イエス・キリストを信じる人
「キリスト」とはヘブライ語の「メシア(油注がれた者)」の翻訳だと学びました。神によって特別な職務に召された者を表す用語です。イエスこそがまさに唯一絶対の「キリスト」なのでした。それでは「なぜあなたが『キリスト』者と呼ばれる」のか、それが問題です。
キリスト者=クリスチャンという呼び名は、キリスト教会の歴史と共に古い呼び名です。イエスこそ真のメシアであることを伝えようとした弟子たちが、ギリシャ語でみな口々に「クリストス、クリストス」と言っていた。それを耳にした人々は、何のことやら言葉の意味はわからなかったが、とにかく彼らは「キリスト」に属する者、「キリスト」派の連中だとあだ名を付けた というわけです(使徒11:26、26:28)。
悪意のあるあだ名は、決して嬉しいものではないでしょう。ところが弟子たちは、この呼び名を自分たちを指すのに相応しい呼び名として受け入れました。まさに自分たちこそがキリストに属する者であると。それどころか、「キリスト者」として苦しみを受けることを光栄とさえ考えたのでした(1ペトロ4:16)。なぜなら、自分自身がキリストのものとなることこそ、彼らの“唯一の慰め”だったからです(問1)!
イエスをキリストと信じキリストの御名のもとに洗礼を受けた人は、キリスト教会の“メンバー”となります。しかし、英語のmemberとは単に組織の会員というだけでなく、本来、体の一部分という意味です。同様に、イエス・キリストを信じた人も、その「信仰によってキリストの一部」となるのです。
ヨハネ福音書15章にある“ぶどうの木のたとえ”のように、死んだような一本の枝にすぎなかった私がキリストという木につながり、その命にあずかることによって木の一部となる。それは、目には見えない聖霊という「油注ぎ」によるキリストとの生命的な交わりです(1ヨハネ2:27)。それによって、私たちは「今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えても」いただくわけです(問1)。けれども、それは、決して自動的に起こる事ではありません。「キリスト者」という名を自ら背負って生きることに喜びを感じる「信仰によって」起こることなのです。
弟子たちは、この呼び名を自分たちを指すのに相応しい呼び名として
受け入れました。まさに自分たちこそがキリストに属する者であると。
「キリスト者」の生活は、ちょうど主イエスが預言者であられたように、男も女も老いも若きも皆が「この方の御名を告白」し証しする生活です(使徒2:17,1:8)。また大祭司として、御自分の命を捧げられたように、私たちもまたこの小さな体と人生を「生きた感謝の献げ物」として捧げるような献身的な生活です(ローマ12:1)。そして、主イエス・キリストが神の国の王としてこの世で戦われたように、私たちもまた諸々の「罪や悪魔と戦う」という生活です(エフェソ6:11)。これらは、何よりキリスト者一人一人が為す営みですが、キリスト教会全体に与えられた働きでもあります(エフェソ4:11-13)。
キリスト者の生涯は、依然、戦いの生涯です。クリスチャンになったからと言って一切の悩みや苦労から解放されるわけでは必ずしもありません。それにもかかわらず、それは深い喜びと平安に根ざした生涯なのです。『信仰問答』はキリスト者の戦いを「自由な良心をもって」と言っています。自由な良心とは、キリストの福音によって自由にされた心と言い換えてもよいでしょう。罪や悪魔の支配に打ち勝ち、死にも打ち勝たれた主イエスの勝利の福音によって自由にされた心をもって戦うのです(ヨハネ16:33)。イエス御自身がそうであられたように、私たちの戦いの武器はこの世のものではないからです(2コリント10:4)。
私たちの心をすぐに支配しようとする不安や恐れや敵意に対して、キリストはすでに勝利なさったという確信と喜び。それが私たちの戦いの武器です。そして、この喜びを奪うものは、もはや存在しないのです(マタイ10:28、ローマ8:39)。
この世が過ぎ去ってキリストの御支配が完成する時、キリスト者はキリストと共に「永遠に支配する」者となります。それがキリストの名を負って生き抜いた者たちの栄光です。かつては辱めを受けた名が栄光に輝く瞬間なのです。