A. 献金をすることでは救われません。イエス・キリストを信じてお任せすることのみがあなたを救う唯一の道です。
※十一献金とは、稼いだ物や生産した物の10%を神に捧げるという旧約聖書の概念で、当時の律法にはそれが記されていました。
多くの人は十一献金について、しなくてはいけないもの、と考えている場合がありますが、その気持ちに縛られる必要はありません。何故なら信者はもはや律法の下にいないのであり、もし信者が何かをしなければならないと感じて多くの捧げ物をしたとしても、それが律法に書かれてあるから、という理由であるなら意味はないからです。律法に書かれてあるから聖書を読まなければならない、祈らなければならない、などどんなことでも、自らを律法の下に置くのであればそれは神からの恵みを拒否していることになってしまいます。反対にどんな小さなものであっても、恵みの下に自分を置き、自らが欲してそれを選ぶのであれば、神の側からすればそれはとても大きいものなのです。
十一献金について
アダムから始まってアブラハムまでの時間(およそ二千年間)、十一献金をしたと書いてある記事は聖書に記録されていません。アブラハムの生活は豊かでありましたが(創世記13:2)律法による十一献金を捧げたという記事はなく、聖書が初めて十一の捧げ物について触れているのは創世記14章です。しかしここではアブラハムが戦いで勝った際、その戦利品の中から捧げたものであり、彼が所持していたもの全ての中から捧げたわけではありません。ここ以外にアブラハムが十一の捧げ物をした記事は他にありません。
初めて献金が律法の中に登場したのは出エジプトして以降2年後であり、イスラエルのためのものでした。出エジプト25章は出エジプトする以前に書かれたもので、ここに献納物についての記事がありますが、これは幕屋建設の指示のためのものです。そして25:2でモーセは「おのおの進んで心からささげなさい」とイスラエルの人々に言っています。民数記31章にあるミディアン人との戦いで神はモーセに戦利品を捧げるよう言われたが、そこではとても細かい、特別な指示が出されました。神が欲しいものが捧げ物として有効なのであって、何か捧げれば良いわけではないのです。もし全ての捧げ物が同じ意味を持つのであれば、このような詳細かつ明確な指示はされず、単純に捧げ物を持って来なさいと言われるでしょう。
捧げ物の主な理由はラビである祭司職の人を助けるためでした。祭司は神のためまた信者のための仕事をするので彼らは土地を持つことができ、そのため他の民は祭司たちに捧げ物や献金をして助ける必要があり、祭司たちを金銭的に助けるために働くことは神の御心でした。それはちょうど今日の教会のあるべき姿と似ています(1コリント9 / ガラテヤ6:6)。十一献金は同様に寡婦や孤児に対しても提供されました。
マラキの書はイスラエル民族へ向けて書かれていますが、その中でも特に祭司に向けて書かれています(マラキ1:6、10-13 / マラキ2:1、7-8)。祭司たちはイスラエルの人々に対しひどい行いをし、献納物を自分たちで保持していた(マラキ3:9)ためにその祭司たちを叱責する目的でマラキの書が書かれました。9節の呪いはこれが書かれた時のことであって今日のことではありません。マラキ4:4にある「わが僕モーセの教えを思い起こせ」とは律法全体をさしているのであり献納物だけのことではありません。献納物を捧げなければならない、と思っている人は律法全体を守らなければならないのであり(ガラテヤ3:10)。律法の下にいる人は恵みの下にいません。信者はイエス・キリストを通して律法から解放され自由となったのです(ガラテヤ3:13 / コロサイ2:14)。
多くの人は十一献金について、しなくてはいけないもの、と考えている場合がありますが、その気持ちに縛られる必要はありません。何故なら信者はもはや律法の下にいないのであり、もし信者が何かをしなければならないと感じて多くの捧げ物をしたとしても、それが律法に書かれてあるから、という理由であるなら意味はないからです。律法に書かれてあるから聖書を読まなければならない、祈らなければならない、などどんなことでも、自らを律法の下に置くのであればそれは神からの恵みを拒否していることになってしまいます。反対にどんな小さなものであっても、恵みの下に自分を置き、自らが欲してそれを選ぶのであれば、神の側からすればそれはとても大きいものなのです。
喜んで与える人を神は愛してくださるからです(2コリント9:7)。しなければならないからする、のではなく、したいからする、ということが神に喜ばれます。聖書は信者に励ましを与えてくれますが、特に自らが多くを学んだ所、利益を与えてくれた所(教会など)に献金をするべきです。(1テモテ5:17-18)。そして信者は自分の持っているもの(時間やお金など)を聖書に基づいた正しいところに捧げることが重要であり、そこが信者同士の繋がりとなり互いに共有していくことができます。信者が神の働きをするとき、豊かな実が結ばれます(フィリピ4:17)。私たちが今することが、後の天国での報いに繋がっているとは、驚くべき恵みです。