ベニヤミンを連れて再度エジプトへ
創世記43章1節~34節
43章は、いよいよヨセフとベニヤミンの劇的な再会シーンがある章です。この章でも登場人物にそれぞれ強意形の動詞が以下のように使われています。
1. 父ヤコブを説得したユダ
42章では、ベニヤミンをエジプトに行かせることで、不幸が彼の身に起こることを心配する父ヤコブのためらいを払拭させたのはユダの9節の「私に責任を負わせてください」という言葉でした。口語訳は「わたしの手から彼を求めなさい」と直訳で訳していますが、これでは意味が通じません。中沢訳は「(万一の場合は)、わたしが責任を取ります」と訳しています。ここに強意形の動詞が使われていますが、この言葉こそが、父ヤコブのこだわりの心を溶かしたのでした。
父ヤコブはユダのことばでベニヤミンをエジプトに行かせる決心します。ヤコブが決心に至るまでに相当の時が費やされたようです。それは「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう」(10節)のユダのことばからも分かります。人のこだわり、固執から解放されるということは相当の時間がかかることが分かります。しかし、ひとたび固執しているものを手放す時、解放されてさわやかな心になるものです。
またヤコブのことばの中に「全能の神が二人(先に人質となっているシメオンとこれから行かせるベニヤミンの二人)をあなたがたに返してくださるように」という祈り(強い願い)がありますが、この「返す」と訳された部分に「遣わす」という動詞の強意形が使われています。と同時に、14節では「私も、失うときには、失うのだ」というヤコブの潔いことばの中に祖父のアブラハムがイサクをささげた時の心境にも似た信仰を見ることができます。強い願いと失うことの潔さの中に父ヤコブのアンビバレントな心をのぞかせています。
いずれにしても、ヨセフが仕掛けた策略にヤコブの家族はまんまとはまってしまう瞬間ですが、それは神の目的とご計画の道が開かれた瞬間でもあります。
2. ヨセフ邸に招かれた兄弟たちの恐れ
ベニヤミンを伴ってエジプトに下り、ヨセフの前に立った兄弟たちは、ヨセフの邸宅に連れて行かれたことで恐れました。彼らの恐れをみるなら、恐れはみな物事を悪い方へ悪い方へと考えさせます。これが「恐れ」が持っている力です。一方のヨセフは彼らを歓迎するための食卓を準備するようにと家の管理人に申しつけています。
私たちの心に「恐れ」が入り込むとすべてが悪い状況になるかのように思い込むことです。これはサタンの人に対する常に変わることのない策略です。ヨセフと兄弟たちの思いのスレ違い、これは神と私たちの思いのスレ違いを映し出していると言えます。
兄弟たちは恐る恐るヨセフの家の管理者に近づき、家の近くで彼に話しかけました。普通に会話で「言う」という意味で使われることばは「アーマル」(אָמַר)ですが、ここでは「ダーヴァル」(דָּבַר)の強調形が使われています。ちなみに、兄弟たちがここで管理者に話した内容は真実な事柄でした。それに対して、家の管理者が答えて言った(「アーマル」אָמַר)ことばは「安心しなさい。恐れることはありません。」(23節)でした。このフレーズは神や預言者が繰り返し、繰り返し、恐れる神の民に語り続けてきたことばです。
ちなみに、神が語りかけることば、つまり名詞の「ダーヴァール」(דָּבָר)は、「出来事」を意味します。イザヤ書55章11節にはこうあります。「わたしの口から出るわたしのことば(דְבָרִי)も、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と。神が語ることはがそのまま出来事とし実現するように、もし私たちの語ることばが恐れに満ちたものであるなら、その恐れがそのまま私たちに実現してしまうことになるのです。
兄弟たちの恐れは、自分たちがかつて犯した罪や真実を知らない思い違いから来ています。私たちはこの「ヨセフ物語」のドラマを客観的に見ているので、兄弟たちが思い違いをしていることがよく分かるのですが、もし私たちがその現実の中にいるとすれば、私たちもこの兄弟たちのように「恐れ」に取り囲まれてしまうことが多いのではないかと思います。恐れる必要のないところでなんと私たちは恐れていることでしょう。この「恐れ」から解放されるには、神の真実を正しく知る必要があるのです。
3. 弟のベニヤミンと再会したヨセフの感涙と共なる食卓(もてなし)
20年余ぶりでベニヤミンと再会したヨセフはなつかしさのゆえに、胸が熱くなり、涙をこらえることができずに急いで退席してしまいます。この「急いでする」という動詞に強意形が使われているのです。急いで退席するヨセフの行動に彼の心がよく表されています。まだここではヨセフは自分の身を明かすことができなかったからです。ヨセフが自分身を明かすのは次章(44章)においてです。
ところで、食卓に招かれた兄弟たちは「ヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった」とあります。本来、エジプト人はヘブル人といっしょに食事をすることを忌み嫌っていたようです。ですから、一緒に食事をすることはなかったですが、この場面ではエジプト人であるはずのヨセフはヘブル人の兄弟とは食事はしないはずですが、共に食事をし、酒を飲んでいるのです。このことに兄弟たちはなんとも思っていないところが不思議です。ヨセフは彼らにかなり接近しているにもかかわらず。
このように、兄弟たちがヨセフのことを知らずに共に食事をしたことは象徴的な意味合いが隠されています。聖書において、「食事」、あるいは「食卓」を共にするということは特別な意味合いがあります。「神の食卓」は神と私たちの親密なかかわりを表わすものです。神の先行的恩寵として、私たちは神の備えた食卓に招かれているという事実です。すでに招かれているので、私たちが神のもとに帰るならば、その食卓を楽しむことができるのです。ルカの福音書15章のたとえ話にある放蕩息子が受けた歓待のようにです。
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