主にあって誇れ

- 第一コリント1:26-31 -

「誇る者は、主にあって誇れ。」(第一コリント1:31)


はじめに

人は、自分の知識や能力、地位、財産を誇りたくなるものです。しかし、聖書は「本当に誇るべきものは何か」を私たちに教えています。

パウロはコリント教会の人々に対し、神はこの世の価値観とはまったく異なる方法で人を選ばれるお方であることを語りました。神は人間の学歴や才能、社会的地位によって人を評価されるのではなく、ご自身の恵みと目的によって人を召されます。

そのため、救われた者は自分自身を誇るのではなく、救い主イエス・キリストだけを誇るようになるのです。

ルカ17章11~19節では、十人のらい病人が癒やされましたが、神に栄光を帰して感謝をささげたのは一人だけでした。真に救いを受けた者は、神に感謝し、人々の前でイエス・キリストを証しする人生へと導かれます。


1. 神は世の価値観とは異なる人々を選ばれる

(1)愚かと思われる者を選ばれた

神は、世の知者を恥じ入らせるために、人々から知恵がないと思われていた者たちを選ばれました。

イエス様が最初に召された弟子たちの多くは、学者でも宗教指導者でもなく、ガリラヤ湖で働く普通の漁師たちでした(マルコ1:16~17)。

彼らは特別な教育を受けた人々ではありませんでしたが、聖霊に満たされると大胆に福音を語り、多くの人々を驚かせました。

使徒4章13節には、人々がペテロとヨハネを見て、「無学で普通の人」であることを知りながら、その大胆さに驚いたと記されています。

神は、人間の知恵ではなく、ご自身の力によって働かれることを示されたのです。


(2)弱い者を選ばれた

神は、この世で弱いと見られている者たちを選び、強い者を恥じ入らせました。

イエス様は地上で数え切れないほどの病人を癒やし、苦しむ人々を回復してくださいました(マタイ9:35)。

さらに弟子たちにも権威を与え、病を癒やし、悪霊を追い出す働きを委ねられました(マルコ6:7)。

神は、人間の力ではなく、ご自身の力が現れることを望まれます。だからこそ、自分の弱さを知る者ほど神の力を経験することができるのです。


(3)取るに足りない者を尊く用いられる

イエス様は、人々から嫌われていた取税人や罪人たちを避けることなく、彼らと共に食事をされました(マルコ2:15)。

社会から見捨てられた人々を受け入れ、神の愛を示されたのです。

またヤコブ2章5節には、神はこの世の貧しい人々を信仰に富む者とし、御国を受け継ぐ者としてくださったと記されています。

神の国では、人間の評価ではなく、信仰こそが尊ばれるのです。


2. 神はすべてを恵みとして与えてくださる

私たちが持っているものは、自分の力だけで得たものではありません。

すべては神から与えられた賜物です。

(1)救いは神の賜物

エペソ2章8節は、

「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのであって、それは神からの賜物です。」

と語ります。

救いは努力や功績によるものではなく、神の恵みによる贈り物です。


(2)良いものはすべて神から来る

ヤコブ1章17節には、

「すべての良い贈り物、また完全な賜物は上から来る」

とあります。

健康も、家庭も、信仰も、才能も、日々の生活も、すべて神の恵みによって与えられています。


(3)富も神からの祝福

伝道者の書5章19節では、富や財産を与え、それを楽しむことさえ神の賜物であると教えています。

だから私たちは、持っているものを誇るのではなく、それを与えてくださった神に感謝しなければなりません。


3. 私たちは主だけを誇る

パウロは、

「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにある」

と語ります。

イエス・キリストは私たちの知恵となり、義となり、聖めとなり、贖いとなってくださいました。

私たちは、自分の努力によって神の前に立っているのではありません。

キリストの十字架によって救われ、神の子どもとされたのです。

だから誇るべきものは、自分自身ではなく、主イエス・キリストだけです。

エレミヤ9章23~24節も、

「誇る者は、このことを誇れ。わたしを知っていることを。」

と教えています。


「愚かさ」とは何か

聖書が語る「愚かさ」は、一般的な意味とは少し異なります。

世の知恵から見れば、十字架による救いは理解し難く、愚かな教えに見えるかもしれません。

しかし神の知恵は、人間の知恵をはるかに超えています。

パウロは、神の知恵を受け入れるためには、まず世の知恵に頼る心を捨て、神の前にへりくだることが必要であると教えています。

神の「弱さ」は人より強く、神の「愚かさ」は人よりもはるかに賢いのです(第一コリント1:25)。


結び

私たちは、自分の学歴や経験、財産や能力を誇るために救われたのではありません。

神は、この世では弱く、小さく、価値がないと思われていた私たちを、イエス・キリストの十字架によって救い、新しい命を与えてくださいました。

だからこそ、私たちの人生の誇りは、自分自身ではなく、十字架で私たちを贖ってくださったイエス・キリストです。

今日も与えられたすべての恵みに感謝し、どのような場面でも「主にあって誇る者」として歩んでいきましょう。

「誇る者は、主にあって誇れ。」(第一コリント1:31)