献身者の祝福の教え」そのものなのです。こうして、「悩める一人の弱い女性」が、「預言者の母となる祈り」を通して、いろいろな意味で祝福されたのです。皆さんの中には、彼女の最初の頃のように、今、苦難による悩みの只中におられるかも知れません。しかし、聖書はそれを否定的に見てはいないのです。むしろ、摂理の中にあるものとして、肯定的な意義を見ています。聖霊が、この悟りを下さるように祈りましょう。