キリストの人格
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教義学研究シリーズ Studies in Dogmatics
オランダ語原書 Persoon van Christus・・・1952年
英訳 The
Person of Christ・・・1954年
第1章 序論
はじめに
ベルクーワの「キリストの人格」(Person of Christ )は、オランダ語原書の「教義学研究シリーズ」では、1952に出版されまたが、英訳では、1954年に出版されました。では、ベルクーワの「キリストの人格」の第1章は何か。すると、「序論」(Introduction)である。そして、ベルクーワは、この第1章「序論」において、まず、キリストの人格論の重要性を語るので、見ていこう。
1.キリスト論の重要性
(1)アブラハム・カイパーの回心
かつて、オランダのアブラハム・カイパーは、「近代主義:キリスト教の蜃気楼」(1871年)を書いて、19世紀の近代主義(Modernism)とキリスト教信仰の相容れない対立を語り、大気の中に蜃気楼が生じるように、異端もキリスト教の領域において生じることを指摘した。カイパーは、「異端は、その時代の精神的雰囲気におけるキリスト教の光の必然的歪曲(a necessary deflection )である」と言った。すなわち、いつの時代も、キリストの教会の中にその時代の特殊な異端を生みだすのである。
カイパーは、19世紀の近代主義を「魔力的に美しい」(bewitchingly
beautiful)と呼んだが、それは、カイパーが学生であったときに、スコールテン(Scholten)の近代主義から受けた熱狂を思い出していたのである。カイパーは、80歳のとき、アムステルダム自由大学で学生たちに語りかけたとき、パイパーは、昔、ライデン大学教授の自由主義神学者のラウエンホフ(Rauenhoff)が、イエスの復活へのすべての信仰を捨てたと公けの講義で語って拍手喝采を受けたとき、カイパー自身も拍手喝采していたことを思い出していたのである。しかし、カイパーは、その後、本来のキリスト教信仰に立ち返り、御言葉の受肉について彼の講演を結論し、また、キリストの教会と近代主義の間の把握できなない裂け目を指摘したのである。ベルクーワは言う。「ラウエンホフの否定と批判の承認は、今や、人の子の賛美(adoration
of the Son of
Man)に道を譲ったのであり、カイパーは、アリウス主義の中に、カイパー自身の時代の近代主義のイメージを認めるのである」(10頁)。
すなわち、カイパーは、ライデン大学の学生のときには、自由主義神学のラウエンホフ教授が、キリストの復活信仰を捨てたという講演を聞いて、拍手喝采をした一人であったが、後に、それは異端であることに気づいて、教会の正統的なイエスを神の永遠の御子が受肉したお方という教会の信仰を認め、告白し、異端は、教会の信仰の蜃気楼のようなもので、いつの時代でも、その時代精神の中から生じるものであることを語ったという意味である。
これらのことから、このキリスト論的な闘争(Christlogical
conflict)においては、いくつかの純粋に理論的な相違点についての議論でなくて、絶対的な決定的な意義をもつ宗教的、実存的闘争であることを、カイパーが見い出していることは明白と思われる。ベルクーワは言う。「カイパーによれば、論点は、異端は教会の心臓(heart
of the
church)を目指しているのである。そして、この理由のゆえに、カイパーは、教会の健全さを意識的に考慮してアリウスと戦ったアタナシウスの仲間に加わるのである」(10頁)。すなわち、異端は、教会の心臓とも言うべきキリスト論を破壊してしまう危険なものであることを、カイパーは、理解して、異端である近代主義と戦うようになったという意味である。
(2)アラード・ピアソンの近代主義神学への転向
カイパーの時代のオランダ改革派教会に、アラード・ピアソン(Allerd Pierson)という牧師がいた。彼は、「恐るべき子ども」と呼ばれて近代自由主義者のオプゾーマー(Opzoomer)の弟子であった。ピアソンは、彼の先生の経験主義を論理的結論に突き詰めた。その結果、信仰と知識の間に多くを担わせる綜合を疑うようになった。そのため、最後には、改革派教会の教職を辞めた。1865年の彼の辞職の手紙には、彼の唯一の辞職の理由は、彼自身の光から見られた改革派教会の性質(nature)に対してであった。すなわち、超自然的啓示は、彼にとってキメラ(ばかげた空想)になった。ピアソンは、神学を近代主義的前提の上に建てることは不可能を思った。近代的意識は、自然の絶対的範疇から始まり、その範疇は、超自然的実体、あるいは、奇跡は除かれる範疇と考えた。超自然主義は、教会にとって、それなしでは済まされない必要条件(a condition sine qua non)であり、超自然主義と近代主義は対立であることが認められなければならないと考えた。そこで、ピアソンは、正統派の古い神学用語で語ることを拒否し、それらの古い用語に近代の内容を入れようとした。こうして、カイパーとピアソンは、信仰において、正面から対立した。しかし、少なくても一点においては、両者は一致していた。近代主義とキリスト教信仰は相容れないことにおいてである。
(3)20世紀のキリスト論の問題
このように、歴史的経緯を見てくると、キリスト論的見解は、教義学の領域における最も重要な問題のひとつであることがわかる。もちろん、19世紀の近代主義と20世紀のキリスト論は同じではない。でも、20世紀の今日でも、キリスト論的見解の精査する人は、数え切れないほど多くの新しい形態におけるキリスト論的闘争が続いていることをすぐに知るであろう。ベルクーワは言う。「繰り返し、繰り返し、問題点は、ひとつの疑問を周囲から取り囲む。それは、あなた方は、キリストを誰と考えるかという疑問である。そして、人はまた言うであろう。名称と日付は変わる。しかし、その闘争は同じものとして残ると」(13頁)。すなわち、キリストを誰と考えるかという問題は、時代は変わっても、いつも生じてくる問題であり、教会は、正統的キリスト教信仰を守るために、常に闘争しなければならないという意味である。
ベルクーワは言う。「期待されない綜合(an expected
synthesis)を考慮した希望の言葉を、再び、わたしたちは聞くのである。しかし、同時に、近代的思考とキリスト教信仰の間の相容れない対立であるとの証言を聞くのである」(13頁)。すなわち、20世紀になっても、近代的思想とキリスト教信仰の綜合の声を聞くが、しかし、近代的思想とキリスト教信仰は決して相容れない対立(irreconcilable
anithesis)という正しい声も再び聞くという意味である。
2.キリストの人格は、神の啓示によってのみ知られ、告白できる
(1)マタイ16:17
キリストが地上におられたときに、キリストについてすでにいろいろな見解があった。ある者は、洗礼者ヨハネのよみがえり、ある者はエリア、ある者はエレミヤ、ある者は、他の預言者の一人と答えた。しかし、キリストは、それらの答えを無視して、別の応答を求めた。ベルクーワは言う。「キリストは、今や、別の種類の決断(a
decision of another
sort)を求めた。それは、彼の人格についての真理に直接相応する人格的、実践的決断であった。彼が求めたのは、今や、単なる理論化を超越するもので、それらに直面している現実を考慮した唯一可能な応答であった」(13頁)。そして、実際、弟子たちは、その応答ができた。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と。
(2)キリストの人格についての真理は、啓示によってのみ知られ得る
キリストが神の子という人格に関する真理の確信、あるいは、告白は、神的啓示、ギリシャ語で、apokalupsis(アポカルプシス)に戻る。ベルクーワは言う。「これは、理性の洞察の崇高な高さや深から説明されるべきものでなく、また、誤りなき直感に帰するべきものでなく、神の賜物に帰すべきものである」(13頁)。マタイ11:27で、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と言われていることと同じである。また、ヨハネ一5:1で、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」と言われていることと同じである。
この認識は、血肉によるものでなく、賜物であり、奇跡であるということを、人々が自らに思い起こさせるは、まさに教会の中においてなのである。イエスはキリストであるというこの謙遜さとわたしたちの告白の起源(origin
of our confession)教会の証言を排除せず、逆に、教会をその証言を押し出すものなのである。
3.20世紀はキリスト論の問題の頂点
(1)新しい世界観とキリスト教信仰
キリストが誰であるかという問題は、教会の中心的告白の問題であり、教会史において、4世紀、5世紀、19世紀、20世紀においての大きな問題であったが、ベルクーワは、「20世紀において、特に、この議論は頂点に達した。近代の思想がキリスト教信仰と相容れないかどうかに関して、かつてないほどに鋭い問題となった。」(14頁)と述べている。
すなわち、20世紀における比較宗教学の発展で、キリスト教の絶対性は崩され、宗教の現象学が興隆した後で、キリスト教の余地はあるのかと問われた。20世紀は、また、恐るべき相対主義の時代であり、人々は、キリストについての使信が宣べ伝えられたこれまでの時代のものと違う新しい世界観(a
new world
-outlook)を語るのである。このように取り代えられた世界観は、教会の信仰告白の内容を取り代えられた新しい世界観に入れられるのであろうか。
わたしたちは、ルドルフ・ブルトマン(Rudolf
Bultmann)のキリスト教の「非神話化」を特に考える。イエス・キリストの福音は、「神話論的」諸特徴を除かれたときに、目が見ず、耳が聞かず、人の心に浮かびもしなかった(コリント一2:9)救いを神が準備してくさったっていたことを断言して、初代教会が、そのメーッセージをもって使徒的活動において、世界に激しく突進した(stormed
into the world)ときに、何か残るのかという疑問が出る。
20世紀の今日、人は、正直なクリスチャンであり得るのか。伝道は、昔と変わらぬ信条で可能なのか。伝道の情熱は失われていないのか。
キリストの聖なる主張、御自身についての証言、使徒的証言の真理、熱心なそして謙遜な装いの真理性は、教会が世に伝えるものであるが、キリストについてのものごととを崩す者は、教会についてのものごとを崩すのである。伝道と教義は手をつないで、「人々は、わたしを誰と言うか」という疑問に応答しなければならぬ。ベルクーワは言う。「キリストへの弱くなる証言は、教会の伝道意識にとってはるかに広い影響を及ぼすのである」(16頁)。
それゆえ、本国で、真のキリスト頌栄が死に絶えれば、世界において(福音が)上陸する地における伝道意欲は、多くの反抗に出遭って壊れてしまうであろう。
(2)啓示に基づくキリスト教信仰への強い確信の必要性
エルンスト・トレルチ(E.Troeltsch)は、「近代世界における伝道」(1906年)という論文を書いた。その中で、トレルチは、昔とは変わった世界におけるキリスト教の伝道について考察した。彼は、新しい宗教学が教会の伝道精神に与える影響を追求した。そして、言った。「一般的な、心が暗く罪深く、失われて、滅びる多く人々の問題は、キリスト教世界以外にはない。というのは、キリスト教世界においてのみ、憐れみと救いを考えて、人々は回心して、永遠の命を得なければならないと思うからである」と述べた。すなわち、宗教学が発展して、キリスト教と他の宗教との違いは絶対的でなく、道徳性がより高いか低いかの相対的であるので、最早キリスト教を伝道する必要がなくなることを意味する。そこで、ベルクーワは言う。「今や、必要なのは、回心でなく、(道徳性の)高揚がスローガンとなるのである。・・・ここにキリスト論と伝道は、相互依存において、目に見える危機にあった。絶対的な(キリスト教信仰の)挑戦、そして、『人々の間で与えられる唯一の御名』の主張は消え去ったのである。道は、救いの唯一の道であるが、道はキリストと一致するというほんのわずかの確信も残されてはいないのである」(16頁)。
そこで、ベルクーワは言う。「この理由のゆえに、教会はその告白を再考することに召されているのである。もし、教会が、偽りと否定の面前において、真理を証言することを望むならば、教会は、そのメセージの信頼を以前よりも確信しなければならならないであろう。教会は、ヒンズー教の教授たちの疑問、すなわち、『何故、わたしたちクリチャンたちが、イエス・キリストだけが贖い主であると断言するのか』という疑問に答えるべきときには、口ごもらないで答えねばならない。そして、その疑問に答えることにおいて、教会はカエザリア・フィリピの啓示(disclosure)に関する証言に戻らねばならないであろう」(17頁)。
正統派キリスト教は―活気に満ちた過去との継続性において生きること以外にあり得ないのであるが、正統派キリスト教は、伝統の信頼される道を単に思想なく進んでいく継続性でなく、カエザリア・フィリピの神秘に満ちた(full
of the mystery of Caesaria Philippi)道の継続性に生きていくのである。
結び
以上が、「キリストの人格」の第1章「序論」である。大変わかりやすい章である。19世紀から20世紀にかけては、キリスト教信仰は、カイパーが、若き日に、キリストの復活否定を聞いて拍手喝采をしたように、また、ピアソンが近代主義者となって、改革派の牧師を止めることに象徴されているように、超自然的啓示を排除する理性や原因結果の絶対的範疇ですべてを考える近代自由主義によって、根本から震われてしまって、おおきなダメージを受けた。
そして、これらの問題の中心は、マタイ16:17にあるように、イエス・キリストを誰と言うかという問いである。そして、この問いに正しく答えられるのは、血肉によらず、父からの啓示により、賜物により、奇跡によるのである。マタイ11:27に、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」とあるように、父だけがご存じであり、わたしたちに教えてくださるのである。
20世紀は、まさに、キリスト論がクライマックスに達した時代であるが、わたしたち、正統派信仰の者は、近代主義と本来の正統的キリスト教信仰は、決して相容れないことを忘れてはならない。ブルトマンのように、聖書は神話の形態で書かれているからと近代人には、勝手に、非神話化して、聖書本来のメッセージを失うようなことをしてはならない。聖書は、コリント一2:9に、「目が見えもせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かばなかった」キリストによる救いを提供するものなのである。
それゆえ、教会はキリスト証言を弱めてはならない。かつて、宗教史学派のトレルチは、すべての宗教を地平にならべ、キリスト教の倫理・道徳性の高さにキリスト教の絶対性を根拠づけようとして、すべての宗教は本質の違いでなく、倫理・道徳性の程度の高低の違いとして、自らも認めたように失敗した。
キリスト教の絶対性は、そこにはない。キリスト教の絶対性は、イエス・キリストが生ける神の子キリストという父の啓示、賜物にこそある。それゆえ、教会とクリチャンは、カエザリア・フィリピの啓示に関する証言に戻らねばならない。そして、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間でなく、わたしの父なのだ」とのキリストからの祝福の言葉に戻らねばならない。
本当にそう思う。そこで、これから、ベルクーワの「キリストの人格」論を紹介・解説していくが、わたしたちの教派の信仰規準であるウェストミンスター信仰基準のキリストの人格論と比較していく仕方で学んでいこう。
初期の教会の使徒信条、ニケア信条、ニケア・コンスタンチノプール信条、カルケドン信条、アタナシウス信条の正統的キリスト論と、それら正統的キリスト論をしっかり継承している17世紀に作成されたウェストミスンター信仰基準と、20世紀のベルクーワのキリスト論を比較すると、何がわかるのだろうか。楽しみにして、学んでいきたい。
そして21世紀の日本においても、キリストからの、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いに、教会とわたしたちは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と確信をもって答え、キリストから、「・・・あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間でなく、わたしの天の父なのだ」との祝福の言葉を受けよう。