キリスト教信徒仏式葬儀出席について

 

 1. 基本的立場

 キリスト教とは異なる信仰が大多数を占める日本に住む私たちクリスチャンは、さまざまな信仰上の試練を経験します。そして、その最も身近で切実なものの一つに、仏式葬儀出席があります。困難な点がたくさんありますが、それでも私たちが信仰に堅く立っていくために、仏式葬儀出席の際の問題を考えてみたいと思います。

(1)日本に住むクリスチャンである以上、避けることのできない信仰の事柄であると心すること:
 信仰の闘いは、内に外に有形無形のものがあります。その闘いの本質は、天地万物を創造した唯一の神を拝するのか、それとも日本の習慣に従って、死者をも神と同じように礼拝するのかという点にあります。しかし、実は人の顔色を恐れて、聖書と自分の信仰に反する行動をとってしまおうとする、自分の心との闘いであることが分かります。

(2)人にではなく、神に従うことを第一とする:
 私たちは皆、ともすると人を恐れる弱い者ですが、信仰による勇気をいただいて、ただ神おひとりを拝し、神にのみ従う信仰を内に外に貫く者となりたいと願うのです。そのとき主は必ず、その都度ふさわしい助けを備えて下さいます。

 

2. 信教の自由

信教の自由は日本国憲法第20条でも保証されています:

(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国からの特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式、又は行事に参加することを強制されない。

 仮に憲法が変わり、万が一に信教の自由が憲法で保障されないような事態になったとしても、クリスチャンは「人に従うより、神に従うべきです」(使徒4:19)

 

3. 葬儀に関する聖書の教えは?

 死者を葬ることは、旧新約聖書の随所にその記録があります。そして聖書の葬送儀礼の中には、日本のものと共通する儀礼があります。それは、死んだ方に対する悲しみや哀悼において、共通の思いがあるからでしょう。

 葬儀を祖先崇拝とする仏教との違いの主な点は、キリスト教では遺体を葬り、残された家族への慰めと励ましを祈り、キリストにある復活の希望を宣言することにあります

 聖書は先祖崇拝や遺体礼拝を偶像崇拝として禁じています。

「わたしはその聖なる物を喪のうちで食べたことがなく、また汚れた身でそれを取り出したことがなく、また死人にそれを供えたことがありませんでした。わたしはわたしの神、主の声に聞き従い、すべてあなたがわたしに命じられたとおりにいたしました」(申命26:14)

では、葬儀については何と言っているでしょうか。

    ·         喪に服すること(2サムエル11:27)

    ·         墓石を立てる(創世35:20)

    ·         喪服を着る(2サムエル3:31)

    ·         遺体を洗う(使徒9:37)

    ·         納棺(ルカ7:14

 このように、仏教の葬儀儀礼そのものが、キリスト教において全面的に否定されるのではなく、個々の儀礼の意味が聖書からとらえ直されることが必要なのです。
 それでは聖書において、先祖を敬うことがどう教えられているかを見ましょう。
 聖書は先祖や両親を敬うことを大切なこととして定めています(出エジ20:12)。但し、身内を敬うことと、身内が死んでから礼拝するのとは別のこととしているのです。
 聖書は、両親や祖父母が生きている時に大切にすべきであって、死後は神の御手の中にあるため(ヨブ34:1415; 伝道12:7)死後に慌ててその人たちを祠り上げたり礼拝したりしても無駄であるばかりか、神に対して不遜な行為であると教えます。
 私たちは、祖父母、両親・家族に対して、亡くなってから親孝行をしようというのではなく、今、共に生きているときに敬い、仕えるべきです。

 

4. 葬儀への基本的対応

 仏式葬儀の第一の目的は、亡くなった人の成仏を願う供養であり、第二に遺族や親族を慰め、励ますことです。
 キリスト教では第二の点だけを葬儀の目的としますので、儀礼が自ずから異なっています。
 クリスチャンとして、異教の葬儀等に対し、どのように対応するべきかについて、キリスト教内でも異なった意見があります。葬儀参列そのものを否定される方もいますが、それは直接的な焼香や拝礼をしなくても、その葬儀に参列すること自体が、偶像礼拝だと理解されるからです。こうした一線を画する姿勢も一つの証しの態度だと思いますが、ただそれだけでは、心情的に敵意や違和感を与えるだけでなく、家族を失って悲嘆の中にある方を、励ますどころか、かえって苦しめることになりかねません。これでは自分の信仰の宣言にはなっても遺族や親族への慰めや励ましにはならないと思います。

 勝本正實氏は、次のような対応を勧めておられます。(p.130以下)

(1)知り合いの方が亡くなった時は、その知らせを受けたらならできるだけ早く訪問あるいは電話しお悔やみを述べ、葬儀後再び訪問します。早く訪問することはこちらの気持ちを伝えるためにも、偶像礼拝を避ける点でも良いと思います。
(2)葬儀の時しか機会がないときは、「クリスチャンなので焼香は遠慮させて戴きますが、お祈りをさせて下さい」と前もって言っておき、遺族の前で祈ることも一つのあり方です。
(3)以上が困難なときは、焼香の前に席を外し、裏方として、遺族の方のために世話をさせて戴けるかどうかを予め尋ねておきます。
(4)葬儀後、再び訪問し、残された家族を励ますこと。葬儀にどんなに参列者があっても、再び訪問して下さる方は少ないのです。

 

5. 葬儀への具体的対応

(1)お悔やみを包む時は「御花料」あるいは、「哀悼」と書く。
死者に捧げる供物ではないので「御霊前」とは書きません。
(2)焼香を辞退する。
自分の信仰の立場を表明宣言するというよりも、遺族への深い慰めの思いを抱きつつ、その身近な遺族にそっと自らの宗旨上の立場を告げ、理解を求めます。
(3)指名等により、どうしても焼香の席が避けられない場合。
身近な人には自分の信仰上の立場を説明した上で、その場で黙祷を捧げます。但し、故人が成仏するようにとか、天国へ行くようにとかは祈りません。それは生きている私たちの祈りや供養でどうにかなるものではありません。ただ神のみがお決めになることです(ルカ16:19以下)。私たちは「ご遺族の方々に、天からの豊かな慰めがありますように」などのように、生きている人々のために祈ります。

 

 出処:http://www.h5.dion.ne.jp/~biblroom/

 

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