人間の悲惨さとは


 私たちが“ただ一つの慰め”の中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、第一に知らなければならないことは「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」ということでした(問2)。
 興味深いことに、問3ではこのうち“悲惨”だけが問題にされています。「何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか」。

 初めて聖書を学んだ時、「人間は皆、罪人である」という聖書の教えが分かるようで分かりませんでした。“罪人(つみびと)”という言葉に引っかかったのです。私は何も警察の御用になったことはないと思ったからです。この世の悲惨さ、人間の悲惨さはよく分かっていましたが…。

 “罪”と言うと何か個々の事柄に私たちが違反することや私たちの心の根っこの性質という意味合いが強くなりますが、“悲惨さ”の場合にはむしろ罪がもたらす結果を含めた広い概念になります。私たちが日常的に直面している諸々の現実を含み持つものになるのです。信仰問答は、悲惨かどうかを尋ねてはいません。わたしがそれに気づいているかどうかを問うています。しかもこの世の悲惨さだけではなく、「自分の悲惨さ」に。

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 ここで“悲惨”と訳された言葉(Elend)の語源は「土地から離れた/離された」という意味だと言われます。
 悲惨とは、土地から離れてしまうことだと。そう言えば、聖書はたびたびそのような悲惨を描いています。そもそも人間の悲惨の始まりは、アダムとエバが自分の罪によって神の元から離れてしまった結果でした。神の民であるイスラエルもまた、自分の罪ゆえに約束の土地から遠く引き離されて捕囚となります。あるいはまた、イエスのたとえ話の中に出てくる、好き放題やって身を持ち崩した放蕩息子。彼もまた、父の家から自分で離れたことが悲惨の始まりでした。
 なるほど「悲惨」とは、本来あるべき所から離れてしまうことによってもたらされるようです。そうであれば、この悲惨に気づくためには、本来あるべき所を知らねばならないでしょう。それを指し示すのが、「神の律法」なのです。

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 「神の律法」と言う時に、通常、真っ先に頭に浮かぶのは“十戒”と呼ばれる十の戒めです。しかし、信仰問答はむしろイエスがおまとめになった律法の要約を引き合いに出します。神の教えを煎じ詰めると、結局二つの愛に尽きると言うのです。それは、神への愛と隣人への愛です。これら二つの愛は、私たちにいったい何を求めているのでしょう。

 聖書の愛とは、たんに好きになるということではありません。たとい嫌いでも愛することはできます。愛は、意志だからです。他方、ただ形式的に愛すればよいというのでもありません。例えば、王は国民が服従しさえすればそれで満足します。けれども、神様は形だけの服従をお求めにはならない。私たち人間から、愛するという心をお求めになるのです。

 聖書の愛とは、自己犠牲のことです。自分を犠牲にしても相手のために尽くす。それを愛と呼びます。相手が愛するに値するかどうかは問題ではありません。たといそれに値しない相手のためにも尽くす。それが、愛です。

わたしだって、もっとすばらしい人間になりたいと思う。
                    けれども、それとは裏腹な自分がいる。

 「神の律法」は、ですから、個々の決まりを守っているかどうかを問うのではなく、私たちの心を問うものなのです。すべてを完璧に守っていても、なお惨めに感じることはあります。そこに、愛があるかどうかが大切だからです。万物を造られた神への全身全霊の愛と、隣人への無私の愛。これらの愛に貫かれていることが、人間の真の姿です。しかし、それができますかと問答は問いかけます

 「できません。」それが答えです。他の人がどう答えるかではなく、「わたし」がどうかが問題です。もちろん、いつも周りの人を憎んでいるわけではないでしょう。それほどの悪党ではないかもしれません。けれども、心の“傾き”はどうでしょう?
 自分と他人とを秤にかけた時、自分の思いと神様の思いが相反する時、心はどちらに傾くでしょう?
わたしだって、もっとすばらしい人間になりたいと思う。けれども、それとは裏腹な自分がいる。為すべきことを為し得ない、無力な自分がいる。わたしには、できないのです!

 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7:24)。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_003-005.htm