神の子であることをどうして知るか

 あなたは、自分の救われたことを、どのようにして確信することができるのでしょうか。
 あなたは、信仰に立つと、すぐに"救われた感じ"を持つことができるでしょうか。しかし、そうした"感じ""フィーリング"は、おそらくすぐには持てないでしょう。
 もし、キリストの贖いという事実を機関車にたとえれば、信仰はその後ろにつながった客車です。また"感じ"は、さらにその後ろにつながったもう一つの客車です。事実という機関車が、信仰という客車をひっぱって、そのあとに"感じ"や"気分"という客車がついていくのです。
 "感じ"や"気分"があなたを引っ張るのではありません。つまり、"感じ"があなたを救うのではありません。事実と、それに対する信仰があなたを救うのです。
 船に乗っているとき、あなたを目的地へ運ぶのは、"乗っているという感じ"でしょうか。そうではありません。乗っているという事実、すなわちその船に身をゆだねていることによって、目的地へ行けるのです。
 同様に、イエスキリストという"救いの船"に身をゆだねること、すなわち信仰を持っている事実、またキリストがあなたを抱いておられるという事実によって、私たちは神の国という目的地へ達することができます。このことを、よく心に留めておいてください。
 あなたは、神様を「天のお父様」と呼んだでしょうか。もしあなたの心の中から、その言葉が自然に、素直に出たならば、あなたはすでに神の子どもです。なぜなら、聖書に次のように記されています。
 「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラ四・六)。
 この「アバ」とは、家庭内で子が父を呼ぶときに使われた日常的な言葉(アラム語)で、「お父さん」という意味です。それは、非常に親しみをこめた呼び方なのです。
 神様を「天のお父様」と素直に呼べるとき、あなたの魂には、「アバ、父」と呼ぶ御子キリストの御霊が宿っています。それは、あなたが神の御前に、すでに神の子とされている証拠なのです。
 天地万物の創造者であり、所有者であるかたが、あなたのお父様です。
 その意味でも信仰に立つことは、何か未知の世界、または全く別の世界に行くことではありません。あなたは信仰によって、あなたの本来の家庭――神の家族に戻るのです。
 イエス様はあるとき、「放蕩息子の話」をなさいました(ルカ一五・一一~三二)。その息子はある日、
 「お父さんが私にくれるはずの相続財産を今ください」
 と言って、それをもらい、幾日もたたないうちに家を出ていって、遠い所に行き、そこで放蕩に身を持ちくずしてやがて財産を使い果たしてしまいました。そして何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったのです。
 彼は食べることにも窮し始めました。そこでその地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせたのです。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、何もくれる人はいませんでした。そこで彼は本心に立ち返ってこう決意したのです。
 「立って、父のところへ帰って、こう言おう。父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人の一人同様にしてください」。
 そうして父のもとへ帰ったのです。父は彼の姿を認めると、まだ遠く離れていたのに哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻しました。

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レンブラント画

 

 

息子は、「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても……」と言い出しました。しかし父は、僕たちに言いつけたのです。
 「さあ、早く、最上の着物を出してきて、この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。
 そう言って祝宴が始まりました。この話の中の「息子」は、まさにあなたの姿ではないでしょうか。あなたは父なる神様から遠い所に行って、やがて惨めな自分を発見しました。
 しかし神は、そんなあなたをも温かく迎え入れ、再び「子」として扱われるのです。この話の「父」と同じように、神はご自身の前に死んだも同然だったあなたを、強く抱きしめ、躍り上がって喜ばれるのです。