A. 洗礼を受けることでは救われません。イエス・キリストを信じてお任せすることのみがあなたを救う唯一の道です。
洗礼とは、イエス・キリストを救い主として信じ、永遠の命を受けた人が、主に従う決意を神様に表明すること、そして古い自分から新しく生まれ変わったことの象徴として行うものです。洗礼を受けることは、天国に行くための条件ではありません。天国に行くための条件はただ1つ。イエス・キリストを救い主として信じ受け入れることです。
聖書に書いてある洗礼の方法は、滴礼(水をつける)ではなく、浸礼(水に浸かる)です。
使徒8:36-38
道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
マルコ1:9-11
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
ヨハネ3:23
ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
ここで彼らは「水が多いところ」に行って洗礼を受けているのがわかります。
飲み水や少量の水であればどこにでもあったはずですし、もし滴礼が良いとされるのであればその場でもできたはずです。
しかし彼らはわざわざ「水が多いところ」に行きました。それはどうしてでしょうか?
ギリシャ語の「洗礼」の意味にその答えがあります。
聖書で「洗礼」と使われている言葉はギリシャ語で「バプティゾー(bap-tid’-zo)」
この言葉は、浸す、浸かる、沈む、という意味です。これは聖書の中で洗礼に関して使用される、唯一の言葉です。
振りかける、ふり注ぐ、といった意味のギリシャ語は「ハランティゾー(hran-tid’-zo)」で、この言葉は新約聖書に4回出てきますが、すべて血についてのことで、洗礼について使われている言葉ではありません。
ヘブル9:13 / ヘブル11:28 / ヘブル12:24 / 1ペテロ1:2
そして「かける」や「つける」といった意味のギリシャ語は「エピケオー」(ep-ee-kheh’-o)で、これは新約聖書に1度だけ出てきます。
そして「かける」や「つける」といった意味のギリシャ語は「エピケオー」(ep-ee-kheh’-o)で、これは新約聖書に1度だけ出てきます。ルカ10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。この個所は日本語の聖書で「注ぎ」や「注いで」などと訳されていますが、ニュアンスとしては傷のケアのために油とぶどう酒を「かけた」という意味合いです。これも洗礼について使われている言葉ではありません。
よく聖書を見てみれば、洗礼について聖書が何を言っているのかはとてもはっきりしています。洗礼は、注いだり、かけたりするものではなく、聖書はいつも浸す、沈む、という意味で書かれています。イエス様も、またその弟子たちも、その方法で洗礼を受けました。もし、あなたが本当に神様に従いたいのであれば、聖書に書かれているとおりに実行することを選んでください。海でも川でも、プールでもバスタブでも。「水が多いところ」であれば洗礼を受けることができます。
幼児洗礼について
自分でものごとを判断できる年齢に達し、キリストに従うことを自ら選んだ後で洗礼を受けることが聖書からの教えです。そうでなければ神様に従うことを自分で選ぶことも、それを決めることもできません。そして洗礼の象徴である、罪の中にあった古い自分が死に、主から与えられた新しい命へ生まれ変わったことの意味も成していません。また年齢に関わらず、洗礼を受けることによって救われるとは聖書に書いてありません。
聖書には7つの種類の洗礼が書いてあります。
1) 聖霊のバプテスマ (信じる者だけ) ⇒ マタイ3:11
2) 火のバプテスマ (信じない者だけ)火の洗礼は地獄に等しい ⇒ マタイ3:11
3) 水のバプテスマ ⇒ マタイ3:16 / 使徒8:38
4) 死のバプテスマ ⇒ マタイ20:22
5) 清めのバプテスマ(銅器などを洗う・ギリシャ語) ⇒ マルコ7:4
6) モーセのバプテスマ ⇒ 1コリント10:2
7) 清めのバプテスマ(旧約時代に様々な洗い清めに使う・ギリシャ語) ⇒ ヘブル9:10
8) イエス・キリストの名によるバプテスマ ⇒ 使徒2:38 / 1コリント6:11
救いに必要な洗礼は、聖霊によるバプテスマだけです。
水の洗礼をすることで救われるわけではありません。必要なのは、イエスを救い主として信じたときに与えられる、聖霊によるバプテスマです。これは信じた人には必ず与えられます。
エフェソ4:4-6
からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
マルコ1:8
わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
水の洗礼をすることで、イエス様の血によって私たちの罪が洗い清められ、カバーされ、新しく生まれ変わったことを象徴として実感してください。そしてあなたの意思を、洗礼によって神様に表しましょう。