過去に生きてはならない
生き方への提言

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 人はしばしば、自分の過去の失敗や屈辱、あるいは過去の栄光にとらわれて生きています。過去にとらわれて現在を見ることができず、未来に向かって進むことができない人も、少なくありません。
 過去の思い出を大切にするのは良いことですが、過去の失敗や栄光にとらわれて生きると、力強い人生を歩むことはできません。


過去の失敗にとらわれて生きてはいけない

 それについて、幾つかのことを見ていきましょう。第一に、あなたは、過去の失敗にとらわれて生きてはなりません。
 失敗をしなかった成功者はいません。私たちは失敗を重ねるたびに、一歩一歩成功に近づくのです。
 キュリー夫人は、四〇〇回の失敗を重ね、ついにラジウムの発見に成功しました。エジソンは、電球を発明するために数知れない失敗を重ねました。
 あなたは過去の失敗にとらわれ、自分を敗北者と思い込んではなりません。「失敗は成功のもと」という諺は、今日もあなたに対して何かを教えているはずです。
 あなたが、自分の失敗から何かを学ぶなら、あなたはすでに勝利と成功への近道にいるのです。
 ある体育の教師が、授業中に事故にあい、下半身不随になりました。彼は、教師の職から退かざるを得なくなりました。彼は下半身の自由と、職とを同時に失ったのです。
 「あのことさえなかったら」
 彼は何度もそう思いました。それは彼にとって、人生最大の失敗に思えました。彼はもはや、この挫折から立ち直れないように思えました。
 しかし、彼は病院の床で友人からイエス・キリストのことを聞き、信仰を抱くようになりました。彼は、しだいにイエス・キリストにおける新しい人生に、目覚めるようになりました。
 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで、あなたのおきてを学びました」(詩篇一一九・七一)
 という聖書の言葉の意味が、わかるようになりました。
 車椅子生活になった彼――星野富弘氏は、その後、短い詩を付した花々の絵を、自宅でたくさん描くようになりました。彼の詩画集は、書店で販売され、やがてベストセラーになりました。
 彼の詩画は、テレビでも紹介され、国民的話題となりました。やがて、彼の郷里には彼の絵を集めた美術館もできました。
 人生最大の失敗と思えたあの出来事も、彼をさらに充実した人生に導くための、契機となったのです。
 失敗や挫折は、しばしばあなたをより大きくするための契機となります。しかし、それらがあなたを生かすものとなるか、あるいは殺すものとなるかは、あなたの受けとめ方次第なのです。


過去の栄光にとらわれて生きてはいけない

 第二に、あなたは過去の栄光にとらわれて生きてはいけません。
 ある四〇歳代の男性が、中途採用で、車の販売会社に就職しました。彼は研修を終え、営業マンとして活動を開始しました。しかし、成績はいっこうに上がりませんでした。
 上司は、彼を喫茶店に呼んで、話してみることにしました。すると上司が気づいたことには、彼は長い研修期間を終えたにもかかわらず、ほとんど販売のためのノウハウを身につけていないのでした。
 しかも彼は、口を開くと次のように語り始めました。
 「私はじつは、以前ある会社を経営していたんです。すいぶん儲かって、その筋では有名になりました。経営セミナーで講演したこともあります。人に、『どうして事業に成功できたのですか』と聞かれると、
 『儲けようとしないことです』
 などと答えていました。けれども会社はその後、倒産。今は兄のもとに居候しているんですが、いつもバカにされるので、喧嘩がたえません」。
 彼は、昔の成功をなつかしむように語り、また今のみじめさを悔やむような表情をしました。彼は過去の栄光にとらわれて生きていたのです。
 彼は、帰りの電車賃と夕食代がないと言って、上司から二千円借り、家へ帰りました。そのお金は、その後返されることがありませんでした。数日後、彼はその会社をやめて去っていきました。
 彼は会社に就職して新しいスタートを切ったはずなのに、彼の心は未来ではなく、過去に向けられていました。
 彼は研修に身が入らず、販売ノウハウは身につかず、当然成績もあがりませんでした。そしてついに、せっかく入った会社もやめざるを得なくなったのです。
 私たちは、過去の栄光に生きてはなりません。新しい仕事をスタートさせたなら、もはや過去の栄光を語ってはならないのです。
 未来をみつめつつ、初心に帰って、新しい仕事に取り組まなければなりません。過去の挫折をバネにし、倒れたところから起きあがるのです。聖書に言われています。
 「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる。悪者はつまずいて滅びる」(箴言二四・一六)。
 昔から日本でも「七転八起」と言いますが、この考え方は聖書にもあるのです。いや、もしかすると、聖書のこの言葉が「七転八起」のルーツなのかも知れません。なにしろこの言葉は、今から三千年も前のものなのです。
 それはともかく、自分の人生に対して正しい態度をとる人は、たとえ七たび倒れても、また起きあがります。彼は過去にとらわれて生きるのではなく、現在を踏みしめ、未来に生きているからです。
 一方、過去の栄光にしがみついている人は、一度倒れると、起きあがることができません。過去に執着しているため、新しいスタートを切ることができないのです。これは自分の人生に対する悪と言わなければなりません。
 聖書には、こう記されています。
 「だれでも手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくない」(ルカ九・六二)。
 「手を鋤につける」は、仕事をスタートさせること、「うしろを見る」は、過去に生きることです。
 過去にとらわれて生きているために、仕事をはじめてからためらうなら、あなたは大きな失敗を招くでしょう。後悔しないこと、それが人生にとって大切なことです。

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過去の屈辱にとらわれて生きてはいけない

 第三に、あなたは過去の屈辱にとらわれて生きてはなりません。
 あなたが過去に人から受けた侮辱や屈辱を、いつまでも心に思い続けてはいけません。主イエスは言われました。
 「外から人に入ってくるものは、人を汚すことができない」(マコ七・一八)。
 これはもともと食物に関して言われた言葉ですが、食物以外のもの――外部から人間に入ってくるすべてのものにも当てはまります。
 外部から人間に入ってくるものは、それが食べ物であれ、侮辱や屈辱であれ、何であれ、あなたという人間の尊厳を汚すことはありません。人の内側から出るものだけが、人を汚すのです。
 「人から出るもの、これが人を汚すのです」(同七・二〇)。
 あなたを汚すことの出来るものは、あなたの内側から出てくる罪のみです。外から入ってくるものが、あなたを汚すことは出来ません。
 あなたは今まで、人から侮辱を受けたことがあるでしょうか。罵倒されたことがあるでしょうか。虫けらのように言われたことがあるでしょうか。あるいは、屈辱的行為をされたことがあるでしょうか。
 しかし、そのようなものが、あなたを汚すことはありません。それらのことは、あなたという人間の尊厳に、何の関係もないのです。ある人が、
 「神が私を愛しておられるのだから、人の侮辱は、忘れてしまえば何でもない
 と言いました。事実、そんなものは忘れてしまえば何でもありません。人の侮辱による苦々しい思いは、神の愛の前に消え去ってしまうのです。
 侮辱された記憶を、たとえ心の中に大切にしまっておいても、それは何の役にも立ちません。
 「神様、あなたが私に下さっている愛を感謝します。あなたの愛で充分です」
 と一言祈るなら、それであなたは清められます。ちょうど風呂に入って体のすべての汚れを洗い流す時のように、神の聖霊の雨が、すべての侮辱と屈辱からあなたを洗い清めるのです。


過去の罪責感にとらわれて生きてはいけない

 第四に、あなたは過去に犯した罪から来る罪責感にとらわれて生きてはいけません。
 もしあなたが、自分の罪責感にとらわれているなら、あなたの心にはきっと、苦い思いが泉のようにわきあがっていることでしょう。もしその苦い思いという〝水〟をいつも飲んでいるなら、あなたはいずれ、まいってしまうでしょう。
 苦い思いを取り去るには、どうしたら良いのでしょうか。聖書に、こういう話があります。
 神に導かれたイスラエル民族が、エジプトを脱出して荒野を放浪しているとき、ある日マラという所に着きました。ところが、そこの水は苦くて飲めませんでした。こう記されています。
 「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、
 『私たちは何を飲んだらよいのですか』
 と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった」(出エ一五・二三~二五)。
 モーセは、神に示された「一本の木」を、苦い水の池に投げ入れました。すると、その水は甘くなりました。
 あなたの心の罪責感という、苦い水の池を甘くする「一本の木」があります。それは、イエス・キリストのかかられた十字架です。

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イスラエル・ガリラヤ地方の羊飼い

 あの十字架において、キリストは、あなたや、他のすべての人々の罪を一身に背負って、身代わりに死なれました。聖書はそう言っています。キリストの十字架によって、あなたの罪は赦されたのです。
 モーセが、あの苦い水の池に投げ入れたのは、神によって示された一本の木でした。ちょうどそのように、キリストの十字架は、あなたのために神が示しておられる「一本の木」です。
 モーセはその木を、神の命令に従って投げ込みました。そのように、あなたは聖書の教えに従い、キリストの十字架を心に受け入れて、それを自分の罪責感の苦い水の池に投げ込まなければなりません。
 あなたは、キリストを受け入れますか。彼の十字架を、あなたの罪の身代わりとして受け入れますか。
 キリストは、あなたの罪のために死んでくださったのです。キリストの死を無駄にしてはいけません。キリストを受け入れて、信じるなら、あなたの罪はその場で赦されるのです。
 「子よ、あなたの罪は赦された」(マタ九・二)。
 キリストは、あなたの過去の苦い罪の記憶を、恵みによっていやし、平安に満たしてくださるでしょう。苦かった心の池は、平安と愛で甘く変えられるのです。
 これは、すべてのクリスチャンの経験です。あなたはまず、目を閉じ、あなたの罪の記憶を一つ一つ心に再現すると良いでしょう。思い出せる限り、心の中に再現するのです。
 あなたの心には、苦い水の池がわきあがってくるに違いありません。しかしそのとき、こう祈るのです。
 「天のお父様、私はこれらの罪を、あなたの御前に犯しました。それは私を苦しめています。
 いま私は、キリスト様の十字架の贖いを信じます。どうかキリスト様の尊い血潮によって、私を赦し、きよめてください。
 あなたは聖書の中で、私たちが罪を悔い改めるたら、その罪を赦し、きよめてくださると約束されました(一ヨハ一・九)。私は今、自分の罪を悔い改めます。今、あなたの御約束を信じます。
 キリスト様の十字架は、私の心にあります。私はあなたの御約束によって、赦されたことを信じます。あなたの御赦しを感謝致します」。
 あなたはキリストの十字架を信じる信仰によって、罪赦されたのです。神はあなたを赦されました。キリストもあなたを赦されました。ですからあなたは、自分自身を赦さなければなりません。
 あなたは自分自身を、神の平安の中に解放しなければなりません。いつまでも自分を罪責感の中に閉じこめてはなりません。
 あなたはもう、十字架という木を、心の苦い池に投げ入れましたか? もうそれは甘いのです。神の平安の水を飲むことです。


 

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