私たちを守る神
D.L.ムーディ

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「私は山に向かって目をあげる。
私の助けはどこから来るのだろうか」。



〔聖書テキスト〕

 「彼(キリスト)は、いたんだ葦(あし)を折ることもなく・・・」(イザヤ書42:3)


〔メッセージ〕

 もしあなたが、自分の魂のために救いを求めているなら、他人の経験にたよってはいけません。それは危険です。
 世の中には、自分のおじいさんやおばあさんの歩んだ人生を同じように自分も歩んでいこう、と思っている人が少なくありません。
 私の友人に、野原で回心した人がいます。彼は自分がそこで回心したので、奇妙にも、他の人もみなそこで回心すべきだと思っていました。
 あるいは自分が橋の下で回心したので、求道者はそこへ行けば主イエスを見いだせる、と思っている人もいました。
 しかし、救いを求めている人にとって大切なのは、人の助言ではありません。神の御言葉(聖書)に向かって、自分自身がまっすぐに進むことです。神の御言葉が、あなたを救いに導く、唯一のガイドなのです。


救いは瞬間的

 実例をあげて見ましょう。
 ここに、「私は罪深く、弱い人間です」と言う人がいるとしましょう。この人には聖書の『ローマ人への手紙5章6節』が、良い答えを与えてくれます。
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔(ふけいけん)な者のために死んでくださいました」。
 私たちがキリストを必要とするのは、私たちが力のない者だからです。彼は弱き者に力を与えるために、来られたのです。
 また、ここに「私にはよくわからない」と言う人がいたとしましょう。この人にキリストは言われます。
 「わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
 まことに、キリストは「盲人の目を開く」 (イザヤ42:7) ために来られたのです。
 あるいはここに、
 「人が瞬間的に救われるなんて、考えられない」
 と言う人もいるかも知れません。
 ある夜、こうした考えを持った人が、集会後に私のもとにやって来たことがあります。私はその人に、ローマ人への手紙6章23節を、注意深く読むようにすすめました。
 「罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物(たまもの)、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。
 みなさん、人が「賜物」=プレゼントを受け取るのに、一体どれほどの時間がかかりますか。
 賜物をあなたが受け取る直前の瞬間、および受け取った直後の瞬間が、そこにあるでしょう。またそこには、賜物がまだ別の人のものであった瞬間と、あなたのものになった瞬間とがあるでしょう。
 しかし、「永遠のいのち」という賜物を受け取るのに、何か月もの歳月は決して要しないのです。

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プレゼントを受け取るのに、
一体どれほどの時間がかかりますか。

 もっとも、それは当初、からし種のように小さく感じられる場合もあります。ちょうど朝日がいつのまに昇ったのかわからないときのように、心の内なる緩慢(かんまん)な変化によって回心する人も、なかにはいるでしょう。
 一方では、流星のひらめきのように真理が自分の目の前に突如として現れ、回心する人もいます。
 しかし、あなたが救われたのがいつか、ということが重要なのではありません。重要なのは、自分がすでに救われたということを今あなたが知っているかどうか、ということです。
 子どもの時からクリスチャン家庭に育って、いつ新生したかわからない、という人もなかにはいるでしょう。しかし、変化の起こる瞬間は必ずあるのです。そのとき私たちは、神の性質にあずかり、新生するのです。


聖書にみる瞬時の回心

 人々のうちには、「突然の回心などあり得ない」と言う人がいます。けれども聖書の中に、瞬間的でない回心は一つもありません。
 「いや、ある」と言う人がもしいるなら、私に示してほしいものです。聖書にはこう書かれています。
 「イエスはそこを去って、道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、
 『わたしについて来なさい』
 と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った」(マタイ9:9)
 これより突然の回心が、ほかにあるでしょうか。
 取税人ザアカイの場合もそうでした。ザアカイは背が低く、群衆のためにイエスを見ることができなかったので、木によじ登ってあたりを見渡していました。そこにイエスが来られ、
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」 (ルカ19:5)
 と言われました。このときザアカイは、枝と地面との間の、どこかで回心したはずです。彼は喜んでイエスを受け入れ、言いました。
 「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を、貧しい人たちに施します。また、だれからでも私がだまし取った物は、4倍にして返します」(ルカ19:8)
 自分の回心の証拠にこのように言い得る人は、今日ではまれではありませんか。
 また、コルネリオと彼の家族の回心の場合も、やはり突然のことでした。キリストの使徒ペテロがキリストを説くと、彼らに聖霊が下りました。そして彼らはその日に、水でバプテスマ(洗礼) を受けました (使徒の働き10章)
 あのペンテコステの日、3千人の人が喜んで御言葉を受け入れたときも、そうでした。人々は即刻回心し、その日にバプテスマを受けたのです(使徒の働き2章)
 キリストの弟子ピリポが道を行く途中、エチオピアの高官に御言葉を語ったとき、高官は言いました。
 「ご覧ください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか」。
 何のさしつかえもありません。高官はその場で、バプテスマを受けました (使徒の働き8:26-38)
 このように、回心は突然であり急激であることが、聖書によってわかります。

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ピリポがエチオピアの高官に御言葉を語ると、
高官はその場で信じ、バプテスマを受けた。
       
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 今ここにある男がいて、彼が、勤め先で金を盗むクセを持っていたとしましょう。彼は1年間に、100万円も盗んだとしましょう。
 その彼が、翌年には80万円盗み、次の年には60万円盗み・・というふうに少しずつ額を減らしていって、5年後には年間10万円ずつ盗むドロボウに変身したとしましょう。
 もしこの男が法廷に引き出されて、「一度に生活を変えるのは無理だよ」と言い、それが受け入れられて無罪放免になったらどうでしょうか。こんなおかしな話はないでしょう。「じょじょの回心」とは、そのようなことなのです。


守るのは神

 聖書には、
 「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」 (エペソ4:28)
 と記されています。これは、180度生活を変えることを意味します。
 今ここに、1日100回不敬虔な言葉を発する人がいるとしましょう。この人に向かって、あすは90回、あさっては80回というように、だんだんそのクセを取り除くように言うのが良いのでしょうか。しかし主イエスは言われます。
 「決して誓うな」 (マタイ5:34)
 今よりのち、不敬虔な言葉を発してはいけません。
 かりに今、酒を飲んで、月に2回妻をなぐる人がいるとしましょう。それがもし月に1回になり、つぎには6か月に1回になったとすれば、それは「じょじょの回心」と同じようなものでしょう。
 また新約聖書『使徒の働き』9章には、キリストの弟子アナニヤが、クリスチャンたちを迫害していたサウロという人物(のちのパウロ)のもとに遣(つか)わされた話が、出てきます。
 もしこのとき、アナニヤがサウロに対し、クリスチャンへの迫害をじょじょになくすように言ったら、どうでしょうか。しかしサウロの回心は、突然でした。
 サウロは、みずからクリスチャンになり、即刻クリスチャンへの迫害をやめました。これについてある人は、こんなことを言います。
 「たしかにサウロの心の変化は、劇的なものだった。しかし哲学者も言うように、心の劇的な変化は長続きしない」。
 瞬時の回心を信じない人の議論は、おおかたこういったものです。しかしサウロの回心によって生じた心の変化は、終生変わらずに続きました
 回心の結果は長続きしないといけないと思い、
 「自分が回心しても、その回心の結果は長続きしないのではないか」
 と不安に思う人は多いかもしれません。そう思うのは自然なことです。自分を信用しないのは、この場合好ましいことです。
 しかし、あなたを回心させ、あなたを神に結びつけたかたは神ご自身である、ということを忘れてはいけません
 人はとかく、自分でキリストをとらえていようとします。しかし大切なのは、キリストが祈りに答えて、その人をとらえてくださるようにすることなのです。
 詩篇121篇を見てみましょう。
 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主(神ヤハウェ) から来る
 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守るかたは、まどろむこともない。見よ、イスラエルを守るかたは、まどろむこともなく、眠ることもない。
 主は、あなたを守るかた。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日があなたを打つことはなく、夜も、月があなたを打つことはない。
 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたの命を守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。
 この詩篇を、ある人は「旅人の詩」と呼びました。この世の旅人である私たちにとって、何と美しい詩ではありませんか。私たちは本当にこの傑作に、親しまなければなりません。
 神は、さきに成されたことを、今も成し得るかたです。エジプトでヨセフを守り、パロの前でモーセを守り、バビロンでダニエルを守り、暗黒の時代にアハブ王の前でエリヤを守られたかたは、神なのです。
 感謝することに、これら神によって守られた人々はみな、私たちと同じように情をもった生身の人間でした。彼らを偉大にしたのは、神です
 人間は、神を見ることを欲します。しかし、まことの信仰は人間の弱さを知り、神の御力によりすがります。
 人が力のないとき、人は神によって強くなるのです。ただ本当に困るのは、人があまりに自分を力あるもの、信頼しうるもの、と誤って思い込んでいることなのです。


神の御約束

 聖書は言っています。
 「神は約束の相続者 (クリスチャン) たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
 それは、変えることのできない2つの事柄によって――神はこれらの事柄のゆえに、偽ることができません――前に置かれている望みをとらえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
 この望みは、私たちの魂のために、安全で確かな錨(いかり)の役を果たし、またこの望みは、幕の内側(天の神殿の至聖所をさし、神に最も近い場所)に入るのです。
 イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」(ヘブル6:17-20)
 この聖句に言われているように、神のご計画は、まことに「変わりません」。
 人々はしばしば、自分の回心の結果が長続きしないのではないか、と心配します。しかし、私たちを保つのは神なのです。
 羊の番をするのが羊飼いの仕事であるように、神は私たちを守られます。だれが、羊飼いを連れ戻すために出ていく羊を、見たことがあるでしょうか。
 人々は、自分をも、キリストをも保つのだと思っていますが、これは間違った考えです。羊を育て、また襲ってくるオオカミから守るのは、羊飼いの仕事です。神がそう約束されたのです。
 ある船の船長が、死ぬときに、
 「神に栄光がありますように。・太ゴシック・私の魂の錨(いかり)は神の中に置かれています
 と語りました。彼は、神の救い主キリストを信じていました。彼の魂の錨は、堅固な永遠の岩=神に、しっかりくくりつけられていたのです。

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船長は言った、「私の魂の錨は、神の中に置かれています」。

 あるアイルランド人は、言いました。
 「人は震(ふる)えるが、岩は決してふるえない」。
 私たちに必要なのは、堅固な人生の土台、しっかりとした足場なのです。キリストの使徒パウロは、
 「私は、自分の信じてきたかたをよく知っており、またそのかたは、私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」(・テモ1:12)
 と語りました。これがパウロの確信なのです。
 レベリヨンの戦いも終わりに近い頃、病院をまわっていたある牧師が、ひとりの死にかけている男を見つけました。
 牧師は、彼がクリスチャンであることを知って、何派に属するかを尋ねました。彼は、
 「パウロのです」
 と答えました。それで、
 「メソジストですか」
 と聞きますと (メソジストでは、パウロはメソジストの一人と思っています)
 「いいえ」
 と答えました。
 「では長老派ですか」 (長老派でも、パウロは自分たちに属すると考えています)
 と聞くと、やはり、
 「いいえ」
 「それでは監督派ですか」 (監督派でもそう思っています)
 「いいえ」
 「それでは一体どの派に属するのですか」
 と聞くと、彼の答えはこうでした。
 「私は、自分の信じてきたかたが、私をかの日に至るまで守ってくださると確信しているのです」。
 何と壮大な確信でしょう。そしてこの確信が、臨終にあるこの兵士に、つきない平安を与えていたのです。
 「私は耐えしのべるだろうか」と恐れている人は、聖書のユダ書24節をごらんなさい。
 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできるかた・・」
 とあります。またイザヤ書41章10節をごらんなさい。
 「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」。
 さらに13節には、
 「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅くにぎり、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから」とあります。


恐れてはならない

 神が私の右手をささえてくださるのなら、私を守り、保ち得ぬことがありましょうか。神には守る力がないでしょうか。
 天地を造られた神によりたのむなら、あなたのような、また私のような罪人をも、神は守ってくださるのです。
 「自分は堕落するかもしれない」と言って神により頼もうとしない人は、ちょうど「牢にまた戻ってくるかもしれない」と言って、赦免を受けようとしない人のようです。
 また、水の中でおぼれかけているのに、「もう一度水に落ち込むかもしれない」と言って、助けられるのを拒む人のようです。
 多くの人は、キリスト者の生涯に目を走らせて、最後まで耐えしのぶには充分な力がないのではないか、と考えます。しかしそういう人は、
 「あなたの安全は、あなたの年と共に続くであろう(申命記33:25)
 という神のお約束を忘れているのです。
 柱時計の振り子がいつまでも振りつづける有り様は、長い道程を歩み続ける人生の旅路に似ています。
 私たちは、長い人生の旅路を前にして、ときには意気消沈することもあるでしょう。しかしその長い道程も、カチッ、カチッという着実な音と共になされていくのだと思うとき、毎日の旅を新たな元気をもって進んで行けるのです。
 このように、日々、天の父の御守りに自分をゆだね、救い主キリストにより頼んで人生を歩んでいくことは、キリスト者の特権です。
 良きことを始められたかたが神であれば、それを完成させるかたもまた神であることを知ることは、私たちにとって本当に心の慰めです。

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