イエス・キリストを信じて永遠の命を受けた人は、定期的に聖餐式に参加するように聖書は教えています。それはキリストが私たちのために犠牲となり、救いを与えてくださったことを思い起こし、覚えているためです。パンはキリストの体、ワインはキリストの血の象徴です。聖餐式をすることが天国に行くための必要条件ではありません。天国に行くための条件は唯一、イエス・キリストを救い主として信じ、主に完全に信頼することです。イエスに従う者になるには、定期的に聖餐式に参加するべきです。
ルカ22:14-20に聖餐式の始まりについて書かれています。
時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしの記念からだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。イエスは「わたしを記念するため、このように行いなさい」と言われました。イエスに従う意思のある人は、イエスの言われたことを実行するために聖餐式に参加するべきです。聖餐式は一度だけのイベントではなく、信者が定期的に行います。
1コリント11:23-24には、聖餐式の行い方と、その意味が説明されています。
わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行なさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。
これらの節によると、「飲むたびに」「飲むごとに」と書かれているので、聖餐式が一度だけのイベントではなく、主イエスが再び来られるときまで定期的にこれを行い、主の死を告げ知らせるよう教えていることがわかります。その際には、自分の状態が聖餐式にあずかるのにふさわしいかどうか、自分自身を吟味し、確かめる必要があります。聖餐式にあずかることは信者にとって喜ばしい特権であるので、ふさわしい方法でそれを受けるべきです。誰一人として完璧ではないので、各々自分自身をよく吟味し、心に思い当たる罪があるならば、祈りを通して主に告白します。(自分の罪を他人に知らせる必要はありません。)そして主との関係を良く保つよう努めることが大切です。各々がふさわしい状態で聖餐式にあずかることは、それに参加するのを主から許されるばかりでなく、信者と主との関係性が近くなることも許されます。
聖餐式に参加する人は信者であるのが望ましいです。それは主ご自身が犠牲となり救いを完成されたことの象徴であるので、もし信じない者が聖餐式に参加した場合、それは聖餐式の目的から外れ、ただ参加しているだけになってしまいます。しかし、もし信じない者が参加を望むのであれば、誰もそれを強制的に止めさせることはできません。その場合は、信者は信じない者に対して、聖餐式にあずかることの意味を説明し、警告すべきでしょう。
あくまでもパンとワインはキリストの体と血の象徴です。実際の体と血ではありませんし、そうなることもありません。聖餐式がワインやジュース、または他の飲料(世界にはワインやジュースが手に入らない場所もあるかもしれません)で行われたか、もしくはパンが酵母入りかどうか(パンが手に入らない場合なども)これらのことは重要ではありません。聖餐式にあずかる者にとって大切なことは、個人個人の心と意思で、主の死を覚えて告げ知らせることです。
使徒2:42には、そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。と書かれています。そして使徒20:7にも、週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。とあります。聖書から、(この2箇所の節で聖餐式のために「パンをさき」と書いてあります)聖餐式は信者が集まって1つとなり、互いに交わる時間であることがわかります。更に個人個人が自分の能力に応じて、日々主に従えているかどうかを自問できる時間でもあります。信者は主を覚えて主の犠牲による死を告げ知らせ、定期的に集まりましょう。