* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「信仰の義による救い」

ローマの信徒への手紙3:21-31

 

はじめに

 

 お話をさせていただきます。では、どこのお話をするかと言いますと、ローマの信徒への手紙のお話です。これまでに、ローマの信徒への手紙を、7回お話をさせていただきましたが、今日は、その8回目のお話となります。

 

 では、わたしたちは、これまで、ローマの信徒への手紙から何を学んできたのでしょう。すると、旧約歴史のない異邦人も、旧約歴史のあるユダヤ人も、等しく罪人であり、どちらも神に裁かれ、最後の審判を免れることができないことを学びました。

 

 特に、1世紀のユダヤ人は、モーセの十戒をはじめとする律法をすべて完全に行って、神の前での義、すなわち、神の前での正しさを、自力で獲得して、救われると、誤まって、思い込んでいたので、パウロは、律法の行いにより、自力で救われることは、決してできず、律法は、人に、罪を自覚させ、救い主キリストへの信仰に連れて行く養育係の働きをすることを、丁寧に教えました。

 

 では、今日の個所は、何を教えているのでしょう。すると、その続きで、ローマの信徒への手紙の中心的な信仰の義による救いについての教えです。すなわち、律法の義による自力の救いが成立しないなら、どのような救いが成立するかと言えば、キリストを信仰し、義とされる救いだけが、恵みとして成立することを、実に力強く、確信に満ちあふれて、パウロは教えるのです。

 

 そこで、今日の個所から3点に絞ってお話したいと思います。第1点は、信仰の義による救いは、キリストの十字架の死により、最後的に明かにされたという点です。第2点は、信仰の義による救いは、キリストの十字架の死によってだけ成り立つという点です。第3点は、信仰の義による救いの結果、素晴らしいことが生じたという点です。ローマの信徒への手紙は、難しいと言われますが、できるだけ簡潔にお話ができればと願っています。

 

1.信仰の義による救いは、キリストの十字架により、最後的に明白にされた

  

 早速、第1点に入ります。第1点は、信仰の義による救いは、キリストの十字架の死により、最後的に明かにされたという点です。すなわち、約束の救い主、メシアのイエスさまが、歴史に出現し、紀元30年頃、エルサレム郊外のゴルゴタという死刑場において、十字架につけられ、わたしたち人間の罪の赦しの供え物として、御自身を、父なる神に献げてくださったゆえに、わたしたち人間の罪に対する神の怒りが宥められ、キリストを信仰する人には、神の前での正しさである義が与えられ、恵みによって救われることが、最後的に明かに示されたのです。

 

しかも、約束の救い主、キリストを信仰する者に、神の前での正しさである義が与えられて救われることは、キリストが十字架につけられたときに、初めて示されたことではなく、キリスト出現以前の旧約の時代から、旧約聖書そのものによって、法廷で証言されるかのように確実に、ずっと長きにわたって明かに示されてきたことでであったのです。21節、22節がそうです。

 

 21節に、「ところが今や、律法とは関係なく、しかし律法と預言者によって立証されて」とありますが、「ところが今や」というのは、キリストの死により、救いの歴史において画期的な出来事が生じたことを意味します。

 

そして、ここに「律法」という言葉が、2回出てきますが、両者の意味は違います。最初の「律法とは関係なく」という場合は、律法主義による救いとは関係なくという意味です。すなわち、モーセの十戒をはじめとする律法をすべて完全に行って、神の前での正しさである義を自力で獲得して救われるという律法主義による救いとは、まったく関係がありませんという意味です。

 

そして、次に出てくる「しかし律法と預言者によって立証されて」という場合の「律法」は、「預言者」と並んで出てくるので、この言い方で、旧約聖書全体を意味します。この場合の律法は、旧約聖書の区分を表します。すなわち、旧約聖書は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書物が「律法」と呼ばれ、その5つ以外の書物が、預言者およびその他の人たちによって書かれたので、まとめて「預言者」と呼ばれたのです。ですから、「律法と預言者」というのは、旧約聖書全体を表します。

 

そして、「立証されて」という言葉は、もともとは、法廷用語で、法廷で真実を証言するという意味です。また、「神の義が示されました」とありますが、「示されました」の「示される」は、非常に明かに示されるという意味です。そして、さらに、この「示される」は、わざわざ現在完了形になっていますので、キリストの出現のそのときまでずーっと長い間、明かに示され続けてきましたという長期間の継続を意味します。

 

そして、また、「神の義」とありますが、「神の義」とは、神の前での正しさのことです。神の前での正しさがあれば、人は神に義とされて、救われ、神の怒りによって裁かれることが、ありません。

 

では、「律法と預言者」すなわち、旧約聖書において、約束の救い主、キリストを信仰する者には、神の前での正しさである義が与えられて救われることが、旧約聖書のどこで、法廷で証言されるかのように、キリスト出現のそのときまでずーっと長く、明かに示され続けてきたのかと思うのです。

 

すると、いろいろありますが、一つだけ典型的な例を挙げれば、先ほど読みました民数記21章のよく知られた青銅の蛇の出来事がそうです。すなわち、イスラエルの民が、出エジプトして、苦しい荒れ野の旅をしているとき、不平・不満を述べた人々は、毒蛇に噛まれて次々と死んだのです。そのとき、神は、青銅の蛇を造り、それを竿の先につけて掲げ、その蛇を、信仰をもって見上げる者たちに、救いを約束し、実際、信仰をもって見上げた者たちは、救われました。この出来事は、後に、イエスさま御自身が、十字架の上に上げられる御自身を、信仰をもって見上げる者が救われることの型、予型、タイプであることを、新約聖書のヨハネ福音書3章14節で、自ら、明らかに語っています。

 

こうして、「律法と預言者」、すなわち、旧約聖書において、約束のメシアのイエスさまを信仰して、救われることは、型、予型、タイプとして、法廷において証言されるかのように、確実に証言され、また、明白にずーっと長い間、示され続けてきたのですが、今や、遂に、紀元約30年頃、その実現成就として、キリストの十字架の死において、最後的に明かに示されたのです。

 

それゆえ、十字架につけられて死んだキリストを救い主と信仰する人には、旧約歴史のない異邦人であろうが、旧約歴史のあるユダヤ人であろうが、誰でも、差別なく、神の前での正しさである義が無償で与えられ、義と認められ、救われ、神の怒りによって裁かれることが、なくなるのです。

 

今日のわたしたちもそうです。どのような小さな罪をも見逃すことのない神に裁かれることなく、心が平安で、神との喜びに満ちたまじわりの中で、日々、生きられることは、大きな恵みで、これにまさるものはありません。

 

2.信仰の義による救いは、キリストの十字架の死によって成り立つ

 

 第2点に入ります。第2点は、第1点とも重なりますが、信仰の義による救いは、キリストの十字架の死によってだけ成り立つという点です。すなわち、十字架につけられて死んだイエスさまを自分の救い主と信仰すると、神の前での正しさである義が、恵みとして与えられ、義とされて救われ、神の怒りによって裁かれることが、なくなるのですが、では、どうして、そのようなことが、本当に生じるのでしょう。

 

 すると、それは、イエスさまから見れば、イエスさまが、自ら進んで、十字架の死で、わたしたちの罪の贖いをしてくださったからであり、父なる神から見れば、わたしたち人間の罪に対する御自分の怒りを宥(なだ)める供え物として、十字架につけられたイエスさまを、父なる神が受け入れてくださったからです。23節から26節がそうです。

 

24節に、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです」とありますが、「キリスト・イエス」という言い方は、イエスさまが救い主であることを強調した言い方です。通常の言い方は、「イエス・キリスト」で、この言い方は、どちらかと言えば個人名的な意味合いですが、「キリスト・イエス」と逆にすると、救い主のイエスさまという意味で、イエスさまが救い主であることを強調した言い方になります。

 

 それで、ここには、十字架の死が、イエスさまから見た言い方と、父なる神から見た言い方の両方で出ています。すなわち、十字架の死は、イエスさまから見れば、イエスさまが進んで、わたしたちの罪の贖いをしてくださったのですし、父なる神から見れば、十字架につけられたそのイエスさまを、父なる神が、人間の罪に対する御自分の怒りを宥める供え物として、受け入れてくださったことを意味します。どちらも、霊的に非常に豊かな意味があります。

 

 では、イエスさまが、進んで、わたしたちの罪の贖い(あがない)をしてくださったということから見ていきましょう。ここで、大事なのは、「贖い」(あがない)ということです。「贖い」(あがない)とは何でしょう。贖い(あがない)というのは、旧約時代から行われていたことで、代価、身代金、贖いしろを払って、人を買い戻すことを意味しています。たとえば、誰かが落ちぶれて、惨めな奴隷になったときには、その人に一番近い身内が、可哀想に思って、代価、身代金、贖いしろを払って、買い戻し、再び、自由の身にしてあげることを意味します。

 

 ですから、これを当てはめると、イエスさまは、罪の奴隷となったわたしたち人間を憐れんで、わたしたち人間に一番近い身内のように、十字架で、御自分の尊い命を代価、身代金、贖いしろとして、父なる神に払って、罪の奴隷から、わたしたちを買い戻し、自由の身にしてくださったことを意味します。

 

 これは、驚くべきことです。神の御子たるお方が、罪に真黒に汚れたわたしたちのために、御自分のきよい命を差し出し、代価、身代金、贖いしろとして支払うなどということは、世界の歴史において、他に聞いたことがありません。本当に、全人類が驚愕すべきことであり、わたしたち罪人に対する神の御子の測り知れない愛が輝いています。

 

 教会の聖餐式のときに歌う讃美歌204番の2番は、次のような歌詞です。「われらが驚き、あがむる御業は世に多けれど、神の子みずから、生命(いのち)をたまいし、あいにしかめや」とありますが、わたしたち罪人に一番近い身内のように、罪の奴隷のわたしたちを憐れんで、十字架で、御自分の尊い命を代価、身代金、贖いしろとして、父なる神に払って、罪の奴隷からわたしたちを買い戻し、自由の身にしてくださった神の御子イエスさまの大きな愛は、驚くくべき愛で、わたしたち一人一人が、自分の胸にしっかり刻んで、生涯、決して忘れないようにして歩みたいと思います。

 

そして、今、お話したことは、イエスさまから見た言い方ですが、では、父なる神から見れば、イエスさまの十字架の死は、どのようなものなのでしょう。すると、父なる神から見れば、十字架につけられたそのイエスさまを、父なる神が、わたしたち人間の罪に対する御自分の怒りを宥(なだ)める供え物として、受け入れてくださったことを意味するのです。

 

 25節がそうです。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」がそうです。ここで、大切なのは、キリストが「罪を償う供え物」として、父なる神に受け入れられたという、これまた驚くべき事実です。「罪を償う供え物」とありますが、この言葉は、もともとは、「罪の宥めの供え物」という深い意味で、人間の罪に対する神の激しい怒りを宥め、鎮めるために、動物を屠って、命を表す血を流し、神に献げる供え物を意味します。宥めるというのは、怒りを鎮めるという意味です。罪が赦されるためには、罪に対する神の激しい怒りが鎮められることが絶対に必要なのです。

 

 旧約聖書のレビ記16章に、贖いの日について記されています。イスラエルの大祭司は、1年に1度、オスの山羊と若いオスの牛を屠り、その血を器に携えて、神殿の至聖所に入り、神の聖なる臨在を表すモーセの十戒の2枚の石の板が納められている契約の箱にその血を注いで、イスラエルの民の罪に対する神の怒りを鎮める儀式を、毎年、厳粛に行っていました。

 

 真の神は、きよいおかたであり、また、正しいお方、すなわち、義なるお方ですので、御自分の民イスラエルの罪に対してさえも、激しく怒るお方です。それゆえ、そのままでは、神の怒りにより、裁かれ、滅ぼされてしまいます。

 

 そこで、神は、イスラエルの民の罪に対する御自分の怒りを鎮(しず)めるために、大祭司が、1年に1度、至聖所に入り、神のきよい臨在を表すモーセの十戒めが納められている契約の箱に、犠牲の動物の血を注いで、イスラエルの民の罪に対する御自分の怒りを鎮める儀式を、毎年行わせたのです。

 

そして、このことは、将来、救い主メシアのイエスさまが、わたしたち人間の罪に対する神の怒りを鎮める供え物として、十字架上で、御自身を献げることの予型、型、タイプであったのです。

 

 それで、実際に、紀元30年頃、エルサレム郊外のゴルゴタという死刑場において、キリストが、十字架につけられましたが、父なる神は、このキリストを、わたしたちの罪に対する激しい怒りを鎮めるための供え物として受け入れ、キリストにおいて、わたしたちの罪を、徹底的に裁きました。そして、このキリストを、自分の救い主と信仰する人には、神の前での正しさである義が、無償の恩寵として与えられ、救われることが明かに示されたのです。

 

 神は、それまでは、寛容と忍耐をもって、人間の罪に対する徹底的な裁きを見逃がし、控えてきました。しかし、真の神は、きよいお方であり、また、正しいお方、義なるお方ですので、人間の罪を徹底的に裁くことを必ずなさるお方です。それが、紀元30年頃のキリストの十字架の死だったのです。

 25節に「・・・神の義をお示しになるためです」とあり、次の26節にも「今この時に義を示されたのは」とあり、ここに2回、「義」という言葉が出できますが、この場合の「義」というのは、神の前での正しさの義ではなく、神の御性質としての義のことを表します。すなわち、真の神は、義なるお方、正しいお方ですので、いつか、人間の罪を徹底的に裁きますよという意味です。

 

 もちろん、それまでにも、旧約聖書のあちこちに記されていますように、イスラエルの民の罪に対する神の裁きはありました。しかし、わたしたち人間全体への罪に対する神の徹底的な裁きは、神の寛容と忍耐によって、それまでは抑えられ、見逃されてきたのです。

 

しかし、今、その時が来ました。それが、紀元30年頃のキリストの十字架の死でした。わたしたちは、十字架上のキリストの御口から、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というそれまで、人類の歴史において聞いたことがない驚くべき言葉を聞きました。これこそ、父なる神が、わたしたち人間の罪を身代りに背負ったキリストを、徹底的に裁いたことの証拠でした。

 

 こうして、神は、御自分が、人間の罪を、徹底的に裁いて、滅ぼす義なる神であることを十分示されたのです。そこで、よく言われますように、十字架は、神の愛と義の会えるところとなりました。十字架において、わたしたちの身代わりに、イエスさまを徹底的に裁くことにおいて、神は、人間の罪を裁く義なるお方であることを明らかにし、同時に、そのイエスさまを自分の救い主と信じる者に、神の前での正しさである義を、恵みとして与えて、救うことにおいて、神の愛は明らかにされたのです。

 

それゆえ、十字架のイエスさまを自分の救い主と信仰するわたしたちクリスチャンは、一切の罪が赦され、義とされ、救われていますので、最後の審判で裁かれ、滅ぼされることは、ありません。どんな小さな罪も見逃すことのない神に裁かれることなく、逆に、神との平和の中で、日々、人生の歩みができることは、何ものにも代えられない恵みで、神に心から、感謝できます。

 

3.信仰の義による救いの結果、素晴らしいことが生じました

 

 第3点に入ります。第3点は、信仰の義による救いの結果、素晴らしいことが生じたという点です。27節から31節がそうです。ここは、信仰の義による救いの結果として、素晴らしいことが、3つ生じました言っています。

 

 まず一つ目は、自分が救われたことは、手柄として誇ることができないことです。救いにおける人間の誇りは、完全に閉め出され、追放されました。何故なら、救いは、モーセの十戒をはじめとして、すべての律法を完全に行って、神から義と認められ、自力で救われるのでなく、罪の奴隷として落ちぶれていたわたしたちを、十字架上で、御自分の尊い命を代価、身代金、贖いしろとして父なる神に支払って、罪から買い戻し、贖って(あがなった)くださったキリストを、救い主と信仰することによって、神の前での正しさである義を、無償で与えられ、恩寵によって救われるからです。

 

すなわち、わたしたちは、律法を行って救われるという律法の原理・原則ではなく、信仰の原理・原則によって救われるのです。それゆえ、人は、どんな人でも、救いを手柄として、誇ることができません。特に、律法を持っていた1世紀のユダヤ人は、律法をすべて完全に行って、自力で救われると律法主義で考えていましたが、最早、ユダヤ人のその誇りは、救いから完全に閉め出され、追放されたのです。

 

 27節に、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」とありますが、「取り除く」という言葉は、「取り除く」と共に、「締め出される」とか「追放される」とも訳せる言葉です。それゆえ、律法を持っていた1世紀のユダヤ人さえも、十字架のキリストを信仰して、無償の恵みによって救われることが、明かになった今、最早、自分の救いを、手柄として、誇ることはできません。

 

 そのようなことを言うと、でも、信仰というものは、自分が信じるのだから、救われたのは、自分の信仰であると、救いを、自分の手柄として、誇れるのではないかと思えるかもしれません。でも、違うのです。実は、キリストへの信仰さえも、聖霊なる神によって起こされる恵みの賜物で、誰一人誇ることはできません。

 

考えてみますと、1世紀当時、十字架刑は、最も屈辱的な死刑の方法で、極悪人にしか課せられなかったのです。それゆえ、十字架につけられた者に対する一般の人々の憎しみ、憎悪感は、非常に大きなものでした。

 

そのように、人間的には、極悪人として、十字架で死刑にされた人物を、こともあろうに、自分の救い主と喜んで信じ、公けに告白するなどということは、まさに、聖霊なる神の働きであったのです。普通の人なら、十字架で死刑にされた人物を、神の御子、また救い主として、その御前にひざまづいたりなどしないです。

 

それにもかわわらず、救いのよき知らせである福音を聞いて、それまでの生き方を悔い改め、十字架で死刑にされたお方を、自分の救い主として、喜びと感謝をもって、信仰し、受け入れることができたのは、また、今、できるのは、聖霊なる神が、一人ひとりの心に、イエスさまへの信仰を起こしてくださることでなくて、一体何でしょう。

 

そして、これこそ、神御自身が、主権的にお決めになった救いの法則、救いの原理なのであり、それゆえ、信仰による救いを、誰も、自分の手柄として誇ることはできないのです。

 では、信仰の義による救いの結果として生じた素晴らしいことの二つ目は、何でしょう。すると、二つ目は、万物を無から創造された一人の真の神は、ユダヤ人だけを、救う神ではではなく、異邦人も救ってくださる神であることが、はっきりしたことです。

 

 29節を見ますと、そこで、パウロは、万物を無から創造された真の神は、ただ一人ですが、しかし、その一人の真の神は、ユダヤ人だけを救うのではなく、異邦人も救ってくださると言っています。

 

 それで、今日のわたしたちは、このことを当然のこととして読み、特に、何も感じないかもしれません。というのは、今日、世界で救われるのは、異邦人がほとんどです。ユダヤ人で救われる人は、ごく一握りです。

 

 それゆえ、パウロが、万物を無から創造された真の神は、ただ一人ですが、その真の神は、ユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあり、ユダヤ人だけを救うのではなく、異邦人も救ってくださると言っているのを読んでも、その通りと思うだけで、驚かないかもしれません。

 

しかし、1世紀の時代に、普通のユダヤ人が、ここを読んだら、大きなショックを受けたでしょう。ショックを受けたどころか、ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われるとは、何事だと、感情むき出しにして、烈火のごとく、激しく怒ったことでしょう。

 

 なぜなら、万物を無から創造されたただ一人の真の神は、世界に、民族が多くあるのに、アブラハム以来、ユダヤ人とだけ救いの契約を結び、そのしるしとして、割礼を命じました。そして、割礼は、生後8日目の男子の生殖器の先端の皮を切る儀式で、それは、救いのしるしとされ、1世紀のユダヤ人は、自分の体に救いのしるしを帯びているということで、自分たちユダヤ人だけが救われると、長きにわって、思い込んでいました。

 

 ところが、パウロは、救いは、十字架につけられたキリストを信仰することによってのみであり、割礼を受けたユダヤ人でも、十字架につけられたキリストを信仰することによってのみ救われ、割礼のない異邦人でも、十字架につけられたキリストを信仰することによって救われる。こうして、同じただ一人の真の神は、ユダヤ人だけの神でなく、異邦人の神でもあると、パウロは堂々と断言したのですから、これを受け入れることは、1世紀のユダヤ人たちには、相当、抵抗があったでしょう。

 

しかも、パウロは、割礼のあるユダヤ人が、全員救われるとは、決して言わないのです。30節を見ますと、「この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし」と言いまして、割礼のあるユダヤ人の中で、十字架につけられたキリストを信仰する者だけが、義と認められて救われると非常に注意深く言いましたので、割礼を受けたユダヤ人は、全員救われると思っていた1世紀のユダヤ人たちは、驚き、ショックを受け、怒りすら覚えたはずです   。

 

 それで、30節で大切なのは、「割礼のある者を信仰のゆえに義とし」の「信仰のゆえに義とし」です。また、「割礼のない者をも、すなわち、異邦人をも、信仰のゆえに義とし」の「信仰のゆえに義とし」です。

 

 こうして、天地(あめつち)を無から創造された全能のただ一人の真の神は、十字架につけられたキリストを信仰する者を、義と認めて、恵みにより、救ってくださるのです。それゆえ、わたしたちも、十字架につけられたキリストを信仰する者となって、義と認められ、一切の罪から救われ、最後の審判で、裁かれ、滅ぼされることのない真の人生を、喜んで歩んでいきたいと思います。

 

 さて、最後になりますが、信仰の義による救いの結果として生じた素晴らしいことの三つ目は、何でしょう。すると、それは、キリストを信仰して救われた人は、今度は、律法を、神への感謝の生活の大切な規範として尊び、聖霊の豊かな霊的な力によって、律法を守り始めて、律法を確立していくことです。これも、信仰の義による救いが結ぶ素晴らしい実です。

 

 1世紀のユダヤ人は、十字架につけられたキリストを信仰して救われるのであれば、律法が与えられている意味がなくなると、激しく反論しました。1世紀のユダヤ人は、律法が与えられているのは、律法を完全に自力で守り行って救われるためと思い込んでいましたので、十字架につけられたキリストを信仰して救われるのであれば、律法が与えられている意味がなくなると、信仰による救いに激しく反対しました

 

 そこで、パウロは、その考えは誤りであることを、はっきり語ります。すなわち、人が、十字架につけられたキリストを信仰して救われると、律法を無用のものとして、掃き捨てるのでなく、逆に、聖霊の霊的な力によって守り始めて、律法を確立していくことを語るのです。

 

 31節に「律法を無にする」と「律法を確立する」という言葉が、比較対照的に、コントラスト的に出ています。「無にする」という言葉は、無力にする、無効にする、廃止する、掃き捨てるという意味です。ですから、キリスト信仰によって救われたわたしたちクリスチャンは、律法を無力として、廃止し、掃き捨てることを、するのでしょうか、とパウロは、問うています。

 

 それに対して、パウロは、いいえ、違います。逆です。「律法を確立する」のですと胸を張って、言い切っています。すなわち、キリスト信仰によって救われたわたしたちクリスチャンは、神が生き方の規範として与えてくださった尊い律法を、聖霊なる神の豊かな霊的な力によって、喜んで守り始めるので、神が人間に律法を与えた本来の目的が、クリスチャンにおいて実現成就し、律法は、生き方の規範として、クリスチャンにおいて固く立ち、確立していくのです。「律法を確立する」の「確立する」という言葉は、固く立つという意味です。

 本当にそうです。今日も同じです。生き方の尊い規範として与えられた律法は、キリスト信仰によって救われたわたしたちが、聖霊の霊的な力によって、守り始めることによって、律法本来の目的が固く立ち、確立するのです。わたしたちも、生き方の規範である律法を、特に十戒を、聖霊の豊かで霊的な力によって、少しでも実践して、慈愛深い天の父なる神に喜ばれる歩みを、今週も、皆で、していきたいと思います。

 

お祈り


主イエス・キリストの父なる神さま、
8月の暑い日々が続いていますが、今日も、わたしたちを礼拝に導いてくださり、感謝いたします。
 今日、わたしたちは、ローマの信徒への手紙の中心的な教えである信仰の義による救いについて学びました。

 わたしたちは、皆、罪を犯して、神の栄光を受けらない罪人であるにもかかわらず、イエスさまが、わたしたちの罪に対するあなたの怒りを宥める供え物として、十字架で、進んで、御自身を献げてくださり、また、あなたが、そのイエスさまを受け入れてくださったことにより、わたしたちの一切の罪が赦される道を作ってくだいましたことを、心から感謝いたします。
 わたしたちは、いろいろなことがあっても、生涯、イエスさまを自分の救い主として、しっかり信仰し、あなたとの平和の中で、真の生涯を、日々喜んで歩んでいくことができますように、聖霊によってお導きください。
 なお、今週、8月15日は、終戦記念日ですが、日本が、二度と戦争をしない平和な国家として歩めるようにお祈りいたします。また、世界各地で、紛争やテロが生じていますが、世界が、平和になりますように、お祈りいたします。

 今日、種々の都合や事情で集まることのできなかった方々を、それぞれのところで顧みてください。特に、暑い時期ですが、高齢の方々や健康の弱さを覚えている方々を、お守りください。

 今日から始まるわたしたちの新しい1週間を、どこにあっても、豊かに祝福してください。

これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。

 

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