第2章 神について、また聖三位一体について
http://homepage3.nifty.com/msasaki/kokuhakukaisetu2.html はじめに
三位一体の教えは、キリストの二性一人格の教えと共に、キリスト教の土台、基礎、礎です。この二つの教えの上に、カトリックも、プロテスタントも、ギリシャ正教も立っています。この2つの教えを認める教会が、正統的(オーソドックス)であり、認めなければ異端になります。この二つの教えが確立するには、百数十年にわたる、論争を必要としました。三位一体の教えとキリストの二性一人格の教えは、ニケア信条(325年)、ニケア・コンスタンチノプール信条(381年)、カルケドン信条(451年)、アタナシウス信条(402年から450年の間)をもって決着しました。わたしたちも、わたしたち自身が立っているこの2つの重要な教えを正しく理解しましょう。 特に三位一体の教理が確立するには、異端のアリウス派と正統派のアタナシウス派の大論争がありました。アリウスは、御子は最初の被造物で神に似ているが神ではなく、神と類質あるいは類似質(ギリシャ語でhomoiusios
ホモイウーシオス)と主張しました。それに対して、アタナシウスは御子は神と同質(ギリシャ語でhomousios ホモウーシオス)と主張しました。両者の違いは、ギリシャ語でi(イオータ)があるかないかで、これで、異端か正統に分かれることになりました。そこで、325年のニケア会議で、i(イオータ)がないアタナシウス派が勝利して、御子が神と同質、すなわち、御子の神性、御子の神的本質、御子が神であることがはっきりしました。そこで、この論争は、i(イオ-タ)があるかどうかで分かれたので、後に、イオータ論争と呼ばれました。 三位一体の教えは、わたしたち人間の常識や理性をはるかに超える真理ですので、難しい感じがしますが、神の言葉である聖書が教える啓示の真理として、キリストの二性一人格の教えと共にしっかり学んで、確信しましょう。
第1節 神は御自身においてどのようなお方か。
この第1節は、何を教えているかと言いますと、唯一の神の存在を教えています。また、その唯一の神は、主に、御自身においてどのような神であるかを、神学の言葉あるいは聖書そのものの言葉を使って教えています。 第1節の中心は、何かといいますと、「ただひとりの、生ける、まことの神がおられる」です。したがって、第1節は、神の唯一性が語られています。その他の文章は、この唯一の神がどのような神であるかを説明しています。 第1の説明は、「彼は、存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分もなく欲情もなく、不変、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、全能であって、最も賢く、最もきよく、最も自由、最も絶対的で、ご自身の不変な最も正しい御旨の計画の従い、ご自身の栄光のために、すべての物事を営み」です。 すなわち、神は、存在と完全さ(属性)において、時間や空間に一切制限されないことを表しています。また、神は、物や物体でなく霊ですので、肉眼で見えないし、もちろん、体そのものもありませんし、体の部分もありません。「欲情もなく」とは、2つの理解があります。ひとつは、この言い方で、神は、後悔したり、ねたんだり、嫉妬したりなどの人間がもつ弱い感情がないことを教えていると理解します。すなわち、聖書には、神が後悔するとか、ねたむとか、嫉妬するとかという言い方がありますが、これらは、人間にたとえて語っていて、実際に神は、後悔したり、ねたんだり、嫉妬したりしません。もうひとつの理解は、「欲情がなく」とは、神には、受身、受動性がないこと、すなわち、神は人間から何かをしてもらわないと困るとか、人間から何かをもらったり受けたりという受身がないことを教えていると理解します。わたしたちは、2つの理解があることを知っておけばよいでしょう。 また、神は、御自身の御旨の計画である聖定、すなわち、神の永遠の御計画により、何でも行う計り知れない偉大な主権者です。 第2の説明は、「最も愛と(恵みと)あわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで」です。翻訳には、「恵み」が脱落しているので「恵み」を入れましょう。ここには、神が愛であることが十分表明されています。ウェストミンスター信仰告白は、クールで冷たいなどと言われることがありますが、それは誤解です。 第3の説明は、「熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり」です。ここは、ヘブライ人への手紙11:6、「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」という御言葉を活かして、神はよい報いを与えてくださる神であることを表しています。 第4の説明は、「そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく、すべての罪を憎み、とがある者を決してゆるさないお方である。」です。すなわち、ここは、神は裁く神であることを表しています。神は限りなく愛のお方ですが、しかし、罪は裁くことが表明されています。 ただひとりの生ける真の神の存在を教える証拠聖句は、申命記6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」、また、コリント一8:4、6で、「
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。・・・わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」と言われているとおりです。
第2節 神は被造物との関係でどのようなお方か。
この2節は、第1節とよく似ている感じがするのですが、一体どこが違うかと言いますと、第1節は、神は唯一であること、また、その唯一の神は、主に、御自身においてどのようなお方かが語れていましたが、第2節は、主に、被造物との関係で神はどのようなお方かが教えられています。ですから、第1節とは違う観点です。8点から学びましょう。 第1点は、「神はご自身のうちに、おんみずからすべての命、栄光、善、祝福をもっておられ」です。すなわち、神は命をはじめすべてのよきもので満ち溢れているとが述べられています。 第点2は、「ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず、それから栄光を得てくることもなく、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表される。」です。これは、神の自己充足性といわれるものを教えています。 第3点は、「彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、また彼によって成り、彼に帰する。」です。これは、万物はその存在を神に負っていることが教えられています。「すべての存在の唯一の源」とは、何と力強い表現でしょう。万物は、人間も、動物も、自然世界も、宇宙も、すべての存在は、わたしたちが信じ、信頼している神に依存して成り立っているのです。神は何と比類なく偉大なのでしょう。 1世紀のパウロも「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:36)と偉大な神をほめたたえましたが、21世紀の日本の教会もわたしたち信徒も、パウロと同じように、偉大な神を心からほめたたえましょう。 第4点は、「彼は、ご自身よしとされることを何事でも、万物によって、万物のために、万物の上に行うために、万物を最も主権的に支配される。」です。ここは、神の万物支配が教えられています。 第5点は、「彼の目には万物も歴然とあらわであり」です。ここは、神の全知が教えられています。 第6点は、「彼の知識は無限無謬で、被造物に依存しないので、何ひとつとして、彼には偶然や不確かなものがない。」です。ここは、神の全知の御性質、すなわち、神の全知には、誤りがなく、信頼できることが教えられています。「無謬」という用語は、誤りがないこと、それゆえに信頼できることを意味します。 第7点は、「彼は、そのすべての計画、すべてのみわざ、すべての命令において最もきよい。」です。ここは、神には罪がないことが教えられています。 第8点は、「彼には、み使い、人間、その他あらゆる被造物に彼が要求することをよしとされるどのような礼拝・奉仕・服従も、当然払われなければならない。」です。ここは、神は万物に正当な礼拝や奉仕や服従を要求することを教えています。
第3節 三位一体の神
第3節は、三位一体の神を教えています。三位一体という用語は、聖書に出てきませんが、聖書の根本的教えです。三位一体を教える代表的な聖句は、マタイによる福音書28:19で、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」です。また、しばしば、祝祷に用いられるコリント二13:13、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」です。 三位一体とは、神は、ただ一人存在されますが、では、どのように存在されるのでしょう。すると、一人のうちに父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の区別される3つの位格(人格)が存在するという教えです。神は、父・子・聖霊の3つの区別される位格において、しかし、同時に、相互に密接な関係をまじわりをもって存在されるのです。 この三位一体の神の教えは、キリスト教信仰の土台です。この三位一体の教えが崩れれば、キリスト教信仰は全部崩れます。キリストの二性一人格の教えと共に、キリスト教信仰の土台です。キリストの二性一人格の教えとは、キリストは、ひとつの人格の中に、神としての御性質と人としての御性質、すなわち、二つの御性質をもたれるという教えです。そこで、三位一体の教えと二性一人格の教えに立つ信仰は正統的信仰(オーソドックス)となり、この教えに立たないキリスト教は、異端となります。 まず、用語を見ておきましょう。三位一体の三位とは、3つの位格あるいは人格という意味です。具体的には、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神を意味します。位格(人格)とは、他と区別される自己意識を持っておられる存在を意味します。 宗教改革者カルヴァンは、「キリスト教綱要」(Ⅰ-13-20)において、位格は、神の存在方式(様式)と言いました。すなわち、神は、父・子・聖霊のお互いに区別されながらも、また同時に、お互いに密接な関係とまじわりをもつ仕方で存在されると述べました。 父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々区別される自己意識をもっておられます。わかりやすく言えば、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神は、各々が、人格、すなわち、知性・意志・感情をもっておられます。各々が心をもっておられます。しかし、お互いに、深い豊かな愛の結びつきとまじわりをされているのです また、三位一体の一体は、一、ひとつという意味です。すなわち、神は、3人いるのでなく、一人を表しています。キリスト教信仰は、多神教ではありません。唯一神教です。でも、その唯一神の中に、父・子・聖霊の三つの区別される位格があります。 この三位一体の教えは、わたしたち人間の常識や理性の理解をはるかに超える高度な豊かな真理で、すばらしい秘儀、神秘です。三位一体の神が、自ら、わたしたち人間に啓示してくださったことによってのみ知られる奥深い偉大な豊かな真理です。三位一体の教えについては、人間的な自分勝手な思弁をせず、信仰によってのみ受け入れるとう姿勢をもつことが大切です。2点から学びましょう。
第1点 三つの位格(人格) 一人の神の中に、神としての同じ本質、同じ力、同じ永遠性をもつ三つの位格があります。「統一性」というのは、分けられないひとつという意味です。分けられないひとつの神、すなわち、一人の神の中に、神としての同じ本質、同じ力、同じ永遠性をもつ父・子・聖霊の三つの位格(人格)があります。あるいは、神としてのひとつの同じ本質、同じ力、同じ永遠性が、父・子・聖霊の三つの位格(人格)において存在します ちなみに神の本質とは何でしょう。ウェストミンスター信仰基準においては、神はどのようなお方かについては述べられていますが、神の本質についての定義や規定がなされているかどうかと思われます。そこで、一般的に、神の本質は、無限の完全性をもった純粋な霊的人格的存在と理解しておきましよう。ですから、父も、子も、聖霊も、無限の完全性をもった最も純粋な霊的人格的存在です。
第2点 人格的固有性 三位一体の神の各位格には、他の位格にはない各々の人格的固有性といわれるものがあります。父なる神の人格的固有性は、何からも由来しないこと、生まれないこと、出ないこと(発出しない)ことです。御子の人格的固有性は、永遠に父から生まれることです。聖霊の人格的固有性は、父と御子から永遠に出る(発出する)ことです。各位格に、このような人格的固と言われるものがあることを覚えましょう。 ちなみに、御子が永遠に父から生まれることは、ヨハネ1:14の「父の独り子」や18節の「父のふところにいる独り子」という御言葉に基づきます。また、聖霊が父と子から出る(発出する)ことは、ヨハネ15:26「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」やガラテヤ4:6「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」という御言葉に基づいています。 なお、父・子・聖霊は、ウェストミンスター小教理問答第6問が、「この三位は、実体(本質)が同じで力と栄光とにおいて等しい・・・」と教えられていますように、対等・同等です。しかし、存在の秩序において、父が第一人格、子(イエス・キリスト)が第二人格、聖霊が第三人格と言われます。 また、三位一体は、父・子・聖霊の対等・同等の永遠的な内在的なまじわりと関係を表す観点から考えられる本体論的三位一体(内在的三位一体とも言わる)と、父・子・聖霊が、時間と歴史において、あがないのみわざをされる観点から考えられる経綸的三位一体に区別されます。本体論的三位一体においては、父・子・聖霊は、対等・同等で、従属関係はありませんが、経綸的三位一体においては、父は罪人のあがない(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は、父の立てた御計画に従い、あがないをされます。聖霊は、子(イエス・キリスト)のあがないを罪人にあてはめ、適用します。 こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、この従属関係は、各人格の本質における従属でなく、職務的従属です。父・子・聖霊の三つの人格には、本来、従属関係はありません。そして、この時間と歴史における職務的従属が反映されて、父が第一人格、子が第二人格、聖霊が第三人格と呼ばれます。 神についての教理、三位一体についての教理は、古代教会の正統か異端かを賭けた、まさにキリスト教信仰が立つか倒れるかの激しい大論争の歴史を通して形成された重要もので、複雑な教理史的経過があり難しいものです。そして、それとともに、わたしたち有限のちっぽけな被造物、しかも、罪に汚れた人間が、目に見えない全知全能の偉大さ測り知れない神を把握し尽くすことは不可能です。でも、聖書が、啓示し、教えるところまでは、わたしたちもよく学んで、神の偉大さとすばらしさ、また、三位一体の深くて豊かな神秘を知り、理解しましょう。そして、わたしたちの大切な心・魂・霊魂・精神が喜びで満ちあふれましょう。
結び
わたしたちは、聖書が教える偉大さこの上ない父・子・聖霊の三位一体のただ一人の真の神を信仰によって心から礼拝し、ほめたたえて、救いと祝福を永遠の生命を恵みとして受け、みんなで喜んで日本の地で生きていきましょう。
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