序論
どの信者も霊的な結合においてキリストに結びついていることは、聖書の明白な教えである。この論題(this locus)は、主観的に適用される救拯論の他のすべてを包含するゆえに、神学者たちは、キリストとの結合が体系の中で、どこに置かれるべきかに関して違いがある。ブレッキンリッジ(Breckinridge)のようなある者たちは、それを再生の扱いの前に置く。キリストとの結合は、いろいろな論題(the various loci)のどれとも結びつけられる。これを行うため、人は、キリストとの結合を再生、義認、聖化の下に扱うであろう。この著作においては、キリストとの結合は、包括的で、クライマックス的な論題(a comprehensive and climatic locus)のものとして、一連の最後に置かれる。
わたしたちのキリストとの結合の根拠は、恵みの契約に見い出される。この契約は、キリストの血によって批准され、証印され、その血は、契約の条件を満たす手段として流された。その結果、贖罪の適用のすべてのステップは、その源泉と基礎を究極的にはキリストとの契約的結合(the covenant union)に見い出し、また、贖罪の適用のすべてのステップは、その目標を、契約的結合において意味されるすべての完成に持つのである。このことは、贖罪の適用は、キリストとの結合の一つの局面における基礎に見い出し、また、その目的として、キリストとの結合の他の諸局面から生じる多様な益の実現を持つのである。キリストとの結合は、それゆえ、贖罪の適用のすべての要素を結び合わせる包括的な範疇なのである。キリストとの結合は、すべての救拯論の中心的な真理(the central truth)である。わたしたちは、契約的で、霊的で、生命的なキリストとの結合を通して、キリストによって買い取られた贖罪にあずかるのである。聖書は、この結合を、神の目的とその実現の両方において、救済的な関係のことごとくの局面を包含するものとして、提示するのである。キリストとの結合は、栄光における完成に至る主権的な目的と選びから、救いの話題の全体を覆うのである。
わたしたちが、天地の造られる前から、行いによってでなく、神御自身の目的と、恵みによって選ばれたのは、キリストにおいてであった。それは恵みであった(エフェソ1:4、テモテ二1:9)。わたしたちは、キリストから離れて救いはないという真理を省察してきたが、しかし、事実は、彼の外に選びはないのであり、彼はことごとくの祝福の源泉である。最初の思想はキリストにおける選びであり、第二の思想はその実現である(エフェソ1:6、7)。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」。ここに、わたしたちは、選民は、彼の死、彼の葬り、彼の復活において、また、神の右への高挙において、キリストに結びついているという新約聖書の糸(the strand of the New Testament)を見い出すのである。彼らは、今や、すべてのことにおいてキリストに結びついているので、彼は客観的に贖罪的な実現において行ったのであり、彼らは彼において命を持つのである(ローマ6:1-11、7:4、ガラテヤ2:20.エフェソ2:5、6、コロサイ3:1-2)。
再び、その多様性のすべてにおいて贖罪の適用について語ると、わたしたちもキリストにいる(in Christ)と言われる。パウロは言う。「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1:6)。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(1:13)。わたしたちの再生は、彼において起こる。というのは、わたしたちが新たに造られたのは彼においてである。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)。クリスチャンの生活と行動が起こるのは彼においてである(ローマ6:4、コリント一1:4、6:15、テサロニケ一4:4-16)。信者が死ぬのはキリストにおいてであり、また、彼らが栄光を受けるのはキリストにおいてである(ローマ8:17)。
Ⅱ.教理の形成
A. 契約的結合あるいは代表的結合(a federal or representative union)
キリストとの結合は契約的で、代表的な結合である。この結合の局面があることにおいて、常に少しの混乱がある。それは、贖罪の適用に厳密には属していない。贖罪の適用よりも永遠に以前のことである局面があるし、また、わたしたちが扱っているキリストの結合があり、そして、それについてのこの局面を扱わねばならないのが、ここである。わたしたちは、もし、わたしたちが、実際の適用におけるキリストとの結合に先行し、また、その源泉であるキリストとの結合のそれらの諸局面の背景を持たないならば、贖罪の適用において実現されるキリストとの結合のそれらの諸局面についての何の適切な結びつきを持つことができない。
このことを最も包括的に設定している個所が、コリント一15:19-49とローマ5:12-21である。この個所において明確に述べられている真理は、アダムが全人類の代表であり、公的な資格で行為したように、キリストも新しい人類の頭を構成し、新しい人類に言及する代表的な資格において行為するのである。キリストは第二の、また、最後のアダムである。彼は、性質(nature)に関して、第二の人と最後のアダムではなく、職務に関してである(office)。唯二つの姿が人間との関係の類において立つのである。アダムの前には誰もいない。これらの範疇においては、アダムとキリストの間に誰もいない。最後のアダムと称されるのは、キリストの後に誰もいないかrである。このことが、契約的なあるいは代表的なキリストの頭性(the Federal or Covenantal headship of Christ)のなのである。
すべてのクリスチャンたちがこのことを主張するが、しかし、すべてのクリスチャンたちがこの意味を受け入れるのではない。契約神学が行うことは、神が二つの契約下において人間と持つすべての関係を解釈することである。わたしたちは、わたしたちが最初の契約の頭との関係ゆえに死に、こうして、すべてが死ぬ。わたしたちは、わたしたちが第二の契約の頭との関係ゆえに生き、こうして、すべてが生きる。これらの二つの契約の視野は、数量的に同一ではないが、しかし、それらはこの点において類似している。死ぬ者はすべてアダムにおいて死ぬのである。キリストにある者はすべて生かされるのである。
キリストとの契約的結合は、論理的にも時間的にも贖罪の実現に、そして、その適用に先行する。キリストが世に来て、死に、再び復活したのは、この契約の頭としてまた保証人として、すべてその目的の確保のためである。彼が、今や、神の右に座し、仲保者的な預言者、祭司、王の職務を遂行するのは、契約の準備の実行においてである。キリストが御自分の民に持ち、その根拠において聖霊が神の民のすべての実際の救いを主導し、継続し、完成させるのは、この契約関係においてなのである。
B. キリストとの霊的結合
キリストとの結合は霊的でもある。これが、贖罪の適用と共に始まる結合の局面なのである。前半の局面(the former aspect)は、贖罪の適用によって始められるのではなく、その下に持ち越されるのである。
1. この霊的結合の根は、選びにある
エフェソ1:4と11およびテモテ二1:9において、わたしたちは、神はわたしたちをキリストにあって選んだと言われていることを見る。キリストにあることと選びは、不可分なのである。それらは二つの異なった事柄であるが、とはいえ、密接に結びついている。選ばれることをキリストにあることであるが、とはいえ、二つの事実は同義語ではないのである。
2. この結合の絆は聖霊である
「キリストと彼の民の間の最も重要な絆は、御霊である。しかし、結合は相互的であるので、結合を完成するためには、彼らの側において、何かが必要であり、そして、これは信仰である」(John Dick,Lectures on Thelogy:Oxford:David Christy,1838、p.362)。「信者たちの霊魂において、聖霊は異なった働きを示す、どの被造物においても、また、すべての被造物においても、すなわち、彼が人間イエス・キリストにおいて行使するのと同じそのようなものとして、それによって聖霊は、被造物を神のすべての充満で満たすのである」(Robert L.Dabney,Systematic Theology,
op.cit.p.614)。「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」(コリント一6:17)。「というのは、一つの霊によってわたしたち皆が一つの体になるために洗礼を受けたのである」(コリント一12:13)。「皆一つの霊を飲ませてもらった」のであり、それは、言わば、「一つの霊、聖霊に結ばれたのである」。キリストと信者たちの間の存するこの結合の絆は聖霊である(ヨハネ一3:24、4:13、ローマ8:9-11)。このことは、ヨハネ一3:24においてまとめられている。「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」。
3. 霊的結合の性質
わたしたちは、その結合は、霊的な関係性の領域に属することを理解している。それは、神の人格において見い出されるような本質の同一性(a union of identity of essence)ではなく、キリストの人格に見い出される二性一人格的な同一性(a union of hypostatical identity)あるいは一つの性(oneness)ではない。わたしたち自身の区別される人格性あるいは個人性の抹消の見解において持つ結合ではないのである。霊的結合は、単なる道徳的な同情の結合でもなく、あるいは道徳的な感情の結合でもなく、あるいは愛情の(of affections)、あるいは精神の、あるいは心の結合でもない。諸目的の人間の共同体における人間的な存在の間にしばしば存するようなものではない。霊的結合は、これらの意味のどれにおいても理解され得ないのである。
C.生命的結合
その結合は、生命的結合と言われる。何故なら、その結合はぶどうの木と枝の間に存する結合に類似するキリストから信者への命の賜物を包含するからである(ヨハネ15:4)。イエスは、ヨハネ14:19において、そのたとえを使わずに、同じことを語っている。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。再び、使徒は、ガラテヤ2:20において言う。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。霊的結合が神秘的であり、わたしたちによって、まさに十分に理解し尽くされ得ないように、霊的結合は性格において神秘的である。このことは、わたしたちの十分な理解力あるいは説明を超えている。わたしたちは、霊的結合は声明を与える、また、生命的であると言えよう。何故なら、キリストがそのように言うからである。
D. 神秘的結合(mystical or mysterious union)
1.隠されていたが、今や啓示された神秘
キリストとの結合は、3つの意味において、神秘的(mystical or mysterious)と言われよう。最初に、神秘的(mystical)は、何か曖昧でわけのわからないもの(something vague and unintelligible)の意味において取られるべきではない。神秘的(mystical)は、彼らが理性思考に関わらないとき、ときどき人々に突然襲いかかる(overtake)何かの非理性的な感情(some irrational emotion)ではない。むしろ、新約聖書においては、神秘的(mystical)は、偉大な神秘(a great mystery)として語られている。「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェソ5:32)。コロサイの信徒への手紙において、パウロは、この同じ神秘について語っている。「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ1:26-27)。
これらの2つの個所において見られる「神秘的」(mystical)という言葉は、2つの異なった事柄を意味する。それは、「神において隠されていた」(hid in the mind of God)と「啓示によって明らかにされた」(revealed to men by revelation)を意味する。ローマ16:25において、わたしたちは、次の叙述を見出す。「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」。それは世々にわたって隠されていた、しかし、今や、それは現されて、すべての人に知られるようになったのである。
何故、キリストとの結合は、神秘(a mystery)と呼ばれるようになったのかという疑問が問われよう。その理由は、おそらく、キリストとの結合が、特権の頂点を表し、人間の子供たちに与えられる祝福の冠であるからである。父なる神との結合、子なる神との結合、聖霊との結合は、その最高の行使において、真の宗教の本質である。それは、真の宗教の真髄である。このまじわり実現されるのは、キリストとの結合の教理においてである。キリストとの結合を明確に述べ、あるいは、キリストとの結合を具現する他の特別な祝福が何もないからという方法において、キリストとの結合は、それゆえ、神の愛と慈しみを表すのである。
2.わたしたちの理解力を超える意味において神秘的(mystical)である
その結合の神秘的な性格の第2の意味は、その結合は、余すところのない人間の理解力の力を超えるという事実である。その結合は、もちろん、啓示の主題であり、それゆえ、信者の理解の対象である。しかし、その結合は、祝福の冠であり、与えられる特権の頂点であることをまさに表すように、その結合は神の恵みの超越的な神秘を表すに違いない。その結合は、神的謙遜の富の不把握性浮き彫りにするのである。
わたしたちは、ヨハネ14:23のような個所におけるその結合の神秘的局面に直面する。「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』」。まさに、神が如何にして、わたしたちを神の住まいに住まわせるかは、わたしたちの理解力を超えている。無限の永遠の神がわたしたちの内に住んでくださることは、信じられないことである(beyond belief)。とはいえ、これが聖書が言うところなのである。再び、ヨハネ17:20-23は次のように読む、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」。
再度、ここでの思想は、わたしたちの理解力を超える何かである。キリストとの結合は、神の内に(within the Godhead)ある結合に比べられ得るか。わたしたちは、キリストとのわたしたちの結合を、神における三つの人格の結合に同じレベルで語れるだろうか。聖書は、わたしたちが、その結合の性質を十分説明できなくてさえも、まさにこの保証(just this warrant)をわたしたちに与えるのである。
聖書には、この結合の性質について語るために与えられている他の類似の個所がある。たとえば、ヨハネ3:29において、イエスは、夫と妻の関係について語っている、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。使徒は、教会を人間の体、また、体の各部分にたとえて、体のたとえを用いる(コリント一6:15-20、12:20-27、特に12-14、エフェソ4:25、5:28―30)。イエスは、その結合をぶどうの木への枝の結合でたとえている(ヨハネ15:1-5)。無生物の世界において、その結合は石と建物の結合にたとえられている(エフェソ2:20、ペトロ一2:6)。
もし、わたしたちが、上記の順序を逆にするならば、わたしたちは、次のように上っていく順序を構築できる。最初に、石と建物の物理的な結合、それから、植物と枝の有機的な結合、そして、それから、結婚関係の人格的結合、そして、最後に、神の人格の結合にたとえられる。この最後のレベルまで、すべてが被造物の領域にあるものにたとえられている。真に、これは最も驚くべき特筆すべき教理であり、わたしたちの理解力を超えるのである。
類似の非常に多くの多様性は、ここで、結合(the unity)の複数性について、わたしたちを教える。これは、神の諸属性の偉大な多様性から、また、神の人格から(from the Persons of the Godhead)、すべては一人の神からから引き出される。キリストと一つである信者たちの多様性がある。わたしたちの主は、創造された現実(the crated reality)のいろいろなレベルにおいて存在する類似を認めながら、キリスト御自身とわたしたちの結合をこれらのいろいろな異なった仕方でたとえ、こうして、結合の複雑性(the complexity)を意味したのである。
わたしたち自身をこの仕方でたとえることは、絶対的な同一性と混同することではない。こうして、一方においては、わたしたちは、夫と妻、頭と体などのように、わたしたちが、キリストと持つ結合を創造された類似の何かと同一視するのではないように、わたしたちが、三位一体内の結合を、わたしたちがキリストと持つ結合と同一のものとすることではないのである。もし、人が、類似と同一(analogy and identity)を区別することに失敗するならば、そのとき、わたしたちは、クリスチャンたちを神の命に組み入れれたものとして語る誤りに陥り、こうして、創造者-被造物の区別を消し去ってしまう。こうして、教会をキリスト御自身と同一視して、教会を受肉の継続として語るとき、この種の誤りをした者たちがローマ教会の中にいる。
わたしたちは、聖書がわたしたちとキリストとの結合について語ることにおいて使用する類似を同一性にまで高めないように、わたしたちは注意しなければならな
いけれども、他方、わたしたちは、キリストと彼の民の間には非常に親密で分離できない結合があることに注意しなければない。それは、神がやって来て、神の民と共に住み、神の民にいてくださる結合なのである。神はわたしたちを神の住まいとしてくださるのである。わたしたちは、生ける神の神殿なのである。真にこのことは、わたしたちがほとんど理解し尽くせない神秘であり、それ自身において冠であり、選民に対する祝福の頂点(the apex)なのである。
3. 真のキリスト教神秘主義(a proper mysticism)
キリストとの結合が神秘的と言われる第三の意味は、まじわりから流れてくる信仰と愛のまじわりがあることの事実から生じる。用語のこの意味において、真のキリスト教神秘主義がある。この点において、わたしたちは、キリスト教信仰とキリスト教神秘主義の真の理解とは無縁の神秘主義の名の下に行く多くものとの間に区別の鋭い線を引かねばならない。一方においては、キリストとのこの神秘的な結合とまじわりを欠く信仰は、キリストの信仰ではない。そのようなまじわりに包含される信仰は、単に真理の承認にではなく、それは高挙され、そして、常に臨在する贖い主との生きたまじわりなのである。すなわち、それは、意識的経験の最高のレベルにおけるまじわりである。信仰は、その本質において、人格の関係であり、諸命題の受け入れではない。それは、諸命題を包含するが、しかし、その本質は、結合と愛のまじわりなのである。
わたしたちの性質における罪の残存ゆえにわたしたちが陥る危険は、結合を不適切な親しさとして受け入れることであり、それは前提となり、また、それは、今度は、真実なキリスト教の敬虔に死の打撃を与える。真の信仰は、この地上におけるわたしたちの最も親しく最も親愛なる友人あるいは関係よりもわたしたちにより近くにいますお方であるキリストとの日々のまじわりの維持を包含するのである。適切に理解されれば、キリストとの結合の教理は、真の敬虔への最大の推進力なのである(the greatest impetus to true piety)。
F.分離できない結合(an indissoluble union)
聖書の証言は、キリストとのわたしたちの結合は、一度結ばれると、分離できない趣旨のものである。イエスは教えた。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6:39)。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:28-30、ヨハネ一17:23、ローマ8:28-30)。これらの個所はすべてキリストと彼に与えられた者たちの間の関係性の永遠性を意味している。
この結合が分離できないかどうかに関する疑問を起こすかもしれない一つの個所が、ヨハネ15:2において見い出される。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。この個所について問われる義者は、「わたしにつながっている枝はみな」である。これは、わたしたちが語ってきた霊的で、生命的で、神秘的な結合に言及しているか、あるいは、結合の他の類言及しているかである。イエスは、ヨハネ8:31において言った。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」。この節の最初の部分は、イエスを信じたユダヤ人たちに語っている。これらの人々は、ある意味で、彼の弟子たちであり、彼に従う者たちであった。しかしながら、彼は、真に彼の弟子たちであった者たちと名だけの弟子たちの間に区別をしている。区別の線は実を結んでつながっていることである。救いに至る真実な信仰の判断基準は継続(its continuance)なのである。救いに至る真実な信仰の判断基準は、1回の決断によってなされて、その後、忘れられた1回の行為でないのである。救いに至る真実な信仰の判断基準は、終わりまで継続していくのである。
真のキリスト教信仰は、継続していく信仰である。それは、堅忍する信仰である。それは、実を結ぶ信仰である。それは、信仰の単なる外面的な結合ではなく、心の内面的な変化とキリストとの結合を包含するのである。キリストと結合する信仰は、本当に実を結ぶ信仰であり、また、キリストとの霊的結合に生命的である信仰だけなのである。イエスがハネ15章において強調するところのことは、実を結ぶことの必要性であり、また、実を結ぶ者たちは切り捨てられないという事実なのである。
キリストとの結合の真理は、救拯論論の中心的真理なのである。キリストとの結合は、特権の頂点であり、人々に与えられる祝福の冠なのである。わたしたちが持つまじわりは、キリストとの結合なのである。神とのまじわりは真の宗教の冠なのであり、神を愛する者たちのために神が備えたすべての完成(the culmination)なのである。これが、神が創世記17:7で「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」と告げられたことなのである。それは、新約聖書において、神がやって来て、神の民と共に住むと言われているとき、究極的な完成と見られているものである。創世記のこの告知から黙示録の終わりまでの聖書の啓示のすべては、神と神の民の結合の主題の展開にすぎないのである。神の民のためになされたすべてのことは、キリストの謙卑、苦難、死、葬りのすべてが、神の民に適用され、そして、キリストとの結合において抱かれるのである。神の子供たちであることの栄光の広がりをより包括的に表現する真理は他にないのである。
わたしたちは、特に、それがわたしたち自身の本人の生き方に適用され、そして、他の人々の御言葉の奉仕に召される者たちに適用されるとき、この偉大教理を敢えて忘れたりはしない。正統派であることを主張する者たちでさえもそのようにしばしばしる印づける冷淡さ(the coldness)は、この偉大な教理の理解の欠如にあるのである。それゆえ、この教理は、長い瞑想と研究に豊かに報いるのである。
解説
「第35章:キリストとの結合」の紹介が終わったので、6点の解説をする。第1点は、キリストとの結合の教理の扱い方である。スミスも述べているように、キリストとの結合は、包括的な教理で、選び、有効召命、義認、聖化、堅忍、信仰の確信、栄光化、すなわち、救いの秩序、救拯論の初めから終わりまでのすべてのことと深く関係する。すなわち、キリストとの結合がなければ、これらのことはすべて成り立たたないからである。さらに、換言すれば、キリストとの結合がなければ、救いそのものが成り立態たないのである。まさに、キリストの外に救いなしである。
そこで、問題は、キリストとの結合を救いの秩序、救拯論のどこに置くかである。また、キリストとの結合を、1章を設けて扱うかどうかである。これは、改革派神学者においても分かれるところである。たとえば、ベルコフ(1873-1957)は「組織神学」(Systematic Theology)において、キリストトとの神秘的結合、有効召命、再生、回心、信仰、義認、聖化、聖徒の堅忍という順序で扱い、救いの秩序の一番先にキリストとの神秘的結合の1章を置いている。しかし、オールド・プリンストンのチャールズ・ホッジ(1797-1878)は、「組織神学」(Systematic Theology)において、特に1章を設けずに、義認論と聖化論において論じている。しかし、彼の息子のA.A.ホッジ(1823-1886)は、「神学概論」(Outlines of Theology)において、有効召命、再生、信仰、キリスと信者の結合、悔い改め、義認、子とすること、聖徒の堅忍の順序で、信仰の後に1章を設けてキリストと信者の結合を論じている。ちなみに、岡田稔先生(1902-1992)は、「教理学教本」において、オルド・サルチス論、神秘的結合の教理、再生と有効召命、回心(信仰と悔い改め)、義認の教理、聖化の教理、子にすることの教理、聖徒堅忍の教理の順序で扱い、ベルコフに倣って、救いの秩序、救拯論の先の部分で、1章を設けて論じている。スミス自身は、キリストとの結合は包括的で、クライマックス的概念なので、救いの秩序、救拯論の最後の部分で扱う仕方をしている。
こうして、キリストとの結合については、いろいろな扱い方があること知っておけばよいと思う。なお、スミスが挙げているロバート・ジェファーソン・ブリッケレッジ(Robert Jefferson Breckinridge)(1880-1871)は、マメリカの長老派の神学者の一人であった。
第2点は、スミスは、キリストとの結合の根拠について述べ、キリストとの結合の根拠は、恵みの契約に見い出されることを語る。というのは、キリストが恵みの契約の頭、代表として、選民に救いを与えるために、十字架の死と復活によって、救いを備えたが、その救いは、聖霊によって選民に適用される。その適用には、有効召命から栄光化に至るまでのすべてのことが、キリストとの結合なくしては成立しない。それゆえ、聖霊による適用のみわざであるキリストとの結合は、キリストによる救いと共に恵みの契約を基礎、根拠としていることを、スミスは語る。恵みの契約なくしては、キリストの死と復活によるによる救いも、そして、、また、その救いの適用であるキリストとの結合もないからである。また、キリストとの結合は契約的結合なのである。わたしたちは、ローマ5:12-21のアダム・キリスト論で明言されているように、新しい人類の頭を構成し、新しい人類に言及する代表的な資格において行為する恵みの契約の頭、代表としてのキリストに結ばれているのである。コリント一15:19-49の言い方にしたがえば、第二のアダム、また、最後のアダムである恵みの契約の頭、代表のキリストにつながるのである。聖霊がキリストによる贖罪を選民に用して、キリストを結合させ、救いを得させ、継続し、完成させるのは、この契約関係においてなのである。
第3点は、キリストとの結合は霊的結合であることについてである。スミスは、キリストとの結合の根は、永遠からの選びにあることを語るが、キリストの贖罪の適用と共に始まるキリストの結合は、この世のどの結合、結びつきとも異なる聖霊の働きによる霊的結合であることを明らかにする。すなわち、キリストとの結合は、三位一体の父・子・聖霊の結合と異なるし、また、キリストにける神性と人性の結合とも異なるし、また、この世の人間世界におけるある意味での類似はあっても、しかし、どの結合とも異なる。何故なら、キリストとの結合は、しばしば神秘的結合とも言われるように、わたしたちの理解力を超えるからである。その結合は、キリストが信者たちに住み(dwells)、また、信者たちがキリストに住む(dwells)結合なのである。しかし、だからと言って、まったく理解不可能なものではない。あるところまでは理解し、十分確信できるものである。また、その結合は、ヨハネ15:4で言われているように、生命的結合と言われる。何故なら、その結合はぶどうの木と枝の間に存する結合に類似するキリストから信者への霊的命の賜物を包含するからである。
第4点は、神秘的結合の三つの意味についてである。スミスは、キリストとの結合は神秘的結合であることの三つの意味をさらに挙げて、キリストとの結合の性質について語る。一つ目は、神秘的とは、何か曖昧でわけのわからないものの意味において取られるべきではなく、隠されていたが、今や啓示された意味に取るべきことを、コロサイ1:26-27の「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」を引用して、スミスは述べている。
そして、神秘的の第二の意味は、先に述べたことであるが、当然、わたしたちの理解力を超える意味において神秘的である。しかし、キリストとの結合は、神の啓示が教えることであ、、また、啓示そのものであり、それゆえ、わたしたち信者の理解の対象であるので、わたしたちは聖書が教えているところまで理解することを熱心に求めていくのである。ヨハネ14:23で、キリストは「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と言われたが、神が如何にして、わたしたちを神の住まいに住まわせるかは、わたしたちの理解力を超えているし、無限の永遠の神がわたしたちの内に住んでくださることを、わたしたちは理解し尽くせない。しかし、わたしたちは信じることができるし、この世の類似であるところまで理解できて、十分信じて、十分確信できて、喜びに満たされることができる。
では、神秘的の第三の意味は何か。すると、スミスは、真のキリスト教神秘主義の意味で神秘的と言う。すなわち、キリストとの結合は、単なる命題の知的承認ではなく、常に臨在してくださる贖い主キリストとの生きたまじわりであることを述べる。キリストとの結合、それは、キリストとのまじわりであるが、それは、わたしたち信者の意識的経験の最高のレベルにおけるまじわりなのである。信仰は、その本質において、人格関係であり、人格関係の本質は、結合と愛の喜びのまじわりなのである。
第5点は、キリストの結合は、分離できない結合、永遠的まじわりであることを、スミスは語る。キリストとの結合は、一度結ばれると、分離できないものであり、また、何ものも奪うことができない永遠のまじわりであることを、スミスは、ヨハネ10:28-30の「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」を引用して述べている。
第6点は、キリストとの結合の大切さと豊さについてである。わたしは、スミスのこの「キトストの結合」を読んで喜びがあふれた。キリストの結合について、まるで初めて知ったかのような、初めて学んだかのような強い印象を魂に感じた。考えてみると、「キトストの結合」については、神学生のとき、組織神学の教科書であったベルコフの「組織神学」(Systematic Theology)において、「キリストとの神秘的結合」で学んだはずであるのに、どうしてかと思う。わたしの年齢と関係しているかもしれない。というのは、今年の3月1日で、わたしは75歳になり、いわゆる後期高齢者になり、自分の年齢をいうものを強く感じるようになり、これからのことを思うと、ますますキリストにしっかり結びついていなければと意識するようになっているので、今回のキリトとの結合が自分の魂に強く響いてきたのかもしれない。いずれにしても、このキリストとの結合はわたしの信仰に大きな益となった。キリストとの結合を紹介し、解説できて本当によかった。
なお、スミス自身も、このキリトとの結合の大切さと豊かさを何度も意識的に強調している。スミス自身の言葉を集めてみよう。「キリストとの結合は、包括的で、クライマックス的な論題のものとして、一連の最後に置かれる」。「キリストとの結合が、特権の頂点を表し、人間の子供たちに与えられる祝福の冠であるからである」。「キリストとの結合は、それゆえ、神の愛と慈しみを表すのである」。「その結合は、祝福の冠であり、与えられる特権の頂点であることをまさに表すように・・・」。「真に、これは最も驚くべき特筆すべき教理であり・・・」。「それ(キリトとの結合)は、神がやって来て、神の民と共に住み、神の民にいてくださる結合なのである。神はわたしたちを神の住まいとしてくださるのである。わたしたちは、生ける神の神殿なのである。真にこのことは、わたしたちがほとんど理解し尽くせない神秘であり、それ自身において冠であり、選民に対する祝福の頂点(the apex)なのである」。「それは、意識的経験の最高のレベルにおけるまじわりである」。「適切に理解されれば、キリストとの結合の教理は、真の敬虔への最大の推進力なのである」。「キリストとの結合の真理は、救拯論論の中心的真理なのである。キリストとの結合は、特権の頂点であり、人々に与えられる祝福の冠なのである。わたしたちが持つまじわりは、キリストとの結合なのである。神とのまじわりは真の宗教の冠なのであり、神を愛する者たちのために神が備えたすべての完成(the culmination)なのである」。「創世記のこの告知から黙示録の終わりまでの聖書の啓示のすべては、神と神の民の結合(キリストとの結合)の主題の展開にすぎないのである」。「(キリストとの結合は)神の子供たちであることの栄光の広がりをより包括的に表現する真理は他にないのである」。わたしたちは・・・この偉大な教理を敢えて忘れたりはしない」。「この教理は、長い瞑想と研究に豊かに報いるのである」。
スミス自身の言葉から、スミス自身がキリストとの結合の教理をどれほど大切と思っているか、また、どれほど豊かな教理と思っているかが伝わってくるが、どうして、スミスは、キリストとの結合の教理をそれほど大切な教理と確信したのかと思う。わたしの推測であるが、その理由の一つは、スミスが恩師と仰ぐウェストミンスター神学校の組織神学教授のジョン・マーレーの影響かもしれない。スミスが、ジョン・マーレーから大きな影響を受けたことは、スミス自身の序文に書いてあるし、また、この著作が、スミスの妻のロイスに献げられているとともに、「ジョン・マーレー教授を覚えて、神の栄光のために」(To my wife, Lois, To the Glory of God in memory of Professor John Murray)と書かれていることからもうかがえる。
実際、ジョン・マーレーは、キリストとの結合の教理を大切にした。その証拠に、マーレーの「カルヴァンとウェストミンスター 聖書論と予定論 松田一夫訳 聖恵授産所 1991年」の「第5章 ウェストミンスター信仰告白の神学」を読むと、ウェストミンスター信仰告白は、ふさわしい個所で、再生、キリストとの結合、福音の宣教を補足・増補する必要性があることを述べていることからも知られよう。
なお、ウェストミンスター信仰告白には、キリストとの結合あるいはまじわりについて、特に言及されていないと思われるが、ウェストミンスター大教理問答82問、83問において、「キリストト共にもつ、栄光にけるまじわり」(The communion in glory which the members of the invisible church have with Christ)、85問において、信者の死は、「栄光におけるさらに深いキリストとの交わりを可能にするため」(to make them capable further communion with Christ in glory)と言及している。86問において「死の直後におけるキリストとのまじわり」(The communion in glory with Christ ,which the members of the invisible church enjoy immediately after death is)についての言及がある。また、ウェストミンスター小教理問答30問において、御霊は、キリストが手に入れたあがないを、わたしたちを有効召命においてキリストに結びつけることによって(and thereby uniting us to Christ)であることに言及している。また37問では、信者の体は、キリストに結びつけられたまま(being still united to Christ)、復活まで墓の中で休むことに言及している。
こうして、スミスは、キリストとの結合の教理の大切さ、豊かさを力強く語っている。わたしたちは、ぶどうの枝として、木であるキリストに聖霊の働きによって契約的に、生命的に、真の意味で神秘的に結合し、霊的命を継続的にいつも豊かに受けて、素晴らしい救いの中を喜んで歩んでいこう。
http://minoru.la.coocan.jp/morton35.html