キリスト教の歴史
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30 | エルサレム教会誕生 | イエスの昇天後、エルサレムにいた弟子たち(12使徒)がキリスト教会を設立し、伝道が始まった。東はインド、南はイエメン、北はバクトリア、さらに中国、西アフリカ、カルタゴにまで伝道した。 エジプトのアレキサンドリア教会では、エジプト語をギリシア語で表記したコプト語が造られ、コプト教会が設立された。コプトとはギリシャ語のエジプトが変化したものでエジプトを表している。エジプトにキリスト教を伝えたのはマルコで、エジプトはイスラム教が伝わる7世紀まではキリスト教国だった。 | 受胎告知(フィレンツェ サンマルコ美術館) |
34年頃 | パウロの回心 | パウロの元の名はサウロ、熱心なユダヤ教徒でキリスト教徒を迫害していた。ある日、ダマスカスに向う途中、突然天からの光に照らされて落馬した。「サウロ、なぜ私を迫害するのか」。サウロは訊ねた。「あなたはどなたですか」 「私はイエスです。さあ、町に行きなさい。これからあなたがなすべきことを知るでしょう」 サウロは起き上がって目を開けたが、何も見えない。盲目になったサウロのために、キリスト教徒アナニアが祈った。するとサウロの目からウロコのようなものが落ちて目が見えるようになった(目からウロコの語源)。 こうしてサウロはキリスト教徒になり、パウロと名を変えた(パウロの回心)。パウロは12使徒ではないが、新約聖書の著者の一人で、キリスト教の伝道に大きな役割を果たした。 | 鞭打ちの教会(エルサレム) |
キリスト教徒への迫害 | ローマの宗教政策は寛容で、ローマの神々や皇帝の像を礼拝すれば全ての宗教は許された。ただ、ユダヤ教は例外で、皇帝を礼拝しなくても許された。 当初キリスト教はユダヤ教の一派と思われていたため、皇帝礼拝は免除された。しかし、別の宗教であることがはっきりし、皇帝礼拝も拒んだため迫害が始まった。また、礼拝集会は人肉を食べる秘密結社と噂され、迫害が激しくなった。 | 鶏鳴教会(エルサレム) | |
64 | 皇帝ネロの迫害 | 皇帝ネロ(Nero)の時代に大火が発生し、ローマはほとんど灰になった。この火事はネロが新ローマ建設のため、不潔な旧市街に火を放ったという噂が流れた。ネロはキリスト教徒を放火犯に仕立て上げ虐殺した。 この時、難を逃れてローマを脱出しようとしたペトロは、霧の中でキリストに出会った。「主よ、いずこに行きたもう」と訊ねると、「私はローマへ行き、十字架にかかる」と答えた。ペトロは恥じてローマに戻り、逆さ吊りの十字架にかかって殉教する。 | ノートルダム寺院 |
70年頃 | 福音書 | 福音書とはイエスの言行録のことで、新約聖書に納められたマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の4つがある。福音とは、良い知らせという意味でイエスの死と復活を伝えることが目的である。 | |
2世紀 前半 | カトリック教会 | アンティオキア司教イグナティオスが初めてカトリック教会という言葉を用いる。 | コンスタンティヌス帝が建設した サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂 (ローマ) |
3世紀 | ローマ帝国の迫害 | ローマ帝国は、国家方針としてキリスト教弾圧をした。また、4世紀初頭のディオクレチアヌス帝は、各地の教会の破壊を命じた。
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301 | アルメニアのキリスト教公認 | 激しい迫害にもかかわらずキリスト教は広まり、301年にはアルメニア王国が世界で最初にキリスト教を国教と定めた。350年にはアクスム王国(エチオピア)でも国教化された。 | |
313 | ミラノ勅令 | キリスト教徒を敵としてはもはやローマ帝国の統一が困難となった。西の副帝のコンスタンティヌス帝は、イタリア半島を支配していたマクセンティウス帝と戦いの時、天に十字架と「汝これに勝てり」という文字を眺め、それを旗印にして勝利を得た。 そして翌313年、キリスト教を公認した。 | 万国民の教会(エルサレム) |
325 | ニカイア宗教会議(第1回) | コンスタンティヌス帝は、キリスト教の教義を統一するためキリスト教関係者300人を小アジアのニカイア (トルコのイズニク)に召集した。当時は次のような宗派があった。 ・アリウス派…創造主の神は唯一で、子なるキリストとは別である。 会議の結果、中道派がアタナシウス派と結んで、「父(神)と子(キリスト)は同質である」 とし、「異質」 を主張するアリウス派を排除した。また、地方によってバラバラだった復活祭の日付を確定した。 | ピラール聖母教会(サラゴサ) |
354~430 | アウグスティヌス | 教会の組織化が進み、聖職者の身分が成立すると、教父と呼ばれる学者が現れた。アウグスティヌス(354~430 )は最大の神学者だった。彼の母は熱心なキリスト教徒だったが、彼は放蕩息子で肉欲に苦しみ、一時はマニ教に帰依した。後に母の祈りに心を動かされ回心を決意、回心後は異教や異端との激しい論争をして正統教義の確立に努めた。彼の自伝は告白録にまとめられ、著書神国論はキリスト教歴史哲学のもととなった。 | 天使ガブリエル(ブダペスト英雄広場) |
361~363 | ユリアヌス帝の迫害 | キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の甥ユリアヌスはギリシア文化に心酔し、ミトラ教などの密儀宗教にひかれキリスト教を弾圧した。 | |
375頃 | 教皇の概念 | ローマ司教ダマスス1世は、新約聖書の第1使徒ペトロに関する記述から、教義の決定権はローマ司教にあると主張した。 | |
381 | コンスタンティノープル宗教会議 (第1回) | アタナシウス派の正当性が再確認され、ニカイア宗教会議で採択された信仰個条が若干修正されて決定された。→ ニカイア信条 | ルーブル美術館 |
392 | キリスト教を国教 | テオドシウス1世は、キリスト教を国教とし異教神崇拝を禁じた。アタナシウス派の教義が採用され、根強い勢力を持っていたアリウス派は最終的に追放され、ゴート族、ヴァンダル族などの民族大移動前の東ゲルマン人の間に広まる。 | |
395 | ローマ帝国東西分裂 | テオドシウス大帝の死後ローマ帝国は東西に分裂する | |
397 | 新約聖書 | マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによるイエスの言行を記録した福音書、使徒の活躍を述べた使徒行伝、書簡集を集めた新約聖書がギリシア語で2世紀中頃までに書かれた。 | |
5世紀 | 五本山 | 5つの総大司教座、いわゆるカトリック5本山が成立した。 | |
431 | エフェソス宗教会議 | 西ローマ皇帝テオドシウス2世が召集した。ニカイア信条を再確認し、マリアに聖母の尊称を与えて神性化した。それに反対してマリアの非聖母説を唱えたコンスタンティノープル大主教ネストリウスは破門された。ネストリウス派キリスト教はササン朝ペルシアを経て唐に伝わり、景教と呼ばれた。 | ノートルダム寺院 |
451 | カルケドン宗教会議 | 東ローマ皇帝マルキアヌスがローマ教皇レオ1世の要請で、コンスタンティノープルの対岸のカルケドン(現イスタンブルのアジア側のカドゥキョイ)で開催した宗教会議。 キリストは神性と人性の両方を持つとする両性派が勝利を収めた。これによりキリストは神と人が融合したとするキリスト単性論が否定され、アリウス派、ネストリウス派が追放された。 | |
5世紀半ば | ローマ教会 | ゲルマン民族の侵入と西ローマ政府崩壊の混乱の中で、ローマ教会やローマ司教の地位は高まった。 キリストの使徒ペテロの墓地の上に建てられたローマ教会は、他の教会よりも上に立った。その指導者ローマ司教は、初代司教ペテロの後継者で教皇と呼ばれた。ここにローマ・カトリック主義の基礎が固まった。 | サンピエトロ大聖堂(ローマ) |
476 | 西ローマ帝国の滅亡 | ローマ帝国滅亡後、カトリック教会はゲルマン民族の教化につとめた。特にフランク族と深く結び付き、自分たちの保護者とすることで東ローマの干渉を避けようとした。 | |
553 | コンスタンティノープル宗教会議 (第2回) | 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって召集された。単性論と正統派信仰の調停が試みられたが、ローマ教皇と決裂した。 | ユスティニアヌス帝(ラヴェンナ) |
800 | カール大帝の戴冠 | フランク国王カール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝の冠を受ける | |
867 | 東西教会の対立 | 730年、東ローマ皇帝レオーン3世は、イコン崇敬を禁じる聖像禁止令を出した。しかし、この勅令にローマ教皇は真っ向から反対し、東西教会の対立が始まった。863年には「フィリオクェ問題」でコンスタンティノープル総主教フォティオスとローマ教皇ニコラウス1世が激しく対立した。 【フィリオクェ問題】 聖霊に関するキリスト教の教義の違いで対立した。 | アヤソフィア(イスタンブール) かってのコンスタンティノポリス総主教庁 |
962 | オットー大帝の神聖ローマ皇帝戴冠 | ドイツ国王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世の要請を受けてイタリア遠征を行い、教皇を救出した。962年、教皇はオットーにローマ皇帝の冠を授け、神聖ローマ帝国ができた。 | モンレアーレ(シチリア) |
1046 | スートリの教会会議 | イタリア領主間の争いでシルヴェステル3世、グレゴリウス6世、ベネディクトゥス9世が教皇位を巡って争っていたが、ドイツ皇帝ハインリヒ3世が開催したスートリの教会会議で3人はいずれも退位させられ、代わってドイツ人司教クレメンス3世が教皇になった。 | |
1054 | 東西教会の最終分離 | ローマ帝国の東西分裂後、東と西のキリスト教は徐々に差異は大きくなり、西ローマ帝国滅亡後は互いの交流も少なくなっていった。そして東方教会と西方教会はちょっとしたことで対立するようになり、1054年にローマ教皇レオ9世はコンスタンティノープル総主教ミハイル1世を破門した。ミハイル1世もその勅書を運んできた教皇使節を破門した。これ以後、両者が仲直りするチャンスは訪れず、それぞれ別の道を歩んでいった。 ・西方教会 (ローマ) ……ローマ・カトリック教会 | フィリポ (サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂) |
11世紀 | クリュニー修道院改革運動 | フランスのクリュニー修道院で行われた改革運動。フランスをはじめ、スペイン、イタリア、ドイツなど広い地域に広まった。 【クリュニー運動の特色】 ・独身制 ・規律強化 ・僧侶の世俗領主からの独立 ・聖職売買の禁止 ・世俗権力による聖職叙任への反対(皇帝による教皇の任命を否定) | メテオラ(ギリシア) |
1077 | カノッサの屈辱 | 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、北イタリアにおける影響力を増すためにミラノ大司教やフェルモ司教などを次々と任命した。これに対して教皇グレゴリウス7世は司教の任命権(叙任権)は教会にあることを通達し、司教の擁立を中止するように求めた(叙任権闘争)。ハインリヒは聞き入れないため、教皇は彼を破門し王位を剥奪した。 ハインリヒに敵対するドイツの諸侯たちは、アウクスブルクで新しいドイツ王を決める会議を開き、教皇を会議へ招聘することにした。ハインリヒは慌てて教皇に謝罪の使者を派遣するが、教皇はこれを拒絶した。 ハインリヒは自ら教皇に許しを乞うため、厳冬にアルプスを越え、教皇が泊まっていたカノッサを訪れた。教皇は接見を拒んだが、無帽、裸足で3日間雪の中に立ち続けるハインリヒを見て城内に迎え入れ破門を解いた。 | 聖母子 |
1085 | 教皇グレゴリウス7世の憤死 | 破門を解かれたハインリヒ4世は、再び権力を握った。危険を感じた教皇は、ハインリヒを再び破門するが、ハインリヒはローマに攻め上り、教皇グレゴリウスをサンタンジェロ城に囲んだ。 間もなく、ビザンツ遠征から引き揚げて来たノルマン騎士ロベール・ギスカルが、教皇を救出した。ノルマン軍はローマで略奪を働き、教皇はイタリア南部のサレルノに逃れたが、悲憤の余り死んでしまった。 | |
1095 | クレルモン宗教会議 | ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で十字軍遠征を決議した。 1096~1270年の間、8次にわたって十字軍の遠征が行われた。 | サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂 |
1122 | ヴォルムス協約 | 神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は、ローマ教皇カリクトゥス2世と叙任権(聖職者や修道院長を選ぶ権利)に関する協約をドイツのヴォルムスで結んだ。教会側に叙任権が与えられることになった。 | |
1123 | ラテラノ宗教会議(第1回) | ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で行われた宗教会議。ヴォルムス協約を確認し、教会は聖職者の叙任権を確保した。一方、聖職者の独身制を維持し、聖職売買を禁止した。 | |
1209 | フランチェスコ修道会 | アッシジの聖フランチェスコが創設した。 | |
1209~1229 | アルビジョワ十字軍 | 南フランスの異端アルビジョワ派討伐のために派遣された十字軍。 | |
1215 | ドミニコ修道会 | スペイン人ドミニコが創設した。 | |
1303 | アナーニ事件 Anagni:イタリアの都市 | 十字軍の失敗により、ローマ教皇の権威は失墜した。フランスのフィリップ4世は教会に課税しようとしたが、教皇ボニファティウス8世は強く反対した。1302年、フィリップ4世は、パリのノートルダム寺院に聖職者、貴族、平民からなる三部会を召集した。これがフランスの身分制議会の始まり。三部会は王の主張を支持した。 フィリップ4世は、教皇が滞在していたアナーニ市を急襲し捕捉した。しかし市民は教皇を救出し、ローマに送り届けた。数ヵ月後、教皇は屈辱から乱心して死んだ。これがアナーニ事件である。 フィリップ4世は、十字軍で活躍したテンプル騎士団を解散させてその財産を没収した。また、ユダヤ人を追放してその資産を奪い、王権の財政的基盤を強化した。 | 岩の上の教会(メテオラ:ギリシア) |
1309~1377 | アヴィニョン捕囚 (教皇のバビロン捕囚) | アナーニ事件後、教皇はフランス国王のいいなりになった。ボルドー大司教から教皇になったクレメンス5世は、フィリップ4世の要請を受け教皇庁を南フランスのアヴィニョン(Avignon)に移した。 1377年、教皇グレゴリウス11世はローマに戻り、アヴィニョン捕囚は終わる。 | アヴィニョン (Wikipedia) |
1378~1417 | シスマ (教会大分裂) | グレゴリウス11世の次にウルバヌス6世が選ばれたが、フランス人枢機卿は対立教皇クレメンス7世を立てアヴィニョンに戻った。こうしてローマとアヴィニョンの両方に教皇が並び立つシスマが起こる。 ローマ教皇はドイツ、イギリスなどの支持を集めた。一方、アヴィニョン教皇はフランス、スコットランド、アイルランドなどに支援された。 教会大分裂の結果、教皇の権威は地に落ち、再統一されても信徒の信頼を取り戻すことができなかった。 | |
ウィクリフとフス | イギリスのウィクリフは、カトリックの教義は聖書から離れていると教会を批判した。彼の思想はボヘミアのヤン・フスや100年後の宗教改革に大きな影響を与えた。 アメリカのリンカーン大統領は、彼が訳した聖書の序文を引用している。 ボヘミアの宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus)は、ウィクリフの影響を受けて聖書中心の教説を展開し、免罪符を販売する世俗化した教会を批判した。多くの支持者を得たが破門され、コンスタンツ宗教会議で有罪になり火刑にされた(1415年)。 | フス像(プラハ) | |
1409 | ピサ宗教会議 | シスマ解決のため召集された宗教会議である。ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃して新たにアレクサンデル5世を選出した。しかし、両教皇がこれを受け入れず、かえって3人の教皇が並立する結果となった。アレクサンデル5世は急死し、ヨハネス23世がその後を継ぐ。 | ピサの大聖堂 |
1414~1417 | コンスタンツ宗教会議 | ドイツ皇帝ジギスムントの提唱により、教皇ヨハネス23世が南ドイツのコンスタンツに召集した宗教会議である。 | |
1517 | ルターの宗教改革 (Martin Luther) | 神学教授ルターは、ヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を発表し、カトリック教会に反旗を翻した。 宗教改革はドイツから各地に広がり、カトリック内部の宗教改革運動から、ローマ教皇からの政治的な独立運動へと発展していった。 | テッサロニキ |
1534 | 首長令 (イギリス宗教改革) | イギリス国王ヘンリー8世は、妻キャサリンとの離婚を認めない教皇パウルス3世と対立した。首長令を発布しローマ教会から独立したイングランド国教会を設立した。 | |
16世紀 | 宗教戦争 | ルター、カルヴァンらが進めた改革により、ドイツ、スイス、オランダ、北欧の大部分はプロテスタントになった。イギリスも独自の理由でカトリック教会を離れた。 | |
1546~1547 | シュマルカルデン戦争 | ザクセン選帝侯などドイツの新教諸侯や都市がシュマルカルデンで結成した新教同盟軍と、ドイツ皇帝カール5世を中心とする旧教派との戦争。1555年、アウグスブルクの和議で戦争は終結した。 | ロードス島 |
1562~1598 | ユグノー戦争 | フランスの新教徒ユグノーとカトリックが対立した戦争、1572年のサン・バルテルミーの虐殺で内乱は激化した。ブルボン朝のアンリ4世がナントの勅令を発布して終結した。 | |
1568~1648 | オランダ独立戦争 | スペイン王フェリペ2世の圧制に対し新教徒ネーデルラント住民が反抗。1579年に南部10州(現ベルギー)が脱落、北部7州は「ユトレヒト同盟」を結び、1581年オランニェ公ウィレム1世を指導者に独立を宣言した。その後独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ30年戦争にもつれ込んだ。 | |
1618~1648 | 30年戦争 | ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱がきっかけに神聖ローマ帝国を舞台に行われた戦争である。ハプスブルク家やブルボン家が介入し国際戦争に拡大した。ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)で終結した。 | ルイ14世(ヴェルサイユ宮殿) |
1789~1799 | フランス革命 | カトリック教会を迫害した。クリュニー修道院も破壊された。 | |
1873~1880 | 文化闘争 | ドイツ帝国の宰相ビスマルクは帝国の統一強化のため、南西ドイツのカトリック勢力の力を削ごうとして、教会を弾圧した。カトリック政党は猛反発し、教皇も介入して大問題となったが、やがてビスマルクが妥協したため紛争は終了した。 |