神から与えられる「生まれの良さ」
ヨハネ1:13

 

http://erinika.life.coocan.jp/data-TN/G142A1.pdf


ヨハネはこの1 章の冒頭で、イエス・キリストのことをまず「言」と表現いたします。神様が私たち一人一人に伝えたい、おっしゃりたい秘密が初めからあった。それも天地創造の前から、お心の内にあった。そのお言葉が、時至ってイエス様という形で三十年間、あのユダヤとガリラヤの土を踏んで、私達に近寄って、触れてくださったと、これがヨハネの書き出しです。
この言に「命があった」と言いますのは、この方、つまりイエス様が来て下さらねば、我々は死んだ死体同然であった、ということであります。この命が人の「光」であった、と申しますのも、罪の中にいた私共の姿が、まるで光の射さない暗闇に積まれた死体の山と同じだったことを回想しているのです。
その罪と死の暗闇にイエス様の光が射して、死んでたものを生きた人間に造り変えた。それは、ちょうど天地創造の瞬間と同じ大奇跡だった、というのが多分、3 節の趣旨でしょうね。ここはロゴスがなさった何億年前の出来事を詠嘆しているんじゃなくて、むしろ現に今起こっている奇跡、私たちをイエス様の命が生かしている奇跡を、そうだ、あの創世記の時とおんなじだ
と、驚きをこめて告白しているのであります。
さて、今朝の主題は13 節から取ったものでありますが、ヨハネは、イエス・キリストを信じることにより新しい命を受ける経験を「生まれる」つまり、神様の家の子として生まれ落ちることだ、と言っている訳です。ただそれは、この世に生を受けて生まれて来る、生まれて来かたとは違う。天と地はども違う。それが「血すじによらず、肉の意志にも人の意志にもよらず」の意味で

ありましょう。
先日9 月19 日に牧夫の所に女の子が生まれました。体重3,600 g。めちゃめちゃ元気な赤ちゃんです。息子は初めて親父になった喜びで顔はゆるみっぱなしでしたが、生まれるまでは、男の子がいい、男の子がいい、と申して、男の名前ばかり考えておりました。ヨハネの言う「人の意志」が打ち砕かれて、男の子の名前が無駄になったもんですから、二人でまた一から考え直してました。
生まれた日の午後早速、私共ふたりと先方の両親とが産院に駆け付けて、喜び合いました。勿論わたし達も嬉しさで一杯ですけれど、由美の実家の方は初孫でしたので、特別な喜びようです。じいさん、ばあさん二組が赤んぼを囲みまして、感激の記念撮影。「四分の一ずつ、我々の何かを受け継いでいるんですね」と私が申しましたら、先方のお父さんが言うには、「良い所だけ取ってくれるといいですがね」。それでまあ四人で大笑いいたしました。
でも、その時私は考えたんです。人間、生まれ落ちた時からもういろんな性質や能力、可能性も限界も含めて親や祖父母から受け継いで、運命づけられて来るのですね。勿論、環境や訓練でその能力の現れも違って来ますし、また親や祖父母には無くても、何代か前の優れた形質が突然輝いて出てくることもありますから、じいさん、ばあさん四人分足したものを四で割った答えが出て来る訳ではありません。でもやはり、遺伝形質と言いますか、現代流に表現すればDNA のテープにみんな信号になって記録されて、その子の行動のパターンや反応の仕方までが、ある程度まで決まって生まれて来るんです。義夫の子なんか見てますと、いま1 才と8 箇月ですけれど本当に気味が悪い位、親の小さかった時と似たことをやるんですね。
13 年くらい前になりますか。港教会の夏季キャンプに招かれた時に、私は、ちょっと失言したことがあります。そんなに間違ったことを言った訳ではないんですけれど、実はこの人間の生れつきの限界や可能性について、ちょっと主観的な数字を出し過ぎたんです。たまたま子供の訓練とか、教育とかについての話だったと思うんですが、こんなことを言ってしまったんです。「人の能力や限界というものは80%は生れっきで決まってしまうように、私には思えます。後の20%位は環境や訓練で伸びたり、伸びなかったりするでしょうが」。考えてみますと、少し言いすぎだったかも知れません。今ならそんな乱暴なことは言わずに、75%位と言ったでしょうが。

確かに努力や執念でその壁を乗り越えて、奇跡を作り出す人もいると言えば言えます。でも、別な見方をすれば、その努力できる能力というものがやはり、生まれつきでかなり、決まってしまうのだと思えるのですが、いかがでしょう。
でも、もしあなたの目が、ヨハネの言う「血すじ」の有利不利とか「肉の意欲」の目標、「人の意欲」の理想なんかとは全く違う所に注がれていたら、その人の未来は無限なんです。
私は生まれて3 週間の孫娘を眺めて、思うのです。真奈美、お前の中には、お前のお父さんとお母さんの思い―人の意志がこもっているし、お前のじいさん・ばあさんの遺伝子の信号も、ちゃんと入っているぞ。でも、それよりももっと大きな信号を、やがて読み取れるかな? 天の父がお前をどんなに大事に思われたか……それを、イエス様の十字架に見出だす目を、やがて持てるかな?
さて、ヨハネがここに書いた文章の意味を、もう少し正確に、筆者の意図にこだわって読んでみましょうか。9 節から13 節までの8 行ですが。まず、最初の4 行。これは新改訳の方では節ごとに行を改めているので6 行になっています。ここは新改訳の方がうまく正確に訳していると思いますので、新改訳で読んでみます。

 

『すべての人を照すそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった』。
ここは、いわばヨハネの福音書全体のまとめのような、あらすじのような所……劇やオペラでいうと序曲のような所です。大河ドラマのタイトル・バックと言ってもよいでしょう。世界で一番内容の充実したドラマの主題が、この中で鳴り響いている感じです。
神の思い、愛の言葉であるイエス様が、よりによって、ご自分のくにへ、ご自分の民へ来られた。天地創造の時から準備して、いつか心の奥にある思いを伝えよう。どんなに大事に思っているか、知らせよう。どんなに喜んでくれようか! そう思って訪ねて来たのに、ガリラヤの人たちも、ユダヤの人たちも、ついにイエス様が分からなかった。その皮肉な悲劇が、対句を重ねて表現されています。
次の2 行は、その「ついに彼を知らずじまいに終わった」人たちの中に、一握りの例外がいた。神の思いが分かって、言葉が通じた人たちも本当にいたことを、語ります。
『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった』。
光として来られたイエス様、言葉として父の思いを持って来られたイエス様を受け入れた人たちは、この方がどんなお方か、私に何を下さったか、この方の持っ意味をしっかり受け止めて、イエス様に全信頼を置いたのです。
名を信じるというのは、平ったく言うと自分の勝手なイメージで信じるのじゃなく、天の父がおっしゃる通りの意味で、額面どおり、この方を信じることを言うのです。そして、そういう人だけが『神の子ども』にして頂けます。
『子』という言葉は、英語のChild でもそうですが、ヨハネが使たteknonという語は特に「親から生んでもらった」意味を持ちます。tek は漢字でいうと「生」か「産」の字に相当します。「生を受けたもの」、「生んでもらった者」です。「生まれたもの」の反対は何だとおもいますか? 自分で成ったものです。
しかし、「生まれる」、「生まれたもの」にされる、というのは全く受動的な経験です。罪に死んだ者には「生まれる」道だけがある。光の命から、復活のイエス様から生命力を「受けて」生んで項く道だけがある。ヨハネはそのことをここで読者に伝えたいのです。
最後の2 行、13 節の言葉は、こうして信じて生んで項く道が、この世の肉の生命の誕生とどんなに違うか、誕生で定まる限界や悲哀をどんなに超越しているかを語ります。
元々、ユダヤ人たちの考えでは、とにかく由緒正しいユダヤ教徒の家に生まれることが、神の子になる条件、神の家にいる保証でした。でもその肝心の証拠、自分が神の家の者で、神の子の身分を持つんだということを、どうやって立証したと思いますか? 役場の戸籍から、自分の血筋を証明したんです。「我家はダビデ王家につながる名門だ」、「当然、遡ればアブラハムまで行くんだ」とかですね。
そう言えば、日本でもそんなことを昔は言いました。「我家は桓武天皇に遡る」って言ったのは平家ですか。源氏のほうは確か、嵯峨天皇って言ったんですね。イスラエルの場合は神の家に属するか否かですから、もっと大変でした。ダビデ王までの系図を証明できる人は、まあ少なかったでしょうが、それでもとにかく、何代か前の歴史に知られた人物、正真正銘のイスラエルの血筋につながる。これが大事だったんです。
『血すじによらず、肉の意志にも人の意志にもよらず』と言った著者の趣旨は、そこにあります。血筋、家柄、特権とは拘わりなくどんな血のつながり、持つ人も持たない人も構わずに、神様は全く別な次元で、自由に、新しい命をお生みになる、という意味です。それが「血すじによらず」新改訳の「血によらず」です。
次の「肉の欲によらず、人の欲によらず」の正確な意味ですが、これは「欲」というより「意志」なんですね、新改訳は「意欲」としています。この肉の意志と人の意志と、どう違うかですが。
私自身は、ここは『血すじ』が「肉の意志、夫の意志」と対応する文学的修辞で、後の二つは特に区別はなく、二つ合わせて『血すじ』を言い替えて、対句にしているのだと思います。
とすると、十字架のイエス様を本気で信じ、復活したイエス様を自分のための主と仰いで信じる人は、肉の誕生や遺伝的宿命などとは全く違う、神の奇跡にあずかったんです。それも、たまたまイスラエルの血すじに生まれ落ちたとか、シリア人の血を受けたとか、大阪の織田家に生まれて来たりする
ような、ケチな、限られた、縛られた生まれ方じゃなく、たまたま受けた血の宿命や、能力やハンデと全く拘わりのない道、神に生んで頂く道、清い新しい命となる道が、イエス・キリストによって開けた!さて、私達はユダヤ人ほどは、血筋や家柄を気にしないでしょうか。そんなものが何だ。私はこれでも、知性ある現代人。カビの生えた昔人間ではない! と豪語しますか? それ位の覇気は、無いより有ったほうが良いでしょう。でも、人間かならずしも、それだけで立っては行けません。罪がついて
回る限り、血の悲しみ、肉の呪い、人の限界と壁は、またしても私達の前に立ちはだかります。
私の言うのは、たとえばこういうことです。親から受け継いだ自分の性格とか、弱さとか……。「ああ、私は気が利かない。グズだ」とか。その反対もありますね。性格的にもう、気がつき過ぎて神経ピリピリ、それで夜も眠れないとか。こういうのは、自分でもどうしょうも無いことがあります。
もっと深刻なのは、自分の能力の限界に気付いた時。健康と体力までハンデを負ってくることもあります。鏡を見て絶望する人もあります。もっと良くみたら、中にある美しさも見えるのにですね。もっとも、内なる自分を見ら却ってなお絶望ということもあります。「ああ、俺はイヤな親父の生き写しだ」とか、「ああ、私は御袋とまるっきりおんなじだわ」とかですね。
私の細胞の遺伝子の中まで、DNA の中まで、血の呪いが染み付いている。
そう言って悲しむ人もいます。すべて『血によって』、『肉の意志によって』、『人の意志によって』生まれた生は、悲しい限界を持ちます。しかし、神が生んで下さった奇跡を知る人は、そんなものに一喜一憂しないのです。イエス・キリストの血でわが罪を取り除いて下さった神様が、この私を「わが子よ」、「私が生んだ者よ」と言って認知して下さる。誰が私を重んじなくても、天の父が私を大事だと言って下さる。……この事実に一旦目が開けた人は、血筋や肉から来る悲しさが、仮に死ぬまで付いて回っても、少しも構わない。全く意に介しないのです。
英語にEugene という名前があります。確か、男の名前ですね。有名人の中ではEugene Ormandy とか、この人はアメリカの指揮者ですね。ロシア人ではEvgeny Mravinsky これも有名な指揮者です。ところで、そのEugeneという名ですが。元々あのEu はwell とかgood でしょう。それにgene は「生れ」つまりbirth です。家柄ですね。あれは元来ギリシャ語の名前でして、genes とかEugenios は「生まれの良い」、「良い家に生まれた」という意味の名前です。貴族の血を引く、ということですね。英語のイディオムなら、さしずめblue blood です。それがいつの頃からかクリスチャン・ネームとして使われるようになりました。その理由は多分こうです。私達が信じてキリストの血の力を受ける時、私達は地上のどんな『良い生まれ』の人もかなわないような、良い生まれの人に、Eugene になるからです。どんな血を受けた人も、どんな悲しみを担う人も、そのままで世界一の良い生まれに変わる。それはなぜかというと、その人が「神によって生まれた」からです。
Blue blood because of Christ と言いますか!最後に一人、日本人のEugene、つまり本当の貴族を御紹介して、このお
話を締め括りましょう。ただ神によって生まれた、キリストにある「良い生まれ」の貴族です。
私は、織田という名字を持っておりますので、ひょっとすると、皆さん、あれは織田信長公の二十代目位の子孫じゃないか、なんか考える方もいらっしゃるかも知れませんが、残念ながら、外れです。私の貴族の血は、そんな所からじゃなく、私を贖って下さったイエス・キリストの血から来ています。
人間の血筋という点ではどうも、怪しいもんです。多分紀州の田舎で、苗字帯刀なんか許されなかった貪しいお百姓が、明治になって、どうせ付けるなら豪勢なのにしょうと、豊臣がいいか、織田がいいか、そりゃ織田のほうが格が上やろ、というので織田姓を名乗ったんでしょう。
父は和歌山市で小さな自転車屋をしてましたが、うまく行かなくなると、焼き芋屋をやったり、縁日の夜店へ飴を売りに行ったり、いろんなことをやりました。その度に、もちろん私も、ついて行って手伝いました。新聞配達もしました。父がついに日本を食いつぶして、北京へ一家で移住した御蔭で、中学へもやってもらいましたが、本当は和歌山のお醤油屋さんへ、丁稚に行
く筈になってました。
大学の入試にも人並みに失敗しました。それも複数回です。辛うじて奉天の満州医大に入学したと思いましたら、ソ連軍が攻め込んできて、大学はつぶれました。帰国してからの大阪市立大は経済的理由から中退しました。もちろん、その一つ一つに神様の意志が現れているのですけれど、エリートの道を歩かなかったことは事実です。
7 才の時に母が結核で死にました。でも、父は私よりも更に複雑な家に育ったようです。行き別れした生みの母と、弟たちを生んだ母と、それにもうひとり、死ぬまで憎みながら一緒に住んだ母―私にとっては祖母ですが。
不思議な空気の家でした。私には弟が二人、妹が一人いましたが、三人とも自殺を遂げました。二人は若い時。上の弟は五十近くなってから、神経科病棟の3 階から飛び下りました。そしてなぜか、神様は私一人をお残しになりました。
家内は申します。「あんたは、はよ死んだ三人分の命をもろてるんやから、きっと長生きするでェ」。そう旨くは行きませんよ、ね。でも、神様が「おまえ、その分を生きてやれ」とおっしゃるのが聞こえるような気が、することもあります。時々フト、自分の血の中を流れている、家の呪いみたいなものを感じない訳ではありませんけれど、キリストの血による「良き生まれ」のほうが、その暗い陰を吹き飛ばしてしまいます。かつて私の中で、私を支配していた罪と死を、イエス様の十字架の血が持って行ってしまった。復活のキリストの命が、私の中の暗いものや怪しいものを全部、呑み込んでしまったんです。『死は勝利に呑まれてしまった』んです。
ヨハネは、その人は『ただ神によって生まれたのである』と断言しました。キリストの血による「良い生まれ」を持つ方は、他にも多くいらっしゃいます。そして、これを生んだ神様は、小さなサンプルを今日も使って、同じ「良い生まれ」の連鎖反応を起こそうと今も働いておられるのです。
(1986/10/16)