信仰生活の基本
1.ディボーションの生活
ディボーションとは神との交わりを持つため特別な時間のことです。イエス・キリストを信じて神の子とされた私たちは、日々父なる神との聖霊による交わりを持つのです(ローマ8:15)。それによって私たちは慰められ励まされ、力を与えられ、信仰的に成長し、クリスチャンとして歩むことができるようになるのです。
ディボーションは毎日持つことが大切です。一日の始まりである朝にディボーションを持つことが一番望ましいのですが、どうしても朝そのような時を持てないのであれば、一日のうちのある時間を自分で決めてディボーションを持てたらよいでしょう。
ディボーションでは次のようなことをします。
①聖書を読む
・みことばは霊的な糧
神の言葉である聖書を読むことはとても大切なことです。みことばは霊的な糧です。私たちの体を養い支えるために、食事が必要なように、私たちの信仰のためにも日々みことばの糧が必要なのです。みことばによって信仰が養われ、成長できるのです。(マタイ4:4、Ⅰペテロ2:2)
・コンスタントにバランス良く
聖書を読むと言っても、手当たり次第聖書をぱっと開いて読むというやり方は感心しません。そのような読み方では、偏った不健全な信仰になってしまいます。毎日、読む場所を決めて、聖書全体が読めるようにしましょう。特に旧新約聖書全巻にわたって読み通す聖書通読は、信仰生活の祝福となりますので心からお勧めします。
・読み方に気を付ける
聖書を読むということは、神に聞くということです。神はみことばを通して私たちに語り掛けておられるのです。注意深く読み、その言葉が自分に何を語っているのか自問してみて下さい。そして、教えられたり、心に残ったり、有益と思われる箇所に線を引いたり、ノートに書き出したり、大切なみことばは暗記しておくとよいでしょう。
・分からなくても読み続ける
始めから聖書の全てを理解することはできないのですから、分からないと言って失望することはありません。そのような箇所も、信仰が成長するにつれて自ずから徐々に理解できるようにもなります。分からない箇所はとりあえずそのままにしておき、分かるところを自分のものとしていけば良いのです。やがて何回も読んでいくうちに理解できるようになるでしょう。また、分からないことは牧師に尋ねて適切な指導を受けるといいでしょう。
・みことばを行う
聖書を読むことは大切ですが、それが単なる聖書研究だけに止まってしまうことのないようにしましょう。教えられたみことばを自分自身と自分の生活に適用し、そのみことばを実行するようにすることが大切です。
② 祈る
・祈りは霊的な呼吸
祈りは呼吸のようなものです。祈りを通して神に語り掛けたり、神からの言葉を聞くからです。祈りによって私たちの信仰生活は生き生きとしたものになります。聖書は絶えず祈るようにと言っています(Ⅰテサロニケ5:17)。
・祈りは神との会話
祈りは神に語り掛けることです。特に決まった文句や形式はありません。どのように祈ったら分からない時でも、神はあなたの心の全てをご存知です。どんなことでも素直に語り掛ければよいのです。始めから上手に祈れる人なといません。信仰の成長と共に整えられていくものです。先ずはとにかく祈ることです。
教会とは、神によって召し集められた者たちのことです。私たちは神によってキリストの体である教会に加えられました(エペソ1:23、5:23、Ⅰコリント12:27)。教会から離れた一人きりの信仰生活などありません。私たちは教会の交わりによって、信仰的・霊的に養い育てられ、守られ、成長することができるのです。もし教会との関わりなしに信仰生活を送ったとしても、健全な成長は期待できず、高慢な一人よがりの歪んだ信仰になってしまう危険性があります。信仰は神と自分との縦の個人的な関係が基本であり大切なことですが、教会との関係もそれと同じくらい大切なものであることを忘れないようにしましょう。
教会生活には次のようなものがあります。
①集会
集会出席は信仰的・霊的成長の秘訣だと言えます。各集会では、賛美と祈り、聖書からのみことばの解き明かし、主にある兄弟姉妹の交わりがなされます。これによって慰めと励ましを受け、正しく教えられます。
・聖日礼拝
教会では様々な集会が持たれていてどれも大切なものですが、特に毎週日曜日の聖日礼拝は守るように心がけましょう。聖日礼拝は教会と個人の信仰生活の中心的な存在です。神を礼拝することは、教会の務めです。また週の初めの日に神の前に出て、祈り賛美することによって神の臨在に触れ、聖書からのメッセージによって整えられ、クリスチャンとしてリフレッシュされて再び一週間の歩みをするのです。
聖日は、神にお仕えするために神にささげられた聖なる日、主の日です(出エジプト20:8-10)。私たちはイエス・キリストの復活を記念して日曜日を聖日として守り、神に礼拝をささげ、この日をささげています。
日頃から礼拝に出席できるように心がけて日々の生活の手はずをしておきましょう。異教文化的環境に住む私たちにとって、礼拝を守るためには色々と困難な事情もあるかもしれませんが、堅く信仰に立ってこの日を勝ち取りましょう。
また疲れたり、何か問題があったり、集会よりも他に心引くものがあると、教会への足が重く感じられ、つい休んでしまおうかとの誘惑に負けそうになります。しかし、こういう時こそ集会に出ることが必要なのです。集会に出ることによって解決が得られ、重い気持ちで出席したとしても、帰る頃には恵まれて、集会に来て良かったと感じるのです。私たちが主の御名によって共に集まる中に主ご人も臨在されます。お互いに励まし合って集会出席に励みましょう。
②献金
・感謝、信仰、献身の表われ
献金は、会費でもお賽銭のようなものでも、また単なる寄付金でもありません。
献金は神の恵みに対する感謝の表われです。神は私たちのためにイエスを与えて下さいました。十字架に示された神の愛を思う時、感謝せずにはいられません。また神は日々私たちに様々な面での恵みを与えて下さっています。それが目では見えないものであっても、信仰をもって感謝してささげるのです。こういう意味では、献金は信仰の表われとも言えるでしょう。
また献金は私たちの献身の表われでもあります。神の恵みに応え、自分自身を神にささげて生きるということの表明です。ですから献金は礼拝の大切な一部でもあるのです。
ささげられた献金は神の働きのために用いられます。献金によって神の国の様々な必要が満たされ、その働きが支えられます。
献金をするということは、自分のものが失われるということではなく、天に宝を積むことになるのです(ルカ12:33)。やがて私たちが神の元に帰った時、その報いを見ることができるのです。またそればかりではなく、この地上においても報いを受けることができるのです(Ⅱコリント9:8,10,12)。献金によって自分自身が恵まれるのです。
献金は、自発的に、喜びを持ってささげることが大切です。義務や強制で仕方なく行うものでもなく、惜しみながらするものでもなく、自ら進んでするものです(Ⅱコリント9:5-7)。神は喜んでささげる人を愛して下さいます。
献金の額は決められていません。それは自分の心で決めるものです。献金の額ではなく、心から精一杯のものをささげるということが大切なのです(マルコ12:41-44)。
献金にも集会でささげられるものや特別に感謝してささげられるもの等がありますが、什一献金についてお話しましょう。これはマラキ3:8-12に記されているもので、10分の1は神のもので、神にお返しするという献金です。私たちが信仰をもってささげる時、神も天の窓を開いてあふれるばかりの祝福を与えて下さいます。
献金について正しく理解し行われることが、その人に多くの祝福をもたらします。献金は私たちの信仰生活を豊かに祝福する恵みの業です。
③奉仕
・賜物を用いる
私たちにはみな神から賜物が与えられています(マタイ25:14-30)。賜物とは神の働きをするために神から与えられた才能や能力のことです。神は私たちが自分に与えられた賜物を用いて神と教会と人々に仕える者となることを望んでおられます。その賜物をもってお互いに一致協力して仕え合い、神の働きを進めていきましょう。
奉仕は、献金と同様、義務や単なる習慣でするものではありません。神への愛と感謝、救われた喜びをもって心からするものです(詩篇51:12)。奉仕は私たちにとって喜びとりなり、祝福となり、力となるのです。また神はそれぞれの行いに応じて報いを与えて下さいます。
教会には様々な奉仕の場があります。どれも大切な神の働きです。どんなに小さな奉仕でも忠実に行いましょう。そうするなら、やがてもっと大きなことを任され、神に用いられる者となれるのです。
・証し人としての召命
イエスは全ての人に福音を宣べ伝えるようにと言われました(マルコ16:15)。それは、私たちが救われたことを家族や友人など身近な人々に証しするということから始まります。まだ神を知らず、滅びの道を歩いている人々にキリストを証しし、伝道することは私たちの使命です。家庭や職場や学校であらゆる機会をとらえて、あらゆる方法で神の恵みを証しすると共に、教会で行われる伝道にも心を合わせて祈り協力しましょう。
証しとは、単に口で語ることだけではありません。行いによって証しすることも大切です(マタイ5:13-16)。日々の生活が証しそのものとなるのです。私たちの生き生きとした姿、また誠実な歩みは、言葉よりも効果的な証しです。私たちの内にある愛、力、平安、希望、喜びを言葉と共に生活の中で現していきましょう。
私たちが救われた時に喜びを経験しますが、ただそのままだとその喜びを持ち続けることはできません。私たちが人々に証しし、伝道することによって、その喜びを更に持ち続けることができるのです。また人に自分の内にある救いについて語ることは、自分自身の確信を強めることにもなります。証しすることによって信仰的に成長できるのです。
4.御霊によって歩む生活
・もう一人の助け主
ディボーションの生活も教会に連なる生活も証しの生活も、私たち自身の力では行うことができません。かえって私たちの肉なる部分はそれを拒もうともします。また信仰生活を送るということは、この世の流れに逆行する生き方をする部分もあります。そこには様々なサタンの罠や攻撃が待ち受けています。その意味では、信仰生活は霊的な戦いであるとも言えます。私たちは弱く、救われた喜びと感動をもって意気込んで信仰生活を送ろうとしても、いつの間にか失意のどん底に落ち込んでしまうということもあります。世の誘惑に対し、善を行うことに実に弱く、神のために生きようとする時にも力無さを覚えるものです。
しかし、私たちの弱さをご存知の神は、私たちにもう一人の助け主なる聖霊を送って下さいました(ヨハネ15:26)。聖霊はいつも私たちと共にいて下さり、助けて下さるのです。この聖霊の足すなしには信仰生活を送ることは困難です。
・力が与えられる
聖霊は私たちが神に従い仕え、証し人として生きるための力を与えて下さいます(使徒1:8、エゼキエル11:19,20、36:26,27)。また私たちの内にキリストの品性である御霊の実を結ばせて下さるのです(ガラテヤ5:22,23)
・聖霊の満たしを求める
イエス・キリストを信じて救われた時、私たちの内には聖霊が住まわれるようになりました。しかし、更に私たちの全てを聖霊に支配して頂くという聖霊の満たしを求めることが必要なのです。日々神の前に出て、へりくだり、砕かれた心をもって聖霊の更なる満たしを祈り求めましょう。そのように求める時、聖霊の満たしが与えられます。
聖霊の満たしは一時的なもので終わらせてはなりません。常に聖霊に満たされ、聖霊に導かれた歩みをすることが大切です。聖書は「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16、25)と言っています。聖霊の満たしを求め、聖霊に導かれ、聖霊によって歩む信仰生活を送りましょう。
http://www31.ocn.ne.jp/~fellowship/christianlife.htm