清き明き心 

http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message004.htm

 

日本人が昔から大切にしてきたこの心は、
聖書が教える心でもある。それは信仰の基本である。

 


大東亜戦争末期に首相を務めた鈴木貫太郎。
彼は、敵国アメリカのルーズベルト大統領の
死のニュースを聞いて、弔意を表す談話を発表。
アメリカに弔電を打った。


くもりなく、すがすがしい心

 日本には古来、神道(しんとう)という宗教があります。神道は、私の知る限り、世界中でユダヤ教にのみ、きわめてよく似ています。また、とくに古代ユダヤ教に非常によく似ている、といってよいと思います。
 この神道の中心的な伝統として、「清き明(あか)き心」(清明心)があります。清く明るい心と書く。くもりなく、すがすがしい心です。やましさのない、晴れ渡った心。邪心のない、二心でない、清らかな心です。神様の前にそういう心でいることが一番大切なのだ、という教えです。
 この清き明き心は、日本人が美徳とする正直、誠実、思いやり、忠実などの土台となったものです。また、卑怯(ひきょう)なことをしないなど、人間の様々な徳の基礎となるものです。私は、清き明き心という神道の教えが古来、日本人というものをつくってきたと考えています。

日本人が大切にしてきた心

 かつて一九七六年、中国で唐山大地震という巨大地震がありました。死者が数十万人出たといいますから、関東大震災の約二倍も死んだ。しかし、その本当の災いは地震のあとに始まったのです。
 被災地の近辺の農民たちが、被害者の家々を次々に襲い始めました。まだ息の絶えていない人たちを横目にみながら、彼らは次々に略奪を始めました。家財道具から腕時計まで、ありとあらゆるものを盗んでいきました。被災地には、中国の軍隊が出動しましたが、いくら銃撃を続けても、農民たちは屍を踏み越えて襲ってきたといいます。
 このようなことは中国では珍しいことではなく、昔からよくある光景だという。日本では考えられない光景ですね。ですから、かつて日本で阪神淡路大震災が起きたときに、中国文壇の最長老、柏 楊氏が、テレビで神戸の市民たちの状況を見て驚嘆したそうです。
 略奪行為が全く起きない。そして救援活動が整然とした秩序の中に行なわれていました。その光景を見た彼は、深く感動を覚えたと語りました。
 「日本人はすごい! 中国は日本に勝てない
 と彼は言いました。日本人の優しい心と、法と秩序を守る精神に、彼は舌を巻いたというのです。ここに、私たちがふだん気づかない日本人の「清き明き心」があります。
 また今から一八〇〇年近く前、三世紀に、中国で書かれた『魏志倭人伝』という本があります。中国人が当時の日本をみて、その生活や風習を記しているものです。その古代の本に、日本人は、
 「窃盗をせず、訴訟も少ない
 という記述があります。日本人が古来、穏健で道徳的な生活をしていたことがうかがえるのです。反対にいえば、それだけ中国には窃盗や訴訟が多かったということでもあります。日本では古くから、清き明き心を大切にしてきたのです。
 かつて第二次世界大戦の末期、まだ戦争が終わらない頃に、アメリカのルーズベルト大統領が病気のために急死しました。そのとき、ニュースを耳にしたドイツのヒトラーは、
 「運命が史上最大の戦争犯罪人、ルーズベルトを地上から取り除いた」
 と発表して、ドイツ国民は大喜びしました。バンザイを叫んで躍り上がった。
 ところが日本はどうだったかというと、日本の鈴木貫太郎首相は、そのときアメリカ国民に向けて、謹んで心からお悔やみ申し上げますという、弔意を表す談話を発表したのです。そして心を込めた弔電を打ちました。
 戦争中のことですよ。日本は敵国アメリカの国民に対し、深い哀悼の意を表しました。これは当時、アメリカ人に、日本の武士道精神の発露として大きな感銘を与えたのです。また当時、アメリカに亡命していた作家のトーマス・マンというドイツ人がいたのですが、彼も、
 「ドイツではみな、万歳万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵国の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ
 と言って、日本人の礼節の心に賞賛の言葉を送りました。日本には昔から、死ねば敵も味方もない、安らかに眠ってくださいという死者への弔いの気持ちがあるのです。これも、清き明き心です。

聖書の伝統でもある

 この「清き明き心」を大切にする日本の伝統は、いったいどこから来たのだろうかと、私はよく疑問に思ったものです。しかしどうもこれは、いろいろ調べてみても、中国から来たものではない。朝鮮半島から来たものでもない
 ところが、聖書にこう書いてあるのです。申命記一〇章一七、一八節に、
 「あなたがたの神、主は……かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる
 と。これは「清き明き心」の源泉ではありませんか。
 神は「かたよって愛することのない」かたである。敵でも味方でも、また善人にも悪人にも太陽をのぼらせ、雨を降らせてくださる。さらに「わいろを取らず」、私利私欲では動かないおかたである。日本の明治維新を成功させた人々をみると、どの人も、私利私欲では絶対動かない人でしたね。わいろを幾ら積んでも、ビクとも動かない。国のため、公のためでないと動かない人たちでした。
 また、神は思いやりのあるかたである。みなしごや、やもめ、在留異国人に対しても、思いやりを示すおかた。だからイスラエル人も、そのような者でありなさい、と教えられているわけです。神に似た者になりなさい。神がこのようなおかたなのだから、あなたがたも、そのような者になりなさいという教えです。
 そのために、イスラエル人の中に「清き明き心」が形成されました。
 たとえば、清き明き心は、あのイスラエルの王ダビデにもみることができると思います。ダビデが罪を犯してしまい、王位を追われ、エルサレムの山を下ろうとしていたときのことでした。シムイという男が近づいてきて、ダビデに向かって悪口と、のろいの言葉をさんざん言い放ちました。そのときダビデは言ったのです。
 「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。……たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに変えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」
 と。ダビデは、いさぎよい心を持っていました。どんな状況にあっても、晴れやかな、清き明き心でいるならば、きっと神様は私をもう一度引き上げてくださる、という信仰を持っていたのです。実際、神はダビデの清き明き心をみて、やがて彼をもう一度引き上げてくださいました。ダビデは神に対して、晴れやかな忠実さ、清き明き心を持っていました。その心は、日本人にはよく理解できるものです。


ダビデ王は、いさぎよい、清き明き心に立ち返
ったがゆえに、神によって再び高く上げられた。

 源実朝が詠んだ歌に、
 「山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君に二心わがあらめやも
 とあります。たとえ山が裂け、海が干上がってしまうような世の中が来ようと、吾が君に二心を持つようなことがありましょうか。謀反の心を持つようなことがありましょうか。いや決してありません、との歌です。二心のない、清き明き心を持って主君に仕える。それはダビデの信条であり、また多くの日本人が信条としてきたものです。
 ユダヤ人は、二心というものを嫌いました。新約聖書にも、
 「二心の人たち。心を清くしなさい」(ヤコ四・八)
 と書かれています。二心のない、清らかな、すがすがしい心が、清き明き心なのです。
 イスラエルの出エジプトの指導者モーセも、その清き明き心を持った人でした。あるときイスラエルの民が罪を犯して、神の裁きが下りました。しかしそのときモーセは、神様の前に出て祈りました。、
 「この民は大きな罪を犯してしまいました。…… 今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら……。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」(出エ三二・三一~三二)
 モーセは、自分が身代わりになってもいいですから、どうか民の罪を赦してくださいと願い出たのです。彼は熱誠の人でした。無私の人、曇りなき愛の心の人だった。清き明き心を持った人でした。
 モーセは本当に偉大な人でしたね。出エジプトの栄光のときも堂々としていました。また民が罪を犯してしまい、イスラエルがみじめな状況に陥ったときも、清き明き心を失わなかった。
 まわりの状況がどう変わろうと、彼の清き明き心、清らかな堂々とした大きな心は変わりませんでした。白隠禅師が詠んだ歌に、
 「晴れて良し 曇りても良し 富士の山 元の姿は変わらざりけり
 とあります。晴れても曇っても、富士山の美しさは変わらないと歌いました。周囲の状況に関係がない。私もそのような者でありたいと思います。日本人が、清き明き心という言葉で表してきた理想の姿というものがそこにあるのです。

幼子のように素直に神を受け入れる心

 清き明き心を大切にする点で、ユダヤ人と日本人は非常に似通っていると、私は感じます。
 また、日本人が昔から清き明き心を大切にしてきた背景には、この聖書の言葉がインナー・トーラー(内なる律法)として日本人の心の奥底に書き記されていたからではないか、とさえ思うのです。その点でも、日本人とユダヤ人は古代においてつながっていると感じます。
 日本人とユダヤ人は、その先祖に、神が深い愛を注いでくださった民族です。
 「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである」(申命一〇・一五)
 この言葉は、ユダヤ人にも日本人にも同様に言えることです。神は、私たちの先祖をこよなく愛してくださった。それゆえに今、私たち子孫も神の深い御愛の中に入れられ、「清き明き心」の伝統の中に置かれているのです。
 清き明き心は、今日ではふつう清く明るい心と書きますけれども、『日本書紀』の中では、
 「清き赤き心
 という文字を使っています。赤ちゃんの赤、赤子の赤です。ということは、これは本来「清く、また赤子のように素直な心」と、とることもできるでしょう。イエス様は、あるとき幼な子たちを見て、
 「神の国は、このような者たちのものです。……子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」(マコ一〇・一四~一五)
 と言って、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたと、聖書に記されています。赤子のように素直に天国を受け入れ、清らかに信じ、神に信頼する心、それが清く赤き心です。神が喜ばれるのは、そのような心です。


赤子のように素直に天国を受け入れ、清らかに信じ、
神に信頼する心、それが清く赤き(明き)心

 ある中国人の方にお聞きしたのですが、中国では親は子どもに何を真っ先に教えるかというと、「人に騙(だま)されるな」と教えるそうです。中国社会は人間不信の社会で、騙し騙される社会だから、人に騙されるなよと教える。賢く立ち回って、うまく世を渡っていきなさいと教えるそうです。
 しかし日本では、何と教えますか。親は子どもに「ウソをつくな」と教えますね。正直でいなさい、誠実でいなさいと、赤子の魂のときから清き明き心を教えます。また、「騙すくらいなら騙されよ」とさえ教えることがありますね。
何より、清き明き心を尊ぶ。なぜなら、そういう心が神のみこころを宿すと考えられたからです。日本神道で「清き明き心」には、神のみこころに一致した心という意味があります。神のみこころを宿す心。信仰とは、清き明き心なのです。菅原道真の句にも、
 「海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照さむ
 とあります。海でなくても、深く満ちている水の底までも清いような心には、月の光が照らすという。清き明き心にこそ、神が宿るということですね。
 新約聖書をみてみますと、かつて取税人のかしらザアカイは、イエス様を家にお迎えして、会話しているうちに清き明き心に立ち帰りました。そしてイエス様の前で立ち上がって、
 「誰からでも私がだまし取った物は四倍にして返します」
 と言いました。彼が清き明き心に立ち帰ったとき、神が彼の心に住んでくださったのです。
 また、カルバリーの丘でイエス様の両側で十字架につけられた二人の強盗のうち一人は、最後まで、恨みつらみの言葉を言っていました。もう一人の強盗も途中まではそうでしたが、イエス様の神々しさに触れて、清き明き心に立ち帰って言いました。
 「我々は自分のしたことの報いを受けているのだから、当たり前だ。……イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思いだして下さい」
 彼は清き明き心に立ち帰ったのです。そのときイエス様は、彼にパラダイスを約束されました。信仰とは清き明き心なのです
 その清き明き心が、ヤマト心(大和心)です。ユダヤ人のヨセフ・アイデルバーグによると、ヤマトは「ヤハウェの民」という意味のヘブル語(ヤ・ウマト)と同じだそうですから、清き明き心は、ユダヤの心であり、また日本の心です。
 この清き明き心が、古くから日本に伝わっていたとは何と幸いなことでしょうか。それはどこから来たのでしょうか。神社へ行って、宮司さんに、
 「清き明き心のルーツはどこにあるのですか」
 と聞いても、
 「いや、それは日本の古くからの伝統で、どこからと言ってもわかりません」
 と答えます。それほどに、これは日本人と一体なのです。しかし日本の伝統は、聖書を読むと、よくわかるのです。清き明き心のルーツは聖書だと、私は思っています。

日本文明の根幹

 清き明き心は、日本神道の中心です。土台です。ちょうどユダヤ人に「ユダヤ教」という民族宗教があるように、日本人には「神道」という民族宗教があって、清き明き心は、その日本神道から来ています。
 民族宗教とは、特定の民族に固有の宗教をいいます。キリスト教や、イスラム教、仏教などは、民族を超えた宗教なので、世界宗教といいます。それに対して、ユダヤ教は「ユダヤ人のための宗教」です。神道は「日本人のための宗教」です。これらを民族宗教といいます。
 そして、ユダヤ人におけるユダヤ教、また日本人における神道は、それぞれの民族性を形成する上で決定的な役割を果たしました。またユダヤ教と神道は、互いに非常によく似通った宗教です。
 このような決定的な影響を与えた民族宗教は、中国や韓国にはありません。中国や韓国には、仏教や儒教はありましたが、神道のような民族宗教はありませんでした。これは日本に特有のものなのです。
 サミュエル・ハンチントン教授は、その著『文明の衝突』の中で、世界を七大文明圏に分けて考えています。教授によると世界は、西欧文明、東方正教会文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、ラテンアメリカ文明、中華文明、そして日本文明という七大文明圏に分けられるという。日本だけが単独で文明圏をつくっているというのです。日本の文明は、中華世界つまり中国や韓国などの文明圏とも全く違うという。一緒にくくることはできない。
 日本人と中国人は、顔は似ているかもしれないけれども、民族性も文化も全く違うわけです。両者は同じ漢字を使ってはいますが、考え方も感じ方も全く違うわけです。
 そして日本文明というものは、ユダヤの文明と同じく、世界に巨大な影響を与えてきたのです。以前、人種差別世界を打ち壊したのが日本だと話しましたが、それも日本が与えた影響の一つです。日本人の多くは気づいていませんが、日本は世界史的な働きをしてきたのです。
 この日本の文明、またその特有の民族性を築いてきたものが、神道であり、清き明き心です。もう少し、清き明き心の実例をあげましょう。
 日露戦争中のことでした。日本軍に捕まったロシア人捕虜の収容所が、四国の松山にありました。そこには約六〇〇〇名のロシア人捕虜が収容されていました。そのとき、県は、
 「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情をくみとり、一時の敵愾心(てきがいしん)にかられて侮辱を与えるような行動はつつしむこと
 と県民に訓告していました。この松山に来た捕虜の大半は、傷病兵でした。彼らに対し赤十字の医師や看護婦らは、懸命に治療と看護に当たりました。手足を失った者には、当時の皇后陛下より、義手や義足が贈られました。
 当時捕虜だったF・クブチンスキー氏は、日記にこう書き記しました。
 「敵国でこのようなやさしい思いやりを予期したであろうか……。医師や看護婦の献身的な心配りは、真の人間愛の表れである。それは神聖にして不滅のもので、キリストの愛と名づけられるものである」
 もちろん、当時そこで看護に当たった医師や、看護婦たちのほとんどはクリスチャンではありませんでした。しかし彼らは、日本に伝わる「清き明き心」に従って、行動したのです。その行動は、ロシア人捕虜の目には「キリストの愛」があふれたものに映りました。


日本で亡くなったロシア兵捕虜たちは、
今も松山の墓地に手厚く葬られている

 「あなたがたの神、主は……かたよって愛することなく……在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」
 との聖書の御言葉が、インナー・トーラーとして日本人の中で生きていたのです。
 当時、ロシア軍といえば、占領した地域を略奪し、強奪の限りを尽くした強盗のような野蛮な軍隊として恐れられていたものです。しかしそのロシア軍にいたロシア兵が、日本に捕らえられて、捕虜収容所でみた日本人たちの姿は、まったく別世界のものでした。
 キリストの愛を持っているように見えた。その秘訣は、清き明き心だったのです。これは神から来たものです。

敵の忠魂碑さえ建てる心

 また日露戦争後の明治四〇年、日本政府は、戦死したロシア兵たちのための忠魂碑を建てています。慰霊のための碑、慰霊碑ですね。まず敵兵のために碑を建てた。そしてその二年後に、戦死した日本兵のための忠魂碑を建てています。
 ロシアの戦死者たちのためのその碑は、旅順の二〇三高地の東側の山の麓にあります。山口県からわざわざ大理石を運び、非常に大きなロシア正教風のチャペルと共にそこに建てました。除幕式にはロシア側も呼んで、日本の乃木大将も参列しました。ロシア人は非常に感激して、
 「いままで世界の歴史において、敵の忠魂碑を建てた国は日本が初めてである
 と、みな感涙にむせび、ロシア語で「ウラー」(バンザイ!)と叫んだといいます。


203高地にあるロシア兵のための忠魂碑。
敵の慰霊のために忠魂碑を建てるという文化が日本にある。

 こういう歴史は、日本では昔からあるのです。たとえば鎌倉時代に、モンゴル軍が攻めてきた「元寇」がありましたね。そのときモンゴル軍にもたくさんの戦死者が出ました。モンゴルと一緒に来た高麗軍にも、また日本の武士たちにもたくさんの戦死者たちが出ました。そのとき、北条時宗は、戦死した敵味方を弔うための寺を建てました。それが鎌倉の円覚寺です。
  またその後、楠木正成が後醍醐天皇を奉じて兵をあげて、鎌倉勢と戦ったことがあります。大阪の赤坂村という所に行ってみると、そこに楠木正成が建てた墓があります。味方の墓と、敵の墓が並んで建っている。味方の墓は「味方塚」と書いてありますが、敵の墓は「寄せ手塚」と書いてあります。敵とは書いていない。そしてなんと、その敵の墓の方が大きくて立派です敵も死ねば、味方あるいはそれ以上に弔うという気持ちが、日本人の心だったのです。
 私は日本を思うとき、一体このような民族がいったい他にあっただろうかと思います。何という清き明き心だろうか。わけ隔てしない。偏って愛することをしない。日本文明というのは、そういうところから生まれてきたのです。
 また、かつて幕末の時代に駿河湾沖で、政府軍と幕府軍の船が戦ったことがありました。そのとき、幕府軍の船は敗れて、沈没しました。しばらくして、駿河湾にその戦死者たちが打ち上げられました。政府軍からみれば、幕府軍の戦死者たちは賊軍でした。しかしそのとき、戦死者たちを集めて丁重に葬ったのが、清水の次郎長です。彼は実在の人物で、本名を山本長五郎といいますが、
 「死んでしまえばみんな仏じゃないか、野ざらしにするなんてとんでもねぇ」
 と言って、彼らを丁重に葬ったのです。死人に対して温情を示す日本の文化がそこにあります。旧約聖書のルツ記に、ナオミがボアズのことを聞いてルツに言った言葉として、
 「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように」(二・二〇)
 と記されています。ユダヤ人は、神は「生きている者にも死んだ者にも御恵みを惜しまれない」かただと理解していたのです。神は生者にも死者にも温情のあるかたである。だから私たちユダヤ人も、生者にも死者にも温情のある者とならなければならない、という観念がありました。
 同様に日本にも、古来、生者にも死者にも温情を示す風習が伝わっているのです。これも清き明き心の表れと言ってよいでしょう。日本人には、一種のインナー・トーラーがあるとしか思えません。このように日本の伝統は、ユダヤ人、また聖書の教えに不思議にも深くつながっているのです。