* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神ローマ

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


公平な神

ローマの信徒への手紙2:1-16


 
 2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
              

はじめに


 お話をさせていただきます。では、これから、どこの個所をお話しするかと言いますと、ローマの信徒への手紙2章前半です。ローマの信徒への手紙は、1世紀のキリスト教伝道者、使徒パウロが、紀元56年頃、ギリシアのコリントから、ローマの信徒たちに宛てた手紙です。それで、ローマの信徒への手紙を、これまでに、3回、お話をさせていただきましたが、今日は、その続きで、4回目のお話となります。


では、今日のところは、どんなところでしょう。すると、一読して、難しい印象を持つかもしれません。難しい言い方、難しい文章が、ゾロゾロ出て来る感じがするかもしれません。パウロは、一体、何を、読者に訴えようとしているのかと思うかもしれません。でも、結論として言おうとしていることは、単純で、ユダヤ人も、異邦人もまったく同じ罪人で、実際に、日々、罪を犯して生きているので、そのままでは神に裁かれてしまうので、初代教会が宣べ伝えている救いのよき知らせである福音を聞いて、十字架にかかったイエスさまを信仰し、恵みによって、救われ、人生の方向転換をすることが必要であるということが、とても強く読者に伝わるように、意識的に述べられています。


すなわち、ユダヤ人だから裁かれることがなく、異邦人だから裁かれるということはないのです。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、人の生き方の基準である神の律法を完全に行なわなければ、誰でも、神に、公平に、正当に、裁かれるのです。


 したがって、旧約歴史を持っており、それゆえ、人の生き方の基準である神の律法を書かれたかたちで持っているユダヤ人たちも、また、書かれた律法は持っていませんが、しかし、生まれつき神の律法が心に刻み込まれている異邦人も、どちらも神の律法を完全に行うことができない罪人なので、そのままでは、ユダヤ人も異邦人も神に裁かれてしまいます。そこで、ユダヤ人も、異邦人も、救いのよき知らせである福音を聞いて、イエスさまを自分の救い主と固く信仰し、恵みによって救われることの必要性が強く感じられるように、パウロによって、述べられています。


そこで、今日の個所から3点を学びたいと思います。第1点は、旧約歴史を持っており、それゆえ、人の生き方の基準である神の律法を書かれたかたちで持っているユダヤ人も罪を犯して生きているので、神に裁かれるという点です。第2点は、それゆえ、ユダヤ人も、必ず悔い改めを必要とするという点です。第3点は、神の裁きの基準は、神の律法ですが、神の律法は、旧約歴史のない異邦人の心に生まれつき刻み込まれているという点です。できるだけ、簡潔にお話ができればと思っています。


1.ユダヤ人も罪を犯して生きているので裁かれる


 早速、第1点に入ります。第1点は、ユダヤ人の罪に対する神の裁きについて、意識的に、実に強く語られているという点です。1節に「すべて人を裁く者よ」とあり、また、1節と2節に「あなた」と、3回も呼びかけられていますが、「あなた」とは、一体、誰のことでしょう。すると、旧約歴史をもった1世紀のユダヤ人のことを意味しています。「あなた」と呼びかけられているのが、ユダヤ人であるということは、少し後の2章17節で、「ところので、あなたはユダヤ人と名乗り」と、はっきり言われていることからもわかります。


 また、1節から3節で、「裁く」という言葉が何回も出てきて、意識的に、目立つようにされていますが、「裁く」という言葉は、もともと、「罪に定めて、滅びを宣告する」という非常に厳粛な意味で、本来、神だけができることですが、それにも、かかわらず、1世紀のユダヤ人が、おごり高ぶって、自分たちが神に代われるかのようにして、異邦人を裁いていた、すなわち、異邦人を罪に定めて、滅びを宣告していたことを表します。これは、ものすごい高ぶりです。この高ぶりは、人間の罪の中で、最も大きな罪に属するでしょう。


そこで、パウロは、1世紀のユダヤ人の高ぶりを、意識的に、足元から全部ひっくり返し、ユダヤ人であっても、異邦人と同じく罪人で、神の怒りによる審判が下ることを、とても強くきびしく語りました。1節では、ユダヤ人に、「弁解の余地はない」、2節では、「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」、3節では、「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」と言われていますが、これらは、すべて、1世紀のユダヤ人も、異邦人と同じく、罪人で、神の怒りによる審判を免れることが、決してできないことを、意識的にとても強く強調しています。


 考えてみれば、本当にそうです。ユダヤ人が、異邦人を裁くこと、すなわち、異邦人を罪に定めて、滅びを宣告するなどということは、自分たちを神の立場に置くことになり、まさに、高ぶりの極みで、人間が犯す最悪の罪のひとつと言えます。


 それゆえ、1世紀のユダヤ人に、異邦人を罪に定めて、滅びを宣告する権限はひとかけらもありません。ユダヤ人は、異邦人を裁く、すなわち、異邦人を罪に定めて滅びを宣告するどころではなく、自分たち自身が心柔らかにして、自分たち自身が犯した罪を素直に悔い改めて、神に赦しを求めなければ、逆に、自分たちが、神から正当に裁かれ、罪に定められ、滅びを宣告されてしまう立場でした。


 すなわち、1世紀のユダヤ人は、神から遣わされた旧約時代から約束されていた救い主のイエスさまを受け入れずに拒否し、十字架につけて殺すというメシア殺しの歴史的大罪を犯しました。また、パウロをはじめとする伝道者たちが、1世紀の地中海世界各地で福音を伝えたとき、どこででも福音の伝道を妨害し、伝道者たちと信者たちを苦しめましたが、それらの罪を、心から悔い改め、神の憐れみによる赦しを求めなければなりませでした。


それなのに、1世紀のユダヤ人は、相変わらず、頑なな心を持ち、自分たちは、旧約歴史を持ったユダヤ人で、義人であるから、自分たちには罪がなく、異邦人は罪人であるとして、おごり高ぶり、自分勝手に、神に代われるかのようにして、異邦人を罪に定め、滅びを宣告していた、すなわち、裁いていたのです。

 しかし、神は、人の思いを超えて、慈愛と寛容と忍耐に富まれたお方です。それゆえ、神は、1世紀のユダヤ人たちに、憐みに基づく悔い改めの時間を十分与えてくださいました。このローマの信徒への手紙が書かれたのが、紀元56年頃ですが、イエスさまが十字架につけられたのが、紀元30年頃です。ですから、差し引きすれば、神は、もうすでに26年間という悔い改めの長い時間を1世紀のユダヤ人たちに与えてくださっていたのです。


 考えてみますと、神は、御自分の愛する独り子のイエスさまが、ユダヤ人たちにより、十字架につけられたあと、怒りと憤りによって、ユダヤ人たちを審判し、滅ぼすことがいくらでもおできになったはずです。

さらに、パウロをはじめとする伝道者たちが、1世紀の地中海世界各地で福音を伝えたとき、ユダヤ人たちは、どこででも福音の伝道を妨害し、伝道者たちと信者たちを苦しめましたが、そのとき、神は、怒りと憤りによって、ユダヤ人たちを審判し、滅ぼすことがいくらでもおできになったはずです。


しかし、人の思いを超えて、慈愛と寛容と忍耐に富まれる神は、そのような手荒な乱暴なことはなさらず、初代教会が伝えるよき知らせである福音を、ユダヤ人一人一人が聞いて、罪を心から反省し、悔い改め、人生の方向転換をすることを待ってくださり、すでに、26年間という長い時間を、1世紀のユダヤ人たちに与えてくださっていたのです。


4節と5節を見ますと、「悔い改め」、また、「心を改める」という言葉が出てきます。これは、1世紀のユダヤ人が、自分たちが犯した罪を、神の憐みにすがって、心から悔い改め、人生の方向転換をすることを意味しています。


 それゆえ、もし、ユダヤ人が、初代教会が宣べ伝えていた福音を聞いて悔い改めないならば、神は、世の終わりの最後の審判の日には、怒りを現わすことになります。ですから、1世紀のユダヤ人は、どのユダヤ人も、一人一人が、教会が伝えるよき知らせである福音を聞いて、それまでの罪を素直に反省し、悔い改め、イエスさまを自分の救い主と信仰する真の人生に立ち返ることが必要でした。26年間の長い時間が与えられていたことは、人の思いを超える神の慈愛と寛容と忍耐の現れ以外の何ものでもありませんでした。それゆえ、神の慈愛と寛容と忍耐の現れである26年間の長い時間を軽く見たり、見下したり、軽くあしらったりしてはならないのです。


4節に「神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」ありますが、「軽んじる」という言葉は、「軽く見る」とか「見下す」とか「軽くあしらう」という意味です。すなわち、人の思いを超える神の慈愛と寛容と忍耐によって、悔い改めの時間が与えられていることを、軽く見たり、見下したり、軽くあしらったりしてはならないのです。


  そして、このことは、今日も同じです。世の終わりの最後の審判が来るまでには、まだ、時間が与えられていますが、わたしたちは、時間が与えられていることを、軽く見たり、見下したり、軽くあしらったりしてはならず、自分と他の人々の悔い改めと救いの時間となるように、祈り、努力し、工夫し、知恵を用いていきたいと思います。神は、なお時間を与えて、わたしたちと他の人々が悔い改め、人生の方向転換をすることを待っておられるのです。悔い改めを必要としない人は誰もいないのです。


2.ユダヤ人も、異邦人と同じく、悔い改めを必要とする


 第2点に入ります。第2点は、それゆえ、ユダヤ人も、異邦人と同じく、必ず悔い改めを必要とするという点です。6節から11節がそうです。神は、旧約歴史のない異邦人も、旧約歴史のあるユダヤ人も、同じ罪人として、世の終わりの最後の審判の日には、罪に定めて、滅びを厳粛に宣言します。では、神は、どのようにして、人を裁くのでしょうか。


 すると、一人ひとりが、地上で生きていたときに行ったことに従って、裁くのですが、1世紀のユダヤ人は、そのようには、まったく考えていませんでした。1世紀のユダヤ人は、ユダヤ人と異邦人を峻別し、自分たちユダヤ人は、旧約歴史があり、人の生き方の基準である神の律法が与えられており、また、神の民のしるしとして割礼を身に帯びているから、自分たちは、神に裁かれることなど絶対にあり得ない。世の終わりには、異邦人は裁かれるが、自分たちユダヤ人たちには、栄光と誉れと永遠に続く祝福が報いとして与えられる。でも、異邦人は、神に裁かれ、神の怒りと激しい憤りによって、苦しみと悩みの滅びが与えられると豪語していました。


 こうして、1世紀のユダヤ人は、自分たちユダヤ人と異邦人の間に、決して超えられない隔ての壁を自分勝手に築いて、自分たちは絶対安全と思い込んでいました。しかし、パウロは、ユダヤ人のこの思い込みを、意識的に、根底からガラガラ崩すのです。


すなわち、ユダヤ人だから裁かれず、異邦人だから裁かるというのではなく、ユダヤ人であろうが、ギリシヤ人をはじめとする異邦人であろうが、福音を聞いて、イエスさまを自分の救い主として信仰し、恵みによって義人とされ、聖霊の結ぶ豊かな実である善い行いを、忍耐をもって行い続けて、栄光と誉れと永遠の朽ちない祝福を求める人には、世の終わりの最後の審判の日に、測り知れない恵みとして、身に余る永遠の命が与えられますし、逆に、あくまでも反反抗心にかられ、すなわち、自己中心で、極悪人にしか課せれない十字架刑で死んだイエスなど救い主であるはずがないと、自己の意志を頑なに通す人には、神の怒りと憤りによる正当な裁きがくだされるのです。こうして、神は、分け隔てをせず、人を偏り見ることがなく、公平に、一人ひとりを、正しく裁くのです。


7節に「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」とありますが、これは、具体的には、クリスチャンを意味することになります。ここで、「忍耐強く善を行い」というのがとてもいいですね。クリスチャンの特徴を実によく表しています。特に、激しい圧迫、迫害のあった1世紀の初代のクリスチャンは、日々、忍耐強く善を行うことが、本当に必要でした。


でも、その中にあっても、クリスチャンは、時代に負けないで、光の子として、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求め続ける者」として、希望をしっかり持って、前進していくのです。「求める者」とは、もともとは、継続・連続の意味で、「求め続ける者」という意味です。継続は力です。クリスチャンは、いろいろなことがあっても、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のもの、すなわち、永遠の朽ちない祝福を求める者として、日々、希望をしっかり持って、継続的に歩み続けていくことを意味しています。「不滅のもの」とは、もともと「朽ちないもの」という意味で、朽ちることのない神の永遠の祝福を広く表していると思われます。


しかし、あくまでも、自己中心で、極悪人にしか課せれない十字架刑で死んだイエスなど約束の救い主であるはずがないと、自己の意志を頑なに通す人には、神の怒りと憤りによる正当な裁きがくだされることになります。こうして、神は、分け隔てをせず、人を偏り見ることがなく、公平に、一人ひとりを正しく裁くのです。8節に「反抗心にかられ」とありますが、もともとの言葉の意味は、自己中心にという意味です。すなわち、あくまでも、自己中心で、極悪人にしか課せれない十字架刑で死んだイエスなど救い主であるはずがないと、自己の意志を最後まで頑なに通す人のことを意味しています。そのような自己中心の反抗的な人には、最後の審判のときに、苦しみと悩みの滅びが下されることになります。


 そして、このことは、今日も同じです。わたしたちも、世の終わりの最後の審判のときに与えられる身に余る栄光と過分な誉れと永遠に続く神との平和を求め続ける者として、今、いろいろなことがあっても、光の子として、忍耐強く、御霊の結ぶ豊かな実としての善を行い続けて、この日本の地で、日々、宝物のように大切な信仰の道を歩んで行きたいと思います。

 

3.神の裁きの基準は、ユダヤ人も、異邦人も、神の律法である


  第3点に入ります。第3点は、神が裁きを行う基準は、ユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、神が人間の生き方の基準として与えてくださった律法によるという点です。12節から16節がそうです。

 そのようなことを言うと、すぐに疑問が生じます。ユダヤ人は、旧約聖書に書かれた十戒をはじめとする律法を持っているので、その律法を基準にして、神に裁かれるということはわかるが、では、旧約聖書に書かれた律法を持っていない異邦人は、どのようにして、神の律法によって裁かれるのかという疑問がすぐに出てきます。


 それに、パウロは答えているのです。もちろん、異邦人は、旧約聖書に書かれた人間の生き方を記した律法を持っていないのですから、旧約聖書に書かれた律法を、直接知ることなしに、罪を犯して生きることによって、旧約聖書に書かれた律法と直接の関係なしに、神に裁かれることになります。


 他方、ユダヤ人は、旧約聖書に書かれた律法を持っているので、ユダヤ人は律法の下に生き、律法の下で犯した罪が、神に裁かれることになります。これは当然のことです。そこで、パウロは、12節で、「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。」と言いましたが、その通りです。


 すると、ここで、1世紀のユダヤ人は言うかもしれません。自分たちユダヤ人は、律法のことは、しょちゅう、十分聞いていて、よく知っているので、神に裁かれることはあり得ないと主張するかもしれません。そこで、パウロは、人間の生き方の基準である律法で大切なことは、聞くことでなく、実際に実行したかどうかが決め手で、律法を実際に実行した人が、神の前での正しさである義を与えられ、義人と認められて救われる。それゆえ、1世紀のユダヤ人が、自分たちには、旧約聖書に書かれた律法があり、律法のことについては十分聞いていて、よく知っているので、神に裁かれることは絶対ないと主張することは、まったく通用しないとして、完全に退けています。13節で「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」と言われている通りです。


 すると、今度は、ここで、また別の問題が、出てきます。では、旧約聖書に書かれた律法を持っていない異邦人は、どのようにして、神の律法によって裁かれるのかという疑問が、すぐに出てきます。でも、旧約聖書に書かれた律法を持っていない異邦人も、人間の生き方の基準である律法によって、裁かれるのです。では、一体、どのようにしてでしょう。すると、異邦人は、確かに、旧約聖書に書かれた律法は持っていないのです。しかし、異邦人は、生まれた時から自分たちの心に刻み込まれた神の律法があるので、自分自身が、自分に対して、神の律法になっていると言うことが、十分できるのです。


それゆえ、異邦人は、生まれつき自分の心に刻み込まれている神の律法が命じることや要求する善、善いことを行えば、善悪を判断する自分の良心が、自分は善いことをしたと証し、悪を行えば、善悪を判断する自分の良心が、自分は悪いことをしてしまったとか、自分はしてはいけないことをしてしまったとか、自分はすべきでないことをしてしまったなどと、自分の心のいろいろな思いが、互いに共に、自分自身を責めたり、自己弁明したり、自己弁護をしたりするのです。

確かにそうです。具体的に考えてみましょう。たとえば、わたしたち、日本人でも、親を敬い、大切にすることは、神の律法の十戒の第5戒の「あなたの父母を敬え」の要求と合致します。また、わたしたち、日本人でも、人を殺すことは、悪と判断しますが、これは、十戒の第5戒の「殺してはならない」という要求と合致します。また、わたしたち、日本人でも、不倫は悪であると判断しますが、これは、十戒の第6戒の「姦淫してはならない」という要求と合致します。また、わたしたち、日本人でも、他の人のものを取るのは、窃盗の罪ですが、それは、十戒の第7戒の「盗んではならない」という要求と合致します。また、わたしたち、日本人でも、嘘をつくことは悪いことと考えますが、これは十戒の第9戒めの「隣人に関して偽証してはならない」という要求と合致します。また、わたしたち、日本人でも、他の人が持っているものは、何でも自分も欲しいと、貪欲にむさぼることは、満足することを知らない貪欲の悪と考えますが、これは、十戒の最後の「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という要求と合致します。


こうして、神の律法の重要な部分は、わたしたち異邦人の心に生まれつき記され、刻み込まれているのです。これが、あるからこそ、わたしたちは、お互いに生きていくことができ、社会が成り立つのです。ですから、異邦人のわたしたちが、親を敬う、人を殺さない、不倫をしない、他の人のものを盗まない、嘘をつかない、他の人のものを貪欲に欲しがらないということは、自分の心に刻み込まれた律法の命じること、あるいは、要求する事柄を、我知らずのうちに、自然に行っていると十分言えるのです。そこで、パウロは、14節で、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」と言っています。


そして、実際、わたしたち異邦人は、律法が命じ、要求する善もしますし、また、逆に、律法に反する悪もしますが、善いことをしたときには、善悪を判断する自分の良心が、自分は善いことをしたと証し、悪を行えば、善悪を判断する自分の良心が、自分は悪いことをしてしまったとか、自分はしてはいけないことをしてしまったとか、自分はすべきでないことをしてしまったなどと、自分の心のいろいろな思いが、互いに共に、自分自身を責めたり、あるいは、自分は悪いことをしたが、それは、相手が先にわたしに悪いことをしたから自分もしたのだとか、自分は悪いことをしたが、それは、あの場合しょうがなかったなどと自己弁護、自己弁解、自己弁明をするのです。


 15節前半に「彼らの良心もこれを証しており」とありますが、これは、異邦人が、自分の心に生まれつき刻みこまれている律法の要求している善いことをした場合には、自分は、善いことをしたと、善悪を判断する良心が、証言すること、証しをすることを意味します。


また、15節後半に「心の思いも、互いに責めたり弁明し合って」とありますが、「心の思いも、互いに責めたり」というのは、異邦人が、自分の心に生まれつき刻みこまれている律法の要求している善を行わなず、悪を行った場合には、自分は悪いことをしてしまったとか、すべきでないことをしてしまったとなどと、自分の心のいろいろな思いが、互いに共に、自分を責めることを意味しています。また、「弁明し合って」というのは、自分は悪いことをしたが、相手が先に悪いことをしてきたので、わたしも相手に悪いことをしたとか、あの場合、他に方法がなかったなどと自己弁護、自己弁解、自己弁明することを意味します。

こうして、実は、異邦人も、自分の心に生まれつき記され、刻み込まれた律法があって、我知らずのうちに、律法が命じ、要求している善いことを自然に行ったり、逆に、悪いことを行ったりして、神の律法が生き方の基準になっているのです。もちろん、わたしたち異邦人一人ひとりが、自分の心に生まれつき刻み込まれた律法の求める善と、禁止している悪を、どれほど行ったかは、人々の目には隠れたことですが、最後の審判の日には、それもすべて明らかにされます。


ですけど、それで、もちろん、異邦人は、救われるわけでありません。何故なら、自分の心に生まれつき刻み込まれた律法の求める善を完全に行うことが誰一人できないからです。具体的に言えば、律法は「あなたの父母を敬え」と要求しているのに、親を敬いません。「殺してはならない」と要求しているのに、殺人事件が毎日起こります。「姦淫してはならない」と要求しているのに不倫をします。「盗んではならない」と要求しているのに、盗みが絶えません。「隣人に関して偽証してはならない」と要求しているのに嘘をつきます。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」と要求しているのに、他人の持っているものを貪欲に欲しがり、いろいろな事件を起こします。こうして、異邦人も、律法の要求に背く罪を日々、実際に、犯して生きているので、そのままでは、必ず裁かれ、救われることはありません。


それゆえに、ユダヤ人も、異邦人も、救いのよき知らせである福音を聞いて、イエスさまを信仰し、恵みによって救われる必要性が、ますますはっきりしてくることになります。人の救いの希望は、イエスさまへの信仰にだけにあるのです。こうして、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、イエスさまへの信仰だけが、素晴らしい救いをもたらすことが、読者の心に強く印象づけられることになります。


結び

以上のようにして、本日の個所を見ます。ユダヤ人も、異邦人も、生き方の基準である律法を完全に行うことができないので、そのままでは裁かれてしまいます。それゆえ、わたしたちは、自分も、また、他の人も、悔い改めて、イエスさまを信仰し、救われ、人生の方向転換をして、万物の創造者なる偉大な神との平和な関係の中で、真の人生を歩むことができるように、心から祈りたいと思います。また、わたしたちクリスチャンは、今、いろいろなことがあっても、忍耐強く、御霊の結ぶ豊かな実としての善を行い続けて、今週も、永遠の命の道を、喜んで歩んで行きたいと思います。


お祈り


恵み深い天の父なる神さま、
今日も、御前に、礼拝に導かれ、心から感謝いたします。

 わたしたちは、旧約歴史がなく、人の生き方の基準である律法を書かれたかたちで持っていない異邦人ですが、しかし、生まれつき律法が、わたしたちの心に刻み込まれています。でも、わたしたちは、その律法を完全に行うことがとてもできない罪人です。このままでは、あなたに裁かれてしまう身です。しかし、あなたは、わたしたちひとり一人を、救いのよき知らせである福音を聞いて、イエスさまを救い主と信じる信仰に導いてくださり、恵みによって救ってくださったことを心から感謝いたします。

 どうか、恵みにより救われた者として、御霊の結ぶ豊かな実としての善を行い続けて、今週も、永遠の命の道を喜んで歩めるように、わたしたちひとり一人の大切な信仰を強めてください。
 また、震災、原発事故、大雨などの災害で困難にある人々を、慰め、励まし、助けて、その復興をお導きください。
今日、いろいろな都合、事情で集まることができなかった方々を、それぞれのところので、お守りください。
 これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前にお献げいたします。アーメン。


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