「神に委ねる人生は幸いである」

おはようございます。三綿直人です!

 私はいろんな所に出掛けて行って聖書のお話を伝えているんですが、「神様に委ねる」というお話になるとこんなコメントをもらうことが多いんです。「三綿さん、神様に委ねるって言いますけどそれは結局甘えを生むんと違いますか。今の時代に必要なのは委ねるということよりも自立するということやと思いますけどね。クリスチャンって基本的に甘えの構造に入ってるように思うんですけど。」確かにおっしゃる通り自立というのはとても大切です。そして聖書も自立することの重要性を教えています。肉体的に、精神的に、経済的に自立した人を成人というわけですね。自分で働いて生計をたてなさい、しっかりと働きなさいと教えているのは他ならぬ聖書なんです。つまり聖書が語る「委ねる」ということと「自立する」ということは矛盾しないわけです。

機能的依存

 委ねるとか依存するということをよく考えますと、実は二種類あるんじゃないかと思うんです。自立できない人が陥る依存、すなわち「機能的依存」というものです。これは薬物がなければとか、ギャンブルをしていなければとか、アルコールがなければとか、恋愛をしていなければなどなどで、自分の人格が崩壊して行く方向の依存です。

関係的依存

 もう一つの依存は「関係的依存」というもので、自立してもなお覚える関係への依存、すなわち愛し愛される、励まし励まされる、認め認められる、そのようにして人と成長する人格的立て上げの方向の依存です。人は確かに関係の中で人格が成長するように出来ているんですね。神に委ねるというのは、この関係的依存の部分を語っているんです。
 自分のことを自分でできる人がそれでもなお覚える渇き、依存、そのことを踏まえて、今日聖書が語る「神に委ねる」ということを理解するために三つのポイントで考えてみたいんです。

神こそあなたの価値をご存じな方

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 まず一つ目、それは、神はあなたの価値を知っている方であるということです。バッハの『マタイ受難曲』に関するある記事を読んでびっくりしました。今でこそ音楽の父と慕われ、多くの人に愛されているバッハは、その死後、地元ドイツのライプツィヒでは忘れ去られていた存在だったそうです。

マタイ受難曲とメンデルスゾーン

 バッハの孫弟子チェルターに師事した作曲家、メンデルスゾーンは、このことを嘆きバッハの楽譜を探し始めました。ある日、奥さんと出掛けた肉屋の店先で、包み紙が楽譜なのに気付いたんです。それはなんとバッハ直筆の『マタイ受難曲』の楽譜だったというんです。1829年メンデルスゾーンは友人の助けを受けて、マタイ受難曲のベルリン公演を大成功に導きます。このようにして世にバッハが認められていくことになったというんです。皆さん、肉屋の主人にとってはバッハ直筆の楽譜と言えども、意味が分からず、価値が分からず、紙切れにすぎませんでした。肉の包み紙に使用するのが関の山だったという訳です。しかし、メンデルスゾーンにとっては違いました。その紙切れにはお金に変えることのできない価値があったんです。

あなたは高価で尊い

 神様はあなたに価値を見出しておられます。他の人があなたに価値を見出さなくても神は「わたしの目にはあなたは高価で尊い」とおっしゃるのです。私たち人間は自分の価値を自分ではかろうとしますが、その方法は人との比較です。しかし、それは逆に自分を傷つけ自分の価値を分からなくさせているんではないでしょうか。あなたの造り主である神様こそあなたの価値をご存知の方なのです。

人間のことを完全に同情できるキリスト

 二番目に、神はあなたの弱さを知っておられるということです。ある年配者の方とお話をしていると、このように言っておられました。印象深かったので良く覚えてるんです。「私は若い時は友が多いと幸せだと思っていた。でも友が多いと悲しみが増えることが分かった。本当に友と呼べる人が出来た時、なぜか孤独を感じた。人は人を知ることが出来ない。こんなにも人を必要としているのに。」と言うんです。人生を深く味わいながら生きた人の洞察ある言葉だと思いました。でも彼女はイエス・キリストを信じクリスチャンになって変えられたと言うんです。あるクリスチャンの日記を引用して彼女は自分の日記にこう書きました。「私は空の星を数えることが出来ない。海の砂の数も数えることが出来ない。しかし神は全てを数えて知っておられる。空の星の数も、海の砂の数も、私の髪の毛の数も知っておられる。私の眠れない夜の数を知っておられる。私の流した涙の数を知っておられる。」あなたを救うためにこの地に来てくださり、私たちと同じ肉体を持ってくださった神、イエス・キリストこそあなたの弱さを知っておられるのです。


神の主権による完全な救い

 三つ目のポイントは、神に委ねることは逃避ではなく現実を認めることであるということです。聖書を分かり易く、力強く語ったC.H.スポルジョンというクリスチャンのメッセージにこんな話があります。

ガレー船の囚人

 大航海時代、スペインの無敵艦隊を支えていたのはガレー船でした。そこには多くの囚人が閉じ込められていて、鎖でオールに繋がれていました。ほとんどが終身刑です。スペイン王は次期自分の王位を継ぐことになる王子にこう告げました。「あなたがガレー船を尋ねたら、そこの囚人の中からあなたの目に適った囚人を一人自由の身にしてよい。」王子は囚人を選び出すためにガレー船を尋ねました。一人の囚人に「どうしてここに来たんですか?」と尋ねました。彼は、「ある人が自分の品性について偽証を立てたためだ」と答えました。「ああそうですか。」王子は通り過ぎて行きました。次に別の囚人に同じ質問をしました。「私は確かに悪いことをしました。でもこの船に閉じ込められるようなひどいことはしていません。」「ああそうですか。」また王子は通り過ぎました。王子は同じ質問を囚人に続けましたが、囚人たちは皆良い人ばかりであることが分かりました。皆間違って刑に処せられたと言うのです。

私は有罪です

 最後に王子は一人の囚人に聞きました。彼は答えました。「なぜ私がここへ来たかとお尋ねになるんですか。お恥ずかしいことですが、私はそれに十分値するものです。私は有罪です。夢にも無罪だなどと言えません。このようにオールに縛り付けられたまま死んでも十分その罰を受ける価値があるんです。実際私は、自分の命がこうして保たれていることそのものが感謝なんです。」王子は立ち止まって言いました。「あなたのような悪者が罪のない多くの人たちの中に置かれているのはかわいそうだ。自由の身にしてあげよう。」

キリストこそ揺り動かない砦

 神はキリストの十字架を通してあなたの罪の問題を解決してくださいました。あなたの弱さを解決してくださったのです。ただこの神の側での解決済みの問題を、あなたのものとするために一つだけ条件があります。それは私には出来ないことを神はしてくださったと認め、神に委ねることなんです。多くの人はクリスチャンはキリストとか神に逃げている、現実逃避していると言います。その通りです。この自由になった囚人は自分に出来ないことが多くあることを認めたばかりか、自分の罪を認め、キリストに逃避したその人の型なのです。

重荷を神に委ねる人生

 皆さん、どうぞキリストというやぐらに逃げ込んで下さい。これは現実逃避ではありません。現実を知ってキリストに逃げたのです。皆さんいかがでしょう。仕事に趣味に逃げ込むでしょうか。仕事も趣味もあなたを守ることが出来ません。あなたはだれかに自分を委ねる必要があるんです。神に委ねてください。あなたの心配を、あなたの重荷を、あなたの痛みを、神はあなたの価値を変わらずご存知で、あなたの弱さをご存じで、あなたの問題を解決してくださる方です。心からお勧めいたします。


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