「アーメン」という言葉は、


 キリストの教会で祈られる“主の祈り”を締めくくるのは「アーメン」という言葉です。実際、主の祈りに限らず、他の祈りや(そもそも祈りの一形態である)讃美歌の最後で、また教会によっては説教や他者の祈りへの応答として用いられる教会用語の一つです。

 「アーメン」は元々ヘブライ語で「それが真実であり確実である」という意味の言葉です。例えば、約束の土地に入ろうとするイスラエルの民たちが神の戒めに従って生きることを改めて誓う場面で一つ一つの戒めに応答する時(申命27章15節以下)、あるいは高らかに神を賛美して「主をたたえよ」と叫んだ後などに用いられています(詩編41:14、72:19、等)。

 ところが、興味深いことに、この言葉はほとんどこのままの形と発音で他の言語にも受け入れられて今日に至っています。ギリシャ語で記されている新約聖書にも何度も出てきます。旧約聖書同様、神への賛美や願いの最後に(ローマ1:25、9:5、ガラテヤ1:5、6:18、他多数)。当時の教会では、教会に来てまもない人でさえ用いていたようです(1コリ14:16)。

 しかし、新約聖書の中でこの単語が圧倒的に用いられているのが、イエスの言葉においてです。日本語聖書で「はっきり言っておく」や「まことに告げます」と訳されている「はっきり」や「まことに」という言葉が「アーメン」という単語です。マタイによる福音書だけで32回(5:18、26、他)。ヨハネによる福音書では「アーメン、アーメン」のように繰り返す表現が多用されています(1:51、3:3、等)。

 パウロはこのイエス・キリストについて、神の約束はことごとくこの方において成就した。「それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」と言っています(2コリ1:20)。つまり、イエスの言葉や御生涯のすべては神の約束の確かな実現であり、この方において神の真実は鮮やかに現されたということです。まさにイエス御自身が「アーメンである方」だと、ヨハネの黙示録が呼んでいるとおりです(3:14)。ですから、キリスト者たちが唱える「アーメン」は、イエス・キリストにおいて今や完全に成し遂げられた神の確かな救いに基づく、確信に満ちた「アーメン」なのです!

   私のちっぽけな祈りはもはや私の心の中だけの独白ではなく…、御父や聖霊の中でさえ聞かれている祈りとされたのです。

 “主の祈り”の最後に唱えられる「アーメン」もまた、この確信に基づいています。「なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです」。

 旧約時代においても、神は御自分の民の祈りに絶えず耳を傾けておられ、彼らが呼びかけるが早いか聞き届けてくださる方であると、教えられていました(イザヤ65:24)。ちょうど幼い子どもが親にすり寄って行くと、それだけで子どもが何を求めているのかを親は察知するように、私たちがたどたどしくも祈り始めた途端に“待ってました”とばかり主はその祈りを聞き届けてくださるというのです。私たちの祈りは一言も地に落ちることなく神に届いているという、祈りの確実さです。

 この祈りの確実さは、キリストによって不動のものとされました(問117参照)。なぜなら、私が「真実な」救い主イエス・キリストのものとされたからです(問1)。私のちっぽけな祈りはもはや私の心の中だけの独白ではなく、たとい私が誠実でなくても常に真実であられるキリスト(2テモ2:13)によって、御父や聖霊の中でさえ聞かれている祈りとされたのです。

 『ハイデルベルク信仰問答』が生み出された宗教改革の時代は、社会の大きな混乱の中ですべてが不確かで混沌としていた時代でした。そのような中で、私たち罪人を体も魂も丸ごとに受け入れて救ってくださるイエス・キリストにある神の不動の救い。これこそが“ただ一つの慰め”であることを高らかに宣言したのが、この小さな文書でした。そのような『信仰問答』の精神が、最後の答えにも鮮やかに示されています。

 私という無きに等しい存在がキリストのものとされたこと。私以上に私を御存知であられる方の中で生き死ぬことができるとは、何と言う幸いでしょう。この御方にのみ栄光がありますように。アーメン!


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_129.htm