信仰と善行との関係
つぎに、信仰と善行との関係をお話ししましょう。
あなたは、善行によって救われるのでしょうか。それとも、信仰によって救われるのでしょうか。
あなたが救われるのは、善行によるのではありません。善行は良いことですが、そのこと自体に、私たちを救う力はないのです。
たとえば、ここに大富豪がいて、その莫大な富を愛する子どもたちに相続させようとしているとしましょう。一方、彼の近所に、その大富豪の知らない一人の善良な人がいて、人様に迷惑をかけずに生き、しばしば善行も行なっているとしましょう。
このようなとき、大富豪は自分の財産を、その善良な人に相続させるでしょうか。いや、単に善良な人であるというだけでは、富の相続がなされることはありません。その善良な人と、大富豪とは、何の関係もないからです。
大富豪は、愛する子どもたちに富を相続させるでしょう。神も同様です。神は、その計り知れない富を、愛する子どもたちに相続させることを定められました。
"人様に迷惑をかけず善良に生きている"というだけで、神を忘れて生きているならば、すなわち信仰がなければ、その人は神との関係を持てません。信仰なしでは、神もその人に対して何の関係も持ち得ません。
大富豪なる神は、永遠のいのちと、天国のすべての富を、ご自分の家族に相続させることとされました。聖書は言っています。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。……私たちは神の相続人であり、キリストとの共同の相続人であります」(ロマ八・一七)。
私たちは、救いと神の幸福を相続するために、信仰を通して神の子どもとなっていなければならないのです。善行は、救われるための条件ではありません。神との関係の回復が、救いの条件です。すなわち信仰なのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペ二・八~九)。
――ここで聖書は、救いが「恵みのゆえに、信仰によって」なされたと言っています。「恵み」が救いの元であり、人はそれを「信仰」というパイプを通して受け取るのです。善行は救いの条件ではない、と聖書は言っています。
善行は、救われるための条件ではなく、むしろ救われたことの結果です。
神との関係が回復されて、キリストに生きるようになると、人はしだいに善を行なうこともできるようになります。聖書は次のように言っています。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも、あらかじめ備えてくださったのです」(エペ二・一〇)。
つまり、救われたのは、善行をもできる人になるためです。善行は、救われた結果としてあらわれてくるものなのです。
そして善行をなすのは、自分を誇るためではなく、それを通して神があがめられるためです。主イエスは、こうお教えになりました。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・一六)。
キリストの使徒パウロもこう述べました。
「(私の切なる願いは)、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられることである」(ピリ一・二〇)。
救われた私たちは神にあって良い行ないをなし、それにより、ますます神とキリストがあがめられるようにしようではありませんか。
神は「私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも、あらかじめ備えて」下さっています。私たちの人生が良いもので満ちるよう、神は備えてくださっているのです。