イエスの生涯の意味
『新約聖書』の最初には四つの福音書が置かれています。これらはすべてイエス・キリストの生涯について記された書物です。ところがそれをイエスの“伝記”だと思って読むと、期待を裏切られることになるでしょう。実際には、その生涯のすべてを記してはいないからです。しかも四つの福音書がそれぞれ違った著し方をしているため、いっそう混乱させられます。
多くの人は『新約聖書』の1頁を開いてまず仰天します。聞いたこともないようなカタカナの名前がずらずら並んでいるからです。「マタイによる福音書」が書き記すイエスの系図です。また、イエスの誕生を伝えるのはマタイとルカの福音書だけで、マルコはいきなり30歳くらいのイエスから話を始めます。ヨハネは逆に永遠の世界から説き起こし「初めに言があった」という神秘的なメッセージを語り告げます。
以上のように、福音書という書物は伝記ではありません。そもそもイエスの誕生を記すマタイやルカでさえ誕生後のことはほとんど記さず、マルコ同様、歳およそ30になったイエスの最後の3年間、とりわけ最後の7日間に集中しているからです。
福音書とは、一言で言えばイエスの生涯を通して現わされた“福音”を伝えようとする書物です。その生涯に起こった出来事を記すこと自体が目的ではなく、私たちに福音をもたらした出来事を伝えようとしている書物なのです。
私たちが学んでいる『使徒信条』という信仰の箇条が「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」と記した後、いきなり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と飛んでしまっているのもそのためです。イエスの御生涯の中でも、とりわけ私たちの救いにとって不可欠な出来事のみを取り上げているのです。
罪無き乳飲み子が人類の罪を負うために誕生された。
クリスマスの“Holy Night”はドス黒い罪を覆うための御子のきよさなのでした。
イエスの誕生を記すクリスマス物語は、結婚前の田舎娘マリアへの“受胎告知”という衝撃的な出来事から始まります。男との関係を持っていないマリアに、天使は、聖霊による神の子の受胎を告げるのです。やがてその御告げのとおり、一人の男の子が家畜小屋で産声をあげました。イエス・キリストの誕生です。
世に言う“処女降誕”とはこのことです。多くの人はこの出来事に戸惑い、それを何とか説明しようとしたり否定したりしようとしますが、無駄なことです。もしそれが神の御業であれば何事であれ可能であったでしょうし、そうでなければ説明できたとしても無意味だからです。
大切なことは起こり得るか否かではなく、なぜ、いったい何のためにあのようなことが起こったのか、起こる必要があったのかという理由の方です。そもそもあの出来事は何だったのでしょう。また、なぜ普通の生まれ方ではいけなかったのでしょうか。
処女降誕とは、すなわち「まことの永遠の神でありまたあり続けるお方が…まことの人間性をお取りになった」という出来事であり、私たち罪人の救いを完全に成し遂げる唯一の「仲保者」誕生の出来事なのでした(問15-18参照)。
「聖霊の働き」による「キリストの聖なる受胎」は「御自身の無罪性と完全なきよさ」の証しですが、それらもまた罪の内に受胎する私たち人間の罪(問7)を「永遠の神の御子」である方が「神の御顔の前で覆ってくださる」ためなのでした。罪無き乳飲み子が人類の罪を負うために誕生された。クリスマスの“Holy Night”はドス黒い罪を覆うための御子のきよさなのでした。
キリスト誕生の出来事は、「ダビデ」の家系からメシアが誕生するとの預言の実現です(サムエル下7:12-16)。それを跡付けるマタイ福音書の系図は、しかし、薄汚れた罪人の家系図でもあります。イエスは、そのただ中に「罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるため」に誕生されました。人間がどんなにつらい生涯を送らねばならないか、どんなに無力で弱い存在かを知るために。
アダムとエバ以来「神のようになろう。天にまで届こう」と思い上がり悲惨を繰り返す人間(創世3:5,11:4)のために「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」方がここにいます(フィリピ2:7)。それがイエス・キリストです。