私は牧師ですから機会があれば御言を取り次がせていただいております。関心を持って聞いてくださる方もいれば、耳を閉ざす人、野次を飛ばす人など、様々な人がいます。

まあ関心を持って聞いてくれるにこしたことはないのですが、私は信者の獲得のためなら手段方法を選ばないデマゴーグのような福音宣教者ではないので、聖書の教える真理を歪めてまで聞き手に心地よい事を語る必要はないと思っているので、専ら聖書の教えをストレートに伝える事に専念してます。ですから全ての人が目を爛々と輝かせて聞いてくれなくてもショックを受ける事もないし、逆に聞いてくれる人がいるだけでも収穫があったと思っています。

しかし、たまに残念な人に出会う事があります。どんな人かと言うと、自分の判断は間違いないと過信している人です。この世に完全な人間などいやしないのに、自分がそれだと言うのですから、おめでたい人なのかもしれませんが、そういう類の...人は、あまり幸せな生活を送っていないようですし、自分しか信じないと言いつつ、他人に依存していたりするので、哀れとしか言いようがありあせん。こういう人は、自分の弱さを隠蔽するために強がって見せているだけなのです。

しかし、このような人は、思いのほかたくさんいるようですし、いつもそうではないにしろ、時々、そのような傾向が顔を出す人もいるようです。そこで、今日はそれに関連した聖書の言葉を紹介しようかと思います。

ソロモンの箴言に次のように書かれています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言16:25)

自分の判断を過信する者のゴールは死だというのですから、たまったもんじゃありません。でも死なないまでも手痛い経験をした事がある人はたくさんいるはずです。

私たちは、何かを決める時、絶対に間違いないと思って行為に踏み切ります。異性との交際、受験、入社、結婚など、大切な事を決定する時、考えて考えて、そして間違いないと判断して行為に及ぶわけです。しかし、結果が思わしくなかったという事が多かれ少なかれあったと思います。異性にふられることを期待して付き合おうとする人はいないだろうし、ダメな事を期待して受験や就活するバカもいないでしょう。離婚を望んで結婚するアブノーマルな人もいないでしょう。でも、結果が悪い方向に向かう事が思いのほか多いではありませんか。まっすぐなようで、破綻へと導く道があるんですよ、だから気を付けなさいよとソロモンは教えているのです。

そしたら、私たちはどうしたらいいのでしょうか。同じくソロモンの言葉に耳を傾けてみましょう。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3:5-7)

驕り高ぶらず、あくまで謙遜な態度で生きて行く事が大切だという事です。そしてそのためにもあらゆる局面で主の導きを意識するように勧めています。自分勝手な生き方では、判断も行動も安定性に欠けるからです。主を意識する者は、主を恐れます。恐るが故に悪を離れます。悪を離れるが故に善を求め得ます。善を求める者には祝福が与えられます。

自分の判断を過信せず、驕らず謙遜に生きる事が出来ますように祈ります。