神の計らいとヨセフの計らい
創世記 50章
はじめに
創世記50章は最後の章です。ヨセフ物語の終結であり、次の出エジプト記へとつなげる重要な連結部分となっています。ヨセフ物語の終結は、ヨセフの兄たちが「夢見る者がやって来る。今こそ・・・あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(37:20)と言ったことに対して、神がそれにどう答えたかをヨセフ自身が答えています。それは「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして。多くの人々を生かしておくためでした。」(50:20)とあります。その「良いことの計らい」とは神のご計画の遂行を述べたものですが、それは今だ通過点でしかありません。
かつて、神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とする」の約束されました(創世記12:2)。「「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」(13:16)とも言われました。そして彼らに「カナンの地を与える」とも約束されました。その約束を実現すべく、神が隠れた歴史支配の中でそのことを遂行されたのです。ヨセフ物語はそのあくまでもそのご計画の中に置かれています。単に、一つの家族の物語、単なる家族の和解の話だけではありません。アブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた神の約束がどのようにして実現されていくかの通過点としての位置づけをもっているのです。家族がひとつの民族として形成されていくその要の部分にヨセフが用いられたのです。すべては神からはじまり、神によって、神へと至っていくのです。それはあまりにも不思議、人間の目では予測不可能なことでした。
創世記の50章は大きく二つの出来事が記されています。ひとつは、父ヤコブの荘厳な葬儀です。もうひとつは、ヨセフとその兄たちの真の和解です。それぞれの出来事の中にある特徴を取り上げてみたいと思います。
1. ヤコブの荘厳な葬儀の意味
ヤコブがヨセフとその兄たちに残した遺言(命令)は、自分の亡骸を先祖の墓(マクペラのほら穴)に葬って欲しいというものでした。そこはアブラハムが妻サラのために買い取った土地にありましたが、そこにアブラハムとサラ、そして父イサクと母リベカ、そして自分の妻レアも葬られていました。ヨセフはヤコブの亡骸をミイラにしてそこに運ぶのですが、それに参列した人々はエジプトの王のすべての家臣たち、すべての長老たち、そしてヨセフの全家族とその兄たちの家族たちでした。さらには、戦車と騎兵もそれに伴いました。きわめて荘厳な葬儀でしたが、それは実は、神の約束に基づく信仰のあかしとしての葬儀だったのです。
50章には、「上って行った」という語彙が8回使われています(5, 6, 7, 7, 9 14, 24, 25)。この「上る」と訳された動詞「アーラー」(עָלָה)は、旧約聖書では「上る、登る、(いけにえを)ささげる」と言った意味で894回使われています。この語彙が地理的な意味で使われる場合には、神の約束の地であるカナンや神の臨在の場所であるエルサレムを意味します。神の視点から見るならば、神の約束の地へ向かうのはすべて「上る」という表現を聖書は使っています。つまり、神の事柄の中心に向かうことを意味しています。やがて、エジプトから救い出された民は、神の民として約束の地へと上って行くときがやがて起こりますが、ヤコブの葬儀はまさにそのことの予行演習をしているようです。ヨセフ自身もやがてエジプトを出るときには、自分の亡骸(原文では「骨」)を「携えて上る」よう誓わせています。
エジプトはあくまでもイスラエルの民にとっては寄留の地でしかありませんでした。イスラエルの家族がやがて約束の地に上って行く前に、エジプトの最良の地ゴシェンに定住して、多くの民となることが神の計画でした。エジプト滞在の期間は、イスラエルの民の数があまりにも多く膨れ上がったことで、それを恐れたエジプトの王が彼らに苦しみに会わせるときまででした。
アブラハムに対する神の預言によれば、エジプト滞在の期間は400年でした(創世記15:13)。しかし、正確には430年であったことが聖書に記されています(出12:40、ガラテヤ3:17参照)。また、創世記15:16には「そして、四代目の者たちが、(エジプトを出て)ここに戻って来る」とあります。「四代目の者たち」とは一体どのような人たちでしょうか。「一代」を100年間と数えて400年としているのでしょうか。それともその言葉どおり、エジプトの寄留した者たちの四代目と考えるべきでしょうか。もし後者として考えるならば、エジプトに寄留してからの四代目に当たる人々の中で傑出した人物といえば、レビ族の四代目は、ミリアム、アロン、モーセです。モーセの従者ヨシュアはエフライム族の出身です。しかし彼はエフライムから数えると10代目に当たります。他の部族の出身にも四代目に当たる人物で傑出した人物はいません。「四代目」の答えは「ヨセフ」です。
2. ヤコブの息子たちが神の民としてひとつとなっていくヨセフの計らい
神の祝福がアブラハムをその源としてイサクに受け継がれ、そしてヤコブ、ヨセフへと受け継がれていきます。長子としての権利は「祝福する」権利です。ヨセフの長子の権利がもたらす祝福とリーダーシップは、自分に対する兄たちの悪事を赦すという形に表されています。その赦しは具体的には次のような内容が伴いました。以下に掲げる21節の語彙はすべて強意形のピエル態で使われています。
(1) 「養う」
ヤコブが自分のすべての息子たちを養うリーダーシップをもっていたように、ヨセフも兄たちとその家族のすべてを養うと述べています。「養う」と訳された動詞の「クール」(כּוּל)は、本来「入れる」という意味ですが、ピエル態では「養う」となります。ヨセフは兄たちを赦して受け入れるだけでなく、彼らとその家族を「養った」のです。
(2) 「慰めた」
「慰めた」と訳された動詞の「ナーハム」(נָחַם)は、普通ニファル(受動)態で用いられると「悲しむ、憐れむ、思い直す、恨みを晴らす」という意味ですが、ピエル(強意・能動)態で用いられると「慰める」という意味になります。ここではこのピエル態で使われているのです。本来ならば、悲しみをもたらしたことを赦すことで、相手に慰めと希望をもたらしたことを意味します。「慰める」とは、兄たちの心を自由にして立ち上がらせるという意味です。
(3) 「優しく語りかけた」(中沢訳、関根訳、フランシスコ会訳は「ねんごろに語った」)
原文の直訳では「彼らの心に語りかけた」ですが、「語りかける」の「ダーヴァル」(דָּבַר)が強意形のピエル態と「心に」という語彙が合わさって、「優しく語りかけた」となっています。まことに、うるわしい親密さが感じられます。それは神を中心とした親密な愛のかかわりから生まれ出た語りかけなのです。このようにして、神の民がエジプトにおいて精神的に安心することができ、また、各部族の数も祝福されて大いに増すことにもなったのだと考えます。
ちなみに、「語る」の「ダーヴァル」(דָּבַר)や「命じる」の「ツァーヴァー」(צָוָה)の動詞は、常に強意形で使われています。
附記
ヘブル語の強調表現は強意形ばかりではなく、同じ語根を重ね合わせることで意味を強調する用法(同根対格)があります。たとえば、創世記50章でいうならば、25節の「必ずあなたがたを顧みられる」と訳された部分がそうです。原文はそこを「パーコード・イフコード」(פָּקֹד יִפְקֹד)で、「顧みる」という動詞「パーカド」(פָּקַד)が重ねられています。他にも、創世記22章17節では「大いに祝福する」(動詞「バーラフ」בָּרַךְ)と「数多く増し加える」(「ラーヴァー」רָבָה)が、それぞれ同じ語根が重ねられています。原文で参照のこと。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?