民族の起源

聖書の記述でわかる諸民族の起源

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ノアの3人の息子セム、ハム、ヤペテは、
大洪水後のすべての民族の先祖である

 聖書の創世記一〇章には、〝諸民族の起源"が記されています。それによると世界のすべての民族は、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから分かれ出ました。
 大洪水のときノアの箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、および彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計八人でした。現在の人類は、彼らから生まれ出たものです。
 したがって現在の人類は、すべてノアの子孫であり、またすべての民族はセム、ハム、ヤペテの三人を先祖として、分かれ出たことになります。


セム、ハム、ヤペテは全民族の父祖

 セムはおもに、ユダヤ人や中近東の諸民族の先祖となりました。またハムは、おもにアフリカ大陸や中近東の諸民族、ヤペテは欧米人やインド人等の先祖となりました。
 では東洋人・・すなわち中国人や、モンゴル人、日本人などは、誰から生まれ出てきたのでしょうか。
 それはあとで見ることにしましょう。いずれにしても世界のすべての民族は、彼らから分かれ出たのです。
 「民族」とか「人種」というと、よく知られているのが、「黄色人種、黒色人種、白色人種」という分類です。それは「モンゴロイド、ニグロイド、コーカソイド」の名でも呼ばれています。
 では、たとえば「セムは黄色人種の祖先、ハムは黒色人種の祖先、ヤペテは白色人種の祖先」と簡単に言えるかというと、必ずしもそうではありません。
 結論から言って、大体において白色人種(白人)はヤペテの子孫、黒色人種(黒人)はハムの子孫である、と言うことはできます。しかし、黄色人種はセムの子孫かというと、必ずしもそうとは言えないのです。
 「黄色、黒色、白色人種」などという分類は、単に肌の色で人類を分けた、便宜的なものにすぎません。実際には、人類はそのように単純に三つの色で区分できるわけではないのです。
 一般に、モンゴル人、中国人、日本人などの東洋人は、肌が中間的な色なので「黄色人種」と呼ばれていますが、中間色の人々は彼らだけではありません。ほかにも中近東や、東南アジアには、中間的な肌の「褐色人種」と呼ばれる人々がいます。
 したがって、「黄色人種」や「褐色人種」の場合には、多少複雑な要素がからんできます。こうしたことを念頭において、諸民族の起源について、聖書に聞いてみましょう。


セムから出た民族

 まずセムから出た諸民族について、詳しく調べてみましょう。セム系民族は、おもに中近東の地域に移り住みました。
 聖書・創世記一〇章の記事から、私たちはセム、ハム、ヤペテの系図をつくることができます。まず、セムの子は、
「エラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム」(創世一〇・二二 新改訳)
でした。

 はじめに3番目の「アルパクシャデ」から、見てみましょう。聖書によると、セムの子アルパクシャデの孫に「エベル」という人がいました(創世一〇・二四)。
 この「エベル」は、ヘブル人の先祖です(創世記一一・一四)。すなわち「エベル」から、イスラエル人とかユダヤ人と呼ばれる人々が出ました。
また聖書によると、アルパクシャデの子孫の中には、「シェレフ」「ハツァルマベテ」「ウザル」などの人々もいました。
 「シェレフ」は、アラビア南部に定住した民族です。
 「ハツァルマベテ」は、今日のアラビア半島南端の、ハドラマウト地方に定住した民族です。名前が似ているのは、この地方に移り住んだのが彼らだったからです。
 「ウザル」も、アラビア半島に移り住みました。イエメンあたりに移り住んだのです。イエメンの首都サヌアの旧名は「ウザル」であって、これは彼らの先祖の名に由来するものです。
 このようにセムの子「アルパクシャデ」からは、ヘブル人以外にも、アラビア半島に住む諸民族が出たわけです。
 セムの他の子については、どうでしょうか。

 セムの子「エラム」からは、メソポタミヤ各地の諸民族が出ました。

 セムの子「アシュル」は、メソポタミヤの北部(今のシリア)付近に定住した民族です。有名な「アッシリア」の名は、彼らに由来しています。
 しかし、歴史学の上で言ういわゆる「アッシリア帝国」がセム系だったかというと、そうではありません。アッシリア帝国の支配階級となった人々は、ハムの子カナンの子孫であるエモリ人でした。彼らはアッシリア一帯を征服し、そこの支配者となったのです。

 セムの子「ルデ」は「リディア人」(リュディア人)のことで、やはりメソポタミヤに移り住みました。リディアは、紀元前七~六世紀ごろには強国となりました。

 またセムの子「アラム」も、メソポタミヤやスリヤ(今のシリア)地方に定住しました。
 彼らの言葉「アラム語」は、紀元前一千年紀には全メソポタミヤ地方に広まり、アッシリア帝国やペルシャ帝国の公用語となりました。イエスやその弟子たちも、アラム語を話しました。
 考古学者の意見によると、紀元前七世紀に新バビロニア帝国(聖書でいうバビロン帝国)を建てた「カルデヤ人」は、今のところアラムの一派と思われるとのことです。
 そうであれば、新バビロニア帝国はセム系であったことになりますが、一方ではハム系であるとの意見もあります。メソポタミヤでは、セム系民族とハム系民族はかなり入り乱れていたので、わからない部分も多いのです。

 いずれにしても、このようにセムからは、ヘブル人やアラビア人、そのほか、中近東に住む人々が出ました。
 ただし、これは今日、中近東に住む人々がみなセムの子孫である、ということではありません。今日、中近東にはセムの子孫以外にも、ハムの子孫やヤペテの子孫も住んでいます。
 ここで述べているのは、おもにセムの子孫は中近東に移り住んだ、ということです。
 セム系の人々の肌は、だいたい黄色がかった白色か、褐色をしています。

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ハムから出た民族

 つぎにハムの子孫を見てみましょう。ハムから出た諸民族は、おもにアフリカ大陸や、中近東、パレスチナや、スリヤ(今のシリア)、また小アジア地方(今のトルコ)方面に移り住みました。
 ハムの子は、聖書によると、
「クシュ、ミツライム、プテ、カナン」(創世一〇・六)
でした。

 はじめにハムの子「クシュ」は、旧約聖書の古代訳であるアレキサンドリヤ・ギリシャ語訳では「エチオピア」です。
 この「クシュ」から、アフリカ大陸に移り住んだ民族ヌビア人が生まれ出ました。クシュの子孫のひとり「セバ」(創世一〇・七)は、エチオピアの町メロイの旧名でもあります(ヨセフス『ユダヤ古代史』二巻一〇・二)。

 つぎにハムの子「ミツライム」からは、エジプト人が出ました。ミツライムの子孫「パテロス人」(同一〇・一四)などは、今日のエジプトに定住した民族です。同じくミツライムの子孫「レハビム人」(同一〇・一三)は、アフリカ大陸北部のリビアあたりに定住しました(同ヨセフス)。

 つぎにハムの子「プテ」も、アフリカ北西岸リビア地方に移り住みました。ハムの子孫の多くは、アフリカ大陸に広がったのです。彼らはアフリカ北部から、しだいに南下して、やがてアフリカ全土に広がったでしょう。

 したがって、いわゆるニグロイド(黒人)はハムの子孫、ということになります。
 しかしハムの子孫のすべてが、アフリカ大陸に移り住んだ、というわけではありません。また、ハムの子孫のすべてが黒人、というわけでもありません。
ハムの子孫の一部は、中近東にも広がりました。
 ことにハムの子クシュの子孫「サブタ」(創世一〇・七)は、アラビア半島南端のハドラマウトに定住しました。同じく「ラマ」(同一〇・七)は、ハドラマウト北方に住んだランマニテ人(エゼ二七・二二)のことです。
 またクシュの子孫「サブテカ」(同一〇・七)は、ペルシャ湾東側の都サムダケを建設した民族、「シェバ」(同一〇・七)はアラビア半島南西部のマリブを都とする商業国の建設者、「デダン」(同一〇・七)は北方アラビア人となった人々です。ハムの子孫の中には、アラビア半島に移り住んだ人々もいたのです。
 またハムの子「クシュ」の子孫の中から、「ニムロデ」という人物が出ました。彼はメソポタミヤ地方に強大な王国をつくり、地上最初の権力者となりました。
 ニムロデの王国は、「シヌアルの地」(創世一〇・一〇)にありました。歴史学のうえで有名なシュメール地方(メソポタミヤ)のことです。彼は都市国家バベル、エレク、アカデ(アッカドのこと)を征服して支配しました。
 ニムロデの名はその後も伝説的に語り継がれ、のちには神格化されて、バビロンの守護神メロダク(マルズク)として崇められました。有名なハムラビ王(紀元前二〇〇〇年頃)の時代には、世界最高の神として祭られました。
このようにハム系民族の中には、メソポタミヤ地方や、アラビア半島方面に広がった人々もいました。さらに、次に見るようにパレスチナ地方に移り住んだ人々もいました。
 ハムの子ミツライムの子孫「カスルヒム人」は、ペリシテ人の先祖で(創世一〇・一四)、パレスチナ地方に移り住みました。「パレスチナ」の名は、彼らペリシテの名に由来するものです。彼らは、イスラエル人とたびたび戦闘を交えたので、旧約聖書にもよく出てきます。

 またハムの子「カナン」から出た民族のほとんども、パレスチナ地方から小アジア地方(今のトルコ共和国)に移り住みました。
 たとえばカナンの子孫「シドン人」(創世一〇・一五)は、フェニキヤ人となった人々です。フェニキヤ地方(今日のシリア)には今も、シドンという町があります。
 カナンの子孫「ヘテ人」は、ハッティ人のことです。彼らはのちに他民族・・おそらくヤペテ系民族に征服され、いわゆるヒッタイト王国の住民となりました。
カナンの子孫「エブス人」(同一〇・一六)はエルサレムの先住民族であり、「エモリ人」(同一〇・一六)はスリヤ(今日のシリア)に移り住んだ民族、ヒビ人はパレスチナに移り住みました。
 同じくカナンの子孫「アルキ人」(同一〇・一七)はレバノン山麓テル・アルカ近辺の住人、「アルワデ人」(同一〇・一七)は都市国家アルワデの住人、「ツェマリ人」(同一〇・一八)は都市国家ズムラの住人、「ハマテ人」(同一〇・一八)は都市国家ハマテ(現ハマ)の住人と言われています。彼らはいずれも、パレスチナや、レバノン、シリアあたりの町々の住人となったのです。

 結論としてハムの子孫は、アフリカ大陸や、アラビア半島、メソポタミヤ、パレスチナ、スリヤ(今のシリア)、小アジア(今のトルコ)あたりの地域に移り住みました。
 古代史に名立たるエジプト帝国、フェニキア人、またフェニキア人の植民都市カルタゴなどはみな、ハム系です。
ハム系の人々の肌の色は、大体において黒色から、黄色がかったうすい褐色まであります。
 ニューギニア人、フィリピン原住民、マライ半島(マレーシア)原住民、オーストラリア原住民、そのほか「東南アジア・ニグロイド」とか、「オセアニア・ニグロイド」とか言われる人々も、ハム系の血が濃いのではないか、と思われます。
 つまりハム系の人々は、かなり東の方にまで進出し、東南アジアや、ニューギニア、オーストラリア方面にも移り住んだようです。「ハム」の名は「暑い」という言葉の派生語で、実際に彼らは、おもに暑い地方に移り住んだようです。


ヤペテから出た民族

 ヤペテ系民族については、どうでしょうか。
「ヤペテ」の名は、「広い」という言葉(パーター)の派生語です。事実、ヤペテ系民族はその名のとおり、ひじょうに広い範囲に移り住みました。
 ヤペテから出た諸民族は、「白人」と呼ばれる欧米人やロシア人をはじめ、ペルシャ人、インド人などとなりました。
 聖書によればヤペテの子は、
「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス」(創世一〇・二)
 でした。まず「ゴメル」から見てみましょう。

 ヤペテの子「ゴメル」は小アジア地方(今のトルコ)や、ヨーロッパ地方に移り住んだ民族です。聖書は「ゴメル」の子孫は、
「アシュケナズ、リファテ、トガルマ」(創世一〇・三)
 であった、と言っています。「リファテ」はパフレゴニヤ人、「トガルマ」はフルギヤ人のことで(ヨセフス)、今のアルメニア人の先祖です。彼らはいずれも、小アジア(今のトルコ)に移り住みました。
 つぎに「アシュケナズ」もおもに小アジアに移り住みましたが、さらに進んでヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだようです。ユダヤ人はドイツ人を(またドイツ系ユダヤ人も)、「アシュケナズ」の名で呼んできました。

 つぎにヤペテの子「マゴグ」は、どうでしょうか。彼らはスキタイ人のことで、南ロシアの騎馬民族となりました(ヨセフス『ユダヤ古代史一巻 六・一)。

 一方ヤペテの子「マダイ」は、メデア人(メディア人)のことです。彼らはメソポタミヤにメデア帝国をつくり、のちに兄弟民族のペルシャ人と結託して、メデア・ペルシャ帝国を築き上げました。
 いわゆるアーリア人は、この「マダイ」の子孫です。アーリアの名は、メデア・ペルシャ帝国の人々が「アーリア人」と呼ばれたことから来ているのです。
アーリア人はインド方面にも移り住み、インドの主要民族となりました。したがってインドの主要民族は、ヤペテ系です。
 さらに、いわゆるゲルマン民族も、ペルシャ人と縁つづきです。つまりゲルマン民族、メデア人、ペルシャ人、インド人はすべて、ヤペテ系の「マダイ」の子孫ということになります。

 つぎにヤペテの子「ヤワン」は、ギリシャ人のことです。ギリシャ人は、ヘブル語で「ヤワン」なのです。さらにギリシャ人は自分たちのことを、イオニヤ人(ギリシャ語イヤオーン)と呼んでいました。
 聖書によるとヤワンの子孫は、
 「エリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人」(創世一〇・四)
でした。「エリシャ」は、おそらくギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人々です。
 「タルシシュ」は、スペインに移り住んだ民族でした。スペインには「タルテッソ」という港があります(ヨナ一・三も参照)。
 「キティム人」は、キプロス島に渡って、そこを占領した民族です(ヨセフス『ユダヤ人古代史』一巻六・一)。
 「ドダニム人」は、おそらく北方ギリシャ人、ダルダネア人、ドーリア人、またはエーゲ海東のローデア人です。

 つぎにヤペテの子「トバル」は、どうでしょうか。彼らは旧ソ連の中にある、グルジヤ共和国あたりに移り住みました。グルジヤ共和国の首都トビリシの名は、「トバル」に由来しています。

 ヤペテの子「メシェク」は、モスコイ人のことで(ヘロドトス『歴史』三・九四)、旧ソ連のロシア共和国付近に移り住んだ民族です。モスクワの名は、「メシェク」に由来しています。

 ヤペテの子「ティラス」は、エーゲ海周辺に移り住んだエトラシヤ人です(エジプト記録)。

 このようにヤペテの子孫は、おもにヨーロッパや、ロシア方面に移り住み、インドにも移り住みました。ですからヤペテ系民族は、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」の人々と、ほぼ同じか、ほとんど重なるものでしょう。
一般に言われている「インド・ヨーロッパ語族」とは、
〔西方系〕
  スラブ系=ロシア人・ポーランド人・ユーゴスラビア人・ブルガリア人等
  チュートン(ゲルマン)系=イギリス人・オランダ人・ドイツ人・ノルマン人
  ラテン系=イタリア人・フランス人・スペイン人・ポルトガル人
  ギリシャ系=ギリシャ人
〔東方系〕
  インド人(アーリア人)・イラン人(ペルシャ人・メデア人)
などの民族です。これまで見てきたことから考えると、大まかに言って、

  スラブ系は、マゴグ・トバル・メシェク・ゴメル
  チュートン(ゲルマン)系は、マダイ・ゴメル
  ラテン系・ギリシャ系は、ヤワン
  東方系は、マダイの子孫

 ということになるでしょう。
 ヤペテ系の人々の肌は、大体において白色から、黄色がかったうすい褐色をしています。


東洋人は誰の子孫か

 以上、あまり馴染みのない名がたくさん出てきましたが、これらの多くは、高校の世界史の教科書や参考書にものっているものです。考古学や歴史学の成果は、聖書の記述を否定するのではなく、より具体的に明らかにするのに役立っているのです。
 最後に、中国人、モンゴル人、韓国人、日本人、東南アジア人などの、いわゆる「東洋人」は一体だれの子孫なのか、という問題を見てみましょう。
この問題は、じつは容易ではありません。というのは東洋人の居住地は、バベルからきわめて遠い所にあるからです。
 バベルの塔以後、人々は世界中に離散していきました。しかしその際、中国やモンゴル方面の遠い地に移り住んだ人々は、おそらくバベルの塔以後、かなり時間がたってから分かれ出た人々と考えられるのです。
 そのため東洋人の起源をたどるのは、かなり大変です。実際、東洋人はハム系である、という人もいれば、セム系であるという人もいます。
 しかしハム説や、セム説は、強力な証拠があるわけではありません。私はむしろ、いくつかの理由から、モンゴル人や中国人、日本人などのいわゆるモンゴロイドと呼ばれる人々は、ヤペテ系であると考えています。
 その理由を述べましょう。
 中国には、「ミャオ族」(苗族)という部族がいます。じつは彼らは原始の時代のことや、自分たちの起源に関する言い伝えを持っていて、それを非常によく保存しています。
 その言い伝えは天地創造、人類創造、大昔の大洪水、また自分たちの民族の起源など、広範囲に及ぶものです。しかもその内容は、驚くほど聖書の記事に一致しています。
 彼らの言い伝えは、韻律のかたちをとっていて、次のようなものです。
「神は、天と地を創造された日に、光の門を開かれた。神は地球に、土と石で山を築かれた。また空には、天体、太陽、月などを造られた。・・・・神は地上に、ちりから人を造られた。・・・・」
 また大洪水についても、
「土砂降りの雨が四〇日間降り注いだ。・・・・水は山々と山脈を越えた」
 と述べています。ミャオ族は、聖書を与えられたユダヤ人以外の民族としては、原始のことを最も正確に語り継げてきた民族であるようです。彼らは聖書を持たず、またユダヤ人と接触したわけでもないのに、この言い伝えを原始の時代から、続けてきたのです。
 彼らの言い伝えはさらに詳しい事柄にも及んでいます。とくに注目すべきことは、その言い伝えによれば中国・ミャオ族の先祖は、ヤペテの子ゴメルである、ということなのです(詳しくは、聖書と科学の会『インパクト』一五九号参照)。
 彼らの言い伝えによると、漢族にも、ヤペテの血が入っています。こうした言い伝えを、彼らは先祖代々続けてきたのです。
 この言い伝えが真実を表すものなら、中国人や韓国人、モンゴル人などは、みなヤペテ系でしょう。いわゆる「モンゴロイド」(黄色人種)はヤペテ系だ、ということになります。
 実際モンゴロイドは、今のロシアあるいは北アジア経由でやって来た人々、と一般に考えられています。これはヤペテ系民族の散らばった方角です。
ですから、モンゴロイドがヤペテ系だとしても、決しておかしくはありません。「モンゴロイド」と「コーカソイド」(白色人種)は、ヤペテから分かれ出た二大人種に違いありません。
 そして、日本人もヤペテ系でしょう。ミャオ族すなわち苗族が、日本列島に移り住み、日本人を形成する一種族となったことはよく知られています。日本民族学のパイオニア=鳥居竜蔵博士は、日本人はミャオ族と血がつながっている、と述べています。
 ミャオ族は、日本に稲をもたらしました。「稲」にはインド型と日本型(ジャポニカ)の二種があり、日本に見られる日本型稲は中国のミャオ族から伝わったものなのです。
 博士はまた、日本人はミャオ族(苗族)のほか、漢族、アイヌ、ツングース、インドネシア族(隼人)の血をもひく混血民族だ、と述べています。
 これらの民族のうち、日本に古くから住むアイヌを除いては、いずれも典型的なモンゴロイドです。アイヌは一般に「旧モンゴロイド」とも言われていますが、彼らはコーカソイド(白人)の特徴を多く持っていることでも、知られています。
 アイヌは、モンゴロイドの特徴である〝お尻の青あざ"を持ちません。コーカソイドは、青あざを持たないのです。またアイヌの人々の肌は、一般の日本人よりも白く、多毛です。アイヌは、ヤペテ系民族の中でも、〝コーカソイドに近いモンゴロイド"と言えるかもしれません。
 こうしたことを考え合わせてみると、コーカソイドとモンゴロイドとは近縁関係にあり、ヤペテという同じ先祖から出てきた、という考えは決しておかしくはないと思われます。
 もしモンゴロイドがヤペテ系だとすれば、日本人は基本的にヤペテ系、ということになります。「ヤペテ」系民族は、「広い」を意味するその名が示す通り、世界の非常に広い範囲に移り住んだのです。

 

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