人間の救い 1


 “ただ一つの慰め”の中で、喜びに満ちて生きまた死ぬために、三つのことを知る必要があると問2で学びました。人間の悲惨さ・人間の救い・神への感謝の三つです。このうち第一の「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」を知るために問いを重ねてきました。

 ちょうど医者の診断を受けるようにして、神の言葉に照らして一つ一つ考えてみると、自分とこの世がもはや取り返しのつかない“死に至る病”に犯されていることが明らかになりました。もしこれに正面きって向き合うならば、私たちはいったいどうすればよいのか。パウロが叫んだように「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)と天を仰ぐほかないでしょう。

 けれども、この「人間の悲惨さ」の部分は、『信仰問答』全体からすれば極めてわずかな文量です。この小さな書物のほとんどを占めているのは「人間の救い」と「感謝」です。それは何より聖書そのものが救いの書だからに他なりません。人間の絶望を教える書ではなく、神の勝利を伝える書物なのです。

 問12から始まる第二部では「人間の救いについて」教えられます。ここで「救い」と訳されているのは、ドイツ語で「解放」という意味の言葉です。罪の悲惨の中にがんじがらめとなり、罪の捕囚また奴隷となっている人間が解放されて行くこと、解き放たれて行くこと、それが救いだというわけです。

 昔、神に背いて罰を受け、約束の土地から遠く引き離されて捕囚の地につながれていたイスラエルに対し、神は時至って「慰めよ、わたしの民を慰めよ…苦役の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた」と宣言されました(イザヤ40:1-2)。約束の土地に戻る時、解放の時が訪れたというのです。
 「人間の救いについて」教える第二部は、まさに、そのような壮大な神の解放の御業を宣言する最も大切な部分なのです。

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 「この世と永遠との刑罰」。生ける神への背反は、この世と永遠との刑罰に値します。地の果てに逃れても神はそこにいる。たとい死を選んで陰府(よみ)にくだったとしても、神はなおそこにおられる(詩139:8参照)。にもかかわらず、「この刑罰を逃れる」道を尋ねずにはおれない。人間とはまことに悲惨な存在です。

 それに対して『信仰問答』は簡単には答えてくれません。罪と悲惨の現実を認めまいとこれまで散々理屈をこね回してきた私たちに、安直な答えで済ますわけにはいかないのです。刑罰を逃れたいなら「神の義」(問11)を満たすために「完全な償い」をすればよい、と突き放します。“完全な償い”――これが、続く問答の鍵となる事柄です。

人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神のもとへと帰ることです。
    人の心は神のうちに安らうまでは決して安んじないからです。

 問12でもう一つ心に留めたいことは、問いの中にある「再び恵みにあずかる」という言葉(ラテン語版では“和解する”)です。この問いの最も重要な点は、ただ逃れの道や脱出方法を問うているのではなく、再び恵みにあずかる道、再び神のもとに戻るためにはどうしたらよいかを尋ねている点です。

 私たち人間にとっての救いとは、神の裁きを逃れてどこか別の場所に落ち着くことではありません。何とか罰を逃れられればそれでよしという一時しのぎでは救われないのです。人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神のもとへと帰ることです。アウグスティヌスという人が言ったように、人の心は神のうちに安らうまでは決して安んじないからです。ですから、どうしても神のもとへ、その懐(ふところ)の中へと戻らねばなりません。そのためにはどうしたらよいか。それをこの問いは問うているのです。

 それはちょうど放蕩息子のたとえ(ルカ15:11以下)に似ています。父の家を離れて放蕩の限りを尽くした息子は、一文無しとなり落ちぶれます。が、やがて自分の惨めさに我に返った息子は、“父のところ”に帰ろうと決心します。たんに目先の悲惨から逃れるのではなく、もう一度父のもとに戻り、そこで再び自分自身をやり直そうとするのです。それは、父との“和解”への旅と言ってもよいでしょう。けれども、父への裏切りという罪をいったいどう償えばよいのでしょうか。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_012.htm